一本のアスパラが、もう一度火を灯す――独りになった料理人と越後の情花
新潟県新発田市。
新潟市からほど近い北越後の町でありながら、その空気には県都とは違う、どこかゆったりとした時間が流れている。
市街地には新発田城がそびえ、江戸時代から残る表門や旧二の丸隅櫓が城下町の記憶を伝える。少し足を伸ばせば全国的にも知られた月岡温泉があり、そのさらに外側には加治川の恵みを受けた広い田園が広がっている。歴史、温泉、米どころ、山と海。そのすべてがほどよい距離に収まっているのが、新発田という町だった。新潟県新発田市公式ホームページ
そして、この町にはもう一つ誇るべきものがある。
アスパラガス。
新発田市は新潟県内第一位のアスパラガス出荷量を誇る産地で、良質な堆肥と豊かな水、農家同士の栽培技術の共有によって、「太い、甘い、柔らかい」アスパラを育てている。春だけでなく夏にも収穫期があり、春の極太品には「ふとっパラ」という愛称まで付けられている。新潟県新発田市公式ホームページ
その新発田へやってきたのが、本間菜帆だった。
新潟市在住。
地元の国立大学で農業を学びながら、実家の大規模スマートファームを手伝う農ガール。
戦隊ヒロインとしての異名は、
「越後の情花」
である。
もっとも本人は、その大仰な肩書きをあまり気にしていない。
「花っていうほど華やかなことしてないんだけどね〜」
と言うのが口癖だった。
たしかに。
菜帆の仕事は地味だった。
ステージへ出れば笑顔で手を振る。
危険な任務があれば当然出動する。
だが普段は、長靴を履いて田んぼへ行き、農家の話を聞き、子どもたちへ米や野菜の話をする。
困っている人を見つけても、
「私が助けます!」
とは言わない。
ただ横へ座る。
話したくなるまで待つ。
必要なら、少しだけ手を貸す。
そんなヒロインだった。
今回も大学の農業関係者から、
「新発田のアスパラ農家を見てきてほしい」
と頼まれただけだった。
菜帆自身、
「こういう任務なら怪人より得意です〜」
と軽トラックを走らせてきた。
訪ねたのは、新発田郊外で四十年以上アスパラを作っている農家、斎藤重治。
七十三歳。
日に焼けた顔。
無口。
頑固。
ところが畑へ入ると急にしゃべる。
「いいか、アスパラは太けりゃいいってもんじゃねえ」
「はい」
「甘くなくちゃ駄目だ」
「はい」
「柔らかくなくちゃ駄目だ」
「はい」
「真っすぐなのも大事だ」
菜帆が首を傾げた。
「かなり注文多いですね〜」
「農業ってのはそういうもんだ」
「それは分かります」
「分かるのか?」
「うちも農家なので」
重治が菜帆を見る。
「戦隊ヒロインじゃなかったのか」
「農家で大学生で戦隊ヒロインです」
「忙しいな」
「自分でも時々そう思います〜」
少しだけ。
重治が笑った。
菜帆は畑を案内してもらった。
土。
堆肥。
水。
春採りと夏秋採り。
親茎の管理。
菜帆が専門的な質問をすると、重治も次第に機嫌が良くなる。
「テレビの姉ちゃんがちょっと見に来るだけかと思ってた」
「テレビの姉ちゃんでも土くらい見ますよ〜」
「戦う方は?」
「今日は敵いません」
「出てきても畑では戦うなよ」
「アスパラ踏んだら重治さんに怒られそうですからね」
「当たり前だ」
そんなやり取りをしていた時だった。
菜帆は作業小屋の隅に一本だけ置かれたアスパラに気づいた。
太い。
真っすぐ。
色艶もいい。
素人でも分かる一級品。
「これ、出荷しないんですか?」
重治。
「しない」
「ご自宅用?」
「違う」
「贈り物?」
「まあな」
菜帆が少し覗き込む。
「誰に?」
「何でも聞くな」
「はい」
それで終わりだった。
菜帆は追及しない。
ところが午後になっても。
夕方になっても。
その一本は新聞紙に包まれたままだった。
重治は何度か手に取る。
そして置く。
また手に取る。
また置く。
菜帆は作業小屋の前でお茶を飲みながら、それを見ていた。
