昨日は巨大桃、今日は白衣――日本一忙しい循環器医・藤崎紗絢に休日はない
前日。
広島市内。
一人の女が、巨大な白桃になっていた。
正確に言えば、巨大な白桃の被り物を頭からすっぽりかぶり、岡山名物のきびだんごを模した巨大模型を抱えながら、障害物競走を全力で走っていた。
いや。
途中までは走っていた。
三秒後には、
「どっち!?」
と進行方向を見失っていた。
山口代表の安岡真帆――巨大フグ装着中――から、
「藤崎先生、左です! 左!」
と誘導され、
広島代表の江波のどか――巨大もみじ饅頭装着中――から、
「先生ー! そっちゴールじゃないけぇ!」
と怒鳴られ、
全国百万人以上が見ている生配信のコメント欄には、
《桃を誘導するフグ》
《備前の慧医、方向喪失》
《この人本当に医者なの?》
《昨日まで学会にいた人とは思えない》
という文字が猛烈な勢いで流れていた。
その女の名は、
藤崎紗絢。
二十七歳。
岡山市出身。
岡山医科大学附属病院循環器科勤務。
備前の慧医。
岡山の新星。
美人過ぎる女医。
日本一忙しい循環器医。
そして、その日限定で加わった肩書が、
中国四国で二番目に強い桃。
「ヒロヒロ感謝祭――中国四国ご当地ヒロイン頂上決戦」で、開催地補正をこれでもかと受けた江波のどかに敗れて総合二位。
賞品として、大宮麗奈が大きく印刷された謎のクリアファイルを受け取った。
岡山とも広島とも関係がない。
埼玉県上尾市で作られたものである。
だが紗絢は満面の笑顔で、それを生配信のカメラへ掲げた。
「岡山のおばあちゃーん! やったよー!」
津山市の祖母フミエはタブレットへ向かって、
「見とるでぇぇ! さやぁ! でーれーよう頑張ったのう!」
と絶叫。
祖父は、
「二番じゃろうが」
と言いながら、誰より嬉しそうに笑っていた。
そんな一日から。
一夜明けた。
午前七時前。
岡山医科大学附属病院。
白い廊下を、白衣姿の若い女医が歩いていた。
背筋は伸びている。
髪はきちんと整っている。
手にはタブレット。
首からは職員証。
表情は爽やか。
昨日、巨大桃の葉っぱが風で揺れただけで、
「今のは不可抗力でしょう!」
と審判へ本気で抗議していた人物とは、とても同一人物に見えない。
研修医が紗絢を見つけた。
「藤崎先生、おはようございます」
「おはようございます」
紗絢はいつもの笑顔。
研修医は数秒迷ってから聞いた。
「先生」
「はい?」
「昨日……広島にいましたよね?」
「いましたよ」
「ヒロヒロ感謝祭ですよね?」
「そうです」
「桃でしたよね?」
紗絢は首をかしげる。
「岡山代表ですから」
そこは疑問を持つところではないらしい。
研修医はさらに尋ねる。
「今日、普通に勤務なんですか?」
「勤務日ですから」
「昨日、夜まで広島ですよね?」
「そうですね」
「その前も病院にいましたよね?」
「いましたね」
「先生、休みは?」
「昨日、イベント楽しかったですよ」
それは休みとは言わない。
だが本人の中では成立している。
紗絢はカルテを確認しながら病室へ入った。
そこから、空気が変わる。
「おはようございます。昨日の夜、眠れました?」
患者の顔を見る。
声を聞く。
呼吸を見る。
ほんの少しのむくみも確認する。
データだけではない。
いつもと違うところはないか。
患者自身が何を感じているか。
昨日まで桃だった人間とは思えないほど、真剣だった。
いや。
藤崎紗絢という女にとっては、どちらも真剣なのである。
桃も本気。
循環器医も本気。
ただし世間が求める本気の方向が、だいぶ違うだけだった。
午前九時。
外来。
