第28話 別れ
長い沈黙の後、主が言った。
「……頼みがある」
蒼白い光が、弱々しく揺れていた。
語り終えた主の光は先ほどより一段暗くなっている。
しかし消えてはいなかった。
「あいつを——ここに連れてきてほしい」
六人が顔を見合わせた。
「あいつの遺体は、まだあのフロアにある。俺は触れることができない。ダンジョンのすべてを操れるのに——あいつの体だけは、動かせない」
主の声が震えた。
「お前たちがあいつに触れそうになった時、俺は暴走しそうになった。あいつにまた誰かが触れるのが怖かった。連れていかれるんじゃないかと、また引き離されるんじゃないかと。あいつを知りもしない奴らに、好き勝手に扱われるんじゃないかと……」
あの暴走の理由が、今はっきりと分かった。
遺体に触れようとした瞬間の爆発的な拒絶。
あれは敵意ではなかった。
恐怖だったのだ。
友の亡骸を、これ以上誰にも汚されたくなかった。
守りたかっただけなのだ。
「だが——お前たちになら、頼める」
光が揺れた。
「あいつを殺した連中の元に、戻すつもりはない。あいつは俺の——俺はあいつの唯一の友だ。ここに置いてやりたい。俺のそばに」
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葛藤があった。
遺体を回収して持ち帰るのが、調査任務のセオリーだ。
しかも王位継承権を持つ人物の遺体。
ギルドに引き渡す。
それが筋だ。
しかし——ギルドに引き渡せば、政治の道具として王宮に引き渡される。
いや、そもそも暗殺を命じているのだ。
王宮との取引で、ギルド内部で、事故死として処理される可能性も高い。
シオンの遺体に尊厳はないだろう。
ゼノが腕を組んでいた。
カイが壁にもたれていた。
マルクは黙ってシオンの話を聞いていた時と同じ姿勢で立っている。
私はゼノを見た。
ゼノが私を見た。
視線が交わった。
私は黙って頷いた。
「分かった」
ゼノが言った。
短く、迷いなく。
「遺体はここに運ぶ。だが……遺品の一部だけ、持ち帰らせてもらう。手記と個人的な持ち物だ。調査の証拠として必要になる」
「……構わない」
主の光が、僅かに明るくなった。
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秘密の通路を上り、あの静寂のフロアに足を踏み入れる。
三度目だった。
空気は変わっていなかった。
音がない。
モンスターの気配もない。
しかし——以前とは何かが違った。
圧力がなかった。
最初に踏み込んだ時の重苦しさも、二度目の時の警戒感も消えている。
主が私たちの存在を許容していた。
リアが目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「……守ろうとしている気配が、まだあります。でも、私たちに向いてはいません。遺体に……シオンに向いている」
主はまだシオンを守っている。
だが今は、私たちからではなく——これから先、誰かが来た時のために。
五つの遺体が、そのまま残っていた。
シオンの遺体は中央にあった。
背中の傷。
閉じた瞼。
穏やかな顔だった。
苦しまなかったのだ。
薬師が、そうしたのだ。
ノアがシオンの傍に膝をつき、遺体の状態を確認した。
治療師の目が傷口を辿り、顔に戻る。
「……安らかです。痛みはなかったはずです」
声が掠れていた。
同じ治療の技術を持つ者が、暗殺に使われた傷を見ている。
治す側の手で、壊した跡を確かめている。
ノアがシオンの額に手を当てた。
目を閉じ、唇が小さく動いた。
声にはならなかった。
治療師が死者に捧げる祈りだ。
治せなかった者への、最後の手向け。
それを見て、全員が自然と動いた。
ゼノが片膝をついた。
マルクが目を閉じ、拳を胸に当てた。
軍人の弔いの礼だ。
カイが帽子を取った。
リアが両手を胸の前で組んだ。
私も目を閉じた。
シオンとは会ったことがない。
しかし、手記を読み、遺品を調べ、主の言葉を聞いた。
王座を拒み、冒険者として生きようとした一人の人間。
その人生の終わりに、せめて手向けを。
静寂のフロアに、沈黙が満ちた。
誰のための沈黙か。
シオンのための。
薬師のための。
そしてここで終わった五つの人生すべてのための。
数秒。
ノアが手を下ろし、静かに退いた。
ノアが他の四人の遺体を確認していた。
騎士、斥候、魔術師、薬師。
一人ずつ状態を確かめ、遺品を回収していく。
カイが手伝った。
