伯父の白衣は着ない――岡山の新星・藤崎紗絢、自分の医療を探す
岡山医科大学附属病院の循環器科には、二人の「藤崎」がいる。
一人は藤崎恒一。
教授。
国内循環器医療の権威。
難症例が全国から集まり、学会で壇上に立てば若い医師たちが一斉にメモを取り始めるような人物である。
そして、もう一人。
藤崎紗絢、二十七歳。
岡山市出身。
同じ循環器科に勤務する若き医師。
すらりとした長身。
整った顔立ち。
白衣姿はあまりにも様になるため、
「美人過ぎる循環器医」
などという本人にとっては少々迷惑な呼ばれ方までされている。
だが、その実力は決して容姿のおまけではない。
患者の話を丁寧に聞く。
検査データを細かく読む。
新しい論文にも目を通す。
国内外の学会へ積極的に参加する。
自ら研究論文も執筆する。
若手ながらカテーテル関連の検査や臨床にも携わり、院内では次代を担う存在として、
“岡山の新星”
と呼ばれていた。
ところが。
紗絢には、その呼び名よりはるかによく耳に入ってくる言葉があった。
「藤崎教授の姪」
そして、もっと嫌いな言葉。
「伯父の七光り」
ある日の午後。
症例検討会を終えた紗絢が廊下を歩いていた。
少し離れたところで、若い医師二人が話している。
「藤崎先生、今度の研究班にも入るんだって?」
「まあ、藤崎教授の姪だしな」
「そりゃ環境いいよなあ」
紗絢の足は止まらなかった。
表情も変わらない。
いつもの、晴れの日の岡山の空みたいなからりとした顔。
そのまま医局へ入り、自分の机へ座る。
そして。
机へ置いていた医学雑誌を、いつもより少しだけ強く開いた。
隣の医師がちらりと見る。
「藤崎先生?」
「何ですか?」
「いや……雑誌に恨みでもあるのかなって」
「ありません」
「ページ破れそうですよ」
紗絢は静かに力を抜いた。
「……大丈夫です」
全然大丈夫ではなかった。
紗絢は伯父を尊敬している。
医師として。
研究者として。
師匠として。
藤崎恒一ほど頼りになる循環器医を、紗絢は知らない。
難しい患者を前にしても判断がぶれない。
診断の根拠を必ず持つ。
感覚だけで治療を決めない。
紗絢自身、恒一から多くを学んできた。
だからこそ嫌だった。
何をしても、
「藤崎恒一の姪だから」
で片付けられるのが。
伯父を超えたいわけではない。
そもそも簡単に超えられる相手でもない。
ただ。
藤崎紗絢という一人の医師として見てほしかった。
その気持ちは年々強くなっていた。
そして、それを一番よく知っているはずの恒一は、姪に対してこれっぽっちも甘くない。
むしろ他の若手より厳しい。
症例検討会。
紗絢が発表する。
「この患者さんについては、まず――」
恒一、
「根拠は?」
「この研究と国内ガイドラインを踏まえて――」
「他には?」
答える。
「代替案は?」
答える。
「それが駄目だった場合は?」
答える。
「その次は?」
紗絢が少し眉を寄せる。
「伯父さん」
恒一、
「病院では教授と呼べ」
「……教授」
「何だ」
「私にだけ質問多くないですか?」
「そうか?」
「そうです」
「気のせいだ」
絶対に気のせいではない。
別の日。
紗絢が自分の研究計画を持っていく。
恒一は数ページ読んで、
「やり直し」
紗絢、
「どこがですか」
「全部」
「全部?」
「問いが甘い」
「三日かけたんですけど」
「三日で甘いなら七日かけろ」
「鬼ですか?」
「教授だ」
この男に情けという概念はないのかと紗絢は時々思う。
しかし恒一には、紗絢へ昔から繰り返している言葉があった。
ある夜。
医局。
二人きり。
恒一が紗絢へ言った。
「医師ならば、いつか独自の治療法を確立しなさい」
紗絢は顔を上げた。
「新しい術式を作れってことですか?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ?」
恒一は資料を閉じる。
「何を見て、何を重視して、何をもって治療方針を決めるのか。それを人から借りるな」