最初の患者は、長く紗絢の診療を受けている高齢女性だった。
「こんにちは。今日はどうですか?」
紗絢が尋ねる。
女性は椅子へ座るなり、にやっと笑った。
「先生」
「はい?」
「昨日見たで」
紗絢の表情が、ほんの少しだけ固まる。
「……何をですか?」
「桃」
診察室の隅にいた看護師が下を向いた。
笑いをこらえている。
患者は続ける。
「でーれー大きい桃かぶっとったなあ」
「ご覧になってたんですね」
「家族みんなで見たわ」
「ありがとうございます」
「瀬戸大橋のジェスチャー、ありゃ分からんで」
紗絢が珍しく言葉に詰まった。
「……あれは自分でも途中から難しいと思ってました」
看護師が吹き出した。
患者も大笑い。
「先生にもあんなとこあるんじゃなあ」
「ありますよ。私だって普通の人間ですから」
「普通の人は桃かぶって障害物競走せんけどな」
正論だった。
紗絢も笑った。
その患者はしばらく笑ったあと、少しだけ声を柔らかくした。
「でもな、先生」
「はい」
「元気もろうたわ」
紗絢が顔を上げる。
「え?」
「病院来て、薬飲んで、検査して。また次の予約取って。最近そんなんばっかりじゃったけどな」
患者は微笑む。
「昨日、家族で久しぶりに腹抱えて笑うた。先生が桃になって走りょうるん見て」
紗絢の顔から、わずかに冗談っぽさが消えた。
「……そうですか」
「うん」
「それなら」
紗絢は、晴れの日の岡山のようにからりと笑った。
「桃になった甲斐がありました」
この言葉だけは本心だった。
診察が終わり、患者を送り出す。
看護師が言った。
「先生、うれしそうですね」
「うれしいですよ」
「桃を褒められたから?」
「違います」
即答。
少し考えて、
「いや、ちょっとはそれもありますけど」
そこは認める。
そして言った。
「患者さんから“元気をもらった”って言ってもらえるの、医者としてもうれしいじゃないですか」
「医療じゃなく桃で?」
「方法は何でもいいんです」
「いいんですか」
「結果として元気になってくれたなら」
その言葉には、紗絢という医師の性格がよく表れていた。
患者を診る。
病気を治す。
それが本職。
けれど病気だけを診るわけではない。
その人がどう生きたいのか。
何を楽しみにしているのか。
どうすれば少しでも明るい気持ちで治療を続けられるのか。
伯父であり師匠でもある藤崎恒一から、
「自分なりの治療法を確立しろ」
と言われ続けてきた紗絢が、少しずつ見つけ始めている自分の医療でもあった。
ただし。
藤崎恒一本人は、そんな姪の成長を素直に褒めるような男ではない。
午後。
症例検討会。
紗絢が担当症例について説明する。
恒一が資料を見る。
「根拠は?」
「国内外の研究を踏まえて――」
「他には?」
答える。
「代替案は?」
答える。
「それが使えなければ?」
答える。
「その次は?」
紗絢が眉を寄せる。
「教授」
「何だ」
「昨日の桃の疲労がまだ若干残ってるので、今日は質問一個くらい減らしてもらえません?」
恒一は無表情。
「患者に関係あるか?」
「ありません」
「なら続けろ」
「ですよね」
一切の情けなし。
ところがその恒一も、紗絢が前日ヒロヒロ感謝祭へ出演していたことは当然知っている。
症例検討が終わり、紗絢が資料をまとめていると、恒一が何げなく言った。
「二位だったそうだな」
紗絢が止まる。
「見たんですか?」
「見てない」
「じゃあ何で知ってるんです?」
「母さんから電話が来た」
津山の祖母フミエである。
紗絢が吹き出す。
「おばあちゃん、伯父さんにも報告したんだ」
「三十分聞かされた」
「何を?」
「お前が桃でどう走ったか」
