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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第三章:【一杯の灯火編】
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第十二夜:弾ける泡と、受け継ぐもの

 ガストンが店を出てから、まだ十分も経っていなかった。


 蓮はカウンターに残されたグラスを片づけ、いつものように布で丁寧に磨いていた。


 静かな夜だった。


 けれど、さっきの老人が残していった言葉だけが、まだ店の中に残っているような気がした。


 ――俺が、まだ生きていると伝えてくれ。


 蓮は何も言わず、グラスを棚へ戻した。


 そのとき。


 カラン、カラン、カラン――。


 今度は、ベルが慌ただしく三度鳴った。


「すみません! まだ……やってますよね!?」


 扉から飛び込んできたのは、若い獣人の男だった。


 長い耳。


 少し乱れた髪。


 質の良い服を着ているが、袖口には泥がついている。


 肩で息をしていた。


「もちろんです。いらっしゃいませ」


「助かった……」


 男はそのままカウンターへ駆け込み、椅子に腰を落とした。


 大きく息を吐く。


「水を……いや、酒を!」


「お水を先にいたしましょうか」


「……お願いします」


 蓮は冷たい水を一杯差し出した。


 男は一気に飲み干した。


「ふう……」


 ようやく呼吸が落ち着く。


「申し訳ない。こんな時間に」


「夜は長いですから」


 蓮が微笑む。


「お名前を伺っても?」


「ルークです。王都で小さな商会をやっています」


 そう言ってから、ルークは少しだけ胸を張った。


「……一応、商人です」


「一応?」


「いや……今は、そう言うしかなくて」


 ルークは視線を落とした。


 さっきまでの威勢が、急に消えた。


「何かお困りのようですね」


「……分かりますか?」


「グラスを持つ手が震えています」


 ルークは自分の手を見た。


 本当に、わずかに震えていた。


「参ったな……」


 苦笑する。


「今日、商売で大失敗しまして」


「そうですか」


「大きな取引だったんです」


 ルークは水の入っていたグラスを指でなぞった。


「全部、上手くいくと思ってた。仕入れも、売り先も、全部決まっていた」


「ところが?」


「相手の商会が倒産しました」


 蓮は黙って聞いている。


「預けていた商品も、前払いした金も戻ってこない。仕入れ先には支払いを待ってもらってるけど……」


 ルークは乾いた笑いを浮かべた。


「明日には、俺の商会も終わるかもしれません」


 蓮は棚へ手を伸ばした。


「何か、景気の良いものを」


 ルークが言った。


「今夜くらい、景気の良い酒を飲みたいんです」


「承知しました」


 蓮はジンのボトルを取り出した。


 冷えたトニックウォーター。


 そして、ライム。


 氷をグラスいっぱいに入れる。


 ジンを注ぐ。


 トニックウォーターを静かに重ねる。


 シュワッ――。


 細かな泡が、グラスの中を一気に駆け上がった。


 最後にライムを添える。


「お待たせいたしました」


 蓮がグラスを差し出した。


「ジン・トニックでございます」


 ルークはグラスを見つめた。


「……綺麗だな」


「まずは一口どうぞ」


 ルークはグラスを傾けた。


 シュワッ。


 炭酸が舌の上で弾ける。


 ジンの鋭い香り。


 ライムの爽やかな酸味。


 そして、ほのかな苦み。


「……っ」


 ルークの目が見開かれた。


「なんだ、これ……」


 もう一口。


「冷たいのに、頭が熱くなる」


「面白いお酒でしょう?」


「うん……」


 ルークはグラスを見つめた。


「なんか……ごちゃごちゃしてた頭が、少しだけ静かになった」


「それは良かったです」


 蓮はそう言って、カウンターを拭いた。


 しばらくして。


 ルークがぽつりと呟いた。


「……実は、もう一つ困ってることがあるんです」


「はい」


「俺の父親も、商人だったんです」


 ルークの目が、遠くを見る。


「小さな商会でしたけど、戦争の頃は王国軍に物資を納めていた」


 蓮の手が止まった。


「その頃、父から何度も聞かされた人がいます」


