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沈黙の迷宮 ― 王族失踪事件  作者: 智信
第三部

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第23話 記録

「『命令』『任務』『対象』——直接的な言葉を避けた、訓練された文体」

――薬師の手帳について

 薬師の手帳を最初のページから読み始めた。

 全員が私の周りに集まっている。

 ゼノとマルクが左右に立ち、リアとノアが後ろから覗き込んでいる。

 カイだけが入口に残り、通路を警戒していた。


 革表紙は使い込まれて柔らかくなっていた。

 角が丸まり、背表紙には折り癖がついている。

 最初のページから、短い記述が並んでいた。

 一ページあたり数行。

 余白を残さず、必要最低限の記載だけが詰まった字で書き連ねられている。

 文字は小さいが整っており、書き慣れた者の筆跡だった。


『接触成功。チームに加入、接近。不審なし』


『対象:前衛。背後を預ける癖。治療時、無防備』


 私は手帳を持つ手に、無意識に力を込めた。

 任務。

 対象。

 接触。

 接近。

 ——どの言葉も、日記に使うような言葉ではなかった。

 これは日記ではない。

 任務記録だ。

 組織の名前がない。

 依頼主の名前もない。

 「命令」という言葉すら直接は使わず、「任務」と書いている。

 固有名を徹底的に排除している。

 誰が読んでも、具体的な組織や人物に辿り着けないように書かれている。


「……訓練された文体だ」


 呟いた。


『命令』『任務』『対象』——直接的な言葉を避けた、訓練された文体。情報を記録しながら、同時に情報を隠している。こういう書き方ができるのは、そう教育された者だけだ。

 諜報か、工作か。

 何らかの組織に属する人間の記録だ。


 ——そこに、薬箱の暗器が繋がった。

 人体の急所を正確に突く技術。

 苦しまない殺し方。

 そしてこの任務記録。


「……暗殺者」


 自分の声だった。

 気づけば口にしていた。

 その瞬間、すべてが一つに繋がった。

 薬師は——やはり暗殺者だった。

 薬師としての腕は本物だった。

 しかしそれは表の顔で、本職は暗殺者だった。

 そして暗部の人間だ。

 国家の裏側で動く者たち。

 その存在は知識として知っていたが、その記録を直接読むのは初めてだった。


 手帳に記録した。


『薬師の手帳の内容は任務記録。「任務」「対象」等、直接的な言葉を避けた訓練された文体。組織名・依頼主名の記載なし。訓練された文体+薬箱の暗器+急所への正確な一撃+苦しまない殺し方——以上から薬師は暗殺者と推定』


---


 ページを繰っていった。

 記録の前半は、同じ調子が淡々と続いていた。

 対象の行動パターン。

 戦闘時の位置取り。

 休息時の警戒の薄さ。

 就寝時の体勢。

 すべてが短く、感情のない報告だった。

 対象の隙を観察し、暗殺の機会を探っている。

 そう読める記述が、何ページも続いていた。

 しかし、あるページを境に記述が変わった。

 それまで一定だった文字の間隔が、わずかに乱れ始めている。


『対象負傷。治療、間に合う。礼を言われた。——支障なし』


 最後の二文字が浮いていた。

 「支障なし」。

 任務に支障がないと、わざわざ書いている。

 治療して礼を言われた。

 それだけのことを、任務との関連で記さなければ自分を保てなかったのだ。

 次のページ。


『騎士が盾に。斥候が退路確保。チームは対象中心。正体を知らない。知る必要なし。無関係』


 「無関係」。また同じ構造だった。仲間の行動を記録しながら、最後に「任務」の枠に押し込めている。任務記録に書く必要のないことを書き、そして自分で否定する。その繰り返しだった。