「全部?」
「だいたい全部」
恒一の顔が少し疲れている。
「医学の話で伯父さんを三十分拘束できる人、なかなかいませんよね」
「母さんだけだ」
そこだけは紗絢も納得した。
恒一は資料を閉じる。
「それより」
「はい」
「この前言ったこと、忘れてないだろうな」
紗絢にも分かる。
「自分なりの治療法を確立しろ、でしょ」
「そうだ」
「忘れてません」
「最新論文を読んでいるだけでは足りない」
「分かってます」
「学会へ行って最新知識を仕入れただけでも足りない」
「分かってますって」
「何を見て、何を重視し、最後に何を選ぶか」
恒一が紗絢を見る。
「藤崎紗絢ならどう診るのか。それを作れ」
何度聞いても厳しい宿題だった。
だが以前とは違う。
紗絢はもう、伯父と違う答えを出すことだけを目標にはしていない。
恒一と同じ結論になる日もある。
違う結論になる日もある。
大事なのは、自分の根拠で、自分の患者へ、自分の責任で向き合うこと。
「了解です、教授」
恒一が頷く。
紗絢が一歩歩きかけてから振り返る。
「ちなみに桃は?」
「何が」
「二位」
「医学的評価の対象外だ」
「ですよね」
そこは評価してくれなかった。
そんな紗絢には、岡山の外から声が掛かることも少なくない。
若い。
臨床能力がある。
研究意欲も強い。
患者とのコミュニケーションにも定評がある。
そして国内循環器医療の権威・藤崎恒一のもとで鍛えられている。
都内の大病院から、
「こちらへ来ないか」
と誘われたこともある。
海外で数年間研究し、
「さらに腕を磨いてはどうか」
と勧める先輩医師もいた。
紗絢は、そうした意見そのものを否定しない。
東京には東京の良さがある。
海外でしか経験できない医療もある。
世界には知らないことが山ほどある。
だから学ぶ。
しかし、
「じゃあ東京へ移りますか?」
と聞かれると、
「今のところ、そのつもりはないですね」
と笑う。
理由は単純だった。
岡山が好きだから。
岡山で生まれた。
岡山で育った。
県北へ行けば津山の祖父母がいる。
父・藤崎宗一も岡山の医療現場で働いている。
伯父・恒一もここで循環器医療を極めている。
紗絢にとって岡山は、
「地方だから仕方なくいる場所」
ではない。
ここで医師を続けたい場所だった。
ある若手医師から聞かれたことがある。
「先生、東京に出ないと情報面で不利じゃないですか?」
紗絢は笑った。
「今の時代、岡山にいたら医学論文が読めないわけじゃないでしょう?」
「まあ、それはそうですけど」
「海外の先生ともオンラインで話せるし、発表だって聞けるし。便利な世の中ですよ」
岡山にいる。
だから世界を見ない。
そんな発想は、紗絢にはなかった。
むしろ世界へ行く。
頻繁に行く。
頻繁すぎる。
ある日。
東京。
白石陽菜と松本美紀が、タブレット越しに紗絢と話していた。
陽菜は戦隊ヒロイン一の人気を誇る美少女。
白いリボンの妖精。
そして紗絢にとっては、大切な心臓病患者でもある。
画面の中の紗絢はいつも通りだった。
ただし。
背景が明らかに日本ではない。
陽菜が聞いた。
「先生」
「はい?」
「そこ、どこですか?」
「ハンブルク」
「……浜松?」
「ハンブルク」
美紀が画面を覗く。
「ドイツですよね?」
「うん」
陽菜、
「先生、この前岡山にいませんでした?」
「一昨日はいたよ」
「何で今ドイツなんですか?」
「学会」
まるで、
「駅前へ本を買いに来ています」
くらいの口調である。
美紀が聞く。
「何日いるんですか?」
「学会終わったら帰るよ」
「観光は?」
「時間あったら少しくらい」
「ドイツですよ?」
