第20話 主
「誰かが痕跡を消そうとした。だが、すべては消しきれない」
――事件フロアの観察記録
事件フロアに踏み込んだ瞬間、足が止まった。
前回と同じフロアのはずだった。
しかし目の前の光景が、記憶と一致しない。
壁の亀裂が、消えていた。
手帳を開いた。
前回の記録と照合する。
暴走の時に壁面三箇所に走った深い亀裂——今は一箇所しか残っていない。
残りの二箇所は、何事もなかったかのように滑らかな壁面に戻っている。
焼け焦げた跡も変わっていた。
魔術師の遺体のそばにあった発火トラップの痕跡——床面と壁面に広がっていた黒い焦げ跡が、端の方から消えかけている。
天井を見上げた。
騎士の遺体を押し潰した崩落の穴が、前回より明らかに小さくなっている。
穴の縁が内側に向かって伸び、塞がりかけていた。
「……変わってる」
カイが呟いた。
フロアの中を見回している。
「壁の矢も減ってないか? 前は七本あったはずだが」
確認した。
斥候の遺体の近く、壁の機構から射出された矢——前回は七本が壁面に突き刺さっていた。
今は三本しか残っていない。
残りの四本は、壁面に吸い込まれるように消えていた。
私は矢が消えた場所に手を当てた。
滑らかだった。
穴の跡すら感じられない。
最初から何も刺さっていなかったかのように。
手帳に記録した。
『事件フロア再突入。暴走の痕跡に変化あり。壁面亀裂:3箇所→1箇所。焼け焦げた跡:端部から消失。天井崩落穴:縮小。壁面の矢:7本→3本。フロアの構造が「修復」されている』
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フロア全体を確認していった。
ゼノとマルクが四方を警戒しながら、壁際を見て回る。
カイがフロアの入口付近から周囲を確認している。
変化は一様ではなかった。
壁面の亀裂は大きなものから消え、小さなものが残っている。
焼け焦げた跡は中心部が最も濃く残り、周辺部から薄れている。
修復は外側から内側へ向かって進んでいた。
だが、消しきれていない痕跡もある。
(……誰かが痕跡を消そうとした。だが、すべては消しきれない)
修復には時間がかかるのか。
それとも、すべてを消す意思がないのか。
今の段階では分からない。
しかし一つだけ、明確に変わっていないものがあった。
五体の遺体だ。
前回と同じ配置のまま、五体の遺体はフロアの中に横たわっていた。
崩れた石の下の騎士。
壁際の斥候。
杖の残骸のそばの魔術師。
散乱した治療道具のそばの薬師。
そして少し離れた場所に、シオン。
遺体だけが、手つかずだった。
壁は修復され、痕跡は消され、フロアの構造は変わりつつある。
なのに遺体と遺留品だけはそのまま残っている。
遺体に近づき、前回の記録と照合した。
位置は同じだ。
薬箱も、暗器も、手記も、すべてそのまま残っている。
フロアのすべてを変えられるのに、遺体だけは動かさない。
動かせないのか。
動かしたくないのか。
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リアがフロアの中央に立っていた。
目を閉じ、両手を体の横に広げている。
残留感情を読み取る時の姿勢だ。
長い沈黙が続いた。
全員がリアを見ていた。
やがて、リアが目を開いた。
その目に、確信があった。
「……これは、ダンジョンの主です」
主。
リアの声がフロアに静かに落ちた。
「壁の修復、痕跡の消去、通路の構造変化。ダンジョンそのものを操っています。トラップを発動させるだけではない。壁を塞ぎ、亀裂を消し、矢を回収し、フロアを書き換えている。……こんなことができるのは、ダンジョンの主しかいません」
ダンジョンの主。
ダンジョンの核にして、ダンジョンそのものを自らの一部として制御できる存在。
文献では知っていた。
しかし実際に遭遇するのは初めてだった。
主がいるダンジョンは、主の意思によって変化し続ける。
通路も、罠も、モンスターも——すべてが主の支配下にある。
ゼノが腕を組んだ。
「主が——こんなことをしているのか」