「誰でしょう」


 ルークはグラスの中の泡を見つめた。


「ガストンという騎士です」


 蓮は何も言わなかった。


「父が言ってました。あの人がいなければ、俺たちの商会はとっくに潰れていたって」


 ルークは苦笑した。


「戦争の最中、物資を運ぶ商人なんて狙われやすいでしょう? 父の隊商が襲われたことがあったらしいんです」


「そのときに?」


「ガストンが助けてくれた」


 ルークは小さく頷いた。


「父は、あの人を英雄だと言ってました」


 しばらく沈黙が流れた。


「でも……」


 ルークの声が少し曇る。


「俺は、その人のことを知らなかった」


「……」


「子供の頃は、昔の英雄の話なんて聞き流してました。今の俺には、今の商売がある。それだけだと思ってた」


 ルークは笑った。


「それが今日になって、全部なくなりそうになって……」


 そこで言葉を止める。


「なんだか、父が昔話していたことを思い出したんです」


 蓮は静かに尋ねた。


「ガストン様とは、今日会われたのですか?」


「え?」


「先ほど、ここへいらっしゃいました」


 ルークの耳がピンと立った。


「……え?」


「少し前まで、こちらに」


 ルークは椅子から立ち上がりそうな勢いで身を乗り出した。


「ガストンが!?」


「はい」


「本当に?」


「ええ」


 ルークはしばらく言葉を失った。


 そして、ゆっくりと椅子へ座り直した。


「……生きてたんだ」


 その声には、驚きと安堵が混じっていた。


「父が死ぬ前まで、ずっと言ってたんです」


 ルークはグラスを握った。


「いつか、もう一度会って礼を言いたいって」


 蓮は何も言わなかった。


「なのに俺は……」


 ルークは自嘲気味に笑った。


「自分の商売が上手くいかないだけで、全部終わったみたいな顔をしてる」


「商売が終わることと、あなた自身が終わることは同じではありません」


 静かな声だった。


 ルークが顔を上げる。


「……そうですね」


「それに」


 蓮は、ルークの前に残っていたジン・トニックを見た。


「泡は、すぐに消えます」


「え?」


「ですが、消えたからといって、何も残らないわけではありません」


 ルークはグラスを見つめた。


 細かな泡が、まだいくつも立ち上がっている。


「お父様が残したものも、きっと同じです」


「……」


「商会の名前だけではないでしょう」


 ルークの目が潤んだ。


「人との繋がりや、信頼や、助けてもらった記憶」


 蓮は静かに続けた。


「それらは、数字の帳簿には書かれていないかもしれません」


 ルークは黙っていた。


 やがて、残っていた酒を一口飲む。


「……俺、明日から逃げずに話してみます」


「はい」


「仕入れ先にも、借金の相手にも」


 ルークはグラスを置いた。


「全部、正直に話してみる」


 そして少しだけ笑った。


「その上で、商会を立て直せるか考えます」


「それがよろしいかと思います」


 ルークは立ち上がった。


 代金を置く。


 そして扉へ向かった。


 だが、そこで振り返った。


「マスター」


「はい」


「ガストンに……」


 少し迷ってから、笑った。


「俺の父が、最後まで感謝してたって伝えてもらえますか?」


 蓮は静かに頷いた。


「必ず」


「ありがとうございます」


 ルークは深く頭を下げた。


 カラン。


 ベルが鳴る。


 若い獣人の商人は、夜の街へ出ていった。


 蓮はその背中を見送る。


 ほんの少し前まで、すべてを失ったと思っていた青年。


 けれど、今夜。


 彼は一つだけ、受け取ったものがあった。


 父親から受け継いだ、古い記憶。


 そして――


 それを次へ渡すための、小さな灯。


 蓮はカウンターへ戻った。


 すると、先ほどまで誰もいなかった席に、一枚の紙が置かれていることに気づいた。


 古い紙だった。


 裏返す。


 そこには、何十年も前の王国軍の物資記録が書かれていた。


 そして、その端に。


 見覚えのある名前が一つだけ記されていた。


――ガストン。


 蓮は紙を静かに見つめた。


 どうやら、あの老人の過去は――


 まだ終わっていない。


 カラン。


 夜の扉が、また静かに鳴った。

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