紗絢が笑う。
「海外だからって大げさに考えすぎじゃない?」
陽菜と美紀が同時に言う。
「先生が軽すぎるんです」
紗絢にとって国内外の学会は、もはや日常の延長線にある。
岡山から大阪へ。
岡山から東京へ。
岡山から福岡へ。
岡山からハンブルクへ。
距離の概念が少し壊れている。
近所のショッピングモールで新商品を見るような感覚で、欧州へ最新医療を仕入れに行く。
もちろん本人にそう言うと、
「それはさすがに言い過ぎ」
と否定する。
ただし声は弱い。
その学会でも、紗絢は新しい研究発表を聞く。
データを見る。
専門家へ質問する。
論文を読む。
難しい症例について議論する。
理由の一つは、もちろん自分自身の医師としての成長。
そしてもう一つ。
白石陽菜だった。
陽菜は重大な心疾患を抱えている。
現在できることだけ知っていても足りない。
来年。
五年後。
十年後。
新しい治療が出てくるかもしれない。
今なら難しいことが、将来なら可能になるかもしれない。
だから知っておきたい。
一つでも多く。
紗絢はハンブルクのホテルで、タブレット越しに陽菜を見る。
「昨日、ちょっと寝不足?」
陽菜の顔が固まる。
「……どうして分かるんですか?」
「顔」
美紀も、
「私もそう思いました」
と言う。
陽菜が不満そう。
「一人はドイツ、一人は東京ですよね?」
「距離関係ないから」
紗絢が笑う。
「便利な時代だよね。私がハンブルクにいても陽菜ちゃんの状態がだいたい分かるんだから」
「便利なのは分かりますけど、先生が怖いです」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてません」
そして陽菜は、少し真面目な顔になった。
「先生」
「なに?」
「私のために、そんなに勉強してくれてるんですか?」
紗絢は少し考える。
簡単に、
「そうだよ」
とは言わない。
医師として、陽菜だけを診ているわけではない。
「陽菜ちゃんだけのためじゃないよ」
「ですよね」
陽菜が笑う。
しかし紗絢は続ける。
「でも」
少しだけ声が柔らかくなる。
「陽菜ちゃんのためでもある」
陽菜は何も言えなくなる。
横で美紀が微笑む。
紗絢はさらりと話題を変える。
「だから今日はちゃんと寝てね」
陽菜、
「急に主治医へ戻った」
「ずっと主治医です」
「ドイツからでも?」
「ドイツからでも」
陽菜に逃げ場はない。
学会から岡山へ戻れば。
また恒一。
「どうだった」
「面白い研究ありましたよ」
「それで?」
「またそれですか」
「お前ならどう使う」
帰国早々、試験が始まる。
「対象は?」
答える。
「日本人患者への応用は?」
答える。
「リスクは?」
答える。
「既存治療との差は?」
答える。
「その患者が治療より生活を優先したいと言ったら?」
一瞬考える。
そして答える。
恒一は黙って聞く。
最後に、
「まだ甘い」
紗絢。
「帰国して何時間だと思ってるんですか」
「時差は医学に関係ない」
「人間には関係あります!」
珍しく声が大きくなる。
恒一は気にしない。
「自分なりの治療法を確立しろ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
伯父と姪。
師匠と弟子。
その関係はこれからも変わらない。
恒一は紗絢に甘くならない。
紗絢も甘やかされたいわけではない。
ただし、
たまには七十五点くらいくれてもいいのに、
とは思っている。
そんな毎日。
病棟。
外来。
検査。
研究。
論文。
海外学会。
戦隊ヒロイン。
陽菜の診療。
気がつけば予定表は真っ黒。
