田んぼの向こうに灯るもの――越後の情花と、ひとり暮らしの老女
戦隊ヒロインと聞いて、人が思い浮かべるものはだいたい決まっている。
派手な衣装。
華やかなイベントステージ。
大勢の観客。
そして時には、危険な任務。
悪と対峙し、人々を守る。
それは間違いではない。
だが、本間菜帆は少し違った。
新潟市在住。
地元の国立大学で農業を学びながら、実家の大規模スマートファームを手伝う農ガール。
異名は、
「越後の情花」
本人はこの呼び名を少し照れくさがっている。
「花ってほど華やかじゃないんだけどね〜」
と言う。
事実。
華やかではなかった。
同じ農ガールでも、茨城県常陸太田市の山口唯奈なら、愛機のドリームトラクター「蒼牙2000・改」を派手に乗り回し、子どもたちから大歓声を浴びる。
菜帆は違う。
軽トラック。
長靴。
帽子。
軍手。
登場しても歓声は起きない。
「おはようございま〜す」
と普通に現れる。
しかし。
イベントが終われば最後まで椅子を片付け。
子どもの忘れ物を拾い。
困っている人を見つければ、誰より早くその横へ行く。
それが菜帆だった。
ある初夏の夕方。
菜帆は実家のスマートファームで、水田に設置したセンサーを確認していた。
スマートフォンの画面には、水位、気温、土壌温度、気象予測。
指先だけで複数の田んぼの状態が分かる。
若い農場スタッフが感心して言った。
「便利ですよねえ。これなら、いちいち田んぼまで見に行かなくてもいいんじゃないですか?」
菜帆は画面を閉じた。
「でも行くよ」
「何でです?」
「田んぼに怒られるから」
「田んぼって怒るんですか?」
菜帆は少し考えた。
「たぶん」
「たぶんなんですね」
「数字だけ見てると、気づかないことあるからね〜」
その日も菜帆は軽トラックに乗り、田んぼを一枚ずつ見て回った。
稲の色。
風。
水。
畦。
空。
センサーの数字と、目の前の田んぼを重ねる。
帰り道。
菜帆は一枚の小さな田んぼに目を留めた。
周囲には、大型農機が入れるよう整備された広い水田が並んでいる。
だが。
その田んぼだけは小さい。
畦は少し曲がり。
水路も昔ながら。
その水口のところに。
一人の老女がいた。
腰を曲げ。
棒で泥を寄せ。
水の量を調整している。
菜帆は軽トラックを止めた。
「こんばんは〜」
老女が振り返る。
「はい?」
「お手伝いしましょうか?」
「いらんいらん」
即答。
菜帆。
「そうですか〜」
普通ならそこで帰る。
菜帆も、帰るつもりだった。
しかし。
少し離れた畦へ腰を下ろした。
水筒を出す。
老女が気づく。
「何してるの?」
「休憩です」
「自分の田んぼあるんでしょ?」
「あります」
「じゃあ、そっち行きなさい」
「今休憩中なので」
老女は怪訝な顔。
「変な子だねえ」
菜帆。
「よく言われます」
それが。
佐伯トミとの出会いだった。
八十歳近い。
一人暮らし。
夫を数年前に亡くした。
息子夫婦は県外。
それでも。
家の前にある小さな田んぼだけは、今も自分で守っている。
数日後。
菜帆はまた来た。
トミ。
「あんた、また来たの?」
「通り道なので」
「昨日も来たでしょ」
「昨日も通り道だったので」
「毎日ここ通るの?」
菜帆は少し考える。
「最近、通るようになりました」
トミ。
「わざとだろ」
菜帆。
「ばれました?」
トミは笑った。
少しずつ。
二人は話すようになった。
昔の農業。
今の農業。
天気。
米。
近所。
亡くなった夫。
ある日。
菜帆は小さな機械を持ってきた。
「これ、水位センサーです」
トミ。
「いらん」
また即答。
「田んぼの水が減ったらスマホで分かります」
「いらん」
「夜に見に来なくても」
「いらん」
「……そうですか」
菜帆はしまった。
トミが拍子抜けする。
「勧めないの?」
「嫌だって言ってるので」
「最近の若い人って、もっと押してくるんじゃないの?」
「私、営業じゃないですから〜」
トミ。
「ヒロインなんでしょ?」
「ヒロインでも押し売りはしません」
二人で笑う。
しかし。
菜帆には気になっていることがあった。
トミは、少しずつ歩くのが遅くなっている。
畦を歩く時。
休む回数が増えた。
