白衣の天使にハンドルを握らせるな!――最年少ヒロイン三人娘、甲府へ行く……はずだった
信州・松本。
北アルプスの山々を望み、清らかな水が流れ、朝には胸いっぱい吸い込みたくなるような澄んだ空気が満ちる町である。
その松本市街地からさらに山深く入ったところに、松本美紀の故郷はあった。
現在こそ松本市の一部だが、平成の市町村合併以前は山々に抱かれた小さな村だった地域だ。冬になれば深い雪に覆われ、春には雪解け水が勢いよく沢を流れ、夏でも朝夕は涼しい。住民同士はたいてい顔見知りで、道を歩けば「美紀ちゃん、大きくなったね」と声を掛けられるような土地だった。
派手な娯楽はない。
大きなショッピングモールもない。
だが水はうまい。野菜もうまい。空気もうまい。
そして何より、人が優しかった。
そんな土地の穏やかな時間と清らかな空気が、松本美紀という少女の優しい心を育てた。
美紀の実家は、地域の医療を長年支えてきた小さな診療所である。
父は町医者。
風邪から腰痛、子どもの発熱、高齢者の慢性疾患まで何でも診る。必要とあれば山間の家まで往診に出向く、地域住民から評判の良い医師だった。
母は看護師。
診療所では父の右腕として働き、患者の身体だけでなく、不安や愚痴にまで耳を傾ける。
美紀にとって、医療とはテレビドラマの向こう側にある特別な世界ではなかった。
夕食中に父へ急患の電話が入る。
夜中に母が診療所へ走る。
雪の日に二人が往診へ出かける。
幼い頃から、それが日常だった。
だから、美紀が看護師を志したのは、誰かに勧められたからでも、大きな決意をしたからでもない。
「気がついたら、そう思ってたんです」
本人はそう笑う。
現在、美紀は都内の看護学校へ通う看護学生。
そして同時に、戦隊ヒロインプロジェクトに所属する最年少ヒロインの一人でもある。
成績優秀。
品行方正。
頭脳明晰。
誰に対しても分け隔てなく優しく、医療知識については現役医師が驚くほど豊富。
それでいて知識をひけらかすことはない。
具合の悪そうな人を見つければ真っ先に駆け寄り、しゃがんで目線を合わせ、
「大丈夫ですか?」
と穏やかに声を掛ける。
本人が「平気です」と言っても、顔色、呼吸、発汗、歩き方をさりげなく観察する。
戦隊ヒロインの教科書があるなら、模範例として第一ページに載せてもいい。
まさしく、信州が生んだ「白衣の天使」であった。
東京で生活していても故郷への愛着は強い。
「卒業して経験を積んだら、いつか松本へ帰りたいんです」
それが美紀の夢だった。
父と母がしてきたように、自分も地域医療を支えたい。
山の診療所で、患者の一番近くにいる看護師になりたい。
そんな彼女を、ヒロ室の誰もが「本当にいい子」と評していた。
ただし。
人間というものには、多かれ少なかれ欠点がある。
もちろん松本美紀にもあった。
しかも一つだけ、かなり大きな欠点が。
――自動車の運転である。
とにかく荒い。
なぜかハンドルを握ると人格が変わる。
普段なら、
「急がなくて大丈夫ですよ」
と言う少女が、
運転席では、
「今、行けたよね?」
とつぶやく。
普段なら、
「譲り合いって大切ですよね」
と言う少女が、
交差点では、
「ここ、入れるよね」
と妙に強気になる。
前の車のウインカーが遅ければ、
「合図は早めに出した方がいいと思うなぁ」
などと、口調だけは相変わらず優しい。
怖いのは、本人に悪気が一切ないことである。
「私、そんなに運転荒いかな?」
と本気で首をかしげている。
故郷・松本周辺で身についた独特の運転感覚が、知らず知らず身体に染みついているらしい。
