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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第三章:【一杯の灯火編】
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第十五夜:灯火の夜明け

 翌日の深夜。


 『BAR・白の記憶』。


 カラン。


 最初に訪れたのは、ガストンだった。


「マスター」


「いらっしゃいませ」


「昨日は世話になった」


 ガストンはカウンターに座った。


 今日は昨日より、ほんの少しだけ顔が上がっている。


「いつものを頼めるか」


「アイリッシュ・コーヒーですね」


「ああ」


 蓮が準備を始める。


 そのとき。


 カラン。


 扉が開いた。


「……え?」


 入ってきたルークが、足を止めた。


 ガストンを見る。


「あなた……」


 ガストンもルークを見る。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


「ガストン……さん?」


「お前は……」


 ガストンの目が細くなる。


「もしかして、あの商会の息子か?」


 ルークの目に涙が浮かんだ。


「父を……知ってるんですか」


「知ってるとも」


 ガストンは小さく笑った。


「昔、ずいぶん世話になった」


「父も……」


 ルークは声を詰まらせた。


「最後まで、あなたに感謝していました」


 ガストンは黙った。


 そして、ゆっくりと目を伏せた。


「……そうか」


 それだけだった。


 だが、その声には何十年分ものものが込められていた。


 そのとき。


 カラン。


 また扉が開いた。


「マスター!」


 入ってきたのはシェリルだった。


 昨日とは違い、目に力が戻っている。


「研究所に行ってきたわ」


「いかがでしたか?」


「面白い記録が見つかった」


 シェリルは一枚の紙をカウンターへ置いた。


「戦時中の魔導具研究記録」


 ガストンの表情が変わった。


「……その記号」


「知ってる?」


 シェリルが尋ねる。


 ガストンはしばらく紙を見つめていた。


「俺が、昔運んだ荷物に付いていた印だ」


 ルークも身を乗り出す。


「父が関わっていた物資にも、同じ印が……」


 蓮は黙って三人を見ていた。


 そこへ。


 カラン。


 四人目の客が入ってきた。


「……あら」


 エリアだった。


 店内を見回し、驚いた顔をする。


「こんなに人がいるなんて珍しいわね」


 そして、ガストンを見る。


 エリアの目が大きく開いた。


「あなたが……?」


 ガストンは首を傾げる。


「私の父が、あなたにお礼を言いたがっていました」


 ガストンはしばらく黙った。


 そして、ゆっくりと笑った。


「……そうか」


 その顔は、昨日までの「過去の英雄」のものではなかった。


 一人の老人の顔だった。


 誰かに覚えていてもらえたことを、静かに喜ぶ一人の男の顔。


 蓮は四人の前に、それぞれ違うグラスを並べた。


 ガストンには、熱いアイリッシュ・コーヒー。


 ルークには、弾けるジン・トニック。


 シェリルには、深紅のブラッディ・メアリー。


 そしてエリアには、淡い翡翠色のグラスホッパー。


「……同じ酒じゃないんですね」


 ルークが言った。


「皆様、それぞれ違いますから」


 蓮は静かに答えた。


「でも――」


 ガストンがグラスを見る。


「同じ場所にいる」


「はい」


 蓮は微笑んだ。


「それだけで、十分な夜もございます」


 四人は顔を見合わせた。


 やがて。


 カラン。


 四つのグラスが、小さく触れ合った。


「乾杯」


 その音は、夜の静けさの中へ溶けていった。


 けれど。


 誰も気づいていなかった。


 その夜。


 この店で交わされた一杯の酒と、一つの記憶が――


 何十年も眠っていた王国の過去を、再び動かし始めていることを。


 蓮はカウンターの中で、静かにグラスを磨いていた。


 外の世界では、相変わらず人々が争い、傷つき、誰かを憎んでいる。


 けれど、この小さな店の中では。


 過去を背負った老人も。


 父の跡を継ごうとする若者も。


 失敗から立ち上がろうとする魔女も。


 誰かに認められることをやめ、自分自身を取り戻そうとする令嬢も。


 ほんの一晩だけ。


 肩書きを置いていられる。


 蓮は、最後のグラスを棚へ戻した。


 そのとき。


 窓の向こうが、ほんの少しだけ白んだ。


「……夜明けですね」


 ガストンが窓を見る。


「そうだな」


 彼は立ち上がった。


 そして腰の剣に手を添える。


 錆びた剣。


 昨日までは、過去の象徴だった。


 けれど今は違う。


「明日から、若い連中に剣を教えてやるか」


 ルークが笑った。


「きっと喜びますよ」


「俺も商会を立て直します」


 シェリルも笑った。


「私も研究を続ける」


 エリアは静かに頷いた。


「私も……自分のために生きてみるわ」


 蓮は四人を見つめた。


 そして、いつもの言葉を口にする。


「皆様、お疲れさまでした」


 カラン。


 扉が開く。


 四人が、それぞれの朝へ歩き出していく。


 最後に一人になった蓮は、店内を見渡した。


 小さな灯り。


 磨かれたグラス。


 カウンター。


 そして、誰かが置いていった夜の余韻。


 BAR・白の記憶。


 ここは世界を救う場所ではない。


 英雄を作る場所でもない。


 ただ――


 迷った人が、もう一度歩き出すための場所。


 蓮は照明を少しだけ落とした。


 夜は終わる。


 けれど。


 灯火は消えない。


 次の夜、また誰かが扉を開く。


 その人がどんな人間なのか。


 何を背負っているのか。


 蓮には、まだ分からない。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 一杯の酒には、人を変えるほどの力がある。


 そしてその灯火は――


 いつか、この世界そのものを照らすことになる。


第三章【一杯の灯火編】

――完――

第三章【一杯の灯火編】を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回の章では、これまでとは少し違う夜を描いてみました。


一杯のお酒で、すべての問題が解決するわけではありません。


けれど、人がもう一度前を向くための「きっかけ」にはなれる。


そんなBARであってほしい。


蓮の「おもてなし」を、今回はそんな気持ちで描きました。


そして『BAR・白の記憶』という小さな店の中で、少しずつ人と人の縁が繋がり始めています。


一人の客が残した言葉が、別の誰かへ届く。


忘れられていた記憶が、もう一度誰かの心を灯す。


そんな夜の積み重ねが、これからどんな物語へ繋がっていくのか。


蓮自身も、まだ知りません。


それでは、また次の夜に。


BAR・白の記憶で、お待ちしております。

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