若手医師が聞く。
「先生、ちゃんと寝てます?」
「寝てますよ」
「昨日何時間?」
「……」
「先生?」
「次の患者さんお願いします」
今日も逃げた。
夕方。
一日の診療が一段落する。
医局から人が減っていく。
紗絢だけまだ机に向かっている。
通りかかった同僚が思う。
また論文だろう。
研究計画かもしれない。
国際学会の資料か。
違った。
パソコン画面。
大きな文字。
『第2回ヒロヒロ感謝祭・岡山大会 必勝計画』
その下。
前回大会得点分析。
開催県加点制度の公平化。
巨大桃装着時における視野確保の改善。
ご当地障害物競技における最短ルート検討。
岡山県市町村ジェスチャー問題候補。
医師として培った分析能力が、明らかに間違った方向へ使用されている。
若手医師が固まる。
「藤崎先生」
紗絢が振り返る。
「何?」
「それ何です?」
「次のヒロヒロ感謝祭」
「医学研究じゃないですよね?」
「見れば分かるでしょ」
「前回の得点を統計処理してますけど」
「敗因分析」
真顔。
「先生、そんなに2位悔しかったんですか?」
紗絢は即答した。
「別に」
画面には、
『江波のどかとの5点差を逆転するために必要な条件』
と書いてある。
説得力はなかった。
どうやら第2回ヒロヒロ感謝祭は、岡山で開催されることが決定した――らしい。
「らしい」が付く理由。
大会委員長ノムさんから来た連絡が、
『次は岡山でやることにしたけぇ』
という一行だけだったからである。
紗絢が、
『正式決定ですか?』
と返信すると、
『まあ決定でええじゃろ』
と返ってきた。
「まあ」が気になる。
だが一応、決定扱いになった。
紗絢が今回こだわっている理由は、優勝だけではない。
津山の祖父母に。
今度は配信越しではなく。
できれば会場で直接見てもらいたい。
紗絢は夜、祖母へ電話した。
「おばあちゃん」
『なんなら、さや』
祖母フミエの元気な声。
「次のヒロヒロ感謝祭、岡山でやることになったみたい」
『ほんまか!』
声量が一気に倍になる。
『ほんなら見に行くで!』
後ろから祖父。
『何が決まったんなら』
『さやの桃じゃ!』
『桃が決まったんか』
「違う違う、おじいちゃん」
紗絢が笑う。
「イベントが岡山であるの」
祖父。
『また桃かぶるんか』
「たぶん」
祖父は少し黙る。
『今度ぁ一番取れぇよ』
「え?」
フミエがすぐ食いつく。
『あんた、見に行く気満々じゃが!』
『わしゃ行く言うとらん!』
『さやが岡山でやるんじゃけぇ行くに決まっとろうが!』
『誰が運転するんなら』
『あんたじゃ!』
『わしか!』
紗絢は声を上げて笑った。
「二人とも来てよ」
フミエ、
『行く行く! 一番前で見るで!』
「応援してね」
『でーれー笑うたるわ!』
「笑うんじゃなくて」
『笑うんも応援じゃ!』
「それ前も聞いた」
祖父が後ろから、
『さやぁ』
「なに?」
『仕事ぁちゃんとせぇよ』
「してるよ!」
『桃ばぁ研究しょったらいけんぞ』
紗絢が固まる。
「……何で知ってるの?」
『フミエが何でも喋るけぇの』
『わしゃ知らんで!』
祖母が否定する。
たぶん恒一経由で全部漏れている。
藤崎家に機密保持という概念は存在しないらしい。
電話を切る。
紗絢は一人で笑う。
津山。
岡山。
病院。
患者。
家族。
戦隊ヒロイン。
陽菜。
美紀。
恒一。
全部が、自分を形作っている。
若くして、
「岡山の新星」
と呼ばれた。
「美人過ぎる女医」
とも言われた。
「日本一忙しい循環器医」
とまで言われる。
けれど。
本人にしてみれば、まだ二十七歳。
医師としても、これからだ。
恒一から、