立ち上がる時。
膝へ手をつく。
暑い日でも。
夕方でも。
田んぼへ来る。
ある日。
水路をまたごうとして。
トミの身体がぐらりと傾いた。
「危ない!」
菜帆が腕を掴む。
トミ。
「大丈夫、大丈夫」
菜帆。
「大丈夫じゃない人、だいたい最初にそれ言いますよ〜」
「年寄り扱いするな」
「してません」
「じゃあ離して」
「真っすぐ立てたら」
トミ。
「頑固だねえ」
菜帆。
「トミさんに言われたくないなあ〜」
その日は。
家まで送った。
麦茶を飲ませ。
少し休ませる。
そこで菜帆は。
仏壇の横に飾られた写真を見る。
若い頃のトミ。
隣には夫。
二人とも泥だらけ。
田んぼの中で笑っている。
「ご主人ですか?」
「そう」
「この田んぼ、一緒に?」
「ずっと」
トミは静かに話した。
結婚した時。
子どもが生まれた時。
大雨で田んぼが水につかった年。
豊作だった年。
機械を初めて買った時。
夫が病気になった時。
そして。
夫が亡くなった時。
「全部、あの田んぼだったんだよ」
菜帆は黙って聞く。
トミは仏壇を見る。
「この田んぼやめたらね」
少し間。
「父ちゃんまで、本当にいなくなる気がするんだよ」
普通なら。
「そんなことありませんよ」
と励ますのかもしれない。
でも。
菜帆は言わなかった。
否定する理由がないと思った。
トミにとって。
あの田んぼは。
夫と過ごした時間そのものなのだ。
菜帆。
「……そうなんですね」
それだけ。
その帰り。
菜帆はずっと考えていた。
危ない。
でも。
やめさせるのは違う。
全部スマート農業へ変えるのも違う。
翌日。
実家の農場。
スタッフが言う。
「だったらセンサー付ければいいじゃないですか」
菜帆。
「本人が嫌なんだって」
「でも倒れたら危ないですよ」
「うん」
「どうするんです?」
菜帆は腕を組む。
そして。
数日後。
再びトミの家。
「提案があります」
トミ。
「また機械?」
「ちょっとだけ」
「いらん」
「まだ説明してません」
「機械って言ったから」
菜帆。
「話だけ」
「五分」
「三分で」
菜帆の案は。
水位センサーを一個だけ付ける。
水口は昔のまま。
作業も基本的には今まで通り。
ただし。
水位が大きく変わった時だけ、菜帆のスマートフォンへ通知が来る。
夜。
猛暑の日。
体調の悪い時。
その時だけ。
菜帆や実家の農場スタッフが確認する。
トミの農業を奪わない。
でも。
危ない部分だけ。
誰かに頼る。
トミはしばらく考えた。
「中途半端だねえ」
菜帆。
「中途半端でいいんですよ」
「最新にするなら全部やるんじゃないの?」
「農業って、ずっとそんなもんじゃないですか?」
トミが見る。
「昔のやり方を残して」
「楽できるところだけ機械にして」
「また変えて」
「また残して」
「全部新しくしなくてもいいと思います」
トミ。
「大学で習ったの?」
菜帆。
「今考えました」
トミが吹き出した。
「適当だねえ!」
「でも結構いいこと言ったと思いません?」
「自分で言うかね」
結局。
センサーを一個。
付けることになった。
ところが。
設置後。
菜帆。
「これでスマホから――」
トミ。
「スマホ持ってないよ」
沈黙。
菜帆。
「……え?」
トミは昔ながらの携帯電話を出す。
「これ」
菜帆。
「想定外でした」
トミ。
「大学行ってるのに?」
「大学生にも想定外はありますよ〜」
結局。
通知は菜帆へ届く。
何かあれば。
菜帆がトミへ電話する。
トミ。
「それじゃ、あんたの仕事増えただけじゃない」
「そうですね」
「何のためのスマート農業なの?」
「トミさんが楽するためです」
「菜帆ちゃんが楽になってない」
「まあ、いいですよ〜」
トミは呆れた。
「本当に損な性格だねえ」
菜帆。
「よく言われます」
それから。
少しずつ。
生活が変わった。
トミは田んぼへ行く。
今まで通り。
稲を見る。
水を見る。
畦を歩く。
ただし。
夜中には行かなくなった。
暑い日の昼も。
少し休むようになった。
菜帆も。
毎日ではない。
時々。
様子を見る。
トミの家でお茶を飲む。
漬物。
煎餅。
「もっと食べなさい」
「太りますよ〜」
「あんた細いんだから大丈夫」
