白波小町、原点へ帰る――富山湾のマーメイド、漁港に響く「日本海、ふたり旅」
白波小町のデビュー曲『日本海、ふたり旅』は、発売初週こそ全国週間シングルチャート四位という、本人たちですら目を疑う順位を記録した。
ところが翌週。
百八十六位。
ブラックキャブプロダクション社長・野村吉彦、通称ノムさんはランキング表を見つめて、
「……ナイアガラじゃ」
と呟いた。
その後も順位は富山湾の深海を潜航する潜水艦のように、低いところを静かに行ったり来たり。
だが。
大作曲家・浪花川龍太郎から言われた、
「歌はこころや」
という言葉は、氷見ゆりえと阿部柚葉の胸に残っていた。
客が五人なら、その五人に歌えばいい。
一枚しか売れなければ、その一枚を買ってくれた人に頭を下げればいい。
十年後。
二十年後。
誰かがふと口ずさんでくれれば、その歌はまだ生きている。
二人はランキングを気にしすぎなくなった。
もちろんノムさんは、
「ロングセラー百週じゃ!」
と別方向へラッパを吹き始めていたが、それは放っておくことにした。
そんな折。
CS放送局から白波小町へ、一つの企画が持ち込まれた。
題して、
『白波小町・日本海ふたり旅――歌の故郷を訪ねて』
『日本海、ふたり旅』に歌われた景色を、白波小町本人たちが実際に巡る。
単なる観光番組ではない。
二人の故郷。
家族。
芸能界入りのきっかけ。
そして今へ至る道のり。
それらを歌詞の風景と重ねる紀行ドキュメンタリーだった。
出演者は三人。
氷見ゆりえ。
阿部柚葉。
そして、なぜかノムさん。
企画書を見たブラックキャブの古参スタッフは少し驚いた。
「社長」
「何じゃ?」
「熱湯ないですよ」
「いらんわ!」
「午前四時ドッキリも」
「何で入れる必要があるんじゃ!」
「変なすごろくも」
「わしを何じゃ思うとる!」
スタッフ全員が同じ顔をした。
ノムさんは眉をひそめる。
「たまには人情番組くらいやらせんかい!」
「“たまには”なのは自覚あるんですね」
「うるさい!」
最初の目的地は富山県高岡市。
富山湾の爆乳マーメイド・氷見ゆりえの故郷である。
東京を出た時にはいつも通りだったゆりえだが、高岡が近づくにつれて少しずつ口数が減った。
車窓の向こうに見慣れた景色が増えてくる。
柚葉が隣から覗き込む。
「ゆりえさん」
「何?」
「緊張してる?」
ゆりえは一度笑った。
「ちょっとだけちゃ」
「地元なのに?」
「地元やからやちゃ」
ノムさんが前の席から振り向く。
「何年芸能人やっとるんじゃ」
「芸能人として帰るのと、娘として帰るんは違うちゃ」
ノムさんは少し黙った。
「……まあ、それはそうじゃの」
珍しく正論に押し切られた。
ゆりえには、今でも少し引っかかっていることがあった。
高校卒業後。
地元の漁協へ就職する予定だった。
内定も出ていた。
そこへノムさんが現れた。
高岡を訪れていたノムさんが、偶然ゆりえを見つけ、
「この子は写真にしたら化ける」
と言い出した。
本人は驚いた。
家族も驚いた。
とりわけ父は猛烈に反対した。
それでも東京へ出た。
グラビアタレントになった。
戦隊ヒロインになった。
写真集を出した。
演歌まで歌った。
人生がまるごと別の方向へ曲がった。
だが時々。
ふと思う。
自分を待ってくれていた漁協の人たちは、どう思っているのだろう。
内定を辞退して、迷惑をかけたのではないか。
そんな小さな罪悪感が、今も心の隅に残っていた。
最初のロケ地。
漁協。
入口をくぐった瞬間。
「おお!」
声が上がった。
「ゆりえちゃんや!」
「帰ってきたが!」
ベテラン職員が笑顔で出迎える。
ゆりえも深々と頭を下げた。
「ご無沙汰しとります」
「ほんまやちゃ」
カメラが回る。
スタッフが質問する。
「ゆりえさん、こちらに就職する予定だったんですよね?」
職員が苦笑する。
「そうながいちゃ。若い子が入ってくるいうて、みんな楽しみにしとったがやけどねぇ」
ゆりえの表情が少し固くなる。
「……すみません」
職員。
「何謝っとるが」
「でも、内定もらっとったがに……」
「そんなん、いつの話やちゃ」
職員は笑った。