美紀の人格評価がほぼ満点だとすれば、自動車運転の項目だけ赤点。
それが彼女の唯一にして最大の弱点だった。
ところが、その事実を知る戦隊ヒロインはまだほとんどいなかった。
もちろん、彼女の無二の親友である白石陽菜も知らない。
白石陽菜。
戦隊ヒロインの中でも屈指の人気を誇り、「戦隊ヒロイン一の美少女」とまで呼ばれる少女である。
華やかな容姿。
明るい性格。
誰とでもすぐ打ち解ける人懐っこさ。
ただし育ちが良すぎる。
少々どころではなく、お嬢様である。
世間一般の金銭感覚や生活感覚について、たまに驚くほど知らない。
そんな陽菜の面倒を見る役目も、いつしか美紀になっていた。
「陽菜、それ自分で持つんだよ」
「え? ホテルの人が持ってくれるんじゃないの?」
「ここホテルじゃないよ」
「そうだった」
という調子である。
さらに美紀は、陽菜が心臓に重大な持病を抱えていることを知る、数少ないヒロインでもあった。
岡山で循環器医師として働きながら戦隊ヒロインでもある藤崎紗絢が陽菜の主治医を務めており、美紀も紗絢から高く評価されている。
陽菜が少し無理をしている時。
疲れているのに元気を装っている時。
他のヒロインには分からなくても、美紀には分かる。
「陽菜、水飲もう」
「まだ平気だよ」
「ううん。飲もう」
「……はい」
この二人には、それだけで十分だった。
医療面だけでなく、生活面まで含めて陽菜を支える美紀。
そして陽菜も、美紀には誰より気を許している。
同い年でありながら、親友であり、時には姉妹のようでもある。
そんな二人が、ある日のヒロ室で次のオフについて話していた。
「美紀、次の休みって何してる?」
陽菜が聞いた。
「特に予定ないよ。陽菜は?」
「私も。ねえ、どっか行かない?」
「いいね」
「ドライブとか」
美紀の目が輝いた。
「行きたい!」
陽菜はスマートフォンを手に取った。
「車ならね、借りられると思う」
「誰の?」
「うちの」
白石家にはもちろん車が何台もある。
しかし陽菜が今回借りようとしていたのは、高級車でも大型SUVでもなかった。
家政婦の杉本恵が、日々の買い物や用事に使っている、小さな軽自動車だった。
年式は少し古い。
だが恵が大切に乗っているので整備は行き届いている。
街中を走るには申し分ない、昔ながらの小さな軽だ。
陽菜から事情を聞いた杉本恵は、少し考えてから笑った。
「美紀さまが運転なさるのですか?」
「うん」
「それでしたら心配ございませんね」
この時点で、杉本恵は重大な判断ミスを犯していた。
恵は美紀のことをよく知っている。
礼儀正しい。
頭がいい。
陽菜を大切にしてくれる。
医療にも詳しい。
非の打ち所がない少女だと思っている。
だからこそ、
「陽菜さまのご友人の美紀さまの運転なら、心配ないでしょう」
と言った。
美紀の性格は知っている。
成績も知っている。
人柄も知っている。
ただ一つだけ。
運転を見たことがなかった。
世の中には、知らない方が幸せなこともある。
その頃、ヒロ室では美紀と陽菜が旅行の相談をしていた。
そこへ、
「なしたの? 二人して楽しそうだべさー」
明るい声が飛んできた。
高城彩芽だった。
札幌出身。
北の元気印。
美紀、陽菜と同じく最年少組で、二人とは普段から仲がいい。
「今度、美紀とドライブ行くの」
陽菜が言うと、彩芽の目が大きくなった。
「えーっ! いいな! 私も行きたい!」
美紀は即座に笑った。
「彩芽ちゃんも行く?」
「行く行く!」
こうして二人旅は、一瞬で三人旅になった。
