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沈黙の迷宮 ― 王族失踪事件  作者: 智信
第三部

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第31話 沈黙の迷宮

 焚き火が弱く燃えていた。

 薪はもう少ししか残っていない。

 四日目の朝。

 ダンジョンの中に朝日は届かない。

 だが身体が知っていた。

 夜が明けたことを。

 支度は無言で進んだ。

 荷物をまとめ、装備を確認する。

 四日間繰り返してきた手順だった。

 最後にこの拠点を見回した。

 シオンたちが使っていた場所。

 初日に見つけた時には、まだ「黄昏の灯火」の生活の跡が残っていた。

 今は私たちの痕跡が混ざっている。

 ここに、あの五人が戻ることはもうない。

 ゼノが全員を見回した。


「……帰るぞ」


 短い一言だった。

 誰も返事をしなかった。

 ただ、全員が立ち上がった。


---


 帰路は静かだった。

 往路の半分の時間もかからずに、入口まで戻れた。

 道を覚えている。

 迷う必要がない。

 モンスターは距離を取っていた。

 戦闘は一度もなかった。

 カイが先頭を歩いた。

 偵察の必要はほとんどなかったが、それでも先に行く。

 斥候の足が、最後まで止まらなかった。

 マルクが両手剣を背負ったまま、黙って続いた。

 ゼノがその後ろを歩いた。

 リアが時折、何かに耳を澄ませるように歩みを緩めていた。

 しかし何も言わなかった。

 ノアが私の隣を歩いた。

 歩調を合わせてくれていた。


 リアが足を止めた。

 壁に手を当て、目を閉じた。

 しばらくして、手を離した。


「……まだ、泣いている」


 小さく呟いた。

 壁の向こう——この奥のどこかに、主がいる。

 初めてこのダンジョンに踏み込んだ時から、リアは感じ取っていた。

 あの時はわからなかった。

 何が泣いているのか。

 今はわかる。

 このダンジョン全体が——主が——泣いている。

 友を失った悲しみは、何年経っても消えないのだろう。


 出口が見えた。

 白い光が通路の奥から差し込んでいた。

 三日前、この入口から踏み込んだ。

 暗闇の中に入った時、私はまだ信じていた。

 真実を見つけ、ありのままに記録し、報告する——それが自分の仕事だと。


 光の中に出た。

 日差しが眩しかった。

 三日間、ダンジョンの薄暗い光の中にいた。

 目が慣れるまで、少し時間がかかった。

 風が吹いた。

 土と苔の匂いではない、草と陽の匂いがした。


 振り返った。

 ダンジョンの入口が、暗い口を開けていた。

 あの奥に、主がいる。

 たった一人で、友の眠りを守り続けている。


(……さよなら)