「今の方がええがやない?」
ゆりえ。
「え?」
「テレビ出とったらみんな見るし」
「戦隊ヒロインやっとる言うたら、ここでも話になるし」
「演歌まで歌うとは思わんかったけど」
事務所の中に笑いが起きる。
職員は続けた。
「もう地元の自慢やちゃ」
「高岡の子が東京出て、富山のこと言うてくれる」
「それでええがいね」
「高岡や富山湾のええところ、これからもいっぱい広めてくれたら嬉しいちゃ」
ゆりえはしばらく何も言えなかった。
逃げたような気がしていた。
故郷から。
決まっていた仕事から。
当たり前になるはずだった人生から。
だが。
職員は違う言い方をした。
出ていったのではない。
外へ持っていった。
富山を。
高岡を。
自分の故郷を。
ゆりえは目を少し潤ませながら笑った。
「そんなこと言われたら、泣きそうになるちゃ」
職員。
「まだ昼やぞ」
ノムさん。
「泣くのは夜まで取っとけ!」
柚葉。
「社長が決めることじゃありません」
「細かい!」
漁港へ出る。
潮の匂い。
漁船。
魚箱。
威勢のいい声。
海の向こうには富山湾。
番組ではここで『日本海、ふたり旅』のイントロが重なる。
柚葉が海を見る。
「ここなんだね」
「何が?」
「歌の最初の景色」
ゆりえも海を見る。
東京のスタジオで何十回も聞いた旋律。
そこに今、本物の海がある。
「なんか変な感じちゃ」
「どうして?」
「今まで想像しながらやっとったがに、目の前に全部あるちゃ」
柚葉が微笑む。
「今日はちゃんと歌えそう」
ゆりえ。
「うちは歌わんけどね」
「語りも歌の一部でしょ」
「詩織ちゃんみたいなこと言うちゃ」
三人は港の食堂にも立ち寄る。
白えび。
刺身。
昆布締め。
焼き魚。
汁物。
富山湾の魚が並ぶ。
柚葉は一口食べて目を見開いた。
「おいしい」
ゆりえが急に饒舌になる。
「やろ? 富山の魚はほんまうまいちゃ」
「何でこんなに?」
「海が深いから――」
説明を始める。
地元へ戻ると、とたんに頼れる案内役だった。
ノムさんはというと。
ほとんど喋らず食べている。
スタッフ。
「野村さん、コメントお願いします」
「待て」
「撮影です」
「今この刺身が大事なんじゃ」
ゆりえ。
「社長、富山来ると仕事せんちゃ」
柚葉。
「食レポ番組なら完璧ですね」
ノムさん。
「うまいもん食う時は黙るんが礼儀じゃ!」
スタッフ。
「テレビでは困ります」
次に向かったのは、父が仕事をする漁港。
こちらではさらに大騒ぎ。
「ゆりえちゃん帰ってきたぞ!」
「白波小町や!」
「演歌歌手!」
「戦隊ヒロイン!」
「グラビア!」
肩書が多すぎて統一感がない。
ゆりえ。
「どれか一個にしてちゃ!」
漁師仲間たちは大歓迎。
当然、話題は父へ向かう。
スタッフ。
「お父さん、普段ゆりえさんのお話します?」
漁師仲間。
「するする!」
別の男。
「知らん言いながら、全部知っとる!」
「テレビ何時からかも知っとるぞ!」
「雑誌の発売日も!」
「写真集も持っとる!」
遠くから父の声。
「余計なこと言うな!」
全員。
「本人来たぞ!」
父は相変わらず無愛想。
ゆりえ。
「お父ちゃん」
「何や」
「元気?」
「見れば分かるやろ」
「そういうとこ変わらんちゃ」
漁師仲間。
「歌出す話もこいつから聞いたぞ!」
父。
「言うとらん!」
「言うた!」
「曲名まで覚えとった!」
父。
「知らん!」
「『日本海、ふたり旅』言うとったやろ!」
父。
「……たまたま覚えとっただけや!」
さらに決定的な証拠。
父の漁船。
操舵室。
そこに貼られていたのは。
着物姿の白波小町のポスター。
ゆりえはしばらく固まった。
「…………」
父。
「何や」
「お父ちゃん」
「何や」
「これ何?」
「知らん」
「お父ちゃんの船やろ?」
「知らん」
柚葉が静かに言う。
「かなり苦しいですね」
漁師仲間。
「自分で貼っとったぞ!」
父。
「うるさい!」
一同大爆笑。
ゆりえも笑う。
けれど。
胸の奥は少し違った。
芸能界入りを一番反対した父。
自分を東京へ出すことを最後まで嫌がった父。
その父が。
自分のポスターを。
