第10話 暴走
「このフロアの罠は、まだ怒りを忘れていない」
――トラップ暴走の記録
誰もが沈黙したまま、しばらくの時間が過ぎた。
シオンは仲間に殺された。
その結論が、この静寂のフロアに重く沈んでいた。
やがてゼノが口を開いた。
「……シオンの遺体を詳しく調べる必要があるな。傷の状態を正確に確認したい。俺がシオンの遺体を持ち上げる。エイル、ノア、近づけ」
ゼノがシオンの遺体に歩み寄った。
片膝をつき、手を伸ばす。
背中の傷をより正確に確認するため、遺体の肩に触れようとした。
その手が、遺体に触れようとした、まさにその瞬間だった。
フロアが震えた。
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「全員退避!」
カイが叫んだ。
天井の落石装置が作動した。
石が降ってくる。
壁の矢射出穴から矢が飛び出す。
床が陥没し、裂け目から炎が噴き上がる。
すべてが、同時だった。
あの静寂のフロアが、一瞬で地獄に変わった。
音のなかった空間を、轟音が埋め尽くしている。
石が砕ける音、矢が空を切る音、炎が吹き上がる音。
静寂が嘘だったかのように、フロアが叫んでいた。
「エイル! こっちだ!」
カイが私の腕を掴んだ。
ノアの手も引き、フロアの端へ走る。
壁際の窪み——トラップの射線から外れた死角だ。
カイが瞬時に安全な位置を見抜いていた。
斥候の目が、この混乱の中でも機能している。
頭上を矢が飛んでいく。
風を切る音が耳元を掠めた。
壁に当たって砕ける乾いた音が、連続して響いた。
振り返ると、先ほどまで立っていた場所の床が陥没し、裂け目から炎が噴き出している。
あと一歩遅れていたら、私はあの中にいた。
リアが両手を広げた。
光の膜がチームを覆う。
防壁だ。
矢が防壁に弾かれ、火花が散った。
石の破片が光の膜の上を滑り落ちる。
「……持たせます!」
リアの声が震えていた。
だが、防壁は崩れない。
歯を食いしばり、両手を前に突き出したまま維持している。
ゼノとマルクが防壁の外で石と矢を弾き続けている。
二人の連携は乱れなかった。
ゼノが盾で矢の雨を受け、マルクが落石を両手剣で叩く。
だが攻撃が止まない。
次から次へと、フロア全体のトラップが発動し続けている。
壁の射出穴から矢が途切れなく飛び、天井からは石が落ち、床の裂け目から炎が吹き上がり、熱風がフロアを満たしていく。
呼吸するたびに熱気が肺を焼いた。
先ほど調べた四人の遺体の死因が、頭の中をよぎった。
圧死。
刺創死。
焼死。
落石と矢と炎——三人の死因と同じトラップが、今まさに発動している。
(……これが、あの時と同じ——)
「黄昏の灯火」を殺したのは、これだ。この暴走だ。複数のトラップが同時に発動し、逃げ場を奪い、全員を巻き込んだ。四人の死因が全て違ったのは、それぞれ別のトラップに捕まったからだ。
あの時も今も、同じことが起きている。
床の炎が一際大きく吹き上がった。
熱風が顔を焼く。
カイが私とノアを壁際に押し込み、自分の身体で覆った。
「頭を下げてろ!」
天井から大きな石材が落ちてきた。
マルクが踏み込み、両手剣の腹で受け止めた。
足元の石畳が砕ける。
腕の筋が浮き上がり、歯を食いしばる音が聞こえた。
「ゼノ! 長くは持たないぞ!」
「わかっている!」
ゼノがフロアの出入口を確認した。
来た道は——まだ塞がれていない。
「撤退する! リア、防壁を維持しろ! カイ、エイルとノアを連れて先に行け! マルク、俺と殿だ!」
カイが私の腕を引いた。
走った。
足元が揺れている。
壁から矢が飛んでくる。
リアの防壁が矢を弾き、カイが炎の裂け目を避けてルートを選んだ。
走りながらも足元と壁を確認している。
斥候が全力で道を切り拓いていた。
ノアが私の手を握っていた。
走りながらも、私の足がもつれないよう支えている。
出口が見えた。
