白衣の天使が帰る場所――松本美紀、山の診療所で見つめた父と母の背中
東京の朝は、いつも急いでいる。
人が急ぎ、電車が急ぎ、駅員の声までどこか急いで聞こえる。
午前八時。
新宿駅のホームを滑り出した特急「あずさ」の窓際で、松本美紀は小さく息を吐いた。
足元にはキャリーケース。
テーブルの上にはコンビニで買ったコーヒー。
そして手にはスマートフォン。
看護学校の短い休暇を利用した、数日間だけの帰省だった。
列車は東京の巨大なビル群を抜けていく。
高架。
住宅街。
工場。
幾重にも交差する線路。
それらが次第に少なくなり、やがて窓の向こうの空が広くなった。
遠くに山の稜線が現れる。
甲斐の山々。
朝の光を受ける谷。
ぶどう畑。
きらめく川。
諏訪へ近づけば、水面が一瞬、車窓いっぱいに広がった。
美紀は思わず窓へ顔を寄せた。
「……帰ってきた感じする」
まだ松本までは距離がある。
それでも、山が見えるだけで肩から何かが落ちる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
白石陽菜だった。
『もう乗った?』
『乗ってるよ』
美紀が返すと、すぐに、
『朝ごはん食べた?』
と来た。
美紀は一瞬考え、
『食べた。陽菜は?』
と返した。
十秒ほど沈黙。
そして、
『……これ、いつも私が美紀に聞かれるやつじゃない?』
美紀は吹き出した。
『だからちゃんと答えて』
『食べました』
『薬は?』
『飲みました』
『睡眠は?』
『美紀さん、帰省してください』
「何それ」
思わず声が漏れる。
前の座席の乗客がちらりと振り返り、美紀は慌てて口を押さえた。
故郷へ帰る途中であろうと、美紀の世話焼きは休業しない。
というより本人には、世話を焼いているという自覚があまりない。
やがて列車が松本盆地へ入った。
その瞬間、美紀の表情が変わった。
北アルプス。
巨大な山々が青い空の向こうに連なっている。
東京の高層ビルとは違う。
人間が造ったものでは到底かなわない、圧倒的な風景。
雪を残した峰。
山裾に広がる田畑。
遠くの集落。
美紀は誰に聞かせるでもなく、小さく言った。
「ただいま」
松本駅で待っていたのは、父の松本征一郎だった。
六十二歳。
白髪が少し増えた。
服装は昔から変わらない。
地味なシャツに上着。
そして年季の入った四輪駆動車。
「お父さん」
美紀が手を振る。
征一郎は片手だけ上げた。
「荷物」
「久しぶりの娘に最初の一言がそれ?」
「患者の薬を受け取りに来たついでだ」
「絶対ついでじゃないでしょ」
「いいから乗せろ」
「はいはい」
美紀は笑いながらキャリーケースを荷台へ載せた。
松本征一郎は、山間部の小さな診療所を長年守ってきた医師だった。
大学病院に勤めた経験もある。
都市部から誘われたことも何度かあった。
それでも父は故郷へ戻った。
理由を聞いても、
「医者がいなかったからだ」
としか言わない。
だが地域の人々は知っていた。
征一郎は何十年もの間、昼夜を問わず人の命と向き合ってきた。
真冬の夜中、雪道を往診した。
台風で道が寸断されれば、歩いて患者宅へ向かった。
高齢者が一人暮らしになれば役所や福祉関係者へ連絡し、必要なら自宅まで薬を届けた。
子どもが熱を出せば親まで安心させた。
家族三代を診てもらっている家も珍しくない。
旧村時代には学校医や地域の健康相談も長く務め、消防団、自治会、福祉関係者からも一目置かれていた。
何かあれば、
――松本先生に聞こう。
地域では、それが半ば合言葉になっていた。
本人は名士扱いされることを嫌がった。
「医者やってるだけだ」
いつもそう言う。
だが、地域の人たちにとっては単なる医師ではない。
困ったとき最後に頼れる人。
