第04話 ダンジョン
入口から数歩で日差しが届かなくなった。
だが、暗闇にはならなかった。
壁や天井が淡く発光している。
ダンジョン特有の光だ。
洞窟とは違う。
ダンジョンは内部が自然に光る。
薄暗いが、足元は見える。
壁は湿っていた。
通路の角には苔が張り付き、天井から水滴が落ちる音がする。
空気は冷たく、土と石の匂いが鼻を突いた。
ダンジョンの空気だ。
現場検証で二度だけ嗅いだことがある。
あの時は短時間だった。
今回は、何日かかるかわからない。
隊形は自然に組まれた。
先頭にカイ。
軽い足取りで通路を進み、数十歩先まで偵察してから手信号で安全を知らせる。
その後ろにマルクとゼノ。
マルクが両手剣を構え、ゼノが盾を左手に持つ。
前衛の二人が通路の幅をほぼ埋めていた。
中央に私。
後方にノアとリア。
ノアが私の背後につき、リアが最後尾で探知を続けている。
(……守られている)
当然のことだ。
私は戦えない。
この隊形は、戦闘力のない人間を守るための配置だった。
手帳を開いた。
通路の幅、天井の高さ、壁の材質。
記録を取り始める。
「エイル、記録は取れてるか」
ゼノが振り返らずに言った。
「ええ。通路の構造と壁の状態。今のところ地図通りです」
「地図通り、か」
短い応答。
だが確認を怠らない。
リーダーとして、状況を常に把握しておきたいのだろう。
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上層は、地図に描かれた通りだった。
「黄昏の灯火」が残した地図と照合しながら進む。通路の分岐、広間の形状、行き止まり。精密な地図のおかげで迷うことはなかった。
地図に記された罠の位置には赤い印が付けてある。
カイがその都度、先行して確認した。
「ここ、圧力板だな。地図通りだ。まだ生きてる」
カイが足元を指さした。
石畳の一枚が周囲より僅かに高い。
踏めば何かが起動する。
壁の穴から矢が出るのか、天井が落ちるのか。
カイは圧力板の周囲を調べ、安全な迂回路を示した。
「ここを通れ。幅は狭いが問題ない」
全員が指示に従い、圧力板を避けて通過した。
私は罠の位置と種類を手帳に記録した。
地図の情報と一致している。
ダンジョンの構造は変わっていない。
しばらく進むと、通路の先でカイが拳を上げた。
停止の合図だ。
全員が足を止めた。
「前方に二体。蜥蜴型。通路を塞いでる」
カイが小声で報告した。
ゼノが頷く。
「マルク、正面。俺が右を取る。カイは待機。来たら仕留めろ」
「了解」
蜥蜴型のモンスターが二体、通路の分岐点にいた。
体長は人の腰ほど。
鱗が暗い緑色に光っている。
マルクが踏み込んだ。
あの体格で、驚くほど足音が静かだった。
一体目が反応する前に、両手剣が振り下ろされた。
重い一撃。
二体目が壁を蹴って飛びかかったが、ゼノの盾が弾き、カイが横から小剣を走らせた。
あっという間だった。
二体のモンスターの死体が通路に転がった。
「終わりだ。他にはいないな?」
ゼノがリアに確認した。
「……周囲に気配はありません」
リアの声を聞くのは、入口での「何か、重い」以来だった。
短い報告。
必要なことだけを言う。
私は手帳に記録した。
『モンスターの種類、出現位置、数。蜥蜴型、通路分岐点、二体。チームの対応時間は数秒。連携に淀みがない』
ノアが隣に来た。
「エイルさん、大丈夫ですか?」
「ええ。……慣れていないだけです」
目の前で生き物が殺されるのを見るのは、報告書の文字を読むのとは違う。
匂いがある。
音がある。
血がある。
だが、記録しなければならない。
それが私の仕事だから。
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上層をさらに奥に進んだ。
モンスターとの遭遇は散発的だった。
蜥蜴型が数回。
いずれもカイが先に発見し、マルクとゼノが処理した。
私が記録を取り、ノアが全員の体調を確認し、リアが周囲の安全を探知する。