カイが先に飛び出し、通路の安全を確認してから私とノアを押し出した。
フロアの境界を越えた瞬間、矢は追ってこなくなった。
炎が遠ざかる。
通路の空気が、フロアの中とはまるで違った。
振り返った。
マルクとゼノがフロアの中で石を弾きながら後退していた。
リアが防壁を維持したまま、三人が出口に向かってくる。
リアの顔が歪んでいた。
防壁を保つ腕が小刻みに震えている。
リアが最初にフロアから飛び出してきた。
ゼノが続き、最後にマルクが出た。
全員の脱出を確認して、リアは防壁を解いた。
その瞬間、リアの膝が折れた。
限界だったのだ。
マルクが咄嗟に腕を掴み、支えた。
フロアの中では、まだトラップが発動し続けていた。
矢が壁に刺さり、石が落ち、炎が噴き上がっている。
誰もいないフロアで、罠だけが暴れ続けている。
止まる気配がなかった。
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全員が通路に倒れ込んだ。
荒い呼吸が通路に反響した。
マルクが壁にもたれ、額の汗を拭った。
ゼノが盾を降ろし、深く息を吐いた。
カイが座り込み、天井を見上げている。
リアは壁にもたれたまま、顔が青白い。
防壁の維持に相当な魔力を消耗したのだろう。
ノアが即座に動いた。
マルクの腕を確認し、ゼノの手を見る。
「マルクさん、右腕に擦り傷。ゼノさん、左手に軽い打撲。リアさんは……」
「……大丈夫です。魔力を使いすぎただけ」
ノアがリアに水筒を渡した。
それから全員の顔色を確認し、重傷者がいないことを確かめて、小さく息をついた。
私は壁に背をつけたまま座り込んでいた。
膝が震えている。
心臓がまだ早い。
手のひらが汗で濡れていた。
頬にまだ熱気の名残を感じる。
通路の石畳の冷たさだけが、少しだけ体温を下げてくれた。
あの暴走の中にいたのは、ほんの数分だったはずだ。
だが、その数分の間に見たものが頭から離れなかった。
落石。
矢。
炎。
あの中に取り残されていたら——「黄昏の灯火」と同じ結末を迎えていた。
そうならなかったのは、カイが暴走の兆候にいち早く気づき、安全な位置を見抜いて私たちを導き続けてくれたからだ。
紙一重だった。
深呼吸を何度か繰り返した。
手帳を開いた。
手が震えていた。
今度は抑えられなかった。
震える字のまま、記録した。
『シオンの遺体に触れようとした瞬間、フロア全体のトラップが一斉に暴走。落石、矢、発火、床の陥没が同時に発動。遺体を目視で調べていた間は何も起きなかった。発動したトラップは「黄昏の灯火」四名のうち三名の死因と同じパターン。チーム全員で撤退。負傷は軽微』
記録を書きながら、考えていた。
遺体を見ているだけでは、何も起きなかった。
このフロアに踏み込んでからここまで、静寂は保たれていた。
遺体の周囲を歩き、目視で調べ、記録を取った。
その間、トラップは沈黙していた。
しかし、シオンの遺体に触れようとした瞬間、すべてが暴走した。
これは偶然ではない。
単なる誤作動でもない。
先ほどまで疑念だったものが、確信に変わった。
複数のトラップが同時に発動することは、ダンジョンの通常の機構では起こり得ない。
これには明確な意思がある。
シオンの遺体に触れることを、許さない何かが。
(……このフロアの罠は、まだ怒りを忘れていない)
「黄昏の灯火」を殺した暴走と、今自分たちが体験した暴走。同じ力が動いている。あの時の怒りが、まだここに残っている。時が経っても消えない、激しい怒りだ。
ゼノがゆっくりと立ち上がった。
通路の奥——まだトラップが暴れているフロアを見据えた。
「……あのフロアには、何かがいる。シオンの遺体を守っている」
守っている。
ゼノもそう感じたのだ。
あの暴走は敵意ではない。
シオンの遺体に触れられることへの、激しい拒絶だ。
リアが通路の壁に手を当てたまま、小さく言った。
「……怒っている。このダンジョンの奥にいる何かが」




