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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第三章:【一杯の灯火編】
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第十一夜:錆びた剣と、消えない灯

夜には、昼間には見えないものがある。


人の弱さ。


忘れられた記憶。


言葉にできなかった後悔。


そして――

もう一度、歩き出すための小さなきっかけ。


『BAR・白の記憶』には、今夜もさまざまな客が訪れる。


過去を背負う者。


未来に迷う者。


自分自身を見失いかけた者。


蓮は、そんな彼らに一杯の酒を差し出す。


その一杯が、何を変えるのか。


それは、飲んだ本人にしか分からない。


ただ、どんなに深い夜にも――

小さな灯火は、静かに揺れている。


今夜もまた、白の記憶の扉が開く。

 深夜二時。


 王都の夜は、昼間とは別の顔を見せる。


 人々の声が消え、通りを照らす街灯だけが、石畳に細長い影を落としていた。


 その静かな路地の奥で、今夜も『BAR・白の記憶』だけが、淡い灯りをともしている。


 カラン。


 小さなベルが鳴った。


 蓮はいつものように顔を上げた。


 入ってきた男を見て、ほんの一瞬だけ視線を止める。


 年齢は六十を越えているだろう。


 背は高く、肩幅も広い。


 かつて鍛え上げられていた身体には、長い年月を戦場で過ごしてきた者だけが持つ、独特の厚みが残っている。


 しかし、その姿には今の彼を支えるものがほとんどなかった。


 古びた外套。


 擦り切れた革靴。


 そして――腰に差された一本の剣。


 鞘には無数の傷があり、金具には薄く錆が浮いている。


 男はカウンターの一番端に座った。


「……酒をくれ」


「いらっしゃいませ」


「一番強いやつだ」


 低い声だった。


「頭が痺れて、何も考えられなくなるような酒を頼む」


 蓮は男の顔を見た。


 怒っているわけではない。


 悲しんでいるようにも見えない。


 ただ――疲れていた。


「かしこまりました」


 蓮はそれ以上、何も聞かなかった。


 ボトルを一本選ぶ。


 深く焙煎されたコーヒー豆。


 芳醇な香りを持つアイリッシュウイスキー。


 そして、生クリーム。


 グラスを温める。


 そこへ熱いコーヒーを注ぎ、ウイスキーを合わせる。


 最後に、きめ細かく泡立てた生クリームを、静かに浮かべた。


 白いクリームが、黒々とした液体の上に薄い雲のように乗る。


「お待たせいたしました」


 蓮がグラスを差し出す。


「アイリッシュ・コーヒーでございます」


 男は眉をひそめた。


「……コーヒー?」


「はい」


「俺は強い酒を頼んだんだが」


「こちらにも、きちんとウイスキーが入っております」


 男はしばらくグラスを眺めていた。


 やがて諦めたように手に取る。


 まず鼻に届いたのは、深いコーヒーの香りだった。


 その奥に、ウイスキーの甘く力強い香りがある。


 男は一口飲んだ。


「……」


 熱い。


 喉を通るウイスキーの熱。


 その後から、コーヒーの苦みがゆっくりと広がる。


 最後に、生クリームの柔らかな甘みが、それらを包み込んだ。


 男の眉間に刻まれていた皺が、ほんの少し緩んだ。


「……変な酒だな」


「よく言われます」


「だが……悪くない」


 男はもう一口飲んだ。


 今度はゆっくりと。


 蓮は何も言わない。


 ただ、少し離れた場所でグラスを磨いている。


 しばらくして、男がぽつりと呟いた。


「昔はな」


 蓮の手が止まる。


「俺の剣を見ただけで、若い騎士たちは道を空けた」


 男は自分の腰にある剣へ目を落とした。


「王国最強の騎士――なんて呼ばれていた時期もあった」


 蓮は静かに聞いていた。


「戦場では、先頭に立った。誰よりも早く敵陣へ入り、誰よりも最後まで残った」


 男の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「馬鹿みたいに、戦ったよ」


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「……それで、気がつけば若い連中に席を譲る歳になった」