それが松本征一郎だった。
車は松本市街を離れ、次第に山へ入っていく。
道の両側から住宅が消えた。
代わりに田畑が増える。
さらに進む。
谷が狭くなる。
山が迫る。
道の脇を清流が走り、雪解け水が白い飛沫を上げていた。
木造の古い家。
石垣。
小さな畑。
山肌に点々と咲く花。
遠くから鳥の声。
美紀は窓を少し開けた。
冷たく澄んだ風が車内へ入ってくる。
「やっぱり空気おいしい」
征一郎は前を見たまま答えた。
「東京の空気が悪いだけだ」
「すぐそういうこと言う」
美紀が生まれ育ったのは、現在こそ松本市の一部になっているものの、かつては独立した村だった山間の集落だった。
戸数は多くない。
四方を山に囲まれ、谷底を細い川が流れている。
春になると雪解け水が勢いよく沢を下る。
山桜が咲き、畑の土が黒く柔らかくなる。
初夏には田が鏡のように空を映す。
盛夏には山全体が濃い緑となり、夕方にはヒグラシの声が谷へ響く。
秋。
ナナカマド。
カエデ。
カラマツ。
山は赤や黄色に染まる。
そして冬。
雪が屋根を白く覆う。
朝になれば、誰かが自宅の前だけではなく隣の家の前まで雪をかいている。
そんな土地だった。
観光地ではない。
派手な店もない。
コンビニへ行くにも車がいる。
だが、遠くの山から吹いてくる風と、川の流れる音だけは昔から変わらない。
そして人も温かかった。
車が集落へ入った途端だった。
畑にいた老人が鍬を止めた。
「おお!」
手を上げる。
「美紀ちゃん帰ったか!」
美紀も窓を開けた。
「ただいまー!」
今度は道端で野菜を整理していた女性が振り返る。
「あらまあ、美紀ちゃん!」
「久しぶり!」
「東京でちゃんと食べとる?」
「食べてるよ!」
五十メートルほど進む。
別の男性。
「戦隊なんとか、テレビで見たぞー!」
「ヒロインね!」
「そう、それそれ!」
さらに子どもたちが走ってきた。
「美紀ちゃん!」
「この前ネットに出てた!」
「本当に怪人と戦うの?」
「毎日は戦わないよ!」
征一郎がぼそり。
「有名人だな」
美紀は笑う。
「ここだと全然だけどね」
実際、その通りだった。
若い世代にとって美紀は戦隊ヒロインだった。
東京で活動する看護学生でもある。
だが年配者になるほど認識は単純になる。
――松本先生んとこの美紀ちゃん。
それだけである。
全国でどれだけ活躍しようが関係ない。
この集落で美紀は、生まれた頃からずっと「美紀ちゃん」なのだ。
その扱いが美紀は好きだった。
診療所は集落のやや高い場所にあった。
二階建ての住宅に、小さな診療所が併設されている。
真新しくはない。
待合室。
診察室。
処置室。
小さな薬品棚。
検査設備も必要最低限。
大病院のような豪華さはまったくない。
だが玄関横の看板だけはきれいに磨かれていた。
松本診療所。
美紀が幼いころから変わらない文字。
玄関が開いた。
「美紀!」
母の佳代が飛び出してきた。
五十九歳。
診療所を夫とともに支えてきた女性だ。
「ただいま、お母さん」
「ちょっと顔見せて」
「え?」
佳代は娘の両頬へ手を添えた。
「痩せた?」
「痩せてない」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「寝てる?」
「寝てる」
「戦隊ヒロインで危ないことしてない?」
「お母さん」
美紀が苦笑する。
「私、一応看護学生なんだけど」
佳代は即答した。
「看護学生でも娘は娘です」
美紀は父へ助けを求めた。
「お父さん、何とか言って」
征一郎は靴を脱ぎながら言った。
「無理だ。諦めろ」
「即答なの?」
母は昔から心配性だった。
患者にも世話を焼く。
誰かが咳をすれば加湿を勧め、食欲がないと聞けば食べやすい料理まで考える。
