ヒロ九クエスト 第45話 牛と札幌妹と逃げた子ヤギ――高原の観光牧場、まさかの捕獲作戦
硫黄谷温泉の夜は、ヒロ九一行に強烈な記憶を残した。
「あれは大浴場じゃなくて、もう温泉の体育館だべさ……」
翌朝、彩芽はまだ感動していた。
源泉かけ流しの巨大な大浴場。湯けむり、硫黄の香り、圧倒的な湯量。あまりの広さに泳ごうとして伊織に止められたことまで含めて、彩芽にとっては完全に一大イベントだった。
菜々子支配人は朝の点呼を取りながら言う。
「今日は霧島神宮参拝、その後、宮崎県側の高原観光牧場でイベントです」
ひなたは胸を張った。
「霧島じゃっど! 神話の地じゃっど!」
まず一行は、霧島神宮へ向かった。深い森に包まれた朱塗りの社殿、山の空気、静かな参道。前日まで黒煙バスと焼酎と温泉で騒がしかった一行も、ここでは自然と背筋が伸びた。
ひかりが静かに言う。
「神話の土地という言葉が似合いますね」
みのりも頷く。
「空気が引き締まります」
彩芽も真面目な顔で手を合わせる。
「今日もイベント成功しますようにだべさ」
伊織が横から小声で言った。
「あと、彩芽が勝手に走り出しませんように」
「聞こえてるべさ!」
参拝後、ヒロ九ラッピングバスは再び宮崎県側へ入った。
目的地は、都城市郊外に広がる高原の観光牧場。霧島連山を望む広々とした草原に、牛や羊、馬、ヤギと触れ合えるエリアがあり、家族連れや観光客に人気の場所である。空は広く、風は柔らかく、動物たちはのんびりしている。南九州の明るさと高原の爽やかさが詰まったような場所だった。
彩芽は到着した瞬間から落ち着かない。
「牛だべさ! 羊だべさ! ヤギもいるべさ!」
伊織が即座に言う。
「走らない」
「はいだべさ!」
返事だけは良い。
イベントは、観光牧場のPRステージだった。
香澄が案内役として穏やかに進行し、つばさが音響と誘導を担当。凪は牧場内の安全導線を確認し、真白は遠くの作業用トラクターに妙な興味を示していた。みのりとひかりのグレースフォースは、動物との触れ合い体験を上品に紹介する。
ひなたは、地元食材のコーナーで完全に食レポ担当になっていた。
「南九州は肉が強か! 牛も豚も鶏も、ぜんぶ主役になれるんじゃ!」
イベント後には名物のソフトクリームを全員で食べた。
彩芽は一口で目を丸くする。
「なまら濃いべさ! 牛乳がそのまま笑ってるべさ!」
伊織が首を傾げる。
「牛乳が笑う、という表現は初めて聞きました」
続くランチは、黒豚の焼肉料理だった。
香ばしい脂、柔らかい肉質、甘みのある旨味。炭火の匂いに、ひなたは完全に上機嫌になる。
「黒豚は南九州の宝じゃっど! 脂が甘くて、肉が強くて、焼くと香りが立つ! これは走れる肉じゃ!」
菜々子が冷静に言う。
「肉は走りません」
みのりは箸を置き、理知的に感想を述べる。
「脂の甘さがしっかりしていますね。重くならないのが良いです」
ひかりも頷く。
「地元野菜との相性も良いですね。土地の味として完成されています」
伊織も静かに言う。
「肉の旨味が強いのに、後味がきれいです。これは観光資源としても強いですね」
彩芽はただ黙々と食べている。
「彩芽、コメントは?」
伊織に言われて、彩芽は顔を上げた。
「うまいべさ!」
「短いですね」
「でも本当だべさ!」
そんな平和な時間の直後、クエストが発生した。
牧場スタッフが慌てて走ってくる。
「子ヤギが数頭、柵の外へ出てしまいました!」
菜々子の顔が引き締まる。
「子ヤギですか」
凪が即座に確認する。
