ヒロ九クエスト 第50話 静かな空の下、茶畑の風を追え――知覧で彩芽が少し大人になる
黒煙を吐くヒロ九ラッピングバスは、南九州市知覧町へ入った。いつもなら、ひなたが窓に張りついて「鹿児島じゃっど!」と叫び、彩芽が「なまら景色いいべさ!」と騒ぎ、菜々子支配人が「車内では座ってください」と注意するところだった。
だが、この日は違った。
目的地が、知覧特攻平和会館だったからだ。
バスを降りた一行は、自然と声を落とした。空は静かで、茶畑の緑は穏やかだった。けれど、その穏やかさが逆に重く感じられた。
展示室に入ると、空気が変わった。
若い隊員たちの写真。
遺品。
家族へ宛てた手紙。
出撃前の言葉。
あまりにも若い年齢。
みのりは、一通の遺書の前で足を止めた。
隣にいたひかりが、そっと手を取る。
「……言葉が出ませんね」
みのりの声は震えていた。
ひかりは目を潤ませながら頷いた。
「今、普通に朝ごはんを食べて、笑って、イベントの準備ができること。それがどれだけ幸せなことなのか、思い知らされます」
香澄は静かに頭を下げた。
「ここは観光地として通り過ぎる場所じゃなかですね。ちゃんと立ち止まって、考えんといかん場所ですたい」
つばさは展示された手紙を見つめたまま、低く言った。
「声って、届く相手がいて初めて意味があるんですよね。この手紙は、届いてほしかった人へ向けた声なんだと思います」
凪は真剣な表情だった。
「安全管理という言葉を、私はよく使います。でも本当は、命が失われないようにするための考え方です。平和も同じです。仕組みとして守らないと、簡単に壊れてしまう」
真白は小さく呟いた。
「帰る場所があるって、当たり前じゃないんですね。毎日、仕事が終わって帰れることも、すごく大事なことなんですね」
ひなたも、この日ばかりは酒や鹿屋の話をしなかった。
「鹿児島には、明るい場所も、うまいもんも、温泉もいっぱいある。でも、こういう場所もあるんじゃな。ちゃんと向き合わんと、地元を好きとは言えんのかもしれん」
伊織は、しばらく無言だった。
そして彩芽の隣に立つ。
彩芽は展示を見つめたまま、声を絞り出した。
「……私と、あんまり変わらない歳の人もいたんだべさ」
いつもの勢いはなかった。
「怖かったと思うべさ。でも、家族に優しい言葉を書いてるんだべさ。私だったら……そんなふうにできるか分かんないべさ」
伊織は、彩芽の肩に手を置いた。
「全部を背負わなくていいです。でも、忘れないことです。今日見たことを、軽く扱わないこと。それでいいんです」
彩芽は小さく頷いた。
「私、ちゃんと覚えるべさ」
見学を終えた後、一行は知覧茶を使った平和学習イベントの手伝いに向かった。
会場には、子どもたちが書いた「未来への平和メッセージカード」と、記念の知覧茶袋が並べられていた。
そこには、「戦争がありませんように」「家族とずっとご飯を食べたい」「友だちとけんかしても仲直りしたい」など、子どもらしい真っ直ぐな言葉が書かれていた。
ひかりはそのカードを見て微笑んだ。
「大きな言葉より、こういう素朴な願いの方が胸に来ますね」
みのりも頷く。
「平和って、政治や歴史の言葉でもありますけど、最後は“家に帰ってご飯を食べられること”なのかもしれません」
その時だった。
茶畑の方から風が吹いた。
「あっ!」
スタッフの声と同時に、メッセージカードの一部がふわりと舞った。軽い紙が風にさらわれ、茶畑の畝の方へ流れていく。
凪が即座に動いた。
「追いかけないでください! 茶畑を踏み荒らさないよう、導線を作ります!」
香澄が観客へ声をかける。
「皆さん、その場でお待ちください! ヒロ九が回収しますたい!」
つばさが音声誘導を入れ、真白が回収袋を準備する。
みのりとひかりは、心配そうな子どもたちに寄り添った。
「大丈夫。みんなの言葉、ちゃんと戻します」
ひかりが優しく言うと、子どもたちは少し落ち着いた。
彩芽が一歩前に出た。