 男はグラスを見つめた。


「当然だ。剣は重くなった。朝起きれば身体が痛む。昔なら一晩で治った傷が、何日も残る」


 自嘲するように笑う。


「俺より強い若者だって、いくらでもいる」


 そこで男は、一度言葉を止めた。


「だから引退した」


 店内に静寂が落ちる。


「それだけなら、まだ良かったんだ」


 男の指が、グラスを強く握る。


「引退してから分かった」


 低い声。


「俺には、何も残っていなかった」


 蓮は黙っている。


「騎士団では、俺の席に若い奴が座った」


「昔の仲間は、もうほとんどいない」


「街を歩けば、『ああ、あの昔の騎士だ』と笑われる」


 男は自分の剣を見た。


「この剣も、もう抜いていない」


 錆びついた鞘。


 傷だらけの柄。


 それは、かつて王国を守った男の人生そのもののようだった。


「……俺は、何だったんだろうな」


 蓮は少しだけ間を置いた。


「お名前を伺っても?」


「ガストンだ」


「ガストン様」


 蓮は静かに頭を下げた。


「長い間、お疲れさまでした」


 ガストンの目が動いた。


 それだけだった。


 けれど、その一言は妙に深く胸へ落ちた。


「……そんなことを言われたのは、いつ以来だろうな」


 ガストンは笑った。


 今度の笑みには、自嘲がなかった。


「みんな、『まだ戦えるだろう』とか『昔の英雄なら何とかしてくれ』とか……そんなことばかりだった」


 蓮は新しいお湯を沸かした。


 そして、空きかけたグラスにほんの少しだけコーヒーを足す。


「もう一杯、いかがですか?」


 ガストンは驚いたように顔を上げた。


「いいのか?」


「もちろんです」


「……頼む」


 蓮は再びアイリッシュ・コーヒーを作った。


 同じ手順。


 同じグラス。


 同じ香り。


 けれど今度は、ガストンが作る時間をじっと見つめていた。


 ウイスキー。


 熱いコーヒー。


 白いクリーム。


 それぞれ違うものが、一杯の中で一つになる。


 蓮はグラスを差し出した。


「どうぞ」


 ガストンは受け取った。


 そして、今度はすぐに飲まなかった。


 白いクリームの向こうにある琥珀色を、しばらく眺める。


「……戦うことだけが、俺の価値じゃなかったのかもしれんな」


 蓮は答えなかった。


 ただ、静かに頷いた。


 ガストンは小さく笑った。


「明日、騎士団へ行ってみる」


「はい」


「若い連中に、剣の振り方を教えるくらいなら……まだ俺にもできるかもしれん」


「きっと、できると思います」


 その言葉に、ガストンは照れくさそうに鼻を鳴らした。


「……あんたは不思議な男だな」


「そうでしょうか」


「酒を一杯出しただけで、人間に昔のことを話させる」


「私は何もしておりません」


「それが一番、不思議なんだよ」


 ガストンは残った酒を飲み干した。


 立ち上がる。


 椅子の横で、腰の剣が小さく鳴った。


 カチャリ。


 その音を聞いて、ガストンは剣へ目を向けた。


 そして、初めて少しだけ笑った。


「……こいつも、まだ捨てなくていいか」


 扉へ向かう。


 だが、その前で足を止めた。


「マスター」


「はい」


「もし……昔の騎士仲間がここへ来たら」


 ガストンは少しだけ振り返った。


「俺が、まだ生きていると伝えてくれ」


 蓮は静かに一礼した。


「かしこまりました」


 カラン。


 ベルが鳴る。


 ガストンは夜の街へ出ていった。


 その背中は、入ってきたときよりほんの少しだけ真っ直ぐだった。


 蓮は扉が閉じるまで見送った。


 やがて静けさが戻る。


 カウンターには、ガストンが残した空のグラス。


 その底に、一滴だけ白いクリームが残っている。


 蓮はそれを丁寧に拭き取った。


 そして、窓の外へ目を向ける。


 王都の夜は、まだ深い。


 けれど――


 暗闇の中で、一度消えかけた灯が、もう一度だけ小さく揺れていた。


 錆びた剣にも、まだ役目はある。


 ただ本人が、それを忘れていただけなのかもしれない。


 カラン。


 そのとき、再び扉のベルが鳴った。


 蓮は顔を上げた。


 今度の客は――


 ガストンの過去を知る者だった。

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