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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第三章:【一杯の灯火編】
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第十三夜:深紅の滴と、古い記録

 深夜三時。


 『BAR・白の記憶』の店内には、雨の音だけが静かに響いていた。


 蓮はカウンターの奥で、いつものようにグラスを磨いている。


 その横には、昨夜ルークが置いていった古い物資記録。


 何十年も前のものだ。


 紙は黄ばんでいる。


 ところどころ文字が滲み、端には何度も折り畳まれた跡が残っている。


 蓮はそれを一度だけ眺めると、そっと引き出しへしまった。


 客の過去を勝手に覗くつもりはない。


 ただ――


 ガストンが再びこの店を訪れたとき。


 必要なら返せばいい。


 そう思っていた。


 そのとき。


 カチャリ。


 控えめな音とともに、扉が開いた。


 入ってきたのは、一人の若い女性だった。


 黒いローブ。


 肩まで伸びた黒髪。


 細い眼鏡。


 そして、眠っていない人間だけが持つ、ひどく疲れた目。


 彼女は店内を見回すと、ゆっくりカウンターへ近づいた。


「……ここが」


「いらっしゃいませ」


「本当に、誰でも受け入れる店なのね」


「お客様であれば、どなたでも」


 女性は椅子に腰を下ろした。


「シェリル」


「はい?」


「私の名前」


「シェリル様ですね」


 彼女は頷いた。


 だが、そのまま黙り込んだ。


 蓮は急かさない。


 しばらくすると、シェリルが小さく息を吐いた。


「……赤いお酒を」


「赤いお酒、ですか?」


「血みたいな色の」


 蓮は彼女の顔を見る。


「強いものをご希望でしょうか?」


「ええ」


 シェリルは笑った。


 笑顔というより、自嘲に近かった。


「頭の中を全部焼き払えるくらい」


「かしこまりました」


 蓮はウォッカのボトルを手に取った。


 そして冷えたグラスに氷を入れる。


 ウォッカ。


 トマトジュース。


 少量のウスターソース。


 タバスコ。


 レモン。


 そして、ほんの少しの塩。


 蓮はバースプーンで静かに混ぜる。


 赤い液体が、グラスの中でゆっくりと揺れた。


「お待たせいたしました」


 蓮が差し出す。


「ブラッディ・メアリーでございます」


 シェリルはグラスを持ち上げた。


「……本当に血みたい」


「ですが、血ではありません」


「分かってるわ」


 彼女は一口飲んだ。


 ウォッカの熱。


 トマトの酸味。


 そして、舌に残る刺激。


「……辛い」


「ええ」


「でも……」


 もう一口。


「美味しい」


 シェリルはグラスを見つめた。


 しばらくして、ぽつりと呟く。


「私、研究者なんです」


「魔法の研究でしょうか?」


「王立魔法研究所」


 シェリルは眼鏡を外し、目元を押さえた。


「そこで新しい魔法の研究をしている」


「それは立派なお仕事ですね」


「立派なんかじゃない」


 声が低くなった。


「私は、失敗した」


 グラスの中で、赤い液体が揺れる。


「研究していた魔法が、実験中に暴走したの」


「お怪我は?」


「ないわ」


 シェリルは首を振る。


「でも、研究室をめちゃくちゃにした」


「それだけですか?」


「それだけ?」


 シェリルが笑う。


「研究費を使った。時間も使った。私を信じてくれた人たちもいた」


 彼女の指が震えた。


「それなのに、失敗した」


「……」


「同僚は言ったわ」


 シェリルはグラスを見た。


「『才能があると思っていたのに』って」


 その言葉が、一番痛かったのだろう。


「私は、それが悔しくて」


 声が震える。


「悔しくて、悔しくて……」


 シェリルは拳を握った。


「全部、呪ってやろうと思った」


 蓮は静かに聞いていた。


「研究所も」


「同僚も」


「私を笑った奴も」


 赤い酒を一口。


「全部」


 蓮はしばらく黙っていた。


 そして、静かに尋ねた。


「その研究は、本当に失敗したのですか?」


「……え?」


「完成しなかった」


「はい」


「ですが、完成しなかったことと、失敗したことは同じでしょうか」


 シェリルは黙った。


「研究とは、答えを見つける仕事だと私は思っていました」


「……違うの?」


「分からないことを、一つずつ減らしていく仕事でもあるのではないでしょうか」


 シェリルは目を伏せた。


 蓮はグラスの赤い液体を見た。


「このカクテルも、いろいろなものが入っています」


「トマト、ウォッカ、辛いもの……」


「はい」


「それが何だっていうの?」


「最初から全部を混ぜてしまえば、味が分からなくなります」


 蓮はバースプーンを置いた。


「一つずつ確かめるから、どこに問題があるのか分かる」


 シェリルはしばらく黙っていた。


「……魔法も同じ?」


「私には分かりません」


 蓮は穏やかに笑った。


「ですが、シェリル様なら分かるのではないでしょうか」


 その言葉に、シェリルは顔を上げた。


 そして――


 ほんの少し笑った。


「……ずるい人ね」


「そうでしょうか?」


「そうよ」


 シェリルは残ったブラッディ・メアリーを飲み干した。


 グラスを置く。


「もう一杯」


「かしこまりました」


 蓮が新しい一杯を作り始める。


 そのときだった。


 シェリルが、ふとカウンターの端を見た。


 そこに置かれた紙。


 古い物資記録の一部が、引き出しから少しだけ覗いていた。


「……その紙」


 蓮の手が止まる。


「何か?」


「見せてもらえる?」


「申し訳ありません。お客様のものですので」


「……そう」


 シェリルはそれ以上言わなかった。


 しかし、立ち上がる直前。


「その紙に、魔法研究所の名前が書いてあったら――」


 蓮が顔を上げる。


「私のところへ持ってきて」


「どうしてですか?」


 シェリルは少しだけ迷った。


「昔の話だけど」


 彼女は静かに続けた。


「王立魔法研究所には、戦争中に軍へ物資を供給するための魔法装具研究部門があったの」


 蓮の目がわずかに細くなる。


「今はもうありません」


「ですが、古い記録は残っています」


 シェリルは眼鏡を掛け直した。


「もし、その紙がその頃のものなら……」


 そこで言葉を止める。


「ガストンという名前にも、何か関係があるかもしれない」


 蓮は何も言わなかった。


 シェリルは扉へ向かう。


「マスター」


「はい」


「明日、研究所に戻ってみる」


「……はい」


「失敗した実験を、もう一度やり直す」


 カラン。


 ベルが鳴る。


 シェリルは雨の夜へ消えていった。


 蓮はしばらく扉を見つめていた。


 やがて、引き出しから古い物資記録を取り出す。


 紙を広げる。


 ガストンの名前。


 その下には、古い輸送隊の記録。


 そして、さらに小さな文字で――


 王立魔法研究所・軍用魔導具研究部門


 蓮は静かに息を吐いた。


 別々の夜に訪れた三人。


 ガストン。


 ルーク。


 そしてシェリル。


 それぞれの人生は、まったく違う場所から始まっている。


 それなのに。


 一本の古い記録が、その三つを少しずつ結び始めていた。


 カウンターの上には、誰もいないグラス。


 その底に、ブラッディ・メアリーの赤い滴が一つだけ残っている。


 蓮はそれを布で拭き取った。


 そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「……長い夜になりそうですね」


 外では、雨がまだ降り続いていた。


 そして王都のどこかで。


 何十年も眠っていた過去が、静かに目を覚まし始めていた。

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