『一株だけの約束――田んぼを嫌った少年と、越後の情花・本間菜帆の収穫祭』
新潟県新潟市。
日本海に面した大都市でありながら、少し郊外へ出れば視界いっぱいに田んぼが広がる。
大きな川。
水路。
橋。
ビル。
そして水田。
都会と農村が、妙に自然な顔をして隣り合っている。
そんな町で、本間菜帆は育った。
地元の国立大学で農業を学びながら、実家の大規模スマートファームを手伝う農ガール。
戦隊ヒロインとしての異名は、
「越後の情花」
である。
ただし。
本人はその呼び名を聞くたびに、少し困った顔をする。
「情花って、なんか照れるんだよね〜」
一方。
茨城県常陸太田市には、もう一人の農ガールヒロインがいる。
山口唯奈。
こちらは派手である。
愛機、
ドリームトラクター「蒼牙2000・改」
を乗り回し。
イベントでは豪快に登場。
少年たちが、
「唯奈ちゃーん!」
と叫べば、
「よーし、行くぞー!」
と満面の笑顔で応える。
アクションも派手。
性格も明朗快活。
ヒロインとして非常に分かりやすい。
いわば、
「動」の農ガール。
対して菜帆。
イベント会場へ来ても。
派手に登場しない。
普通に軽トラックから降りてくる。
農作業用の帽子。
長靴。
軍手。
そして、
「おはようございま〜す」
と挨拶する。
スタッフより先に苗箱を運ぶ。
忘れ物をした子がいれば一緒に探す。
誰かが転べば、その子が泣く前に横へしゃがむ。
集合写真ではだいたい端にいる。
「静」の農ガール。
ヒロインらしくない。
と言われれば、本人も否定しない。
「まあ、怪人毎日出てくるわけじゃないしね〜」
それが菜帆だった。
ある初夏。
菜帆の実家が営むスマートファームで、小学生向けの田植え体験が行われることになった。
目的は食育。
自分たちが毎日食べている米が、
どこで。
どう育てられ。
誰が。
どれだけ手をかけているのか。
実際に田んぼへ入って知ってもらう。
戦隊ヒロインプロジェクトも協力した。
当日の朝。
子どもたちがバスから降りてくる。
「広っ!」
「田んぼしかない!」
「カエルいる!」
「虫いる!」
「帰りたい!」
開始一分で意見が分裂していた。
菜帆は笑いながら出迎える。
「おはようございま〜す。本間菜帆です。今日は皆さんに田植えをやってもらいます」
男の子が手を挙げる。
「トラクター乗れる?」
「今日は乗れません」
「えー!」
別の子。
「唯奈ちゃんの蒼牙2000・改は?」
「今日は来ません」
少年たち。
「ええーっ!」
菜帆。
「みんな私じゃ不満なんだね〜」
先生が慌てる。
「そ、そんなことないですよ!」
菜帆。
「大丈夫です。慣れてますから」
笑いが起きる。
田植え開始。
裸足になった子どもたちが恐る恐る泥へ入る。
「うわあああ!」
「足抜けない!」
「冷たい!」
「先生、靴下脱ぎ忘れた!」
「何で履いたまま入ったの!」
一人転ぶ。
べちゃ。
全身泥。
周囲大爆笑。
菜帆。
「大丈夫?」
少年。
「大丈夫!」
「じゃあそのまま続けよっか」
「着替えは!?」
「あとでね〜」
実にのんびりしている。
菜帆は一株ずつ苗を見せる。
「これをね、三本か四本くらい」
「根っこを傷めないように」
「深すぎると育ちにくいし、浅すぎても倒れます」
女の子。
「難しい!」
「最初は曲がっても大丈夫」
男の子。
「菜帆ちゃんの曲がってない!」
「二十年くらいやってるからね」
「二十年!?」
「小さい頃から手伝ってるから」
「ベテランだ!」
「大学生なんだけどなあ〜」
また笑い。
その中で。
一人だけ。
田んぼへ入っていない少年がいた。
小学六年生。
翔太。
畦道に座ったまま。
靴を脱ごうともしない。
苗も触らない。
先生が声をかける。
「翔太君」
返事なし。
