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沈黙の迷宮 ― 王族失踪事件  作者: 智信
第三部

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第30話 報告書

「真実を知った者もまた、消されるのか」

――調査士の敗北

「……報告書の話をする」


 ゼノの声は低かった。

 焚き火を見つめたまま、誰の顔も見ていなかった。


「俺たちは真実を知った。シオンが先王の不義の子であること。王宮が暗殺を命じたこと。主が暴走して全員を殺したこと。——すべてだ」


 誰も口を開かなかった。


「この真実を、そのまま報告書に書いたらどうなる」


 ゼノの問いかけは、問いかけではなかった。

 答えを知っている者の声だった。


「王宮は、自分たちの暗殺が報告されることを許さない。報告書がギルドに上がれば、上層部の誰かの目に留まる。王宮の耳に届く。——そうなれば、真実を知った俺たちが、次の標的になる」


 ……真実を知った者もまた、消されるのか……


 焚き火が爆ぜた。

 小さな火の粉が暗い天井に散って消えた。


「ゼノさんは、以前にも政治的な案件に巻き込まれたことがあると聞いています」


 私は言った。

 事前調査で読んだ記録の注記が蘇っていた。


「ああ。一度、真実をそのまま報告した。正しいことをしたつもりだった」


 ゼノが目を閉じた。


「結果、チームが半年間の活動停止処分を受けた。俺個人には政治的な圧力がかかった。ギルド内部で孤立しかけた」


 ゼノが焚き火に目を落とした。


「あの時は、まだ政治的な面倒事で済んだ。相手は貴族の一人だった。だが今回は——王宮だ。王宮が暗殺を命じた事案だ。面倒事では済まない」


 焚き火の光が、ゼノの横顔を照らしていた。

 この男は知っている。

 真実を報告することの代償を。

 正しいことをした者が、正しいままでいられるとは限らないということを。


「ギルドの上層部にも王宮と繋がっている人間がいる。報告書が一人の目に留まるだけでいい。俺たちがどこまで知っているかが伝われば、それだけで十分だ。シオンと同じことが起きる」


 誰も反論しなかった。

 反論できる者がいなかった。


 ゼノが目を上げた。


「報告書を書け、エイル。俺が言う通りに」


---


 沈黙が落ちた。

 マルクが壁にもたれたまま、ゆっくりと口を開いた。


「……これも命令か、ゼノ」


 低い声だった。

 あの焚き火を囲んだ夜、マルクは「命令で人を殺したのか」と問うた。

 薬師が犯人と分かった時、「命令で人を殺した……か」と自分に重ねた。

 薬師の記録を読み上げた時も、同じ言葉を繰り返した。

 四度目だった。

 しかし今回は、他の誰かではなく、自分たちに向けられた問いだった。


「命令じゃない」


 ゼノが答えた。

 マルクの目を真っ直ぐに見て。


「俺たちの判断だ」


 マルクは長い間、黙っていた。

 焚き火の光が、その横顔に影を刻んでいた。

 やがて、小さく頷いた。


「……分かった。俺も、そう決める」


 命令ではなく、自分の意志で。

 マルクが初めて、そう選んだ瞬間だった。


---


 カイが膝を抱えたまま、低く呟いた。


「……冗談じゃねえよ」


 いつもの軽口ではなかった。

 声に力がなかった。

 しかし、反対はしなかった。

 カイの目が一瞬だけシオンの手記が入った鞄に向いた。

 先に見る者として、先に見たものを報告できない。

 その苦さを、噛みしめている顔だった。


 ノアが何も言わず、私の隣に座った。

 言葉はなかった。

 ただそこにいた。

 治療師が傍にいるだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


 リアが小さく言った。


「……あの主も、秘密を守り続けている」


 短い一言だった。

 しかし、それがすべてだった。

 主はシオンの秘密を知っている。

 暗殺の真実を知っている。

 しかし誰にも語らない。

 あの最深部で、たった一人で、友の眠りと真実を守り続けている。

 私たちも、同じことをするのだ。


---


 手帳を開いた。

 報告書用の用紙ではない。

 普段使っている手帳のページだ。

 拠点に報告書の正式な用紙はない。

 ギルドに戻ってから清書する。

 今はまず、下書きだ。

 ペンを持った。

 指先が震えていた。


(……記録は真実であるべきだ)


