表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第三章:【一杯の灯火編】
PR
16/42

第十四夜:翡翠のグラスと、忘れられた約束

 深夜三時。


 雨はいつの間にか止んでいた。


 濡れた石畳が、街灯の明かりをぼんやりと映している。


 『BAR・白の記憶』の扉が、静かに開いた。


 カラン。


 入ってきたのは、一人の若い女性だった。


 淡い色のドレス。


 細い手袋。


 首元には、小さな翡翠のペンダント。


 どう見ても、このような路地裏の店に来るような身なりではない。


 女性は店内を見回すと、少し迷ってからカウンターへ腰を下ろした。


「……ここで、よろしいのかしら」


「もちろんです」


 蓮は穏やかに一礼した。


「お待ちしておりました」


「え?」


「いえ」


 蓮は微笑んだ。


「お客様がいらっしゃったことを、そう申し上げただけです」


 女性は小さく笑った。


「不思議な方ね」


「よく言われます」


 女性は少しだけ肩の力を抜いた。


「エリアと申します」


「エリア様ですね」


「今夜は……少しだけ、誰にも会いたくなくて」


「では、誰にもお会いにならなくて済む席をご用意いたします」


 蓮はカウンターの端を示した。


 エリアはそこへ移った。


 しばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。


「今日、夜会があったの」


「はい」


「王宮で」


「そうでしたか」


「そこで……」


 エリアは胸元のペンダントに触れた。


「昔から好きだった方に、振られました」


 蓮は何も言わない。


「それだけなら、まだ良かったの」


 エリアは苦笑した。


「『君は綺麗だ。でも、それだけだ』って」


 指先がペンダントを強く握る。


「私、ずっと綺麗でいようと思ってた」


「……」


「髪も、服も、話し方も」


 少しずつ声が震える。


「誰かに認めてもらえるように、ずっと自分を作ってきた」


 エリアは目を伏せた。


「でも、その人に『作り物みたいだ』って言われた瞬間……全部意味がなくなった気がした」


 蓮は棚へ手を伸ばした。


 ミントリキュール。


 ホワイトカカオ。


 生クリーム。


 そして、少しだけ氷。


 シェーカーへ注ぐ。


 カシャ、カシャ、カシャ。


 静かな店内に、軽快な音が響く。


 エリアはその音を聞いていた。


 やがて蓮は、淡い翡翠色のカクテルをグラスへ注いだ。


「お待たせいたしました」


「……綺麗」


「グラスホッパーでございます」


 エリアはグラスを両手で包んだ。


「どうして、この色に?」


「ミントの色です」


「まるで宝石みたい」


「宝石も、光がなければ輝きません」


 エリアが顔を上げる。


 蓮は続けた。


「人も同じなのかもしれません」


「……どういう意味?」


「誰かに綺麗だと言われるために輝く必要はない、ということです」


 エリアは黙っていた。


 やがて、一口。


 ミントの清涼感。


 ホワイトカカオの甘み。


 そして、生クリームの柔らかな余韻。


「……甘い」


「はい」


「でも、最後に少しだけ苦い」


「ミントの香りでしょうか」


「ううん」


 エリアは小さく笑った。


「たぶん、私の気持ち」


 蓮も微笑んだ。


「それも、味の一つです」


 エリアはもう一口飲んだ。


 今度は、さっきよりゆっくりと。


「……ねえ、マスター」


「はい」


「この店には、変な人が来るのね」


「そうかもしれません」


「英雄とか、魔族とか、騎士とか」


 蓮は答えなかった。


 エリアは少し笑った。


「私の父も昔、騎士だったの」


「そうでしたか」


「といっても、もう引退して随分経つけれど」


 エリアは何気なく言った。


「父が若い頃、王国軍の補給を担当していた時期があったそうなの」


 蓮の目が、ほんのわずかに動く。


「その頃、一緒に働いていた騎士の中に――」


 エリアは記憶を探るように眉を寄せた。


「ガストンという人がいた、と聞いたことがあるわ」


 店内の空気が、ほんの少し変わった。


「父は、その人のことをよく覚えていた」


「どんな方だったのでしょう」


「真面目で、不器用で」


 エリアは笑った。


「でも、困っている人を放っておけない人だったって」


 蓮は静かに聞いていた。


「昔、父が言っていたの」


 エリアはグラスを見つめる。


「戦争が終わったあと、ガストンという騎士が一人で大量の物資を届けに行ったことがあったって」


「……」


「誰にも命令されていないのに」


 エリアの表情が少し曇った。


「そのせいで、彼はしばらく騎士団から外されたとも聞いたわ」


 蓮の中で、昨夜の古い記録が浮かんだ。


 ガストン。


 軍用物資。


 そして、王立魔法研究所。


「父は最後まで、その人に恩があると言っていた」


 エリアはそう言って、グラスを空にした。


「でも……そのガストンさんが今どこにいるのかは知らない」


「……」


「もし、どこかで会ったら」


 エリアは少しだけ笑った。


「父が『ありがとう』と言っていたと、伝えてあげたいわ」


 蓮は静かに頷いた。


「分かりました」


「……え?」


「もし、お会いすることがあれば」


 エリアは不思議そうに蓮を見た。


 けれど、それ以上は聞かなかった。


 立ち上がる。


「今日は、少しだけ楽になったわ」


「それは何よりです」


「明日からは、誰かのためじゃなくて、自分のために綺麗になってみる」


「素敵ですね」


 エリアは微笑んだ。


「ありがとう、マスター」


 カラン。


 扉が閉じる。


 蓮はその背中を見送った。


 そして静かに呟く。


「……ガストン様」


 今夜もまた、一つ。


 過去から届いた「ありがとう」が、この店に置かれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