「せっかくだから、ちょっとだけでもやってみない?」
「嫌です」
「みんなやってるよ」
「やりたくない」
友達が泥の中から叫ぶ。
「翔太、泥怖いんだろ!」
翔太が顔を上げた。
「違う!」
「じゃあ入れよ!」
「うるさい!」
先生が注意しようとする。
その時。
菜帆が、
「先生」
と静かに止めた。
そして翔太へ。
「今日は見てるだけでもいいよ〜」
翔太が怪訝そうに見る。
「……いいの?」
「うん」
「田植え体験なのに?」
「体験って、絶対やらなきゃいけないものでもないから」
「でも先生が」
「先生には私から言っとく」
先生も困った顔で頷く。
「まあ、本間さんがそう言うなら……」
菜帆はそれ以上話しかけなかった。
また田んぼへ戻る。
苗を植える。
子どもの質問に答える。
転んだ子を起こす。
カエルを捕まえた少年に、
「あとでちゃんと返してね〜」
と言う。
翔太は。
しばらくそれを見ていた。
十分。
二十分。
三十分。
そして。
自分から近づいてくる。
畦の端。
「ねえ」
菜帆が振り返る。
「ん?」
「戦隊ヒロインなんでしょ?」
「そうだよ」
「何でこんな泥だらけなん?」
菜帆は自分を見る。
膝まで泥。
手も泥。
頬にも少し泥。
「農家だから」
「ヒロインじゃないの?」
「両方」
「ヒロインって、怪人倒すんじゃないの?」
「怪人が毎日来たら、新潟大変だよ〜」
翔太が少し笑った。
菜帆は気づく。
でも。
そこを突かない。
また苗を植える。
翔太がぽつりと言う。
「父ちゃんも昔、米作ってた」
菜帆の手が止まる。
ほんの一瞬。
「そうなんだ」
「今はやってない」
「うん」
「失敗したから」
菜帆は顔を上げない。
それが翔太には話しやすかった。
「田んぼ増やしたんだって」
「機械も買って」
「借金して」
「でもうまくいかなかった」
「それでやめた」
声が少し固くなる。
「父ちゃん、農業なんかやるもんじゃないって言ってる」
「米なんか作っても儲からないって」
菜帆。
「そっか」
翔太。
「だから俺も嫌い」
菜帆は苗を植える。
「農業も嫌い」
もう一株。
「田んぼも嫌い」
もう一株。
「米も嫌い」
菜帆。
「そっか」
翔太が少し苛立つ。
「それだけ?」
「うん」
「怒らないの?」
「何で?」
「菜帆さん、米作ってんだろ?」
「作ってるよ」
「じゃあ米嫌いって言われたらムカつかない?」
菜帆は少し考えた。
「嫌いになる理由あったんでしょ?」
翔太は黙る。
「それ聞いてから怒るか考えようかな」
「変なの」
「よく言われる」
菜帆は畦へ上がった。
翔太の隣に座る。
距離は少し空ける。
「農業ってさ」
「うん」
「いいことばっかりじゃないよ」
翔太が見る。
「雨降ってほしい時に降らないし」
「降らなくていい時に降るし」
「暑すぎる年もあるし」
「病気も出るし」
「機械壊れると高いし」
「肥料も高いし」
「頑張れば絶対儲かる、なんて仕事でもない」
翔太。
「じゃあ何でやってんの?」
菜帆。
「うーん」
遠く。
田んぼ。
子どもたち。
空。
「好きだから、だけでもないかな」
「嫌になる時もあるよ」
翔太。
「ヒロインなのに?」
「ヒロインでも嫌な日はあるよ〜」
「唯奈ちゃんとかいつも楽しそう」
「唯奈ちゃんは元気すぎる」
翔太が笑う。
「でもね」
菜帆は続ける。
「お米って、今日植えて明日できるものじゃないでしょ」
「うん」
「何か月もかけて育てる」
「水見て」
「天気見て」
「稲見て」
「失敗したら来年また考える」
少し笑う。
「ヒーロー番組みたいに、三十分で全部解決しないんだよ」
翔太。
「戦隊ヒロインなのに?」
「だから私、派手なヒロイン向いてないんだと思う」
「必殺技ないの?」
「あるよ」
翔太が少し目を輝かせる。
「何?」
菜帆。
「草取り」
