花だけ出世した男――まさにゃん、胡蝶蘭で人生最大の評価を受ける
ノースフロントは、相変わらず前に進まなかった。
正式名称はヒロ室北方管区、通称ノースフロント。名前だけは立派である。だが実態は、玲香と柚希が会議のたびに火花を散らし、スポンサーは仙台中心の企画を押し、秋田や岩手や山形側は不満を漏らし、暫定フィールドマネジャーのるみねぇが「まあまあ、落ち着くっぺ」と笑顔でなだめる日々だった。
真帆の進捗表には、毎週のように同じ文字が並んだ。
体制整備:遅延
玲香・柚希連携:不安定
スポンサー調整:難航
胡蝶蘭:極めて良好
そう。
ノムさんから贈られた胡蝶蘭だけは、異様なほど順調だった。
世話をしているのは、葛城正男室長代理、通称まさにゃんである。
大阪府吹田市から単身赴任中。家では猫と熱帯魚以下の扱い。ヒロ室でも大した仕事はなく、会議では茶々を入れ、徹マンではハコテンになり、普段は「まさにゃん、そこ邪魔だよ」と遥室長にどかされる哀愁漂う中年男。
だが、胡蝶蘭だけは違った。
毎朝、葉を拭く。
空調の風を避ける。
水をやりすぎない。
霧吹きで湿度を整える。
スマホの検索履歴は「胡蝶蘭 育て方」「胡蝶蘭 葉 艶」「胡蝶蘭 長持ち」で埋まっていた。
ある日、ヒロ室に真帆が長く仕えていた与党の超大物代議士がやって来た。
大臣経験もある与党の重鎮で、戦隊ヒロインプロジェクト創設にも関わった人物。元建設族の族議員で、事務所開き、竣工式、開所式、選挙事務所で祝い花を山ほど見てきた男である。
その代議士が、北方管区準備室に入るなり、資料ではなく胡蝶蘭の前で止まった。
「ほう……これは立派だな」
会議室が静まった。
代議士は胡蝶蘭をじっと見た。
「葉の艶がいい。水をやりすぎていない。置き場所も悪くない。空調の風も避けているな」
真帆が淡々と言った。
「世話をしているのは葛城室長代理です」
代議士がまさにゃんを見た。
「葛城がこの胡蝶蘭の世話をしているのか」
「は、はい。ワシです」
代議士は深く頷いた。
「オマエは出来る男だ」
まさにゃんの目が輝いた。
「センセイに褒められた〜!」
小学生のような喜び方だった。
この男、一応キャリア官僚である。
遥室長が小声で言う。
「まさにゃん、官僚人生で一番輝いてるだよ……花で」
真帆は冷静に補足した。
「評価対象は胡蝶蘭の管理能力です」
だが、まさにゃんには十分だった。
「ノースちゃん……ワシ、センセイに出来る男言われたで……」
胡蝶蘭に報告する中年男。
会議室には、なんとも言えない哀愁が漂った。
さらに後日、送り主のノムさんがふらっと準備室に現れた。
「おうおう、ノースフロント、どうなっとるん?」
誰も即答しなかった。
ノースフロント本体は、どうにもなっていなかったからである。
だがノムさんの目が胡蝶蘭に止まった。
「おお! ワシが贈った胡蝶蘭、元気に育っとるのう!」
ノムさんは軽い広島弁で笑った。
「こりゃ立派じゃのう。まさにゃんが世話しとるん? そりゃどーも、ハッハッハ!」
まさにゃんは照れた。
「まあ、温度と湿度と水加減を見まして……」
「やるやん。まさにゃん、花係としては一流じゃのう!」
「“としては”が余計なんですけど……」
それでも、まさにゃんは嬉しかった。
普段ならノムさんに小馬鹿にされる側である。
しかし今日は、胡蝶蘭に関してだけは褒められている。
「ノースちゃん、ノムさんにも褒められたで」