問題は、どこへ行くかである。
三人はヒロ室の休憩スペースに地図を広げた。
その横には、なぜか段ボール箱。
箱にはM田製菓のロゴ。
ヒロ室には、何かにつけてM田製菓のクラッカーが大量に備蓄されている。
紀伊半島各地で人気の戦隊ヒロインパッケージも山ほどあった。
「これ食べよ」
陽菜が一袋取った。
袋には、四日市の突貫娘・アカリンこと山本あかり。
「アカリン可愛い」
陽菜が言う。
美紀は別の袋を選んだ。
「私はミサッキーの方が好きかな」
「えー、アカリンでしょ」
「ミサッキー、雰囲気が上品で可愛いじゃん」
彩芽は二袋持った。
「どっちも食べればいいべさ」
「パッケージの話だよ」
「食べれば袋も両方見られるし」
「そういう問題?」
パリッ。
ポリポリ。
旅行の行き先を決めるはずが、いつの間にかパッケージ総選挙になった。
「あ、このポーズ可愛い」
「こっちの衣装いいよね」
「これ捨てるのもったいなくない?」
「陽菜、持って帰るの?」
「一応」
十分後。
地図は一ミリも進んでいなかった。
クラッカーだけが三袋減った。
美紀が気づいた。
「私たち、旅行の話してたよね?」
「してた」
「何にも決まってないよ」
彩芽が手を挙げた。
「はい!」
「彩芽ちゃん、案ある?」
「ある!」
地図を指さす。
「朝、東京出て松本行くべ!」
美紀が頷く。
「私の地元ね」
「美紀ちゃんち見て、それから善光寺行く!」
美紀の頷きが止まった。
「善光寺は長野市だよ」
「同じ県だべ?」
「同じ県だけど遠いよ」
「じゃあ、そのあと軽井沢!」
陽菜が彩芽を見た。
「彩芽、本州の距離分かってる?」
「分かってるべさ」
「本当に?」
「北海道なら普通だよ」
美紀は静かに言った。
「ここ北海道じゃないからね」
彩芽は負けない。
「じゃあ名古屋!」
「遠いよ」
「仙台!」
「逆方向だよ」
「静岡!」
陽菜が笑い出した。
「彩芽、県名を言うゲームになってる」
「じゃあ京都!」
「新幹線使おうよ」
「車で行くから楽しいんだべさ!」
美紀がクラッカーをかじりながら、
「日帰りなんだよ?」
と念を押した。
「じゃあ山梨!」
二人が顔を見合わせた。
陽菜、
「山梨はいいかも」
美紀、
「近いしね」
彩芽、
「そのあと富山寄って――」
「寄らない!」
美紀と陽菜の声が重なった。
そんな三人の横を、月島小春が通りかかった。
東京・江東育ち。
いかにも江戸っ子らしいテンポの良さと、現代ギャルの軽快さを同時に持つヒロインである。
美月や彩香の妹分的な立場でもあるが、年下の面倒見は意外なほどいい。
特に陽菜や美紀のような後輩には、何だかんだでよく気を配っていた。
小春は足を止めた。
「あんたら何やってんの?」
彩芽が答えた。
「旅行会議!」
小春がテーブルを見る。
空のクラッカー袋が五つ。
地図には何も書き込まれていない。
「会議してねーじゃん」
陽菜が笑った。
「今度、三人で日帰りドライブ行くんです」
「へえ。いいじゃん、楽しそーじゃん」
小春は椅子の背に手を掛けて地図を覗いた。
「どこ行くの?」
美紀、
「それが決まらなくて」
彩芽、
「長野行って、善光寺行って、軽井沢行って――」
小春、
「無茶だろ、それ」
「北海道なら――」
「ここ本州だから」
今日三回目の指摘だった。
小春は少し考え、地図の山梨あたりを指さした。
「日帰りなら山梨なんかどう?」
三人の目が集まる。
「甲府あたりならさ、そんな無茶な距離でもねーし」
小春は指を動かす。
「昇仙峡なんか景色いいじゃん。で、時間あったら石和温泉。ほうとう食べてもいいしさ。女子三人ならその辺回った方が絶対アガるっしょ」