美紀が困っている人を放っておけない性格になった理由は、おそらく母を見ればほぼ説明がつく。
夕食は、帰省初日から壮観だった。
山菜。
煮物。
川魚。
地元野菜。
漬物。
そば。
味噌汁。
炊き込みご飯。
美紀は食卓を見て言葉を失った。
「……お母さん」
「何?」
「私、三日しかいないんだけど」
「東京で食べてない分」
「毎日食べてるってば」
征一郎が魚をつつきながら言った。
「三日で半年分食わせる気か」
佳代はすぐ反撃した。
「あなたも美紀が帰ってくるって聞いて魚を買ってきたでしょう」
父の箸が止まった。
「……余計なこと言うな」
美紀がにやりとする。
「へえ」
「食え」
「はいはい」
食後、佳代が湯飲みを置いた。
「美紀」
「ん?」
「東京が楽しかったら、向こうで働いてもいいのよ」
美紀が母を見る。
佳代は穏やかに続けた。
「若いうちは、広いところを見たほうがいいから」
征一郎も新聞を読みながら言った。
「仕事する場所くらい自分で決めろ」
二人とも、帰ってこいとは言わない。
それが美紀には分かっていた。
だからこそ、迷わず言った。
「帰ってくるよ」
新聞が少し下がった。
母も見る。
「私、ちゃんと看護師になる。それで大きな病院でも働いて、いろんな患者さん見て、ちゃんと経験積んでから帰ってくる」
美紀は窓の外を見た。
暗い山。
その谷間に散らばる家の灯り。
「ここの地域医療を支えたいから」
佳代はすぐには返事をしなかった。
目尻だけが少し赤くなる。
征一郎は湯飲みを持ち上げた。
「中途半端な状態で帰ってくるな」
それだけだった。
「うん」
美紀には分かる。
父のその言葉は、
――待っている。
という意味なのだ。
翌朝。
美紀は休暇中だった。
少なくとも本人は、そのつもりだった。
しかし朝食後。
気づけば診療所にいた。
エプロンまで着けている。
征一郎が見つけた。
「お前」
「なに?」
「休みに帰ってきたんじゃなかったのか」
「家にいても暇だもん」
佳代は横で笑っていた。
「そう言うと思ってエプロン出しといた」
「お母さんの誘導じゃん」
美紀は資格上できる範囲で、患者の案内や血圧測定を手伝った。
来る患者は、ほぼ全員知り合いだった。
「美紀ちゃん、大きくなったなあ」
「去年も会ったよ」
「東京の水は合うか?」
「普通に水道水飲んでる」
「戦隊ヒロインって、何するんだ?」
「人助け」
「なら、ワシの肩揉んでくれ」
「それはヒロインの仕事じゃない!」
待合室が笑いに包まれた。
別の老婆が言う。
「松本先生、美紀ちゃん戻ってきたら跡継ぎ安心だな」
征一郎はカルテから顔も上げず答えた。
「こいつは看護師です」
「じゃあ先生は誰が継ぐんだい」
「知りません」
「無責任だなあ」
「俺の人生より長い話を勝手に決めないでください」
再び待合室が笑う。
美紀は思った。
父は無愛想に見える。
だが患者と父の間には、長い年月でしか作れない距離感がある。
診察へ来るというより、会いに来ているような人までいる。
「先生、この前の薬効いたよ」
「そりゃ良かった」
「畑の大根できたから持ってきた」
「診察代は大根じゃ払えません」
「ケチ」
「現金でお願いします」
美紀が吹き出した。
「お父さん、そんな冗談言うんだ」
「患者相手には言う」
「娘には?」
「必要ない」
「ひどい」
佳代が新聞の切り抜きを持ってきたのは、その少し後だった。
「美紀、これ覚えてる?」
山梨のローカル紙。
以前、美紀が昇仙峡で高齢男性を救助した際の記事だった。
佳代は記事をきれいに保存している。
「遥室長さんからも電話いただいたのよ」
「え?」
「『美紀ちゃんは休日でも自然に人を助けられる、本当に立派なヒロインです』って」
美紀は額を押さえた。