「地味!」
「ものすごく効くよ」
翔太は声を出して笑った。
その笑い声を聞いても。
菜帆は、
「笑ったね」
とは言わない。
ただ立ち上がる。
「じゃあ、私戻るね」
翔太。
「うん」
菜帆が二、三歩進む。
その時。
「……一本だけなら」
菜帆が振り返る。
「ん?」
翔太が靴を脱いでいる。
「一株だけ」
菜帆。
「いいよ」
「それ以上やらないから」
「うん」
「絶対一株」
「分かった」
笑いすぎない。
喜びすぎない。
菜帆はただ空いている場所を指す。
「じゃあ、ここ」
翔太が泥へ足を入れる。
一歩。
「うわっ!」
「どうした?」
「気持ち悪い!」
「最初はそうだよ〜」
二歩。
「足抜けない!」
「真上に引っ張らないで、ちょっと斜めに」
「先に言ってよ!」
「今聞かれたから」
「ヒロイン役に立たない!」
「ごめんね〜」
近くの子どもたちが笑う。
翔太も。
菜帆が苗を渡す。
「三本くらい」
「こう?」
「もうちょっと根っこの方」
「ここ?」
「そう」
翔太が植える。
曲がる。
「……曲がった」
菜帆。
「曲がったね」
「直してよ」
「自分で直せば?」
「ヒロインなんだからやってよ!」
「そこは農家の仕事じゃなくて翔太君の仕事」
「ケチ」
「はいはい」
翔太が直す。
一株。
真っすぐ。
菜帆。
「あ」
「何?」
「できた」
翔太は少し嬉しそうだった。
だが。
すぐに平静な顔へ戻す。
「もうやらない」
「うん」
「絶対やらない」
「うん」
「……もう一本ならやってもいいけど」
菜帆。
「どっち?」
翔太。
「うるさい!」
結局。
三株植えた。
菜帆は誰にも言わなかった。
先生にも。
友達にも。
「翔太君、できたね!」
などとは言わせなかった。
ただ。
その日の最後。
翔太が帰る時。
「菜帆さん」
「ん?」
「さっきの苗」
「うん」
「ちゃんと育つ?」
菜帆。
「たぶん」
「たぶん?」
「農業に絶対はないから」
翔太は少し不満そう。
「でも」
菜帆が続ける。
「ちゃんと見とくよ」
翔太。
「……お願い」
「はい」
夏。
菜帆は田んぼを見た。
翔太の苗がどれか。
もう分からない。
全部同じように伸びていた。
秋。
黄金色。
収穫祭。
再び小学生たちがやってくる。
翔太も来た。
そして。
その後ろ。
父親。
菜帆はすぐ分かった。
少し硬い顔。
「本間さんですか」
「はい」
「息子がお世話になりました」
菜帆。
「何にもしてませんよ〜」
父。
「何か余計なこと、話しませんでしたか」
「余計なこと?」
「うちのこととか」
菜帆は少し考えた。
「田んぼ嫌いって言ってました」
父の顔が曇る。
「……そうでしょうね」
菜帆。
「でも三株植えました」
父が顔を上げる。
「三株?」
翔太が遠くから叫ぶ。
「二株だったかもしれない!」
菜帆。
「三株!」
「覚えてない!」
菜帆。
「私が覚えてます!」
父が。
少し笑った。
ほんの少し。
収穫。
子どもたちが鎌を持つ。
安全確認。
稲を刈る。
翔太もやる。
今度は嫌がらない。
作業後。
翔太が田んぼを見る。
「俺が植えたのどれ?」
菜帆。
「分かんない」
「何で!」
「もう全部同じだから」
「見とくって言ったじゃん!」
「育つか見とくって言ったの」
翔太。
「ずるい!」
菜帆。
「大人だからね〜」
「最低!」
笑い。
菜帆は一面の稲を指す。
「でも、このどこかにはあるよ」
「どこ?」
「分からない」
「じゃあ意味ないじゃん」
菜帆。
「そうかな」
翔太が見る。
「翔太君が植えた三株だけ特別じゃなくて」
「みんなが植えたのも」
「うちの家族が植えたのも」
「機械で植えたのも」
「全部一緒に育って」
「一緒にお米になる」
「それでいいんじゃない?」
翔太は何も言わなかった。
収穫祭。
炊きたての新米。
