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沈黙の迷宮 ― 王族失踪事件  作者: 智信
第二部

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20/32

第20話 主

「誰かが痕跡を消そうとした。だが、すべては消しきれない」

――事件フロアの観察記録

 事件フロアに踏み込んだ瞬間、足が止まった。

 前回と同じフロアのはずだった。

 しかし目の前の光景が、記憶と一致しない。

 壁の亀裂が、消えていた。

 手帳を開いた。

 前回の記録と照合する。

 暴走の時に壁面三箇所に走った深い亀裂——今は一箇所しか残っていない。

 残りの二箇所は、何事もなかったかのように滑らかな壁面に戻っている。

 焼け焦げた跡も変わっていた。

 魔術師の遺体のそばにあった発火トラップの痕跡——床面と壁面に広がっていた黒い焦げ跡が、端の方から消えかけている。

 天井を見上げた。

 騎士の遺体を押し潰した崩落の穴が、前回より明らかに小さくなっている。

 穴の縁が内側に向かって伸び、塞がりかけていた。


「……変わってる」


 カイが呟いた。

 フロアの中を見回している。


「壁の矢も減ってないか? 前は七本あったはずだが」


 確認した。

 斥候の遺体の近く、壁の機構から射出された矢——前回は七本が壁面に突き刺さっていた。

 今は三本しか残っていない。

 残りの四本は、壁面に吸い込まれるように消えていた。

 私は矢が消えた場所に手を当てた。

 滑らかだった。

 穴の跡すら感じられない。

 最初から何も刺さっていなかったかのように。

 手帳に記録した。


『事件フロア再突入。暴走の痕跡に変化あり。壁面亀裂:3箇所→1箇所。焼け焦げた跡:端部から消失。天井崩落穴:縮小。壁面の矢:7本→3本。フロアの構造が「修復」されている』


---


 フロア全体を確認していった。

 ゼノとマルクが四方を警戒しながら、壁際を見て回る。

 カイがフロアの入口付近から周囲を確認している。

 変化は一様ではなかった。

 壁面の亀裂は大きなものから消え、小さなものが残っている。

 焼け焦げた跡は中心部が最も濃く残り、周辺部から薄れている。

 修復は外側から内側へ向かって進んでいた。

 だが、消しきれていない痕跡もある。


(……誰かが痕跡を消そうとした。だが、すべては消しきれない)


 修復には時間がかかるのか。

 それとも、すべてを消す意思がないのか。

 今の段階では分からない。

 しかし一つだけ、明確に変わっていないものがあった。


 五体の遺体だ。

 前回と同じ配置のまま、五体の遺体はフロアの中に横たわっていた。

 崩れた石の下の騎士。

 壁際の斥候。

 杖の残骸のそばの魔術師。

 散乱した治療道具のそばの薬師。

 そして少し離れた場所に、シオン。

 遺体だけが、手つかずだった。

 壁は修復され、痕跡は消され、フロアの構造は変わりつつある。

 なのに遺体と遺留品だけはそのまま残っている。

 遺体に近づき、前回の記録と照合した。

 位置は同じだ。

 薬箱も、暗器も、手記も、すべてそのまま残っている。


 フロアのすべてを変えられるのに、遺体だけは動かさない。

 動かせないのか。

 動かしたくないのか。


---


 リアがフロアの中央に立っていた。

 目を閉じ、両手を体の横に広げている。

 残留感情を読み取る時の姿勢だ。

 長い沈黙が続いた。

 全員がリアを見ていた。

 やがて、リアが目を開いた。

 その目に、確信があった。


「……これは、ダンジョンの主です」


 主。

 リアの声がフロアに静かに落ちた。


「壁の修復、痕跡の消去、通路の構造変化。ダンジョンそのものを操っています。トラップを発動させるだけではない。壁を塞ぎ、亀裂を消し、矢を回収し、フロアを書き換えている。……こんなことができるのは、ダンジョンの主しかいません」