「……何だ」
「何も」
「さっきから見てるだろ」
「見てませんよ〜」
「見てる」
「重治さんが三回持って、三回戻したのは見ましたけど」
「全部見てるじゃねえか」
菜帆が笑う。
重治は諦めたように椅子へ座った。
「昔な」
ぽつり。
「このアスパラを毎年一本だけ持っていく相手がいた」
菜帆は黙って続きを待つ。
相手は、新発田の城下町で小さな洋食店を営んでいた片桐孝一。
重治と同い年。
四十年以上の付き合いだった。
まだ新発田産アスパラが今ほど知られていなかった頃。
重治が太いアスパラを市場へ持ち込んでも、
「こんなに太かったら硬いだろ」
「料理に使いづらい」
と嫌がられた。
その時。
一人だけ買った男がいた。
孝一だった。
「太いなら、太いなりに料理すりゃいい」
そう言った。
店へ持ち帰り。
皮を少しむき。
フライパンへ。
バター。
塩。
それだけ。
重治はその料理を食べて驚いた。
「自分で作ったもんなのに、こんなにうまいと思わなかった」
それ以来。
毎年。
春。
最初に採れた中から一番いい一本を、孝一へ持っていく。
孝一が料理する。
二人で食う。
時には孝一の妻も一緒に。
四十年近く続いた習慣だった。
「でも今年はな」
重治が新聞紙を見る。
「店、閉めちまった」
菜帆。
「どうしてですか」
「奥さん亡くなったんだよ」
それ以上。
重治の声が少し小さくなる。
孝一の洋食店は、夫婦二人の店だった。
夫が厨房。
妻がホール。
注文を取り。
常連客としゃべり。
レジを打ち。
夫の料理に文句を言い。
時には仕込みも手伝った。
妻を亡くした孝一は、
「俺一人じゃ店じゃない」
と言って。
シャッターを閉めた。
それからほとんど外へ出ていないという。
菜帆は新聞紙を見る。
「でも今年も取っておいたんですね」
重治。
「……癖だ」
「四十年の?」
「うるせえ」
菜帆は少し笑った。
「届けましょうか」
「いらねえって言う」
「言われたら持って帰ればいいです」
「簡単に言うな」
「アスパラ一本だから軽いですよ」
「そういう重さの話じゃねえ!」
それでも。
翌日。
二人は城下町へ向かっていた。
重治がアスパラを持ち。
菜帆が横を歩く。
「何でお前まで来る」
「方向一緒なので」
「絶対嘘だろ」
「ばれました?」
閉ざされた洋食店。
看板には、
洋食キッチン・若葉
の文字。
シャッターは下りたまま。
裏手の住居を訪ねる。
しばらくして。
片桐孝一が出てきた。
以前は真っ白なコック服を着ていたという男。
今は無精髭。
少し痩せている。
孝一は重治を見る。
菜帆を見る。
そして。
新聞紙から覗くアスパラを見る。
一言。
「いらねえよ」
重治。
「ほら見ろ」
菜帆。
「予想通りでしたね〜」
孝一。
「店やめたんだ」
重治。
「家で食え」
「いらねえ」
「毎年食ってただろ」
「今年はいらねえ」
「食え」
「嫌だ」
「食え」
「嫌だ」
菜帆は二人を見比べる。
「……仲いいですね〜」
二人同時。
「良くない!」
菜帆。
「息ぴったりですよ」
二人。
「うるさい!」
しばらく押し問答。
最後には孝一が折れた。
「分かったよ!」
店の鍵を開ける。
久しぶりにシャッターが上がる。
暗い店内。
椅子。
テーブル。
カウンター。
壁に掛かったメニュー。
そして。
厨房。
孝一が入ったところで。
動きが止まる。
流し台。
包丁。
フライパン。
棚。
壁に掛かった妻のエプロン。
誰もしゃべらない。
重治も。
菜帆も。
孝一はしばらくそこに立っていた。
「……ここ入るの、あいつが死んでから初めてだ」
菜帆は何も言わなかった。
「元気出してください」
とも。
「奥さんも喜びますよ」
とも。
言わない。
そんなことは。
菜帆には分からないからだ。
孝一がアスパラを見る。
「一本だけ料理したってしょうがねえだろ」
重治。
「三人いる」
孝一が菜帆を見る。
菜帆。
「私は食べますよ〜」