湯気。
茶碗。
漬物。
味噌汁。
翔太が一口食べる。
しばらく噛む。
もう一口。
父が横に座っている。
「どうだ?」
翔太。
「……うまい」
父の目が少し揺れる。
翔太。
「父ちゃんも食えよ」
「俺はいい」
「いいから」
茶碗を差し出す。
父が受け取る。
一口。
沈黙。
翔太。
「どう?」
父。
「……うまいな」
それだけ。
菜帆は少し離れたところで。
他の子の茶碗へご飯をよそっている。
二人のところへ行かない。
スタッフが小声で、
「菜帆さん」
「ん?」
「あそこ」
「うん」
「いいんですか? 行かなくて」
菜帆。
「何で?」
「せっかく……」
菜帆は親子を見る。
父と息子。
一つの米袋。
二人で話している。
「今、私いらないですよ〜」
それだけ。
しばらくして。
翔太が小さな米袋を持ってくる。
「菜帆さん」
「ん?」
「これ持って帰っていい?」
「もちろん」
「父ちゃんと食べる」
「うん」
少し間。
翔太。
「来年も田植えやる?」
「たぶん」
「たぶんばっかりだな」
「農業だからね〜」
翔太。
「じゃあ」
照れくさそう。
「来年は三株より多くやる」
菜帆。
「好きなだけどうぞ」
翔太。
「全部はやらないから」
「うん」
「十株くらい」
「はい」
「二十でもいいけど」
「はいはい」
「……一列でもいい」
菜帆。
「増えてるね〜」
「うるさい!」
翔太は父のところへ走っていく。
父が菜帆へ頭を下げた。
菜帆も。
小さく頭を下げる。
問題が全部解決したわけではない。
父の失敗は消えない。
農業をやめた過去も変わらない。
借金の記憶も。
家族が苦しんだ時間も。
なかったことにはならない。
でも。
父と息子が。
同じ米を、
「うまい」
と言って食べた。
それで。
今日は十分だった。
夕方。
イベント終了。
スタッフが片付けをしている。
菜帆も当然のようにパイプ椅子を運ぶ。
若いスタッフ。
「菜帆さん」
「はい?」
「ヒロインなんだから、片付けは僕らがやりますよ」
「人手足りないでしょ」
「でも」
「ヒロインが椅子運んだら駄目?」
「……いや」
「じゃあ運ぼ」
二人で運ぶ。
少し離れた場所。
黄金色の田んぼ。
夕日。
風。
稲穂が揺れる。
スタッフが言う。
「今日、いいことしましたね」
菜帆。
「私が?」
「翔太君」
「ああ」
「救いましたよね」
菜帆は首を振る。
「そんな大げさな」
「でも」
「私は苗渡しただけですよ〜」
それ以上。
何も言わない。
農ガールヒロイン。
山口唯奈なら。
きっと大きな笑顔で。
大きな声で。
子どもたちの先頭を走る。
それも素晴らしい。
そして。
本間菜帆は。
最後尾を歩く。
誰か一人。
遅れている子がいないか見ながら。
誰か一人。
黙っている子がいないか気にしながら。
急がせない。
引っ張らない。
それでも。
気がつけば。
その人が自分から一歩前へ出ている。
「動」の山口唯奈。
「静」の本間菜帆。
どちらも農ガール。
どちらも戦隊ヒロイン。
ただ。
菜帆の必殺技は。
派手な光線でも。
華麗なアクションでもなかった。
相手の隣へ座ること。
黙って話を聞くこと。
必要な時だけ。
ほんの少し手を差し出すこと。
日本海から吹く秋の風。
一面の稲穂。
その中を。
翔太と父が並んで歩いていく。
菜帆は遠くから見送った。
そして。
いつもの柔らかい笑顔で。
「来年も来るといいね〜」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
越後の情花、本間菜帆。
世界を救ったわけではない。
怪人を倒したわけでもない。
ただ。
田んぼを嫌っていた一人の少年が。
もう一度、
「ご飯って、うまいな」
と思えるところまで。
隣を歩いただけだった。




