北方管区は揉める、胡蝶蘭は咲く――小役人まさにゃん、錦糸町で花博士になる
ノースフロントは、今日も曇っていた。
正式名称はヒロ室北方管区。通称ノースフロント。名前だけ聞けば、北の大地を背負う精鋭部隊のようである。
だが実態は、会議のたびに玲香と柚希が噛み合わず、スポンサーは仙台中心の企画を押し、秋田・岩手・山形方面は不満を漏らし、暫定フィールドマネジャーのるみねぇが笑顔で間に入り続ける、実に前途多難な組織だった。
「玲香、また仙台中心になってっぺ」
るみねぇがやんわり言う。
玲香は涼しい顔で返す。
「でも、集客を考えれば仙台を軸にするのが合理的です」
柚希が静かに刺す。
「合理的と、他県を軽く見るのは違うべ」
玲香の眉が動く。
「軽く見ていません。ただ、現実を見ているだけです」
柚希も珍しく引かない。
「その現実が仙台からしか見えてねぇんです」
るみねぇは笑顔を保ちながら、こめかみを押さえた。
「はい、そこまでだっぺ。北日本まとめる前に、この部屋の空気まとめっぺ」
その声には、いつもの明るさの奥に、少しだけ疲労がにじんでいた。
そんなノースフロントで、唯一、何の不協和音もなく順調に育っているものがあった。
胡蝶蘭である。
ノムさんのブラックキャブプロダクションから届いた祝い花。
白い花は見事に咲き、葉は艶々。北方管区準備室で一番堂々としていた。
世話をしているのは、葛城正男室長代理、通称まさにゃん。
この男、肩書きだけは立派である。
室長代理。キャリア官僚。新橋ヒロ室の古株。
だが実態は、会議で余計なことを言って真帆に冷たく処理され、遥室長から「まさにゃん、そこ邪魔だよ」とどかされ、佳乃には経費精算で詰められ、徹マンでは毎回ハコテン。家では猫と熱帯魚以下。
小役人根性だけは立派で、書類にハンコを押す時だけ妙に背筋が伸びる。
「これは形式上、室長代理確認印が必要やな」
と言いながら、誰も見ていない書類に判を押す。
真帆が冷静に言う。
「その書類、確認印不要です」
「えっ、そうなん?」
「はい」
「……ほな、押した分はどうなるん?」
「特に意味はありません」
まさにゃんは肩を落とす。
だが、胡蝶蘭の前では違った。
朝、誰より早く準備室に入り、葉の艶を確認する。
「おはようさん、ノースちゃん。今日もええ顔しとるな」
霧吹き。
葉拭き。
鉢の向き調整。
空調の風チェック。
湿度確認。
もはや小役人ではなく、園芸係長である。
小春がそれを見て笑った。
「まさにゃん、書類より花の方が扱い丁寧っすね」
まさにゃんは真顔で返す。
「書類は黙ってても増える。花は世話せな枯れるんや」
「ちょっと名言っぽいけど、小役人の悲哀が濃いっす」
まさにゃんが不在の日もある。
ただし、理由は大したことがない。
「吹田の家に帰る」
「役所時代の後輩としょうもない昼飯」
「錦糸町で人生の棚卸し」
「胡蝶蘭の鉢カバーを見に行く」
本人は重要用務のように言うが、真帆の分類では全部「雑用または私用」である。
そんな時、胡蝶蘭の世話を代行するのが黒崎茉莉花だった。
元中洲の売れっ子キャバ嬢でチーママ。現在はヒロ室経理も手伝う生活力抜群のシンママヒロイン。
茉莉花は胡蝶蘭の葉を拭きながら言う。
「胡蝶蘭はね、開店祝いでよう見とったけん。水やりすぎたらすぐ弱るっちゃん」
小春が感心する。
「茉莉花さん、詳しいっすね」
「店の花は店の顔やけんね。花がしおれとったら、店もくたびれて見えるとよ」
遥室長が感心する。
「説得力あるだよ……」