「お前は遠慮しないな」
「農家なので、食材は大事にします」
孝一が。
久しぶりに。
包丁を持つ。
根元。
皮。
フライパン。
火をつける。
その瞬間。
小さな音がした。
カチッ。
そして。
青い炎。
止まっていた厨房に。
もう一度。
火が灯る。
バター。
じゅっ。
アスパラ。
香り。
重治。
「焼きすぎんなよ」
孝一。
「四十年料理やってる俺に言うな」
「俺のアスパラだ」
「俺が料理してんだ」
菜帆。
「始まりましたね〜」
「何がだ」
「いつものやつ」
「いつものって何だ!」
一本のアスパラを三つに切る。
皿へ。
塩。
それだけ。
菜帆。
「いただきます」
一口。
目を丸くする。
「……おいしい」
重治。
「だろ」
孝一。
「俺が焼いたんだ」
「俺が作ったんだ」
「生で食っとけ」
「お前こそ畑来て作ってみろ」
菜帆。
「本当に仲いいですね〜」
二人。
「良くない!」
そして。
孝一も一口。
噛む。
動きが止まる。
重治は何も言わない。
菜帆も。
孝一の目が。
少しだけ潤む。
「……あいつ」
小さな声。
「これ、好きだったな」
毎年。
重治がアスパラを持ってくると。
妻は、
「今年も来たねえ」
と笑った。
孝一が焼く。
妻が食べる。
「今年の方が甘い」
「去年もそう言っただろ」
「そうだっけ」
そんな。
どうでもいい会話。
そのどうでもいい毎日が。
もうない。
孝一は目を伏せる。
菜帆はティッシュを渡したりしない。
励まさない。
ただ。
一緒にアスパラを食べる。
しばらくして。
孝一が言う。
「うまいな」
重治。
「当たり前だ」
それだけだった。
数週間後。
菜帆は新発田市内の地域活動を手伝っていた。
地域の子ども食堂。
経済的な事情だけではない。
共働き家庭。
一人で夕飯を食べる子。
地域のお年寄り。
誰でも来られる小さな食堂だった。
困っているのは。
調理スタッフ。
「菜帆ちゃん、誰か料理できる人知らない?」
責任者の女性から聞かれる。
菜帆の頭に。
一人の顔が浮かぶ。
翌日。
孝一の家。
「子ども食堂で料理できる人探してるそうですよ〜」
孝一。
「俺はもう料理人じゃねえ」
菜帆。
「そうですか」
「……それだけ?」
「はい」
「もうちょっと勧めろよ」
「嫌なんですよね?」
「嫌っていうか……」
「じゃあ考えておいてください」
「お前、営業向いてねえな」
「農家なので〜」
そして。
子ども食堂の日。
菜帆は厨房で野菜を洗っていた。
新発田産アスパラ。
にんじん。
玉ねぎ。
キャベツ。
菜帆が黙々と洗う。
後ろから。
「それ、洗い方雑だぞ」
声。
菜帆は振り返る。
孝一。
白い調理衣。
少し古いエプロン。
菜帆は笑う。
「来たんですね」
「一回だけだ」
「はい」
「本当に一回だけ」
「分かりました」
「来月は来ないからな」
「まだ今月ですよ〜」
孝一。
「うるさい」
厨房へ入る。
その瞬間。
顔が変わる。
包丁。
まな板。
火。
鍋。
フライパン。
何十年も身体に染み込んだ動き。
メニューは。
新発田産アスパラと豚肉の炒め物。
小さなハンバーグ。
野菜スープ。
炊きたてのご飯。
そこへ。
重治までアスパラを持って現れる。
孝一。
「何しに来た」
「余った」
「嘘つけ」
「使え」
「多すぎる」
「子ども多いんだろ」
菜帆。
「仲いいですね〜」
二人。
「良くない!」
もはや様式美だった。
子どもたちが入ってくる。
「いい匂い!」
「今日ハンバーグ?」
「アスパラ嫌い!」
孝一。
「一口食ってから言え」
少年。
「嫌だ!」
「半分!」
「嫌!」
「一センチ!」
菜帆。
「料理長、値切り交渉みたいになってますよ〜」
「誰が料理長だ」
子ども。
「料理長!」
孝一。
「……まあ、それならいい」
菜帆。
「嬉しそうですね」
「うるさい!」
結局。
少年は一口。
少し考える。
「……これなら食える」
孝一。
「だろ?」
その顔。
久しぶりに。
誇らしそうだった。