「観光客との接触リスク、道路側への移動リスク、子どもたちが追いかけるリスクがあります」
まさにその通りだった。
子ヤギたちは草地をぴょんぴょん跳ねながら逃げ、観光客の子どもたちが「かわいい!」と追いかけようとしている。追えば追うほど子ヤギは逃げる。完全に悪循環だった。
香澄が声を張る。
「皆さん、追いかけないでください! ゆっくり見守ってくださいね!」
つばさが案内を入れる。
「スタッフとヒロ九メンバーが対応します。お子さまは柵の内側でお待ちください」
伊織は状況を見て言った。
「追い込むより、落ち着かせた方が良さそうです。ヤギは急に迫ると逃げます」
沖縄出身の伊織にとって、ヤギは身近な存在である。冷静に距離を測り、進路を塞ぐ位置を判断していた。
そこへ彩芽が一歩前に出た。
「私、行くべさ!」
伊織が即座に止める。
「待ちなさい。勢いだけで行くと逃げます」
「大丈夫だべさ。なんとなく分かるべさ」
「その“なんとなく”が一番怖いです」
しかし彩芽は、すでに子ヤギと目を合わせていた。
一匹の子ヤギが、彩芽をじっと見ている。
彩芽もじっと見る。
「……お前、こっち来るべさ?」
伊織が小声で言う。
「会話している……?」
彩芽はしゃがみ込み、草を差し出した。
「ほら、怖くないべさ。戻るべさ。みんな待ってるべさ」
すると、子ヤギが一歩近づいた。
菜々子が目を丸くする。
「近づきましたね」
ひなたが笑う。
「彩芽、ヤギと知能が近いんじゃ!」
「ひどいべさ!」
だが、効果はあった。
彩芽がゆっくり歩くと、子ヤギがついてくる。
一匹、二匹、三匹。
なぜか列になっている。
伊織は呆然とした。
「沖縄でもヤギは身近ですが、彩芽ほど懐かれている人は見たことがありません」
みのりが感心する。
「理屈では説明しにくいですね」
ひかりが静かに言う。
「でも、動物は警戒心に敏感です。彩芽さんの無邪気さが伝わったのかもしれません」
彩芽は得意げに言う。
「ヤギ語、分かった気がするべさ!」
伊織が即答する。
「それは違います」
子ヤギたちは、彩芽に導かれるように柵の中へ戻った。観光客から拍手が起こる。子どもたちは大喜びで「ヤギのお姉ちゃん!」と叫んでいる。
彩芽は胸を張った。
「クエスト成功だべさ!」
凪が冷静に記録する。
「子ヤギ捕獲、成功。ただし手順の再現性は不明」
菜々子も複雑な顔で頷く。
「結果は素晴らしいです。ただ、方法が彩芽さん本人に依存しすぎています」
ひなたは腹を抱えて笑っている。
「すごか! 彩芽、牧場系ヒロインじゃっど!」
伊織は彩芽を見つめ、少しだけ笑った。
「つかみどころがないですね。時々、本当に奇跡みたいなことをします」
彩芽は首を傾げる。
「褒めてるべさ?」
「半分くらいは」
「半分でも嬉しいべさ!」
イベントとクエストを終え、ヒロ九一行は再びバスへ戻った。
黒煙バスは、今日も少し煙を吐いている。
「ボボボボ……ゴホッ!」
真白が確認する。
「水温は安定しています。次へ行けます」
菜々子支配人が頷く。
「では、いよいよ鹿児島市内へ向かいましょう」
ひなたの目が輝く。
「鹿児島市内じゃっど! 本番が近づいてきた!」
彩芽は窓から牧場を振り返り、手を振る。
「ヤギたち、また会うべさ!」
伊織が静かに言う。
「次は脱走しないように願いましょう」
ヒロ九ラッピングバスは、高原の風を背に出発した。
南九州遠征は、いよいよ鹿児島市内へ。
そして一行の誰もが、少しだけ思っていた。
彩芽は、やはりよく分からない。
だが、時々とんでもなく役に立つ。
その事実だけは、確かだった。