紗絢は黙って聞く。
「教科書は必要だ。ガイドラインも必要だ。先人の研究も必要だ」
そして恒一は紗絢を見る。
「だが最後に患者の前へ立つのは、お前だ」
「……」
「藤崎恒一ならこうする、じゃ駄目だ」
紗絢の胸へ、妙に引っかかる。
「藤崎紗絢ならどう診るのか。それを作れ」
紗絢は少しむっとした。
「それが簡単にできたら苦労しません」
恒一は平然としている。
「だから医者は一生勉強するんだ」
それが一番腹の立つ正論だった。
ところが紗絢は、その言葉を少し間違えて受け取ってしまう。
伯父と違う治療をしなければならない。
そう思い始めたのである。
恒一へ相談すればすぐ答えが出そうな症例でも、自分一人で調べる。
恒一と同じ結論へたどり着けば、
「これでは伯父の真似じゃないか」
と考え直す。
恒一がAを選びそうなら、
「私はBを選ぶ根拠を探せないか」
と余計なことまで考える。
その結果。
仕事量が増えた。
論文を読む量も増えた。
寝る時間は減った。
もっとも。
藤崎紗絢という女は、元々いつ寝ているのか誰も知らない。
同僚が午前零時に医局で論文を読む紗絢を見た翌朝。
午前六時半。
普通に病棟を歩いている。
「先生、帰りました?」
「帰りましたよ」
「寝ました?」
「寝ましたよ」
「何時間?」
「回診行きましょうか」
答えない。
それどころではなかった。
紗絢は完全に、
伯父と違う医者になろう選手権
を一人で開催していた。
そして当然。
空回りした。
担当した高齢男性。
重い循環器疾患を抱えている。
医学的には積極的な治療を考えたい症例だった。
紗絢は調べた。
最新論文。
海外データ。
年齢別の予後。
治療リスク。
合併症。
机には資料が積み上がった。
自信を持って治療方針をまとめる。
カンファレンス。
紗絢が説明する。
恒一は最後まで黙って聞いた。
そして一言。
「患者本人は何と言っている」
紗絢、
「治療には前向きです」
「それだけか」
「……それだけ、とは?」
「奥さんは」
紗絢が止まる。
患者は自宅で妻の介護をしていた。
長期入院すれば妻の生活が立ち行かなくなる。
それを本人が非常に気にしていた。
紗絢も聞いてはいた。
ただ、治療計画の中心には入れていなかった。
恒一が資料を見る。
「心臓のことはよく調べた」
「はい」
「論文もよく読んだ」
「はい」
「でも、この紙には患者がいない」
紗絢の表情が硬くなる。
「患者さんのことも考えています」
「病気のことだろ」
「同じじゃないですか」
「違う」
即答だった。
紗絢の中で何かが切れた。
「伯父さんみたいな医者になりたいわけじゃありません」
医局が静かになる。
言ってから、
しまった。
と思った。
しかし恒一は怒らなかった。
「誰が俺みたいになれと言った」
紗絢は黙る。
恒一は続ける。
「最近のお前は、俺と違う医者になろうとして、俺のことばかり見てる」
「……」
「俺が右へ行きそうなら左。俺と同じ結論になったら不安になる」
紗絢には何も言えない。
全部その通りだった。
「患者じゃなくて俺を見てどうする」
紗絢は唇を噛む。
その日は珍しく、からりとした笑顔が消えた。
そこへ、思わぬ人物が現れる。
松本美紀。
都内の看護学校へ通う看護学生。
戦隊ヒロイン。
そして白石陽菜の無二の親友。
美紀は以前、恒一と紗絢が東京へ上京し、ヒロ室で陽菜を診察した際に居合わせていた。
その時。
恒一が問診する。
紗絢が検査結果を見る。
美紀は陽菜の横に座り、本人の表情や呼吸を静かに観察していた。
恒一は、その美紀へ何げなく質問したことがある。
「松本さん。今日の陽菜さんは普段と違うところがあるか」
美紀は少し考え、
「朝から少し口数が多いです。あと、水を飲む回数が少ないです」
と答えた。
紗絢が興味を持った。
「口数?」
美紀、
「陽菜、不安だったり無理してる時ほどよく喋るんです」
陽菜、
「私そんな分かりやすい?」
美紀、
「分かりやすいよ」