毎日乗る船に貼っている。
「……ほんま、素直じゃないちゃ」
小さな声。
父には聞こえなかった。
夜。
ゆりえの実家。
築百年近い古い日本家屋。
黒光りする柱。
広い座敷。
欄間。
仏間。
長く一族が暮らしてきた時間そのもののような家だった。
母と姉も登場する。
母は最初から芸能界入りに賛成だったという。
「本人がやりたいなら、やらせればいいと思いました」
姉も基本的には賛成。
ただし。
「一つだけ、本当に不思議でした」
スタッフ。
「何ですか?」
姉。
「なぜ、ゆりえだったんだろうって」
ゆりえ。
「お姉ちゃん!」
姉。
「違う違う」
笑いながら続ける。
「妹だからもちろんかわいいとは思ってましたよ」
「でも、学校にはもっと目立つ子もいたし、華やかな子もいたし」
「ゆりえは、どっちかというと地味だったんです」
ゆりえ。
「そこまで言うちゃ?」
「だって漁協に就職すると思ってたもん」
「うちも思っとったけど」
スタッフ。
「野村さんは、どこを見たんです?」
カメラがノムさんへ。
ノムさんは少しだけ姿勢を直す。
「完成しとる子を探すだけがスカウトじゃないんよ」
「まだ本人も知らんもんを持っとる子がおる」
「写真になった時に、何か引っかかる」
「ゆりえには、それがあった」
姉。
「最初から売れると思ったんですか?」
ノムさん。
「絶対とは言わん」
ゆりえ。
「そこは言い切らんが?」
「芸能界に絶対なんぞない」
珍しく現実的だった。
「でも東京へ連れて帰って、一回勝負させたいとは思った」
ゆりえはしばらくノムさんを見る。
自分でも自分を芸能人だと思っていなかった頃。
この男だけが、
「化ける」
と言った。
今や写真集。
テレビ。
戦隊ヒロイン。
白波小町。
ゆりえが小さく笑う。
「……社長、見る目あったんやね」
ノムさん。
「今さら気づいたんか!」
「普段が普段やから」
母と姉まで笑った。
だが話は少し真面目になる。
母は言う。
「今でも危ないお仕事は心配です」
「戦隊ヒロインって、普通の芸能活動とは違いますから」
姉も頷く。
「生徒から妹のこと聞かれることもあります」
「でも、姉としては芸能人として成功するより、ちゃんと元気で帰ってきてくれる方が大事です」
ゆりえは静かに聞く。
「それと」
姉が笑う。
「せっかく高岡から全国へ出たんだから、地元のこといっぱい言ってね」
ゆりえ。
「うん」
その夜。
番組の最後の撮影。
広い座敷。
父。
ノムさん。
二人だけ。
ゆりえは別室。
番組スタッフも最低限。
日本酒。
刺身。
しばらく二人とも何も言わず飲む。
珍しい。
普段ならノムさんは三十秒黙っているのも難しい。
だが。
ここでは急がなかった。
父が口を開く。
「昔の話やけど」
「はい」
「俺は反対やった」
ノムさん。
「知っとります」
「芸能界なんか信用しとらんかった」
「それも知っとります」
「高校出て、漁協で働けばええと思っとった」
父は酒を飲む。
「あの子が東京行って」
「知らん大人ばっかりのところ行って」
「何年続くかも分からん仕事して」
「親からしたら、怖いだけや」
ノムさんは頷く。
「当然です」
父。
「あんた、何回高岡来た?」
「よう覚えとらんです」
「しつこかったな」
ノムさんが笑う。
「それが商売ですけえ」
父。
「商売いうな」
二人で少し笑う。
そして父が真顔になる。
「あの時」
「娘を預かる以上、責任持って守るって言うたな」
ノムさんも表情を変える。
「言いました」
「覚えとるか」
「もちろんです」
少し沈黙。
ノムさんは静かに言う。
「ゆりえは、うちの商品じゃないです」
「所属タレントではあります」
「でも、その前に」
「お父さんとお母さんから預かった娘さんです」
父は黙って聞く。
「売れとる時だけ大事にして」
「売れんようになったら、はい終わり」
「そんな扱いはせんです」
「うちにおる以上は最後まで面倒見ます」
いつもの野村ラッパはない。
紅白も。
レコ大も。
ミリオンも。
何もない。
ただ一人の芸能事務所社長として話している。
父が言う。
「今まで、大きな怪我はないな」
「はい」
