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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第四章;【硝煙の氷編編】
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第十七夜:最高聖域の客

 翌夜。


 王都には、重たい空気が漂っていた。


 昼間から街を行き交う兵士の数が増えている。


 城壁の上には見張りが立ち、商人たちは店を早々に閉め、通りには人の姿が少なくなっていた。


 明日の夜までに――


 王国が降伏しなければ、戦争が始まる。


 誰もが、その噂を知っていた。


 けれど。


 王都の片隅。


 『BAR・白の記憶』だけは、いつもと変わらなかった。


 灯りがともっている。


 グラスが磨かれている。


 カウンターには、いつもの静かな夜がある。


 カラン。


 扉のベルが鳴った。


 蓮が顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


 入ってきた男は、店内を見渡した。


 大柄だった。


 肩幅が広く、軍服の上からでも鍛え抜かれた身体が分かる。


 腰には魔剣。


 胸元には、いくつもの勲章。


 その後ろには、二人の近衛兵が控えている。


 男はカウンターへ歩いてきた。


「ここが……あの店か」


「はい」


「王国の連中が、最高聖域などと騒いでいる場所が」


「そのようです」


 男は鼻で笑った。


「随分と小さいな」


「よく言われます」


 蓮は穏やかに答えた。


 男は蓮をじっと見た。


「俺を知らんのか?」


「お名前を伺っても?」


 一瞬。


 男の眉が動いた。


「……ガルド」


 低い声だった。


「帝国軍大将軍、ガルドだ」


「ガルド様」


 蓮は一礼した。


「ようこそお越しくださいました」


 ガルドはカウンターの椅子に座った。


 近衛兵が後ろに立つ。


「酒を出せ」


「どのようなお酒がよろしいでしょうか?」


「俺が飲んでいる酒を知らないのか?」


「お客様のお好みを伺ってからお作りするのが、当店のやり方です」


 ガルドはしばらく蓮を睨んだ。


 やがて、鼻を鳴らす。


「……強い酒だ」


「かしこまりました」


 蓮は棚から一本のボトルを取り出した。


 アブサン。


 鮮やかな緑色の液体。


 グラスへ少量を注ぐ。


 氷砂糖をスプーンへ乗せ、その上から冷水をゆっくり垂らす。


 透明だった酒が、ゆっくりと白く霞んでいく。


 ガルドの目が細くなった。


「……変わった酒だな」


「アブサンでございます」


「毒ではないのか?」


「お酒です」


「同じようなものだろう」


「それは、お客様次第かもしれません」


 ガルドが小さく笑った。


「面白い男だ」


 グラスを手に取る。


 香草の強い香り。


 独特の苦み。


 そして、舌に残る複雑な余韻。


 一口。


 ガルドは眉をひそめた。


「……苦い」


「はい」


「だが、悪くない」


「ありがとうございます」


 ガルドはもう一口飲んだ。


 しばらく黙っている。


 蓮も何も話さない。


 やがてガルドが口を開いた。


「王国の連中は、俺を恐れているだろうな」


「そうかもしれません」


「明日の夜までに降伏しなければ、攻撃する」


「伺っております」


「それなのに、この国の外交官は俺をここへ呼び出した」


 ガルドはグラスを揺らした。


「馬鹿な女だ」


 蓮は黙っている。


「……だが」


 ガルドの声が少し低くなった。


「嫌いじゃない」


 蓮が顔を上げる。


「何がでしょう?」


「あの女だ」


 ガルドは鼻で笑った。


「震えていたくせに、最後まで俺の目を見ていた」


 その言葉には、少しだけ感心したような響きがあった。


「だから、ここへ来てやった」


「なるほど」


「勘違いするな」


 ガルドは鋭く言った。


「和平交渉をするためじゃない」


「はい」


「俺が、どんな場所なのか見に来ただけだ」