「室長、お父さんとお母さんにまで電話したの?」
「当然よ。お母さん嬉しかったんだから」
征一郎は一度だけ記事を見る。
「医者の娘として当然のことしたな」
美紀が肩を落とす。
「はいはい」
佳代が言った。
「あなた昨日、その記事また読んでたでしょう」
征一郎の手が止まる。
「読んでない」
「切り抜きファイルまで出して」
「俺じゃない」
「私じゃないわよ」
美紀が父をじっと見る。
征一郎は立ち上がった。
「患者来たぞ」
誰も来ていない。
佳代が言う。
「来てないわよ」
征一郎は無言で診察室へ消えた。
美紀が母を見る。
「逃げたね」
「逃げたわね」
完全に逃げた。
昼前。
その穏やかな空気が変わった。
「先生!」
近所の女性が夫を支えながら入ってきた。
「畑にいたら、胸が重いって」
男性は六十代後半。
本人は苦笑していた。
「大げさなんだ。ちょっと疲れただけだよ」
だが美紀は男の顔を見た。
汗。
呼吸。
皮膚の色。
左腕を妙に気にしている。
胸元へ手を置く仕草。
看護学校で学んだ知識が頭を走る。
「お父さん」
父を見る。
征一郎もすでに表情を変えていた。
「処置室へ」
その一言で、空気が変わった。
父は静かだった。
慌てない。
声を荒げない。
必要な質問をして、必要な診察をする。
佳代も同じだった。
指示される前に器具を準備する。
長年一緒に診療所を守ってきた二人には、ほとんど会話が必要ない。
「佳代」
それだけ。
「はい」
母はもう必要なものを持っている。
「連絡」
「しています」
美紀は少し驚いた。
夫婦というより、熟練した一つのチームだった。
救急搬送の手配。
患者情報の整理。
家族への説明。
上位医療機関との連絡。
そのすべてが、狭い診療所の中で淡々と進んでいく。
美紀も、自分にできることを探した。
患者の妻が震えていた。
美紀はそばへ行く。
「大丈夫です」
「美紀ちゃん……」
「今、お父さんがちゃんと診ています。救急車も来ますから」
そっと手を握る。
妻の指先は冷たかった。
「私、怖くて……」
「うん」
美紀は否定しなかった。
「怖いよね。でも、一人じゃないから」
その言葉に、女性の肩から少し力が抜けた。
少し離れた場所で佳代が娘を見た。
自分が何十年もの間、患者や家族に繰り返してきたこと。
それを娘が自然にやっている。
母は何も言わなかった。
ただ少し微笑んだ。
間もなく救急隊が到着した。
患者は搬送された。
診療所に静けさが戻る。
遠くで沢の音がしていた。
美紀は大きく息を吐いた。
「……二人とも、すごいね」
征一郎がカルテを書きながら答える。
「何が」
「急患来ても全然慌てないじゃん」
佳代が笑った。
「何十年やってると思ってるの」
美紀は診療所の中を見渡した。
古い壁。
小さな処置室。
最新設備などない。
それでも、ここで父と母は何十年も人の命を受け止めてきた。
派手な医療ではない。
テレビに映ることもない。
巨大な手術室もない。
ただ、
具合が悪ければ、ここへ来る。
何かあれば、ここへ電話する。
夜中でも。
雪の日でも。
祭りの日でも。
父と母は、ずっとそこにいる。
美紀は初めて、その凄さを本当の意味で理解した気がした。
「美紀」
父が呼ぶ。
「なに?」
「さっき」
「うん」
「よく見てたな」
一瞬、意味が分からなかった。
「……それ、褒めてる?」
「そのつもりだ」
「珍しい」
「調子に乗るな」
佳代がすぐ口を挟む。
「美紀、お父さんね。あなたが東京でちゃんと勉強してるって――」
「佳代」
父の声。
「何よ」
「余計なこと言うな」
美紀が笑った。
「やっぱり喜んでるんじゃん」
「片付けろ」
「逃げた」
「仕事しろ」
その日の夕方。
搬送された男性は早期に治療へつながり、大事には至らなかったと連絡が入った。
