伊勢佐木町ブルース――統計を捨てた夜
横浜市中区。
観光客が思い浮かべる横浜は、山下公園、赤レンガ、みなとみらいの夜景かもしれない。
だが、伊勢佐木町、福富町、寿町の界隈には、もう一つの横浜がある。古い商店街、ネオンの滲む路地、多国籍の看板、簡易宿泊所、夜更けの酒場、どこからともなく聞こえる昭和歌謡。港町の華やかさの裏側にある、少し湿った、少し危うい、ディープな横浜である。
その夜、ジェネラス・リンクの資金受け渡し情報が入り、ヒロ室から八人が投入された。
一条知佳。
柏木理世。
水無瀬澪。
南部沙羅。
エミリー。
月島小春。
金城伊織。
高城彩芽。
作戦会議は新橋のヒロ室で行われた。
知佳はモニターに地図を映す。
「過去の出没傾向、監視カメラの死角、徒歩移動速度、周辺の路地構造を分析すると、敵は寿町方面へ抜ける可能性が高いです」
彩芽が札幌弁で首をかしげる。
「つまり、どこ行けばいいんだべ?」
知佳は優しく言う。
「簡単に言うと、敵は裏道へ逃げると思う」
「最初からそう言ってほしいべさ」
小春が笑う。
「彩芽、要約が雑すぎる」
しかし理世は資料を閉じた。
「今回は、その分析は参考程度にしますわ」
知佳は目を丸くする。
「え?」
理世は涼しい顔。
「伊勢佐木町から福富町、寿町にかけては、人の流れが複雑です。統計より現場の導線把握を優先すべきですわ」
沙羅が腕を組む。
「まあ、理世さんらしいですわね」
澪は眠そうに呟く。
「また始まった」
エミリーは苦笑い。
「二人とも真面目だね」
理世の作戦はこうだった。
澪と小春が敵の退路を断つ。
伊織と彩芽が通行人を自然に誘導して敵を追い込む。
地元横浜の沙羅とエミリーが土地勘を活かして最後に確保する。
理屈は通っていた。
知佳も反論しなかったが、最後に一言だけ言った。
「でも、敵は福富町の細い路地へ流れると思います」
理世は返す。
「今回は、そうはなりませんわ」
任務開始。
夜の伊勢佐木町には、どこか歌謡曲めいた空気が漂っていた。ネオンが湿ったアスファルトに映り、古い店の看板がぼんやり光る。まるで昔のブルースが、路地裏にまだ残っているようだった。
小春が無線で呟く。
「雰囲気あるなぁ。昭和の刑事ドラマみてぇ」
彩芽が続く。
「なんかラーメン食べたくなるべさ」
伊織が注意する。
「任務中です」
「分かってるってば。ちょっと言っただけだべ」
やがて、敵影が確認される。
理世が冷静に指示を出す。
「小春さん、澪さん、北側を封鎖。伊織さん、彩芽さん、歩行者誘導。沙羅さん、エミリーは待機位置へ」
作戦は順調に見えた。敵は理世の想定通り動く。
理世が小さく息を吐く。
「やはり、こちらで正解でしたわ」
だが、その直後だった。
敵が急に進路を変えた。
寿町方面ではない。
福富町の細い裏路地へ飛び込んだ。
知佳の予測ルートだった。
理世の表情が一瞬固まる。
「……進路変更?」
小春が叫ぶ。
「マジか! そっち細かすぎる!」
彩芽も慌てる。
「待て待て、どっち行ったべ!? こっちか!? いや暗いべさ!」
伊織が彩芽を支える。
「落ち着いて。人を巻き込まないで」
沙羅が舌打ちする。
「まったく、厄介ですわね」
エミリーも走る。
「ルートが狭い!」
理世はすぐに立て直そうとするが、路地は複雑だった。ネオン、看板、酔客、裏口、階段。地図上では一本の道でも、現場では迷路である。
取り逃がす。
その空気が一瞬走った。
その時、無線に静かな声が入る。
「見つけた」
澪だった。
理世が振り向く。
「澪さん?」
「福富町側。知佳さんの予測地点にいた」
小春が叫ぶ。
「澪、なんでそこにいんだよ!」
澪は淡々と答える。
「知佳さんの資料、見たから」
沈黙。
そして澪は続ける。
「念のため」
その“念のため”が奇跡を起こした。
澪が退路を塞ぎ、小春が反対側から追い込み、伊織と彩芽が通行人を安全に下げる。彩芽は札幌弁で叫ぶ。
「そっち行ったら危ないべ! 下がってけれ!」
沙羅とエミリーが最後に挟み込む。
沙羅が優雅に言う。
「横浜で好き勝手はさせませんわ」
エミリーが敵を制圧する。
「チェックメイト!」
任務完了。
被害なし。敵工作員確保。
だが、帰還後の空気は少し重かった。
理世は珍しく黙っていた。
知佳が近づく。
「理世さん、作戦自体は良かったと思います。最後の配置も綺麗でした」
理世は視線をそらす。
「慰めは不要ですわ」
「慰めじゃないよ。本当にそう思ったから」
理世は答えない。
そこへ、缶コーヒーを持った澪が通りかかる。
理世が少しだけ顔を上げる。
「澪さん」
澪は立ち止まる。
「何?」
理世は少し迷う。
「……助かりました」
澪は無表情で頷く。
「うん」
そして、ボソッと言った。
「知佳さんのデータは信用した方がいいよ」
会議室が固まった。
小春が口を押さえる。
「澪が刺した……」
彩芽が目を丸くする。
「澪さん、今けっこう強いこと言ったべさ」
伊織も驚く。
「珍しいですね」
沙羅が面白そうに笑う。
「これは効きましたわね」
エミリーも小声で。
「かなりレアな一言デス」
理世は顔を赤くした。
「……分かっていますわ」
小春がすかさず言う。
「素直じゃねーなー」
理世が睨む。
「黙りなさい」
知佳はにこにこしている。
「次は一緒に分析しよう」
理世は少し間を置いた。
「全面的に採用するとは言っていませんわ」
「うん。参考でいいよ」
「……少しは、参考にします」
小春が拍手する。
「おお、進歩!」
理世はさらに睨む。
「うるさいですわ」
その夜の伊勢佐木町には、まだネオンが滲んでいた。
ブルースのように湿った街で、孤高のシロガネーゼは少しだけ学んだ。
統計は万能ではない。
だが、知佳のデータは無視していいものではない。
そして知佳は、そんな理世を責めるでもなく、ただ嬉しそうに笑っていた。
「こういう任務、嫌いじゃないな」
小春が横から言う。
「コネチカットパイセン、取り逃がしかけたのに?」
知佳は笑う。
「全員で立て直せたから」
澪が小さく頷く。
「それが大事」
理世は何も言わなかった。
ただ、次の作戦会議で知佳の資料を机の一番上に置いた。
もちろん本人は、最後までこう言い張った。
「参考ですわ。ただの参考ですわ」