「自分なりの治療法を確立しろ」
と言われても。
それが完成する日は、まだ遠い。
陽菜の病気だって。
まだ分からないことがたくさんある。
自分に救えない患者にも、これから出会うだろう。
悩む。
失敗する。
迷う。
それでも。
患者を見る。
顔を見る。
話を聞く。
研究する。
世界へ飛ぶ。
また岡山へ帰ってくる。
そこだけは、たぶん変わらない。
翌朝。
岡山医科大学附属病院。
診察室。
ドアが開く。
紗絢は患者を迎える。
まず顔を見る。
歩き方を見る。
呼吸を見る。
そして笑う。
「おはようございます。今日はどうですか?」
患者が、
「先生、昨日は桃じゃなかったん?」
と言う。
紗絢、
「今日は医者です」
「明日は?」
紗絢は少し考える。
「たぶん医者です」
「“たぶん”なん?」
二人とも笑う。
それでいい。
藤崎紗絢は、一つの肩書だけで生きているわけではない。
白衣。
戦隊ヒロインの衣装。
学会のスーツ。
そして時々、巨大桃。
患者を診る時は医師。
子どもと話す時は、優しいお姉さん。
陽菜の前では主治医。
恒一の前では、まだまだ修業中の弟子。
津山へ帰れば。
ただの「さや」。
すべて同じ人間だ。
白衣だけを百パーセント。
戦隊ヒロインだけを百パーセント。
そんな器用な分け方は、彼女にはできない。
だから全部百パーセント。
医学も。
患者も。
研究も。
陽菜も。
岡山も。
そして、くだらないヒロヒロ感謝祭も。
全部本気。
当然。
休みはなくなる。
同僚が尋ねる。
「藤崎先生」
「はい?」
「今度の日曜日は休めそうですか?」
紗絢は予定表を見る。
午前。
研究資料整理。
午後。
白石陽菜とのオンライン診察。
夕方。
第2回ヒロヒロ感謝祭岡山大会の打ち合わせ。
夜。
欧州の循環器セミナー。
紗絢は予定表を閉じた。
「空いてますね」
同僚、
「どこがですか?」
「病院勤務入ってないから」
「先生、それを休日って呼ぶのやめません?」
紗絢は笑う。
「楽しいですよ」
またそれだった。
だが、本当にそう思っている。
窓の外。
岡山の空は今日も明るい。
抜けるような青。
晴れの日。
その空の下。
藤崎紗絢は白衣を翻し、次の患者のもとへ向かう。
この先。
どんな医師になるのか。
恒一から課された宿題に、どんな答えを出すのか。
白石陽菜の未来を、どこまで支えられるのか。
まだ誰にも分からない。
紗絢自身にも分からない。
だから。
これからも学ぶ。
これからも患者を見る。
これからも岡山にいる。
必要なら世界のどこへでも飛んでいく。
そして。
必要なら、また桃になる。
その夜。
誰もいなくなった医局。
紗絢の机の一番下の引き出し。
医学論文の束の下に、一冊の分厚いファイルが入っている。
表紙。
『第2回ヒロヒロ感謝祭 岡山大会必勝計画』
その下。
小さな字。
『目標――津山のおじいちゃん、おばあちゃんの前で優勝する』
そしてさらに、その横に鉛筆で追記。
『巨大桃・葉っぱの固定方法を要検討』
前回。
風で葉っぱが揺れて失格になったことを、まだ根に持っている。
医学界では、まだ完成途上。
循環器医としても、まだ若い。
だが桃としての改善点だけは、もう明確だった。
岡山の新星。
藤崎紗絢。
彼女の物語は、ここでいったん一区切り。
もっとも。
本人はそんなことなど知らない。
翌朝もまた何事もなかったように、
「次の方、どうぞ」
と診察室のドアを開ける。
そして机の引き出しでは。
第2回ヒロヒロ感謝祭の必勝ファイルが、静かに出番を待っている。
――藤崎紗絢に休日はない。
たぶん。
本人が、休日だと思っていない限りは。