「それでは、ゆっくりご覧ください」


 蓮はそう言って、別のグラスを磨き始めた。


 ガルドは少し拍子抜けしたようだった。


「……お前、本当に何も聞かないんだな」


「お客様が話したいときに、お話を伺うのが私の仕事です」


「仕事、か」


 ガルドは笑った。


「戦場じゃ、そんな仕事は役に立たん」


「そうでしょうね」


「敵が剣を抜いたら、こっちも抜く」


「はい」


「敵が攻めてきたら、守る」


「はい」


「それが軍人だ」


 ガルドはアブサンをもう一口飲んだ。


「迷っている暇なんてない」


「……」


「命令されたら、進む」


 グラスを置く。


「命令されたら、殺す」


 店内が静まり返る。


 近衛兵がわずかに身じろぎした。


 けれど、蓮は何も変わらない。


「疲れていらっしゃいますね」


 その一言に。


 ガルドの手が止まった。


「……何?」


「お酒を飲む速度が、少しずつ遅くなっています」


 ガルドは自分のグラスを見た。


「……そうかもしれんな」


 しばらくして、低く笑った。


「戦場じゃ、疲れたなんて言えないからな」


 その言葉は、独り言に近かった。


「部下の前で弱音を吐けば、隊が崩れる」


「……」


「だから、強い顔をしているしかない」


 蓮は静かに聞いている。


「俺だって怖いさ」


 ガルドは初めて、目を伏せた。


「戦争が始まれば、何万人死ぬか分からん」


 近衛兵の一人が驚いた顔をした。


 ガルドはそれに気づき、苦笑する。


「なんだ。その顔は」


「いえ……」


「俺だって人間だ」


 しばらく沈黙。


 そしてガルドは、ふと呟いた。


「……だからこそ、明日の戦いは短く終わらせなきゃならん」


 蓮の手が止まった。


「短く?」


「ああ」


 ガルドはグラスを見つめた。


「王都を落とせば終わる」


「……」


「皇帝陛下も、それを望んでいる」


 そこまで言って。


 ガルドは突然、口を閉じた。


 何かに気づいたように顔を上げる。


 蓮は何も聞かなかった。


「……余計なことを話したな」


「お酒の席でのお話です」


「そういうことにしておけ」


 ガルドは立ち上がった。


 そして、財布から金貨を一枚置く。


「釣りはいらん」


「ありがとうございます」


 扉へ向かう。


 その途中で、ガルドは振り返った。


「マスター」


「はい」


「……明日、俺がまたここへ来てもいいか?」


 蓮は微笑んだ。


「もちろんです」


「そうか」


 ガルドは小さく頷いた。


「なら、明日はもう少しまともな酒を頼む」


「お好みを伺っておきます」


 カラン。


 扉が閉じる。


 近衛兵たちも後に続いた。


 静かになった店内。


 蓮は、ガルドが残したグラスを見つめた。


 その中には、わずかに白く濁ったアブサンが残っている。


 蓮はグラスを手に取った。


 そして、何も言わずに洗い始めた。


 ――ガルドは、何かを恐れている。


 けれど、それが何なのか。


 蓮にはまだ分からない。


 ただ一つ。


 あの男は「王国を滅ぼしたい人間」の目をしていなかった。


 むしろ――


 戦争を始めることで、何かを失うことを恐れている人間の目だった。


 蓮は蛇口を閉めた。


 静寂が戻る。


 カラン。


 そのとき。


 カウンターの端に置かれた、古い物資記録が目に入った。


 ガストン。


 ルークの父。


 王立魔法研究所。


 そして――


 帝国軍。


 まだ、それぞれの線は繋がっていない。


 けれど。


 少しずつ。


 確実に。


 一本の線へ近づいている。


 蓮は古い記録を引き出しへ戻した。


「……明日の夜、ですか」


 誰もいない店内で、蓮が小さく呟く。


 その声は、いつものように穏やかだった。


 けれど。


 明日の夜。


 この小さなカウンターには――


 王国と帝国。


 二つの国の運命を背負った客が、再び座ることになる。

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