ヒロヒロクエスト第13話 帰ってきた脚の記憶――防府バンク、結月と先輩レーサーの熱い一日
徳山ボートレース場で、山根梨乃が本人も理解しないまま高配当を的中させ、“徳山の女神”扱いされた翌日。ヒロヒロのオンボロバスは、防府市へ向かった。
防府市は、山口県の中央部にある落ち着いた町である。防府天満宮をはじめとする歴史ある名所、瀬戸内に近い穏やかな空気、そして交通の要衝としての実用性。派手に騒ぐ町ではないが、暮らしと歴史がきちんと積み重なった、芯のある町だった。
この日の舞台は、防府市の競輪場。
近年の施設改修で明るく綺麗になり、昔ながらの競輪ファンだけでなく、家族連れや初心者も入りやすい空間になっていた。バンクの迫力、客席の熱、場内グルメ、そして選手との距離の近さ。公営競技場でありながら、どこか地域の社交場のような温かさがある。
のどかは会場を見回して言った。
「ええ雰囲気じゃね。昨日の徳山とはまた違う熱があるわ」
梨乃は真顔で聞く。
「競輪って、自転車速い人が勝つん?」
結月が笑った。
「大雑把には合ってるけど、それだけじゃないよ」
のどかが突っ込む。
「梨乃に説明するには、そこからでええかもしれん」
イベント広場では、ヒロヒロのトークショーが始まった。
司会ののどかがマイクを握る。
「昨日は徳山で梨乃が神扱いされましたけど、今日は防府バンクじゃ! 今日は本物の脚力を持っとる人がおるけぇね!」
拍手の中で紹介されたのは、大西結月。
元女子競輪選手である彼女にとって、防府バンクは特別な場所だった。
結月は少し緊張した顔でマイクを持った。
「私は現役時代、この防府で勝ったことがあります。ここは、苦しかったことも、嬉しかったことも、たくさん思い出す場所です」
その言葉に、客席の年配ファンがすぐ反応した。
「覚えとるぞー!」
「結月ちゃん、よう来た!」
「ええ走りしよった!」
結月は目を潤ませた。
「ありがとうございます。覚えていてくださって、本当に嬉しいです」
場内を練り歩く時間になると、ヒロヒロらしさも戻ってきた。
澪は場内グルメの匂いに反応する。
「……焼きそば、いい匂い」
ゆりえは売店を見てはしゃぐ。
「競輪場って、もっと怖い場所かと思ってましたけど、明るくて楽しいですね!」
のどかはベテラン競輪ファンに捕まっていた。
「お嬢ちゃん、競輪はラインを見るんじゃ、ラインを!」
「ライン?」
「人間関係じゃ。脚力だけじゃないんよ」
「奥深いですね……」
ゆりえも横で真剣に頷く。
「勉強になります!」
梨乃はまた首をかしげる。
「ラインって、スマホの?」
のどかが言う。
「今その話じゃない」
そこで、結月の前に一人の男性が立った。
六十代に近い、日焼けした顔のベテランファンだった。
「あんた、大西結月ちゃんじゃろ。昔、あんたから車券買ったことあるんよ」
結月は嬉しそうに頭を下げる。
「ありがとうございます」
男性は笑った。
「外れたけどな」
結月は一瞬固まり、それから深々と頭を下げた。
「すみませんでした」
周囲が笑う。
「謝らんでええ、謝らんでええ! あれも競輪じゃ!」
結月は少し照れながら、色紙にとても丁寧にサインした。
「その分、今日は丁寧に書きます」
「ええ子じゃのう」
ファンは大喜びだった。
そしてこの日、結月にはもう一人、会いたい人がいた。
決勝戦に出場する、四国支部時代の先輩レーサー、三谷修平。
結月が現役時代、練習やレースへの向き合い方を教えてくれた男性選手である。派手なスターではないが、真面目で面倒見が良く、後輩の相談にもよく乗るタイプだった。
結月が落車で悩んだ時も、三谷は言った。
「怖くなるのは悪いことじゃない。怖さを知ってから、どう踏むかが選手の本当の強さや」
その言葉を、結月は今も覚えていた。
メインイベントは、決勝戦の優勝予想検討会。
のどかが堅実に展開を読む。
ゆりえは選手紹介を見ながら素直に応援。