 心の中で呟いた。

 主には届かない。

 届かなくていい。

 ただ、私たちは知っている。

 あの暗闇の奥に、誰かがいること。

 友を守り続けている誰かがいること。

 その秘密を、持ち出す。

 そして、隠す。


---


 ギルドに戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。

 ゼノと二人で調査部門の窓口に帰還を報告した。

 すぐに奥の部屋に通された。


「概要だけ聞いておこう」


 主任が言った。

 通達書を持ってきたあの人だ。

 ゼノが答えた。


「ダンジョンの崩壊が進行しており、事件フロアへの到達は困難だった。現場の状況から、トラップの暴走による事故死と推定される。遺体の回収は不可能だ」


 短く、淡々と。

 嘘の概要だった。

 ゼノの声に迷いはなかった。

 主任の視線が私に向いた。

 調査士としての確認を求めている。

 頷いた。

 間違いありません、と。


「……事故死か。残念だな」


 主任が短く息を吐いた。


「了解した。明日、正式な報告書を持ってきてくれ」


 調査部門を出た。

 夕暮れの街は、何も変わっていなかった。

 冒険者たちが行き交い、露店が並び、子供の声が聞こえる。

 変わったのは、私たちだけだ。


---


「今夜はうちの宿に来い」


 ゼノが言った。

 任務の後は全員で食事を取る。

 「暁の帰還」の習慣らしかった。

 「暁の帰還」が拠点にしている宿の食堂に、六人が集まった。

 温かい食事が並んだ。

 カイがエールを頼んだ。

 ゼノも杯を手に取った。

 いつもの打ち上げの風景なのだろう。

 しかし、誰も笑わなかった。

 任務の話は出なかった。

 カイが天気の話をした。

 ノアが料理の味を褒めた。

 マルクは黙って食べていた。

 リアはスープを静かに飲んでいた。

 表面だけの会話が、穏やかに続いた。


 食後、ゼノが杯を置いた。


「今回の任務はここまでだ。——全員、よくやった」


 「暁の帰還」は、今回も全員生きて帰った。

 しかし、誰もその言葉に笑わなかった。


「解散だ」


 マルクが静かに頷いた。

 カイがゆっくり椅子を引いて立ち上がった。

 ノアが私を見て、小さく微笑んだ。

 リアが席を立つ前に、一言だけ言った。


「……忘れない」


 何を、とは聞かなかった。

 全員が知っている。


---


 翌朝、ギルドでゼノと合流した。

 調査部門で正式な報告用紙を受け取った。

 内容が内容だ。

 窓口脇の記入台で書くわけにはいかない。

 調査士の権限で会議室を一つ借りた。

 扉を閉めた。

 ゼノが向かいの椅子に座った。

 手帳を開いた。

 下書きのページを見る。

 あの夜に書いた嘘が並んでいる。

 正式な用紙に書き写していった。

 調査の概要、調査結果、所見、結論。

 書き慣れた書式が、嘘を整えていく。

 要所でゼノに確認を取りながら、一字一句、あの夜に書いた通りに。


 報告書を主任に提出した。


「昨日の報告通りだな。——問題ない」


 事務的な声だった。

 王位継承権第二十位の冒険者の死は、それだけのことだった。

 主任が書類に受領印を押した。

 乾いた音が、窓のない部屋に響いた。

 それだけだった。

 四日間の調査が、一枚の報告書になり、印を押されて、棚に収まった。

 真実はあの報告書の中にはない。

 棚の奥で眠るのは、嘘だけだ。


 ゼノが背を向け、調査部門を出た。

 廊下で、足を止めた。


「……すまなかった、エイル」


 振り返らずに言った。


「お前の仕事は、事実をありのままに記録することだ。それを俺が壊した」


 答えなかった。

 答える言葉がなかった。

 ゼノがゆっくり歩き出した。

 その背中が角を曲がって消えた。


---


 自宅に戻って、一人になった。


 鞄から手帳を取り出した。

 使い込まれた革表紙を撫でた。

 引退した父がくれた、たった一つの手帳。


 開いた。

 前半には父の字が並んでいる。

 几帳面で、小さくて、読みやすい字。

 後半は私の字で埋まっていた。

 そして、今回の調査……

 現場の観察。

 遺体の所見。

 証拠の分析。

 証言の記録。

 推察。

 結論。

 最後のページに、嘘の報告書の下書き。

 同じ手帳の中に、真実と嘘が並んでいた。


 これを公にすることはできない。

 しかし、消すこともできない。


(……記録は真実であるべきだ)


 父の声が聞こえた気がした。

 報告書には嘘を書いた。

 しかし、記録は残した。

 誰にも読まれることのない記録。

 公にされることのない真実。

 それでも——ここにある。


 窓の外で、街の音が聞こえていた。

 馬車の轍が石畳を鳴らしている。

 商人の声。

 遠くで犬が吠えている。

 日常が、そこにあった。

 この街の誰も知らない。

 王位継承権第二十位の冒険者が、なぜ死んだのかを。


 手帳を閉じた。

 鞄の中から、もう一つ取り出した。

 小さな川の石。

 丸く、滑らかに磨かれている。

 シオンが横たわっていた場所に残されていた石だ。

 机の引き出しに、父の手帳とシオンの石を置いた。

 そして……封印するように引き出しを戻し、鍵をかけた。

 真実と一緒に。


---


 日常が戻ってきた。

 ギルド調査部門の一室。

 窓のない部屋に、紙とインクの匂いが淀んでいる。

 報告書の束が、机の上に積まれていた。

 あの調査から何日か経った。

 沈黙の迷宮の件は、もう誰も話題にしない。

 机の上には真新しい手帳がある。

 同じ革表紙の、まだ何も書かれていないもの。


 一件目を開いた。


(……また、これか)


 討伐数の記載に矛盾がある。

 赤字で注記を入れた。

 「討伐数と出現数に不整合あり。報告者に確認の上、修正を要する」

 事実と異なる記録を通すわけにはいかない。

 ——自分が嘘の報告書を出した人間が、他人の報告書の矛盾を指摘している。

 その滑稽さを、毎朝噛みしめる。


 シオンは帰ってこない。

 主は今もあのダンジョンで、たった一人の友の眠りを守り続けている。

 真実を知っているのは、私たちと——あの主だけだ。

 それでも、今日もこの机に向かう。

 事実を読み、矛盾を探し、記録を残す。

 それが私の仕事だ。


——「冒険者は、あきらめなかった」

——「だから、真実に辿り着いた」

——「しかし、真実は闇に葬られた」

——「それでも——知った者がいる」

これにて第三部、そして本編は終了となります。

エイルの物語もこれにて終演、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


……っが、実はまだあと1話あります。

よろしければ、ぜひそこまでお付き合いいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いします。

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