「仕事、楽しいみたいやな」
「楽しいと思います」
父は少しだけ笑う。
「そうか」
また酒。
「テレビも……まあ、見とる」
ノムさん。
「全部じゃろ?」
「知らん」
「雑誌も?」
「知らん」
「漁船のポスターも?」
「知らん」
ノムさんが笑った。
「何にも知らんのう」
父。
「うるさい」
少し間。
父。
「歌出すいうた時は、驚いた」
ノムさん。
「わしもです」
「お前が始めたんやろ」
「まあ、そうじゃけど」
父が笑う。
「俺、演歌好きやから」
「聞きました」
「娘が歌出したいうんは」
少し照れくさそうにグラスを見る。
「……まあ、嬉しいわな」
ノムさんは何も茶化さない。
ただ頷く。
そして父が言う。
「野村さん」
「はい」
「これからも」
短い間。
「頼む」
ノムさんは父を見る。
十数年前。
まだ何者でもなかった高校生のゆりえを巡って交わした約束。
ノムさんは静かに答えた。
「任せんさい」
翌朝。
漁港。
簡単な特設ステージ。
漁協職員。
漁師仲間。
母。
姉。
そして父。
目の前には、本物の富山湾。
イントロ。
『日本海、ふたり旅』。
柚葉が歌う。
東京で何度も歌った旋律。
だが今日は、その向こうに本物の海がある。
歌詞の中の白い波。
朝。
港。
故郷。
全部が目の前にある。
間奏。
ゆりえ。
語り。
いつものように。
いや。
いつもとは少し違う。
故郷で。
故郷の人たちへ。
そして。
ここで働いていたかもしれない、もう一人の自分へ。
自然に言葉を置く。
声が少し震えた。
それでも無理に整えない。
歌はこころ。
浪花川先生の言葉を思い出す。
曲が終わる。
拍手。
その中。
父も拍手している。
大きく。
ゆりえと目が合う。
父はすぐ横を向く。
ゆりえは笑う。
「……ほんま素直じゃないちゃ」
後日。
番組OA。
ゆりえ自身も、父とノムさんのサシ飲み部分を初めて見る。
父が当時どれほど心配していたか。
ノムさんが、
「責任持って守る」
と約束していたこと。
そして父の、
「娘が歌出したいうんは、まあ嬉しいわな」
という一言。
ゆりえは黙った。
少しして。
涙が一滴。
隣の柚葉が何も言わずティッシュを渡す。
ゆりえは笑いながら受け取る。
「うち、ずっと勘違いしとったかもしれんちゃ」
「何を?」
「お父ちゃん、うちが東京行ったこと、ずっと嫌なんやと思っとった」
「でも違ったんやね」
「嫌やったんやなくて」
「怖かったんや」
娘が知らない場所へ行くことが。
自分の手の届かない世界へ行くことが。
今なら分かる。
ゆりえは涙を拭いた。
「……うち、ここまで来て良かったんやね」
柚葉が穏やかに頷く。
「うん」
そして。
別の日。
同じ番組を、隼人補佐官のマンションで芹沢遥室長も見ていた。
父とノムさん。
酒。
約束。
「任せんさい」
番組終了。
隼人。
「どうだった?」
遥は黙る。
いつもならノムさんと言えば。
午前四時生配信。
くだらない鉄道企画。
熱湯風呂。
キタノ軍団。
だいたい、
「くだらないのら!」
で終わる。
しかし。
今回は違った。
遥。
「……ノムさん」
「うん」
「ちゃんと約束守ってたのら」
隼人。
「見直した?」
「少しだけなのら」
「少しか」
「普段が普段なのら」
「厳しいな」
遥はもう一度、消えたテレビ画面を見る。
「あのお父さんに、“娘さんを守る”って言って」
「ずっと面倒見てるのは立派なのら」
隼人。
「本人に言ってやれば?」
遥。
「絶対言わないのら」
「何で?」
「調子に乗るからなのら」
その判断は正しかった。
その頃。
ブラックキャブプロダクション。
視聴者の評判が良かったと聞いたノムさんは、
「見たか! わしの人情旅!」
と既にラッパを吹き始めていた。
スタッフ。
「もう戻った」
「いつもの社長や」
ノムさん。
「次も行くぞ!」
「どこです?」
ホワイトボードに。
富山。
その隣。
もう一つの地名。
ノムさんが赤い丸を付ける。
柚葉はそれを見て、少しだけ表情を変えた。
今度は。
自分が帰る番だった。
白波小町の「ふたり旅」は。
まだ半分しか終わっていなかった。