茉莉花は、まさにゃんの几帳面な世話にも気づいていた。
「あの人、仕事では頼りないけど、花だけは真面目に見よるけん。帰ってきた時に元気なかったら、たぶん本気で落ち込むばい」
戻ってきたまさにゃんは、葉がピカピカなのを見て感動した。
「黒崎さん……ノースちゃんを守ってくれてありがとう」
茉莉花は笑う。
「大げさやねぇ。花に水やっただけたい」
「いや、ワシにとっては戦略資産や」
真帆が横から言う。
「戦略資産ではありません。祝い花です」
まさにゃんは聞いていない。
胡蝶蘭を絶賛されて以来、まさにゃんは妙に調子が良かった。
与党の超大物代議士に「お前は出来る男だ」と言われ、ノムさんにも「まさにゃんのお陰じゃのう」と褒められ、西日本三人組には九割けなされながらも一割褒められた。
その結果、小役人まさにゃんの中に、妙な自信が芽生えた。
金曜夜。
行きつけの錦糸町のキャバクラ。
「まさにゃん、久しぶり〜」
キャバ嬢が笑顔で迎える。
まさにゃんは席に着く前に、店の入口の胡蝶蘭を見た。
眉をひそめる。
「これはアカンな」
「え?」
「水やり過ぎや。葉ぇ見たら分かる。あと空調の風、直撃しとるやろ」
キャバ嬢は営業スマイル。
「まさにゃん、お花詳しいんですねぇ」
その一言が、地獄の始まりだった。
「胡蝶蘭いうんはな、祝い花の王様や。三本立ち、五本立ちで格が変わる。葉の艶、根の張り、置き場所。これを見たら、その店が花を分かっとるか分かるんや」
「へぇ〜、すごーい」
キャバ嬢の声は甘いが、目は死んでいた。
まさにゃんは止まらない。
「ワシ、いまヒロ室で胡蝶蘭親善大使やからな」
「親善大使?」
「非公式やけど」
「非公式なんだ……」
「でもな、代議士にも褒められたんや。ワシ、出来る男やって」
「すごーい」
その「すごーい」は、今夜三回目の空返事だった。
調子に乗ったまさにゃんは、高級シャンパンを入れた。
「今日はノースちゃんの開花祝いでいこか!」
キャバ嬢たちは拍手した。
「まさにゃん、太っ腹〜!」
バックヤードでは、こう言われていた。
「まさにゃん、最近ずっと花の話じゃない?」
「長いよね」
「でもシャンパン入れるなら聞く」
「政治の愚痴よりマシ」
「それはそう」
翌週、まさにゃんはまた錦糸町に行った。
キャバ嬢がうっかり聞いた。
「まさにゃん、今日も胡蝶蘭元気?」
まさにゃんの目が輝いた。
「聞いてくれるか! 実はな、葉の艶が――」
キャバ嬢は即座に後悔した。
一方、新橋では、北方管区はまだ前に進まない。
るみねぇは疲れた顔で資料を閉じた。
「北日本、思ったより骨が折れるっぺ……」
玲香と柚希は、今日も微妙な距離を保っている。
スポンサー調整も、まだ難航中。
しかし、準備室の入口では胡蝶蘭が鮮やかに咲いていた。
まさにゃんは葉をそっと撫でた。
「ノースちゃん、今日もワシらだけは順調やな」
茉莉花が横から冷静に言う。
「“ワシら”って言いよるけど、順調なの花だけやけんね」
小春が吹き出した。
「まさにゃん、現実を叩きつけられたっす!」
まさにゃんは少しだけ傷ついた顔をしたが、すぐ胡蝶蘭に向き直った。
「ええんや。花は分かってくれる」
真帆は進捗表に淡々と追記した。
胡蝶蘭:極めて良好
葛城室長代理:やや調子に乗りすぎ
ノースフロントは、まだ咲かない。
だが、胡蝶蘭だけは咲き続ける。
そして小役人まさにゃんは、今日も誰にも求められていない胡蝶蘭知識を、どこかで得意げに語っているのであった。