装備品は残し、手記や個人的な持ち物だけを丁寧に鞄に収めた。
薬師の遺体の前で、ノアの手が一瞬だけ止まった。
同じ治療の技術を持ちながら、命令で仲間を殺した者。
ノアは何も言わず、薬師の遺品も同じように丁寧に鞄に収めた。
マルクがシオンの遺体の前に立った。
片膝をつき、両手を差し出した。
「……運ぶぞ」
短い言葉だった。
誰もが息を止めた。
遺体に触れた瞬間の暴走が、全員の記憶にある。
あの時はフロア全体が怒りに震えた。
マルクの手が、シオンの体に触れた。
何も起きなかった。
暴走はなかった。
トラップは沈黙したままだった。
主が、許したのだ。
マルクがシオンの体をゆっくりと持ち上げた。
冒険者の体は、もう命の重さを失っている。
シオンが横たわっていた場所に、小さな石が残っていた。
川の石だ。
丸く綺麗に磨かれている。
胸元から落ちたのだろうか。
誰かからもらったものか、自分で拾ったものか。
石をそっと鞄にしまった。
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長い長い階段を再び降り、最深部に戻った。
マルクがシオンの遺体を、蒼白い光の前に静かに横たえた。
丁寧だった。
元軍人の大きな手が、壊れ物を扱うように慎重に遺体を床に下ろした。
光が揺れた。
強くではない。
穏やかに。
脈を打つように。
主は何も言わなかった。
しかし光が——少しだけ、明るくなった。
シオンがそばにいることを、感じ取っているのだ。
「……ありがとう」
声は小さかった。
ダンジョンの主が、人間に礼を言っている。
六年前、シオンが最初にここに来た時以来——主が人間に対して友として接した、二度目の瞬間だった。
私たちはそれに応えることなく、背を向けた。
私は手帳に記録した。
『シオンの遺体を最深部に搬送。主の要請による。遺品のうち手記・個人的持ち物のみ回収。遺体はダンジョンに残す。他の四名(騎士・斥候・魔術師・薬師)の遺品も回収。遺体はすべてダンジョンに残す』
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最深部を後にした。
秘密の通路を戻る。
壁の奥から狭い道を上り、事件フロアを通過し、ダンジョンの中層を上っていく。
六人とも口数が少なかった。
カイの軽口も出ない。
足音だけが通路に響いている。
リアが何度か振り返った。
「……まだ感じます。主の気配」
小さな声だった。
「悲しんでいます。でも——さっきまでとは違う。少しだけ、穏やかになった」
誰も答えなかった。
答える言葉がなかった。
たった一人の友を失い、その遺体を守り続けていた存在。
私たちは真実を聞き、遺体を運び、そして去っていく。
シオンはあの場所に残る。
主のそばで、永遠に。
ゼノが一度だけ足を止めた。
振り返りはしなかった。
しかし立ち止まった。
数秒。
それだけだった。
そして再び歩き始めた。
中層を抜け、上層に入った。
モンスターの気配が戻ってきた。
通常のダンジョンの空気だ。
壁は粗い石積みに変わり、足元の石畳に継ぎ目が増える。
湿った空気の匂いが鼻をついた。
最深部の乾いた静けさとは違う、生きたダンジョンの空気だった。
罠が一つも発動しなかった。
圧力板を踏んでも矢は飛ばず、角を曲がっても落石は来なかった。
モンスターも近づいてこなかった。
通路の先に蜥蜴型の影が見えたが、こちらを一瞥しただけで奥へ消えていった。
主が、道を開けているのだ。
最後の配慮だった。
カイが先頭を歩いていた。
斥候の目が通路の先を確認し、安全を示す合図を送る。
だが、いつもの軽い仕草ではなかった。
無言の手信号だけだった。
マルクがその後ろを歩き、ゼノが殿を務めた。
私とリアとノアが中央にいる。
いつもの隊列だった。
だが誰も口を開かなかった。
上層の拠点が見えてきた。
焚き火の跡。
荷物を置いた場所。
探索初日に設営した、あの拠点だ。
しかし、あの時の私たちと今の私たちは、別の人間のようだった。
私たちは調査のためにここに来た。
行方不明者を探し、何が起きたかを記録する。
それだけの任務だった。
今、私たちは真実を知っている。
王宮が一人の冒険者を暗殺した。
その真実を、誰にも報告できない。
荷物の前に座り込んだ。
鞄を下ろした。
重かった。
シオンの手記と、小さな川の石。
それと四人の遺品。
物の重さではない。
知ってしまったものの重さだった。