陽菜、
「知らなかった……」
恒一はそれ以来、美紀の観察力を覚えていた。
紗絢も同じだった。
その美紀が、陽菜の定期診察への付き添いで岡山へ来ていたのである。
診察が一段落。
陽菜が別室へ移動。
廊下で美紀と紗絢が二人になる。
美紀が紗絢を見る。
「先生、今日変ですね」
「美紀ちゃんまで?」
「“まで”?」
「何でもない」
「疲れてます?」
紗絢が少し苦笑した。
「私も疲れるよ」
美紀は真面目に首を傾げる。
「藤崎先生が疲れてるところ、見たことないです」
「ひどいなあ」
「褒めてます」
「たぶん褒めてない」
紗絢は少しだけ笑った。
そして何となく、美紀へ事情を話した。
「私、伯父と違う医者にならなきゃって思ってるんだけどね」
美紀は黙って聞く。
「何しても“藤崎教授の姪”って言われるし」
「はい」
「だから自分の医療を作りたいんだけど……最近、何が違うのか分からなくなってきて」
美紀は少し考えた。
感情で慰めるタイプではない。
看護学生らしく、自分が実際に観察したことから答える。
「私から見ると、全然違いますけど」
紗絢が顔を上げる。
「何が?」
「患者さんを見る順番です」
「順番?」
美紀は以前のヒロ室での診察を思い出す。
「藤崎教授は、最初に病気を見てると思います」
紗絢は黙って聞く。
「心電図とか、検査データとか、病態とか。そこから患者さん全体を見ていく」
「うん」
「紗絢先生は逆です」
「逆?」
「最初に患者さんの顔を見るんです」
紗絢が少し驚く。
美紀は続ける。
「陽菜を診る時もそうでした。先生、診察室に入った陽菜の顔を最初に見てたじゃないですか」
「……そうだった?」
「はい」
「顔色とか、歩き方とか、話し方を見て、それからデータ確認してました」
美紀は静かに言う。
「藤崎教授は病気から患者さんへ入る。紗絢先生は患者さんから病気へ入る」
少し間。
「どっちがいいとかじゃないと思います」
それがいかにも美紀らしかった。
誰かを持ち上げるために、誰かを下げない。
「入り口が違うんだと思います」
紗絢はしばらく黙った。
自分がずっと探していた伯父との違いを、十八歳の看護学生が数分で言語化してしまった。
「美紀ちゃん」
「はい?」
「怖いね」
「え?」
「何でもない」
そこへ陽菜が戻ってきた。
白いリボンを揺らしながら、
「何話してるんですか?」
「美紀ちゃんが私を分析してた」
陽菜、
「ああ。それ得意ですよ」
美紀、
「得意って何」
陽菜は紗絢を見る。
「先生、なんか悩んでるんですか?」
「まあ、ちょっとね」
陽菜は深く聞かない。
その代わり、何げなく言った。
「でも私、教授と先生って全然違うと思いますよ」
紗絢、
「あなたまで?」
「教授は、私を絶対死なせないって感じ」
「私もそうだけど?」
「うん。でも先生はそれに加えて――」
陽菜は少し考える。
「私が戦隊ヒロインを続けられるようにしてくれる感じ」
紗絢は黙る。
陽菜は病気を理由にステージから降ろされることを嫌う。
紗絢はそれを知っている。
だから、
「出るな」
ではなく、
「どうすれば出られるか」
をまず考える。
出演時間を短くする。
休憩を増やす。
動きを調整する。
それでも危険なら、初めて止める。
陽菜、
「先生、私を病人にしないんですよね」
「患者ではあるよ」
「そういう意味じゃなくて」
陽菜が笑う。
「ちゃんと白石陽菜として扱ってくれる」
その言葉が、紗絢の胸へ落ちた。
翌日。
紗絢は例の高齢患者の病室へ行く。
今日は論文を持っていない。
タブレットも閉じたまま。
ベッド横の椅子へ座る。
「今日は治療の話をする前に、奥様のこと聞かせてもらっていいですか?」
患者が少し驚く。
そこから話を聞く。
妻。
家。
生活。
退院したら何をしたいか。
治療で一番怖いこと。
本人が守りたいもの。
初めて紗絢は、
病気ではなく、その人の人生を中心に置いて治療計画を組み直した。
数日後。
再びカンファレンス。