梨乃は「赤い車番がかわいい」と言い出して場をざわつかせる。
真帆は資料を見て冷静に数字を語る。
結衣は「今日は風が静かです」と神秘的なコメント。
そして結月は、出走表を見つめて言った。
「三谷修平選手は、私が四国支部でお世話になった先輩です。本当に良い人で、走りも誠実な人です。今日は頑張ってほしいです」
のどかが聞く。
「強い人なん?」
結月は頷いた。
「強いです。でも、それ以上に、最後まで諦めない人です」
レースが始まった。
決勝戦らしい緊張感。
スタートから場内の空気が変わる。
三谷は序盤、無理に前へ出なかった。ラインの動きを見ながら、冷静に位置を取る。最終周回、前が踏み合う。その隙を逃さず、三谷は外へ持ち出した。
結月が思わず立ち上がる。
「先輩……!」
最後の直線。
三谷が伸びる。
伸びる。
差す。
ゴール。
三谷修平、優勝。
場内が大きく沸いた。
「来た!」
「三谷、差した!」
「結月ちゃんの先輩、勝ったぞ!」
結月は目に涙を浮かべていた。
「先輩……すごい」
表彰式。
プレゼンターとして結月が呼ばれた。
彼女は花束と記念品を手に、三谷の前に立つ。三谷は少し照れた顔で笑った。
「久しぶりやな、結月」
「優勝、おめでとうございます」
「ありがとう。見に来てくれて嬉しかったわ」
二人は短く言葉を交わしただけだったが、そこに長い時間があった。
インタビュアーが三谷にマイクを向ける。
「今日は大西結月さんが来場されていました。意識はされましたか?」
三谷は笑った。
「もちろん。結月が来ていることは知っていました。昔、一緒に練習した後輩ですからね。いいところを見せたいとは思っていましたけど、一番いいところを見せられました」
会場から大きな拍手が起きた。
さらに三谷は続けた。
「結月は現役を離れても、自転車への気持ちは絶対に残っていると思います。今日はその前で勝てて、本当に良かったです」
結月は涙をこらえきれず、深く頭を下げた。
のどかも、ゆりえも、真帆も、珍しく黙って拍手していた。
梨乃だけが小声で言った。
「ええ話やなぁ。で、場内グルメもう一回行ける?」
のどかが涙目のまま突っ込む。
「空気読め!」
それでも場は笑いに包まれた。
イベント終了後、三谷は結月のところへ来た。
「元気そうで安心した」
「先輩も、相変わらず強かったです」
「いや、今日はたまたまや」
「たまたまじゃないです」
三谷は少し照れたように笑った。
「競輪はな、勝っても負けても、誰かが見てくれてる。それがありがたいんよ。今日は結月が見てくれてた。それだけで、もう一踏みできた」
結月は何度も頷いた。
「私も、今日ここに来て良かったです」
その夜、ヒロヒロのオンボロバスの中で、結月は静かだった。
のどかが声をかける。
「結月、大丈夫?」
結月は笑った。
「はい。すごく、嬉しいです」
澪がぼーっと言う。
「いい日だったね」
「うん」
梨乃が聞く。
「結月ちゃん、また競輪したくなった?」
結月は少し考えた。
「走る場所は変わったけど、自転車はずっと好きです」
のどかは頷いた。
「それでええんじゃね」
翌日のスポーツ新聞の競輪面には、三谷修平と大西結月のツーショットが大きく掲載された。
「元女子レーサー結月、恩人の優勝を祝福」
「三谷、後輩の前で渾身差し」
記事を読んだ結月は、少し照れながら新聞をたたんだ。
ヒロヒロにしては珍しく、馬鹿げた騒動ではなく、人情と競技への敬意に包まれた一日。
防府バンクは、結月にとって過去を思い出す場所であり、今の自分をもう一度認めてもらえる場所にもなった。
のどかは新聞を覗き込みながら言った。
「たまにはヒロヒロも、ええ話できるんじゃね」
梨乃は笑顔で言う。
「でもグルメも良かった」
「そこは忘れんのんかい」
ヒロヒロクエスト防府編。
それは、結月の脚の記憶が、もう一度あたたかく拍手された一日だった。