征一郎は、
「そうか」
と言っただけだった。
しかし電話を切った後、ほんの少しだけ肩から力が抜けたのを美紀は見逃さなかった。
外へ出ると、夕日が山を赤く染めていた。
集落の屋根から細い煙が上がる。
田んぼの向こうで子どもが走っている。
沢の水が橙色の光を反射する。
遠くで犬が吠える。
征一郎が道路を歩けば、
「先生、今日はありがとうございました」
誰かが声をかける。
別の家からも、
「先生、この前は婆ちゃん助かったよ」
さらに、
「松本先生、今度の健康診断も頼みますよ」
声が飛ぶ。
父は一人一人へ短く返す。
「はい」
「無理させないでください」
「薬忘れないように」
美紀はその後ろ姿を見ていた。
父はこの地域で偉いから尊敬されているのではない。
信頼を積み上げてきたから、人が自然に頭を下げる。
肩書ではなく、年月なのだ。
夜。
家族三人で居間にいた。
話題は戦隊ヒロイン活動になった。
佳代が少し真顔になる。
「美紀」
「なに?」
「お母さん、美紀が頑張ってるのは本当に誇らしいのよ」
「うん」
「でもね。ニュースで爆発とか見ると怖いの」
美紀は苦笑した。
「私が爆発してるわけじゃないよ」
「近くにいるでしょう」
「まあ……いるけど」
「ほら」
征一郎が新聞から目を上げた。
「人助けする仕事なら立派だ」
美紀が父を見る。
「でも、自分の身体は大事にしろ」
「うん」
「お前が倒れたら、助けられる患者も助けられん」
新聞が再び上がる。
佳代が小声で言った。
「お父さんの方が私より心配してるのよ」
新聞の向こうから声。
「聞こえてるぞ」
美紀は笑った。
父は昔からそうだ。
心配すればするほど、言葉が短くなる。
帰省中、美紀は毎日陽菜とも連絡していた。
朝。
『薬飲んだ?』
『飲みました』
昼。
『疲れてない?』
『大丈夫です』
夜。
返信が少し遅い。
美紀は即電話した。
『もしもし?』
「陽菜?」
『美紀?』
「具合悪い?」
『眠くて返信遅れただけ』
「なら寝て」
『ねえ美紀』
「何?」
『せっかく実家帰ってるんだから、私のこと忘れてていいよ』
美紀は即答した。
「無理」
電話の向こうで笑い声。
『即答なんだ』
「当たり前でしょ」
『じゃあ美紀もちゃんと休みなよ』
「分かった」
『絶対分かってない』
「分かってるって」
居間の向こうで佳代が聞いていた。
「美紀」
「何?」
「あなた、私に似たわねえ」
「え?」
征一郎が新聞を読みながら言う。
「間違いない」
「二人して何なの」
三日間は、あっという間だった。
帰京の朝。
美紀は小さなキャリーケース一つで帰るつもりだった。
玄関を見て固まった。
野菜。
リンゴ。
そば。
米。
漬物。
山菜加工品。
味噌。
知らない袋。
さらに知らない箱。
「……何これ」
佳代は平然としている。
「持って帰るもの」
「全部?」
「東京のみなさんにも」
「持てないって!」
そこへ玄関の外から声。
「美紀ちゃーん!」
近所のおばあちゃんだった。
両手に野菜。
「これ持ってけ!」
「増えた!」
「東京じゃこんなの高いぞ!」
「値段の問題じゃない!」
さらに別の人がリンゴを持ってきた。
「陽菜ちゃんにも食べさせてやれ!」
美紀が頭を抱える。
「だから私、あずさで帰るんだってば!」
最終的に大半は宅配便となった。
それでも手荷物は増えた。
松本駅へ出発する前。
診療所の前で三人が立った。
空は青かった。
山の稜線がくっきり見える。
沢の音。
鳥の声。
畑から上がる土の匂い。
美紀は一度、診療所を振り返った。
小さい。
古い。
最新設備などない。
それでもこの診療所を中心に、集落の暮らしが何十年も続いてきた。
父と母が守った場所。
そしていつか、自分が帰ってくる場所。