「また花に話しかけとる……」
小春が遠くで笑いをこらえていた。
そして極めつけが、西日本のアクが強い人気ヒロイン三人組だった。
赤嶺美月、西川彩香、西園寺綾乃。
ひと月ぶりに上京した三人は、ヒロ室に入るなり胡蝶蘭の前で立ち止まった。
美月が目を丸くした。
「なんやこれ、めっちゃ綺麗やん!」
彩香も腕を組んだ。
「おお、これはちゃんと手ぇ入っとるな。祝い花って普通すぐしおれるのに」
綾乃も扇子を口元に当て、珍しく素直に感心した。
「これはお見事どすなぁ。お花いうんは正直どす。雑に扱われたら、すぐ顔に出ますえ」
遥室長が苦笑して言った。
「ちなみに、それ世話してるの、まさにゃんだよ」
三人が同時に固まった。
「……え?」
「葛城が?」
「まさにゃんさんが?」
そして、三人同時に大爆笑した。
美月は腹を抱えた。
「まさにゃんが育てたん? ええやん! 会議では何も育てへんのに、花は育てられるんやな!」
まさにゃんが叫ぶ。
「美月ちゃん、それ褒めてるんか!」
彩香は真顔で追撃する。
「葛城が初めて役に立ったんとちゃう? 書類はよう迷子にするのに、胡蝶蘭は迷子にせんのやな。意外すぎて怖いわ」
「彩香ちゃんまで!」
綾乃は上品に微笑んだ。
「人間だれしも一つくらい取り柄があるもんですなぁ。葛城はんの場合、それがようやく花で見つかったということどすか」
「綾乃ちゃんが一番きつい!」
美月はさらに畳みかける。
「でも、ほんま凄いやん。まさにゃん、自分の人生より胡蝶蘭の管理の方が上手いやん」
彩香も乗る。
「仕事は枯らすのに、花は枯らさん。ええバランスや」
綾乃は涼しい顔で締める。
「葛城はん、これからは北方管区室長代理兼・胡蝶蘭管理責任者として生きていかはったらよろしおす」
まさにゃんは肩を落とした。
「ワシ、花の人になってしもた……」
小春が横から叫ぶ。
「まさにゃん、胡蝶蘭親善大使っす!」
美月が手を叩いた。
「それや! 決定! 今日からまさにゃんは胡蝶蘭親善大使や!」
「勝手に任命すな!」
真帆が淡々と議事録に書いた。
葛城正男:北方管区準備室管理/胡蝶蘭親善大使(非公式)
「書くな!」
だが、まさにゃんは完全には嫌がっていなかった。
代議士に褒められた。
ノムさんに褒められた。
西日本三人組にはこき下ろされながらも、結局は認められた。
普段、家族から猫や熱帯魚以下に扱われ、ヒロ室でも邪険にされる哀しい中年男にとって、胡蝶蘭は唯一、目に見える成果だった。
その日、まさにゃんはいつもより丁寧に葉を拭いた。
「ノースちゃん……ワシら、先に咲いてしもたな」
美月がそれを聞いて吹き出す。
「まさにゃん、完全に花と人生相談してるやん!」
彩香も笑う。
「ほっといたれ。人間相手より花相手の方が上手くいくんやろ」
綾乃は少し優しい声で言った。
「でも、よう面倒見はったんは確かどす。お花は嘘つきまへん」
まさにゃんは、少しだけ胸を張った。
「せやろ。ノースちゃんは、ワシの誇りや」
北方管区はまだ噛み合わない。
玲香と柚希は相変わらず険悪。
スポンサー調整も難航。
るみねぇは今日も「まあまあ、落ち着くっぺ」と奔走している。
だが、準備室の入口では、胡蝶蘭だけが堂々と咲いていた。
そしてその前に、妙に誇らしげな中年男が一人。
ヒロ室北方管区、通称ノースフロント。
最初に成果を出したのは、組織でもヒロインでもなく、まさにゃんの胡蝶蘭だった。