一回だけ。
そう言っていた孝一。
翌月。
また来た。
菜帆。
「一回だけでは?」
「今日は人が足りないって聞いた」
その次の月。
また来た。
「余った食材があるからだ」
さらに次。
「子どもがハンバーグ食いたいって言うから」
いつしか。
子どもたちは孝一を、
「料理長」
と呼ぶようになった。
孝一も。
「お前ら残すなよ」
「野菜も食え」
「走るな!」
と怒鳴りながら。
楽しそうだった。
洋食店を再開するわけではない。
妻を失った悲しみも。
なくならない。
店のシャッターも。
今のところ閉じたまま。
でも。
月に一度。
朝起きて。
包丁を研ぐ理由ができた。
買い物へ行く理由ができた。
「料理長、今日は何?」
と聞いてくる子どもがいる。
それは。
孝一にとって。
新しい生きがいだった。
ある日の子ども食堂。
営業終了。
孝一が厨房を見る。
菜帆。
流し台。
山のような皿。
黙々と洗っている。
「菜帆」
「はい?」
「お前、戦隊ヒロインなんだろ?」
「一応」
「大学生で」
「はい」
「大きな農家の娘で」
「まあ、はい」
孝一は皿を指す。
「なのに皿洗いか」
菜帆は泡まみれの手を見る。
「皿洗わないと、次の料理出せないですよ〜」
「もっと格好いいことしろよ」
「これ大事ですよ」
「地味だな」
「知ってます〜」
孝一が笑った。
以前。
妻を亡くし。
厨房から離れ。
家へ閉じこもっていた男。
今は。
笑っている。
菜帆も笑う。
「孝一さん」
「何だ」
「楽しいですか?」
一瞬。
孝一の顔が止まる。
そして。
子どもたちが帰った食堂を見る。
使い終わった皿。
空になった鍋。
重治が置いていったアスパラの箱。
「……まあな」
菜帆。
「そっか」
それだけ。
深く聞かない。
夕方。
城下町新発田。
食堂に灯りがつく。
その灯りの下。
重治が新しいアスパラを持ってくる。
「来月分だ」
孝一。
「こんなにいらねえ!」
「二十人食うんだろ!」
「量考えろ!」
菜帆。
「余ったら私が持って帰りますよ〜」
二人。
「お前が一番得するな!」
三人の笑い声。
後日。
戦隊ヒロインプロジェクトのスタッフが菜帆に聞いた。
「菜帆さん、また人を助けたんですね」
菜帆。
「誰を?」
「片桐さん」
「私、何もしてないですよ〜」
「でも、子ども食堂につないだでしょう」
「場所教えただけです」
「アスパラも届けた」
「ついて行っただけ」
「最初に話聞いた」
「横にいただけ」
スタッフが笑う。
「菜帆さんって、いつもそれですね」
「そうですか?」
「“何もしてない”って」
菜帆は少し考えた。
そして。
「だって」
「最後に歩くのは本人ですから」
穏やかに言う。
「私は、ちょっと一緒に歩くだけですよ〜」
新発田。
城下町。
広い田園。
温泉。
そして。
「太い、甘い、柔らかい」アスパラガス。
この町で育った一本のアスパラが。
一人の農家から。
一人の老料理人へ渡った。
それだけ。
けれど。
その一本が。
四十年の友情をもう一度つなぎ。
亡き妻との温かな記憶を呼び戻し。
止まっていた厨房へ火を灯し。
最後には。
子どもたちの夕食へつながった。
派手な戦闘ではない。
怪人もいない。
ステージもない。
歓声もない。
それでも。
誰かがまた明日を楽しみにできるようになったのなら。
それも。
戦隊ヒロインの立派な仕事なのだろう。
越後の情花・本間菜帆。
今日も。
必殺技の代わりに野菜を洗い。
華麗なアクションの代わりに皿を洗う。
その向こう。
孝一の声。
「菜帆! 皿まだか!」
「今洗ってますよ〜!」
「ヒロインだろ、早くしろ!」
「ヒロインと皿洗いの速度は関係ないです〜!」
「口動かす前に手動かせ!」
「はーい!」
新発田の夕暮れ。
子ども食堂の小さな厨房には。
今日も。
料理の匂いと。
子どもたちの声と。
そして。
一度は消えかけた老料理人の笑い声が、温かく灯っていた。