陽菜が身を乗り出した。
「温泉いい!」
彩芽、
「ほうとう!」
美紀、
「彩芽ちゃん、食べ物だけ反応してない?」
「大事だべさ」
小春は笑った。
「朝ちょい早く出りゃ余裕あるっしょ。欲張ってあっちこっち行かなきゃな」
そう言ってから、彩芽を見る。
「特にあんた」
「なんで私?」
「聞いてりゃ北海道の感覚で日本列島見てんじゃん」
「そんなことないべさ」
「あるって」
美紀も笑った。
「小春さんの案いいですね」
陽菜もうなずいた。
「甲府にしようよ」
「賛成!」
彩芽が元気よく手を挙げる。
こうしてようやく目的地が決まった。
東京から中央道を西へ。
甲府。
昇仙峡。
山梨らしい昼食。
余裕があれば石和温泉。
詰め込みすぎず、三人でのんびり楽しむ日帰り女子旅。
美紀は陽菜の体調のことも考え、
「途中でちゃんと休憩入れようね」
と言った。
陽菜、
「はーい」
彩芽、
「途中のサービスエリアで何食べる?」
「もう食べる話?」
テーブルのクラッカーは、さらに一袋減っていた。
小春が何げなく聞いた。
「で、誰が運転すんの?」
陽菜は迷いなく美紀を指した。
「美紀」
小春も美紀を見る。
「へえ。美紀なら安心じゃん」
彩芽もうなずく。
「だべ。美紀ちゃん真面目だし」
陽菜も笑った。
「すごく丁寧に運転しそう」
三人の視線を受け、美紀は少し照れながら笑った。
「安全運転するよ」
嘘ではない。
本人は本当にそのつもりである。
白衣の天使。
最年少の看護学生。
清らかな信州の水と空気が育てた優しい少女。
病人を前にすれば誰より早く寄り添い、患者の小さな異変さえ見逃さない。
陽菜の身体を何より大切に思う親友。
そんな美紀なら、きっと安全で快適なドライブになる。
陽菜もそう思っていた。
彩芽もそう思っていた。
月島小春もそう思っていた。
杉本恵もそう思っていた。
つまり、美紀以外の全員が何も知らなかった。
松本美紀が運転席へ座ると、右足と右手に謎の闘争本能が宿ることを。
彼女の口から、
「今の行けたよね?」
という、白衣の天使には似つかわしくない言葉が自然に出てくることを。
そして何より。
「美紀ちゃんが運転なら安心だべさ」
と笑っていた高城彩芽が、数日後、助手席でシートベルトを握りしめながら、
「美紀ちゃん! 前! 前近いってばさー!」
と北海道弁で絶叫することを。
まだ誰も知らない。
美紀はテーブルの地図に甲府までの道を書き込みながら、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。
「楽しみだね」
陽菜も笑う。
「うん!」
彩芽もクラッカーを掲げる。
「甲府行くべさ!」
その横で月島小春が、
「事故んなよー」
と冗談半分に手を振った。
美紀は笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ。私、安全運転ですから」
――この一言を聞いた者全員が、数日後に思い出して頭を抱えることになる。
信州が育んだ白衣の天使・松本美紀。
唯一の弱点は、ハンドルを握らせるまで分からない。
戦隊ヒロイン最年少三人娘の、楽しく華やかな甲府日帰り女子旅。
……になる予定である。
少なくとも、出発するまでは。
次回。
白石家の軽自動車、中央道を西へ。
果たして陽菜と彩芽は、無事に甲府へたどり着けるのか。
そして杉本恵の愛車は、無傷で白石家へ帰ってこられるのか。
楽しい休日のドライブ――たぶん――が、いよいよ始まる。