「私、取ってくるべさ」
伊織がすぐに視線を向ける。
「走っていい場所と、いけない場所があります」
彩芽は、いつものように飛び出さなかった。
「分かってるべさ。大事な茶畑だもんね。それに……大事な手紙だべさ」
伊織は少し驚いたように見て、それから頷いた。
「畝の間だけ。カードを踏まない。茶の木に触らない。風下へ回ってください」
「はいだべさ」
彩芽は走った。
だが、いつもの彩芽とは違った。
力任せではない。
足元を見て、風を見て、紙の流れる先を読んで動く。
「こっちに流れるべさ!」
ひなたが感心したように言った。
「彩芽が考えて走っちょる……」
菜々子も静かに頷く。
「成長ですね」
彩芽は一枚、また一枚とカードを拾っていく。真白は回収袋を広げ、つばさが位置を伝え、凪が茶畑に入る範囲を管理する。
最後の一枚は、武家屋敷跡へ向かう石垣近くに引っかかっていた。
彩芽は手を伸ばしかけて、ぴたりと止まった。
「ここ、触っちゃダメな場所だべさ?」
伊織が微笑んだ。
「正解です」
凪が管理者へ確認を取り、真白が長い道具を使って丁寧にカードを回収した。
すべてのカードが戻ると、子どもたちと関係者から大きな拍手が起きた。
担当者が深く頭を下げる。
「ありがとうございました。これは、子どもたちの大切な言葉なんです」
彩芽は照れくさそうに笑った。
「ちゃんと守れてよかったべさ」
菜々子支配人は言った。
「第50話にふさわしいクエストでしたね。速さだけでなく、止まることも大事です」
伊織も彩芽を見る。
「今日は本当に、よく考えて動けました」
彩芽は少しだけ胸を張った。
「私、少し大人になったべさ?」
伊織は穏やかに答えた。
「少しだけです」
「少しでも嬉しいべさ」
帰り際、知覧の関係者たちが一行を見送った。
茶畑の緑の向こうには、静かな空が広がっていた。
バスの車内では、名産の知覧茶が配られた。
ひなたが湯呑みを両手で持つ。
「平和って、守らんといかんものなんじゃな。黙ってても続くものじゃなか」
香澄も頷く。
「人の声を聞くこと、忘れんこと。それも平和を守る一つかもしれんですね」
つばさは静かに言った。
「届かなかった声を、今の私たちが聞く。それで、次の誰かに伝える。そういう仕事もあると思います」
凪は湯呑みを置いた。
「平和は安全と同じです。事故が起きていない時ほど、守る努力が見えにくい。でも、その努力をやめると壊れます」
真白は窓の外を見ながら言った。
「私は、帰れる場所を大事にしたいです。誰かが帰れるように、ちゃんと運ぶ仕事もしたいです」
みのりは、ひかりの手をもう一度握った。
「今日見た言葉は、忘れたくありません」
ひかりは静かに頷いた。
「私たちがステージで笑えるのも、平和があるからです。だから、笑える場所を守ることにも意味があるんですね」
彩芽は知覧茶を見つめた。
「私、強くなりたいべさ。でも、ただ突っ込むだけじゃダメなんだべさ。守るためには、止まることも必要なんだべさ」
伊織は優しく言った。
「それが分かったなら、今日は大きな一歩です」
菜々子支配人は、車内を見渡した。
「ヒロ九は、明るいイベントもやります。笑いも作ります。でも、今日みたいに学ぶことも必要です。九州を知るということは、楽しい場所も、重い場所も、どちらも知ることです」
ひなたが小さく頷いた。
「鹿児島をもっと好きになったど。ちゃんと、全部含めて」
その時、バスがエンジンをかけた。
「ボボボボ……ゴホッ」
静かな余韻を破る黒煙音。
凪が呟く。
「平和学習の後なので、せめて煙は控えめにしてほしいですね」
真白が計器を見ながら答える。
「努力はしています」
車内に、少しだけ笑いが戻った。
黒煙バスは、知覧を後にした。
南薩の風の先には、次の目的地が待っている。
そして、さらに遠くには、ひなたが待ちわびる大隅半島の空がある。
ヒロ九クエストは、笑いながら、学びながら、まだ続いていく。