「農家のおばあちゃん、みんなそう言うんですよ」
「じゃあ、みんな正しいんだよ」
「多数決じゃないですよ〜」
そんな夏。
県外に住む息子一家が帰省した。
息子は。
田んぼを見て。
母を見る。
「もう、やめてもいいんじゃないか」
空気が固くなる。
トミ。
「まだできる」
「そういう問題じゃないんだよ」
「一人で何かあったらどうする」
「余計な心配しなくていい」
「心配するよ!」
菜帆もそこにいる。
だが。
口を挟まない。
親子には。
親子で言わなければならないことがある。
すると。
小学生の孫娘が田んぼを見た。
「ばあちゃん」
「何?」
「これ、ばあちゃんの田んぼ?」
「そうだよ」
「おじいちゃんも?」
トミの声が少し柔らかくなる。
「やってたよ」
「来年、田植えやりたい」
大人たちが黙る。
「学校でやったけど、もっとやりたい」
トミ。
「朝早いよ」
「何時?」
「五時」
「無理!」
全員。
吹き出す。
息子も笑う。
久しぶりに。
トミも笑う。
少しして。
息子が言う。
「来年」
「俺も来るよ」
トミ。
「仕事は?」
「休む」
「本当に?」
「たまには」
菜帆へ視線。
「どう思います?」
菜帆。
「私に聞かれても」
「ヒロインでしょ?」
「農家です」
「どっちでもいいから、いいこと言ってください」
菜帆。
「じゃあ」
少し考える。
「田植えの日、雨降らないといいですね〜」
息子。
「そこ!?」
また笑い。
秋。
稲穂が黄金色になる。
小さな田んぼ。
トミ。
息子。
嫁。
孫。
そして菜帆。
みんなで収穫する。
大きなスマート農場ではない。
最新鋭の機械もない。
小さな田んぼ。
古い畦。
昔ながらの作業も残っている。
孫が稲を抱える。
「重い!」
トミ。
「米食べるのは簡単なんだから」
菜帆。
「名言ですね〜」
トミ。
「大学で使っていいよ」
「出典・佐伯トミって書きます」
「やめなさい!」
収穫後。
新米を炊く。
白い湯気。
茶碗。
孫が口いっぱいに頬張る。
「おいしい!」
トミ。
「そりゃそうだ」
息子も食べる。
しばらくして。
母を見る。
「来年もやる?」
トミ。
「さあね」
菜帆。
「農業に絶対はないですからね〜」
トミ。
「それ、私が教えたんだよ」
菜帆。
「私が先です」
「証拠は?」
「ありません」
笑い。
夕暮れ。
菜帆が帰ろうとする。
田んぼの向こう。
トミの家に灯りがつく。
以前は。
一人で暮らす家の灯りだった。
今夜は。
窓の向こうから。
孫の声。
息子の声。
笑い声。
菜帆が軽トラックへ向かう。
後ろから。
「菜帆ちゃん!」
トミ。
菜帆が振り返る。
「はい?」
「ありがとう!」
菜帆は困ったように笑う。
「何にもしてないですよ〜」
「センサー付けた」
「付けただけです」
「電話した」
「通知来たからです」
「息子とも話した」
「トミさんたちが勝手に話したんですよ」
「本当に素直じゃない子だね!」
「トミさんに言われたくないです〜」
二人で笑う。
菜帆は軽トラックへ乗る。
エンジンをかける。
少し走って。
バックミラーを見る。
小さな家。
その向こう。
小さな田んぼ。
灯り。
菜帆は思う。
戦隊ヒロインの仕事とは。
何なのだろう。
怪人と戦うこと。
人々を危険から守ること。
ステージで子どもたちへ夢を見せること。
もちろん。
全部そうだ。
でも。
それだけではない。
誰かが一人で無理をしている時。
その人の大切なものを、
「危ないからやめなさい」
と取り上げるのではなく。
どうすれば大切なまま残せるのか。
一緒に考える。
話したくなるまで待つ。
困った時だけ。
少し手を貸す。
そんな仕事も。
きっと戦隊ヒロインなのだ。
派手な必殺技はない。
観客の歓声もない。
テレビカメラもない。
けれど。
誰か一人が。
明日も安心して笑えるなら。
菜帆にとっては。
それで十分だった。
車窓の向こう。
新潟の田園。
秋の風に。
黄金色の稲穂が揺れている。
そのずっと向こうに。
一軒の家の灯りが。
小さく。
けれど確かに。
ともっていた。
越後の情花・本間菜帆。
彼女の戦い方は。
誰かを倒すことではなく。
時には。
誰かの大切な灯を、消さないことだった。




