ヒロ九クエスト 第34話 湯けむりの宿に消えた宿帳 ― 鉄輪、若女将を狙う“見えない手”を追え ―
別府の地獄めぐりで、観光客たちの“地獄の回り方が分からん問題”を見事に片づけたヒロ九ラッピングバスは、日も暮れかけた鉄輪温泉へと入っていった。
ゴロロロロ……モクモク……
「……別府の湯けむりに混ざると、うちの黒煙ちょっと目立たなくなりますね」
菜々子支配人が真顔で言う。
「同化しとるですたい」
香澄がうなずく。
「同化してるのは外見だけです」
つばさが静かに補足した。
鉄輪温泉エリアは、別府の中でもとりわけ温泉街らしい風情が濃い場所だった。
石畳、立ち上る蒸気、地獄蒸しの香り、坂道に沿って並ぶ旅館。
街全体が湯けむりの中に浮かんでいるようで、歩いているだけで“温泉地に来た”と分かる。
その一角に、ヒロ九一行の今夜の宿があった。
湯けむりの宿 いちのせ。
古いが手入れの行き届いた老舗旅館である。
玄関先に立っていたのは、以前、隼人補佐官と菜々子支配人がヒロイン候補として面談した若女将――一ノ瀬しおりだった。
「ようこそお越しくださいました」
和装が異様に似合う。
立っているだけで旅館の格が一段上がるような人だった。
「お久しぶりです」
菜々子が頭を下げる。
「その節はどうも」
しおりは柔らかく笑うが、その目の奥に少しだけ疲れがあった。
部屋に通され、温泉に入る前のひと息というタイミングで、事件は始まった。
「……宿帳が一冊、消えました」
しおりが、静かにそう言ったのである。
「はい?」
ひなたが聞き返す。
「予約台帳の一部です。しかも、今日だけでなく、ここ数日、妙なことが続いていて」
しおりは一つ一つ説明した。
・宿泊客の案内ミスが起きる
・内風呂の利用札が入れ替わる
・予約記録の一部が抜ける
・そして若女将宛てに、気味の悪い文が届く
『この宿にふさわしくない者は出ていけ』
空気が一気に変わった。
「……それ、笑えんやつですね」
真央が言う。
「ぜんぜん笑えません」
美紀も珍しく真顔だった。
つばさが文面を見て、小さく言う。
「外部の人間だけでは難しいですね」
「はい。内部事情を知っている相手です」
菜々子は即断した。
「やりましょう」
「早いですね」
「宿に泊めてもらってる以上、放置できません」
支配人モードである。
旅館の中は、いかにも“2時間サスペンス”が起きそうな空気に満ちていた。
常連の上品すぎる老夫婦。
妙に愛想のいい業者。
若女将にだけ距離の近い古参の番頭格。
帳場を仕切る仲居頭。
なぜか一人だけやたら旅館に詳しい客。
「……怪しい人がちゃんと揃ってますね」
つばさが静かに言う。
「完璧な布陣ですねぇ」
ひなたが妙に感心した。
「感心しないでください」
ヒロ九は即席の捜査本部みたいな状態になった。
菜々子は時系列を整理する。
消えた宿帳、入れ替わった利用札、怪文書の届いた時間、宿泊客の出入り。
つばさは人間の空気を読む。
誰がしおりに妙な視線を向けているか、誰が話を濁すか、誰が“知りすぎている”か。
香澄は仲居たちから自然に話を聞き出す。
「しおりさん、よう頑張っとるですもんねぇ」
そんな風に寄り添いながら、本音を引き出していく。
真央は旅館の構造を見る。
廊下、裏口、帳場から風呂場への導線。
「ここ、死角だで」「この廊下、意外と人目つかんがや」と一人でどんどん見つけていく。
茉莉花は厨房や配膳の流れを見て、
「ここ、誰でも入れる状態やん」
と現場の緩さを見抜く。
美紀は高齢の宿泊客や疲れたスタッフの様子を見ながら、無理が出ていないかをチェックする。
そして――
陽菜と大翔。
この二人は、なぜか旅館探検モードになっていた。
「この廊下、なんか雰囲気あるね!」
「かくれんぼできそう!」
「しないでください!!」
菜々子が止める。
だが結果的に、この“探検ごっこ”が功を奏した。
「見て、ここから帳場の裏見える!」
陽菜が障子の陰から顔を出す。
「ほんとだ!」
大翔が同調する。
全員、一斉にそちらを見る。
死角発見。
「……やりましたね」
つばさがぽつり。
「何もしてないようで一番してるですねぇ」
ひなたが笑う。
やがて、すべてがつながった。
宿帳を抜き取り、利用札を入れ替え、若女将に怪文書を送っていたのは――
旅館の“昔ながらのやり方”に執着していた古参の出入り業者だった。
しおりが仕入れや帳簿を見直し、不透明な部分を正そうとしていたことが気に入らなかったのである。
つまり犯人が守りたかったのは宿ではなく、
自分に都合の良い昔の宿だった。
離れ風呂の前、湯けむりの中。
菜々子が静かに言った。
「宿を守りたいんじゃない。あなたが守りたいのは、あなたの都合のいいやり方だけです」
男は反論しかけたが、つばさが続ける。
「しおりさんを追い詰めても、宿は守れません」
ひなたが一歩前に出る。
「もう終わりにしましょう」
真央も腕を組む。
「昔にしがみついとっても、前には進まんがや」
男はとうとう言葉を失った。
すべてが終わった後、しおりはしばらく黙っていた。
それから、ようやく口を開く。
「……ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「正直、少し疲れていました」
その一言に、菜々子は静かに頷く。
「でも、あなたは間違っていません」
しおりは顔を上げる。
その表情は、少しだけ柔らかくなっていた。
「ヒロ九には参加できません」
若女将としての責任がある。
旅館がある。
ここを離れるわけにはいかない。
「でも、皆さんのことは心から応援しています」
「また、いつでも来てください」
菜々子は小さく笑った。
「その言葉で十分です」
翌朝。
鉄輪の湯けむりは、いつも通り町を包んでいた。
ヒロ九ラッピングバスが動き出す。
ゴロロロロ……モクモク……
「……最後まで黒煙なんですね」
しおりが少しだけ困ったように笑う。
「それも含めてヒロ九ですたい」
香澄が胸を張る。
「含めなくていいです」
菜々子が即座に否定した。
旅館の前で、一ノ瀬しおりは深く一礼する。
その後ろで湯けむりが立ち、朝の光が差し込む。
陽菜が窓から身を乗り出す。
「また来るねー!」
大翔も元気に手を振る。
「またくる!」
しおりは微笑んだ。
「お待ちしています」
バスは黒煙を引きながら坂を下る。
湯けむりの向こうに、小さくなっていく「湯けむりの宿 いちのせ」。
まるで2時間サスペンスのラストみたいだな、と誰かが言いそうな空気だったが、実際には誰も言わなかった。
その代わり、菜々子が小さくつぶやいた。
「……また一つ、守るべき場所が増えましたね」
別府の朝に、その言葉だけが妙にしっくりと残った。