 ダンジョンの主。

 ダンジョンの核にして、ダンジョンそのものを自らの一部として制御できる存在。

 文献では知っていた。

 しかし実際に遭遇するのは初めてだった。

 主がいるダンジョンは、主の意思によって変化し続ける。

 通路も、罠も、モンスターも——すべてが主の支配下にある。

 ゼノが腕を組んだ。


「主が——こんなことをしているのか」


「はい。トラップの暴走も、通路の変化も、モンスターの配置も。すべてが主の意思です」


 すべてが繋がった。

 最初の暴走。

 遺体に触れようとした時の怒り。

 帰り道に距離を取ったモンスター。

 再突入時の警戒。

 罠の妨害。

 通路の変化。

 モンスターの配置。

 威嚇。

 そして今、痕跡の修復。

 すべてが、一つの意思で動いていた。

 主の意思で。

 手帳に記録した。


『フロアの変化の原因を特定。ダンジョンの主の意思による操作と確定。リアの所見:壁の修復・痕跡の消去・構造の書き換えは、ダンジョンそのものを制御できる主にしか不可能。これまでの暴走・通路変化・モンスター配置・威嚇もすべて主の意思と判断。主はこのダンジョンに現存し、積極的に活動している』


---


 マルクが修復された壁面に手を当てていた。

 継ぎ目を確かめるように、指を這わせている。


「……痕跡を消している。証拠隠滅か」


「可能性はあります」


 私は答えた。

 暴走の痕跡が消えれば、あの日何が起きたのかを証明する手がかりが失われる。

 私の手帳に記録は残っているが、現場そのものが消えていく。

 だが——


「遺体と遺留品には触れていません。薬箱の暗器も、シオンの手記も、すべてそのまま残っている。証拠を完全に消すなら、遺体ごと消してしまえばいい。主がフロアの構造を自在に変えられるなら、遺体を壁の中に取り込むことも、おそらくできるはずです」


 ゼノが頷いた。


「それをしていない」


「はい。消したくないのか、消せないのか——今の段階では分かりません。ただ、主はフロアの痕跡を消しながら、遺体だけは残している。ここに矛盾があります」


 ゼノは黙って考え込んでいた。

 マルクが壁から手を離し、修復された面と、まだ亀裂の残る面を見比べていた。

 やがてゼノが低く言った。


「……消したくない、だろうな」


---


 リアが再び目を閉じていた。

 フロアの空気を、全身で受け止めるように立っている。

 長い時間が流れた。

 全員がリアを見ていた。

 やがてリアが口を開いた。

 声が震えていた。


「……敵意だけじゃない」


 全員の視線がリアに集まった。


「この主は——悲しんでいる」


 悲しんでいる。

 リアの目が潤んでいた。

 残留感情を読み取る時、リアは相手の感情に引きずられることがある。

 今のリアは、主の感情を直に受けている。


「怒りも、敵意もある。でもその奥に——深い悲しみがある。何かを失った悲しみ。そして——」


 リアが言葉を探していた。


「……何かを、守ろうとしている」


 守ろうとしている。

 主は何を守ろうとしているのか。


「何を守っている」


 ゼノが聞いた。

 リアが首を振った。


「分からない。……でも、この主にとって、このフロアはとても大切な場所です。怒りも、敵意も、すべてはこのフロアを守るため」


 このフロアを守るため。

 五体の遺体が横たわるこのフロアを。

 シオンの遺体があるこのフロアを。

 手帳に記録した。


『リアの所見:主の感情は敵意だけではない。深い悲しみと、何かを守ろうとする意思がある。主にとってこのフロアは重要な場所。怒り・敵意・妨害・修復——すべてはこのフロアを守る行動と推定。守ろうとしている対象は不明だが、遺体を消さない行動と関連している可能性あり』


---


 沈黙がフロアを満たしていた。


(……守ろうとしている。何を。シオンの遺体を——だろうか)


 今は推察にすぎない。

 確証がない。

 だが主はシオンの死に対して、最初の暴走から一貫して強い感情を示している。

 怒り、敵意、悲しみ。

 すべてが、シオンを中心に回っている。

 主にとってシオンとは、何だったのか。

 手帳を閉じた。

 答えの出ない問いが、頭の中で静かに回り続けていた。

 五体の遺体が横たわるフロアの中で、全員が立ち尽くしていた。

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