繰り返すうちに、自分の立ち位置が身体で分かってきた。
前衛が戦っている間は動かない。
戦闘が終わったら記録を取る。
移動中は地図と照合する。
隊形を崩さない。
(……これが、冒険者の日常か)
報告書で何百回も読んできた。
モンスターの出現、戦闘、罠の回避。
文字の上では知っていた。
しかし実際に見るダンジョンは、報告書とは違う。
壁を這う虫の影、足元に溜まる泥水、モンスターの血の匂い。
報告書には残らない情報が、ここにはある。
シオンの報告書を思い出した。
あの堅実で正直な記録。
書かれていた通路の構造や罠の配置は正確だった。
しかし報告書に書かれていない情報——空気の重さ、闇の深さ、通路に反響する自分の足音——こういうものは、来てみなければわからない。
シオンもこの空気を吸い、この壁に手を触れ、この闇の中を進んだのだろう。
何度も。
六年間。
このダンジョンを歩き続けた冒険者がいた。
その報告書を私は書庫で読んだ。
しかし今、同じ場所に立ってみて、文字では伝わらないものがあると知った。
報告書には「通路を移動」と書いてあった。
だが実際には、足元の石畳が濡れて滑り、壁から突き出た岩に肩をぶつけ、天井の低い箇所で頭を下げながら進む。
その一歩一歩が記録されることはない。
記録に残らないものを、私は記録したいと思った。
蝙蝠の群れに遭遇した。
天井から一斉に飛び立ち、通路を黒い塊が埋めた。
カイが壁に張り付いてやり過ごし、マルクが両手剣で薙ぎ払う。
ゼノが振り返り、盾を掲げて私を庇った。
数秒で静かになった。
天井に残った蝙蝠が数匹、薄暗い通路の奥へ消えていく。
「群れだったな。まあ、蝙蝠なら問題ない」
カイが髪についた何かを払いながら言った。
私は手帳に記録した。
『蝙蝠の群れ。天井付近、推定二十匹以上。脅威度は低いが、不意の遭遇は視界を奪われる』
通路が少し広くなった場所で、ゼノが足を止めた。
「少し休む。エイル、座れ」
まだ歩けるつもりだったが、言われて壁に背を預けると、足が重くなっていたことに気づいた。
ダンジョンの空気は、思った以上に身体に来る。
「エイルさん、水を飲んでください」
ノアが水筒を差し出した。
「まだ大丈夫です」
「大丈夫だと思っている時に飲むのが大事なんです。ダンジョンの空気は知らないうちに体力を奪いますから」
言われて、水筒を受け取った。
一口飲むと、喉が思った以上に渇いていたことに気づいた。
ノアが軽く微笑んだ。
この人は、口で言わなくても体調の変化を見抜くらしい。
カイが通路の先を覗きに行っている。
マルクは少し離れた位置に立ったまま周囲を警戒していた。
リアは壁に手を触れ、何かに集中しているようだった。
「地図と照らし合わせて、どうだ」
ゼノが訊いた。
「一致しています。通路の配置、罠の位置、モンスターの出現頻度。『黄昏の灯火』の記録通りです」
「まだ上層の序盤だ。先は長い」
ゼノが前方の暗がりを見据えた。
地図を広げて確認した。
今いるのは上層の入口寄り。
地図には上層だけでもまだ多くの通路が描かれている。
その先に中層があり、さらにその奥に「黄昏の灯火」の拠点がある。
今日中にそこまで辿り着く必要があった。
カイが戻ってきた。
「この先、通路が二手に分かれてる。右は地図のルートと一致。左は行き止まりだ」
「右だ。行くぞ」
短い休憩を終え、壁から背を離した。
再び隊形を組む。
まだ一日の始まりだ。
ダンジョンの奥は遠い。
手帳を開いて、短く記した。
『上層序盤。ダンジョンの構造は地図と一致。モンスター・罠ともに正常な範囲。探索を継続する』
手帳を閉じた。
ここまでは、報告書で読んだ通りのダンジョンだった。
地図通りの通路、記録通りのモンスター、想定通りの罠。
どこにでもあるダンジョンだ。
地図に残された詳細な書き込みが、「黄昏の灯火」がこのダンジョンを何度も歩いたことを示している。
彼らに何が起きたのか。
その答えは、この先のどこかにきっとあるはず。