「はい。トラップの暴走も、通路の変化も、モンスターの配置も。すべてが主の意思です」
すべてが繋がった。
最初の暴走。
遺体に触れようとした時の怒り。
帰り道に距離を取ったモンスター。
再突入時の警戒。
罠の妨害。
通路の変化。
モンスターの配置。
威嚇。
そして今、痕跡の修復。
すべてが、一つの意思で動いていた。
主の意思で。
手帳に記録した。
『フロアの変化の原因を特定。ダンジョンの主の意思による操作と確定。リアの所見:壁の修復・痕跡の消去・構造の書き換えは、ダンジョンそのものを制御できる主にしか不可能。これまでの暴走・通路変化・モンスター配置・威嚇もすべて主の意思と判断。主はこのダンジョンに現存し、積極的に活動している』
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マルクが修復された壁面に手を当てていた。
継ぎ目を確かめるように、指を這わせている。
「……痕跡を消している。証拠隠滅か」
「可能性はあります」
私は答えた。
暴走の痕跡が消えれば、あの日何が起きたのかを証明する手がかりが失われる。
私の手帳に記録は残っているが、現場そのものが消えていく。
だが——
「遺体と遺留品には触れていません。薬箱の暗器も、シオンの手記も、すべてそのまま残っている。証拠を完全に消すなら、遺体ごと消してしまえばいい。主がフロアの構造を自在に変えられるなら、遺体を壁の中に取り込むことも、おそらくできるはずです」
ゼノが頷いた。
「それをしていない」
「はい。消したくないのか、消せないのか——今の段階では分かりません。ただ、主はフロアの痕跡を消しながら、遺体だけは残している。ここに矛盾があります」
ゼノは黙って考え込んでいた。
マルクが壁から手を離し、修復された面と、まだ亀裂の残る面を見比べていた。
やがてゼノが低く言った。
「……消したくない、だろうな」
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リアが再び目を閉じていた。
フロアの空気を、全身で受け止めるように立っている。
長い時間が流れた。
全員がリアを見ていた。
やがてリアが口を開いた。
声が震えていた。
「……敵意だけじゃない」
全員の視線がリアに集まった。
「この主は——悲しんでいる」
悲しんでいる。
リアの目が潤んでいた。
残留感情を読み取る時、リアは相手の感情に引きずられることがある。
今のリアは、主の感情を直に受けている。
「怒りも、敵意もある。でもその奥に——深い悲しみがある。何かを失った悲しみ。そして——」
リアが言葉を探していた。
「……何かを、守ろうとしている」
守ろうとしている。
主は何を守ろうとしているのか。
「何を守っている」
ゼノが聞いた。
リアが首を振った。
「分からない。……でも、この主にとって、このフロアはとても大切な場所です。怒りも、敵意も、すべてはこのフロアを守るため」
このフロアを守るため。
五体の遺体が横たわるこのフロアを。
シオンの遺体があるこのフロアを。
手帳に記録した。
『リアの所見:主の感情は敵意だけではない。深い悲しみと、何かを守ろうとする意思がある。主にとってこのフロアは重要な場所。怒り・敵意・妨害・修復——すべてはこのフロアを守る行動と推定。守ろうとしている対象は不明だが、遺体を消さない行動と関連している可能性あり』
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沈黙がフロアを満たしていた。
(……守ろうとしている。何を。シオンの遺体を——だろうか)
今は推察にすぎない。
確証がない。
だが主はシオンの死に対して、最初の暴走から一貫して強い感情を示している。
怒り、敵意、悲しみ。
すべてが、シオンを中心に回っている。
主にとってシオンとは、何だったのか。
手帳を閉じた。
答えの出ない問いが、頭の中で静かに回り続けていた。
五体の遺体が横たわるフロアの中で、全員が立ち尽くしていた。