 父の言葉が胸を突いた。

 引退した父がくれたもの。

 使い込まれた革表紙の手帳と、一つの信条。

 書記官時代、上官に言われて報告書を「修正」した。

 都合の悪い部分を省いた。

 数行を削っただけだ。

 それだけで報告書は滑らかになった。

 誰も困らなかった。

 ——誰も困らなかった。

 あの日、私は誓った。

 二度としない、と。


 今、私はまた同じことをしようとしている。

 いや、違う。

 あの時より遥かにひどい。

 あの時は数行を省いただけだ。

 今は——真実のすべてを消し、嘘を書く。


 ペンが止まった。


「……エイル」


 ゼノの声が聞こえた。

 命じる声ではなかった。


「書けるか」


 問いかけだった。

 書けるか。

 書く覚悟があるか。

 ノアが隣にいた。

 何も言わず、ただ傍にいた。

 カイが膝を抱えていた。

 マルクが目を閉じていた。

 リアが両手を胸の前で組んでいた。

 全員が、ここにいた。


「……書きます」


 声が掠れた。

 ペンを持ち直した。

 震えは止まらなかった。

 しかし文字は書ける。

 書記官の訓練は、手の震えの中でも正確な文字を刻む技術を教えてくれた。


---


 書いた。


『調査報告書(下書き)。調査対象:冒険者シオン(銀ランク)および「黄昏の灯火」全五名。調査結果:沈黙の迷宮中層において探索チームの痕跡を確認。ダンジョンの崩壊が進行しており、事件フロアへの到達は極めて困難。遺体の回収は不可能と判断。現場の状況から、トラップの大規模な暴走による事故死と推定される。調査継続は危険と判断し、撤収。全員死亡と推定する』


 ペンを置いた。

 書いた文字を見下ろした。

 一文一文が、真実と正反対だった。


 ダンジョンの崩壊が進行しており——嘘だ。

 主が道を開けてくれた。

 事件フロアへの到達は極めて困難——嘘だ。

 最深部まで行った。

 遺体の回収は不可能——嘘だ。

 シオンの遺体を最深部に運んだ。

 トラップの大規模な暴走による事故死——嘘だ。

 シオンは仲間に暗殺された。


 すべてが嘘だった。

 一行も、真実がなかった。

 四日間の調査で知った真実を、すべて隠した。


 あの時削った数行より、遥かに重い嘘だった。


---


 手帳をゼノに差し出した。

 ゼノが受け取り、下書きのページを読んだ。

 一言も修正しなかった。

 手帳を返しながら、黙って頷いた。


「……いい。これでいく」


 マルクが目を閉じたまま、小さく息を吐いた。

 カイは鞄に目を向けたまま、何も言わなかった。

 ノアが私の肩に軽く手を置いた。

 一瞬だけだった。

 リアが焚き火の炎を見つめていた。


 誰も、報告書の内容について何も言わなかった。

 言う必要がなかったのだ。

 全員が、何が書かれているかを知っている。

 そして何が書かれていないかも。


---


 手帳を、報告書のページから前に戻した。

 四日間の調査で書き続けた、自分の記録が並んでいる。

 現場の観察。

 遺体の所見。

 証拠の分析。

 証言の記録。

 推察。

 ——真実の、すべて。

 同じ手帳の中に、嘘と真実が同居していた。

 報告書のページには嘘を書いた。

 しかしそれ以前のページには、真実がすべて残っている。


 手帳を閉じた。

 閉じる時、父の字が一瞬だけ見えた。

 最初のページに残っている、几帳面で読みやすい字。


(……父さん)


 父の教えを守れなかった。

 記録は真実であるべきだ。

 ——その信条を、自分の手で破った。

 しかし手帳には真実が残っている。

 報告書には嘘を書いた。

 けれど、記録は消していない。

 これは言い訳だろうか。

 それとも、最後の矜持だろうか。


 手帳を鞄の奥にしまった。


 焚き火が弱くなっていた。

 薪が燃え尽きかけている。

 誰も薪を足さなかった。

 暗くなっていく拠点の中で、六人が黙って座っていた。


 明日、このダンジョンを出る。

 ギルドに戻り、嘘の報告書を提出する。

 真実を知っているのは、私たちと——あの主だけだ。

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