紗絢が説明する。
恒一が聞く。
「根拠は?」
答える。
「合併症リスクは?」
答える。
「悪化したら?」
答える。
「本人は?」
紗絢は迷わない。
「奥様との生活をできる限り維持したいと希望されています」
「それで?」
紗絢はまっすぐ恒一を見る。
「だから私は、この方針を選びます」
恒一はしばらく黙った。
「最後まで責任持って診ろ」
それだけだった。
紗絢は分かる。
合格。
しばらくして、紗絢は学会で研究発表を行う。
会場の後方には恒一。
助け舟を出す気配はない。
質疑応答。
厳しい質問。
紗絢は自分で答える。
分からないことには、
「現時点では結論を出せません」
と正直に答える。
発表終了。
会場を出ると他大学の医師が声を掛ける。
「藤崎先生、非常に興味深い研究でした」
紗絢は一瞬だけ恒一を見る。
だが相手の視線は、自分に向いている。
「ありがとうございます」
自然に笑顔になる。
晴れの日・岡山のような、からっとした笑顔。
帰り道。
恒一と並んで歩く。
紗絢が聞く。
「今日どうでした?」
「七十点」
「低っ」
「質疑で一個詰まった」
「伯父さん、本当に褒めませんよね」
「教授だ」
「それ答えになってません」
少し歩く。
紗絢が言う。
「伯父さん」
「何だ」
「私、伯父さんを超えたいわけじゃないんです」
恒一は即答した。
「知ってる」
「でも、負けたくないです」
「それも知ってる」
紗絢が呆れる。
「全部知ってるなら何か言ってくださいよ」
恒一は足を止める。
「医師ならば独自の治療法を確立しなさい、と俺は言った」
「はい」
「だが、俺と違うことをしろとは言ってない」
紗絢は黙る。
「患者を何人も診て、失敗も成功も覚えて、研究して、自分で考えて。その積み重ねの先に“藤崎紗絢ならこう診る”ができる」
そして恒一は静かに言う。
「俺を超える必要はない」
紗絢を見る。
「俺が診られなかった患者を、お前が一人診られればそれでいい」
紗絢は少し黙る。
「……伯父さん」
「何だ」
「たまにいいこと言いますね」
「いつも言ってる」
「それはないです」
「減点するぞ」
「何の点数ですか!」
ようやく二人とも笑った。
翌朝。
岡山医科大学附属病院。
紗絢はいつもの白衣姿で廊下を歩く。
後ろから声。
「藤崎先生って、藤崎教授の姪なんだよな」
「そうらしいな」
以前なら、ほんの少し足が止まった。
今は止まらない。
藤崎恒一の姪。
恒一の弟子。
それは事実。
否定する必要はない。
そして、それだけでもない。
診察室。
患者が入ってくる。
紗絢はまず患者の顔を見る。
表情。
呼吸。
歩き方。
そして笑う。
「おはようございます。今日はどうですか?」
患者が話し始める。
紗絢は聞く。
病気を見る前に。
一人の人間を見る。
それが、今の藤崎紗絢の医療だった。
まだ完成していない。
二十七歳。
岡山の新星。
これから何十年も患者を診る。
研究もする。
失敗もする。
学ぶ。
いつか本当に、
「藤崎紗絢ならこう診る」
という医療が形になる日が来る。
伯父の白衣を借りなくてもいい。
伯父の影から逃げる必要もない。
藤崎教授の姪でありながら、
藤崎紗絢という医師であればいい。
そして少し離れた東京では。
白石陽菜から美紀へメッセージが届いていた。
『美紀、この前先生に何言ったの?』
美紀、
『何が?』
『紗絢先生、最近なんか機嫌いい』
『普通のこと言っただけだよ』
『何て?』
美紀は少し考え、
『藤崎教授と紗絢先生は患者さんを見る入り口が違うって』
陽菜から即返信。
『それを普通って言える美紀も怖い』
美紀、
『なんで?』
やはり本人だけは気づいていない。
岡山の新星に答えを与えたのが、信州育ちの理知的な看護学生だったことを。
そして岡山では今日も。
藤崎紗絢が白衣を翻し、次の患者を迎える。
伯父を超えるためではない。
伯父から逃げるためでもない。
自分自身の白衣を、自分自身の医療で満たしていくために。