佳代が言う。
「東京着いたら連絡して」
「分かってる」
「ちゃんと食べて」
「分かってる」
「夜更かししない」
「はいはい」
「戦隊ヒロインも無茶しない」
「はいはい」
征一郎が言った。
「あと美紀」
「何?」
「車の運転には気をつけろ」
美紀の顔が変わった。
「お父さんまでそれ言うの?」
「お前は車間が近い」
「お父さんだって同じじゃん!」
「俺は違う」
「昨日、前の車に『今行けただろ』って言ってたじゃん!」
佳代が静かに言った。
「二人とも同じよ」
父娘は黙った。
どうやら松本走りは遺伝ではない。
家庭環境による英才教育らしい。
美紀は笑った。
「じゃあ、また帰ってくるから」
佳代が微笑む。
「待ってるわよ」
征一郎は少し間を置いた。
「家なんだから、当たり前だ」
松本駅。
帰りの「あずさ」がホームを離れた。
美紀は窓際に座った。
足元には荷物。
網棚にも荷物。
膝の上には母が最後まで持たせた野菜。
列車が速度を上げる。
松本の街が離れる。
北アルプスが少しずつ遠くなる。
山。
川。
田畑。
屋根。
青い空。
自分が生まれた土地が後ろへ流れていく。
少し寂しい。
だが今は、東京へ戻る。
学ぶため。
経験するため。
いろいろな患者と出会うため。
戦隊ヒロインとして、もっと多くの人を守れるようになるため。
そしていつか。
父や母に胸を張って、
――帰ってきたよ。
と言うために。
東京で働き続ける未来もある。
大病院なら、もっと新しい医療に触れられる。
戦隊ヒロインとして活動を続ければ、全国へ行くこともあるだろう。
それでも、美紀の心には帰る場所があった。
父が守り。
母が支え。
集落の人々が育ててくれた。
山の小さな診療所。
美紀は窓の向こうの山を見ながら、心の中で言った。
もっと勉強しよう。
もっと経験を積もう。
もっと強くなろう。
そして、
もっと人の不安に寄り添える看護師になろう。
父のように。
母のように。
目立たなくてもいい。
誰かが本当に困ったとき、
そこにいる人になろう。
スマートフォンが震えた。
陽菜だった。
『いつ東京着く?』
美紀は笑う。
『夕方』
『明日会える?』
『もちろん』
少し考えて、美紀は付け加えた。
『体調は?』
即返信。
『帰りの電車でも聞くの!?』
『聞くよ』
『元気です!』
美紀は満足してスマートフォンを閉じた。
三秒後。
また震えた。
今度は母。
『東京着いたら連絡するのよ』
さらに。
『野菜は冷蔵庫へ』
さらに。
『夜更かししない』
さらに。
『陽菜ちゃんにもよろしく』
美紀は画面を見つめた。
「もう、お母さん……」
だが声は笑っていた。
窓の向こうでは、信州の山々がゆっくり遠ざかっていく。
東京で戦隊ヒロインとして生きる松本美紀。
山の集落で「美紀ちゃん」と呼ばれる松本美紀。
どちらも同じ一人の少女だ。
美紀は故郷を捨てて東京へ出たのではない。
帰るために、出たのだ。
広い世界を見て。
技術を学び。
失敗もし。
人を救い。
いくつもの命と向き合って。
いつの日か、この山へ帰る。
そのとき診療所の待合室で、
「美紀ちゃん」
ではなく、
「松本さん、ちょっと診てくれるかい」
と呼ばれる日が来るかもしれない。
白衣を着た自分の向こうで。
父が少しだけ満足そうな顔をして。
母が相変わらず、
「ちゃんとお昼食べた?」
と言っている。
そんな未来を、美紀は想像した。
そして小さく笑った。
特急「あずさ」は山を離れ、東京へ向かって走っていく。
両手いっぱいの故郷の味と。
胸いっぱいの誇りと。
父と母から受け取った、白衣の天使としての原点を乗せて。
――いつか必ず帰る。
それは約束というより、
松本美紀にとって、もう決まっている未来だった。