 さらにページを繰った。

 記述の揺れが大きくなっていく。


『魔術師負傷。軽傷。処置した。「ありがとう」と。——報告事項なし』


 「報告事項なし」——任務に関係のない出来事を書いておきながら、わざわざそう断っている。

 書かずにいられなかったのだ。


---


 ノアが私の肩越しに手帳を見つめていた。

 治療に関する記述を指で辿っている。

 表情が険しい。


「……治療の記録だけ、異様に正確です。傷の深さ、出血量、処置の手順。短い記述の中に必要な情報がすべて入っている。本職の治療師と変わらない」


 ノアの声は低かった。


「この人は——本当に治療ができた。薬の知識も、傷の処置も、嘘じゃなかった」


 暗殺者でありながら、治療師としての腕も本物だった。

 いや、暗殺者だからこそ治療師としても本物だったのだろう。

 人体を知り尽くしているからこそ、壊すことも、治すこともできた。

 薬師という仮面を被り、六年間、仲間の傷を治し、体調を管理し、チームを支え続けていた。

 その同じ手で、最後にシオンを殺した。

 治療の直後に。

 背中を向けた瞬間に。

 急所を正確に突いて。


 ノアは何も言わなかった。

 治す技術と壊す技術は表裏一体だ。

 同じ知識を持つ者として、何を感じているのか。

 その表情からは読み取れなかった。


---


 記録の後半に入った。

 ページを繰る手が、止まった。

 文体が、明らかに変わっていた。

 前半の任務記録には一切なかった言葉が、現れ始めている。


『対象が過去を話した。王座なんかいらないと。自分の足で立ちたいと。——記録不要。しかし残す』


 「記録不要。しかし残す」——任務の枠から完全に外れた記述だった。

 暗殺者が、標的の言葉を「残す」と書いている。

 殺す相手の人間性を、記録している。


『斥候が道を確かめ、騎士が盾を構え、魔術師が術を放ち、対象が止めを刺し、私が癒す。仲間だ——だが対象だ。忘れてはいない』


 対象を「仲間」と呼んでいた。

 暗殺者が、自分の標的を「仲間」と。

 そう書いた後で、「忘れてはいない」と自分に言い聞かせている。

 忘れていないのに、忘れたいと思っている。

 短い記述の裏側に、その葛藤が透けて見えた。


 次のページが、最後だった。


『指示が来た』


 何の指示か。

 誰からか。

 一切書かれていない。

 「仲間」と呼んだ次のページで、殺害の指示を受けている。

 揺れていた感情が、一行で断ち切られている。

 その下に、最後の記述があった。


『遂行する。苦痛なき方法を選択。——最後にできること』


 筆圧が深かった。

 紙に跡が残るほど強く刻まれている。

 その先には、書かれることのなかった余白が残っていた。

 手帳が終わっていた。

 この記述の後に、薬師はシオンを殺した。

 苦しまないように。

 一撃で。

 それが暗殺者としての技術であり——仲間としての、最後の配慮だった。


---


 手帳を閉じた。

 掌の中で、手帳の重さを感じた。

 小さな手帳だった。

 しかしその中に、一人の暗殺者の六年間が凝縮されていた。

 沈黙がフロアを満たしていた。

 誰も、すぐには口を開こうとしなかった。

 リアが目を伏せていた。

 記録の中の感情の揺れを、読み取っていたのかもしれない。


 マルクが壁にもたれていた。

 腕を組み、視線を床に落としている。

 記録の内容を、最初から最後まで聞いていた。

 やがて、低く、噛みしめるように呟いた。


「……命令で人を殺した、か」


 三度目だった。

 薬師が犯人だと判明した時。

 拠点に戻った夜、犯人の動機を問うた時。

 そして今。

 同じ言葉を、マルクは繰り返している。

 自分自身に重ねるように。


 ゼノが腕を組んだまま言った。


「薬師は命令で動いていた。つまり、命じた者がいる」


「はい」


 私は答えた。


「記録には組織名も依頼主の名前も書かれていません。しかし『指示が来た』という記述がある。薬師は自分の判断で殺したのではない。誰かが、シオンを殺せと命じた」


 カイが入口から振り返った。


「その『誰か』は——どこにいる」


「分かりません。しかし、このダンジョンの中に答えがあるはずです」


 答えには近づいている。

 手帳を鞄にしまった。

 薬師の記録も、重要な証拠として保管する。

 しかし、なぜシオンは殺されなければならなかったのか。

 誰が命じたのか。

 その理由は不明のままだ。

 主はそれを知っているかもしれない。

 シオンの遺体を守ろうとしているあの主であるなら……

 だが主は最深部にいる。

 そこへ至る道が、まだ見つかっていない。


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