房総大演舞、保険金は出ません!?――ヒロ室の金庫番・福永理沙、ワシントンD.C.査定戦争
戦隊ヒロインプロジェクト。
全国各地で活躍するヒロインたちは、華やかな衣装に身を包み、地域を盛り上げ、時には人々を危険から守るために戦う。
その活躍を支えているのが、ヒロ室フロントである。
ここには、実に優秀な人材が揃っていた。
波田巌蔵顧問。かつて政府中枢に身を置き、表沙汰にできない汚れ仕事まで引き受けてきた古強者。今ではすっかり気のいいおっさんに見えるが、政財界の複雑な利害関係を整理させれば、いまだに右に出る者は少ない。
ただし、最近は「戦隊ヒロインプロジェクト最高戦略会議」と称する徹夜麻雀で、元気よく「やるぞー!」と叫んでいる姿の方が目立っていた。
芹沢遥室長。かつて解散寸前だった戦隊ヒロインプロジェクトを、地域活動の積み重ねによって立て直した立役者である。現在の人気を築き上げた功労者だが、部下の奇行に頭を抱える毎日を送っている。
藤堂隼人補佐官。各省庁やパートナー企業との交渉事を巧みにまとめる実務家。その調整能力は非常に高い。
もっとも、遥室長と同棲する港区の自宅マンションでは、徹夜麻雀の議事内容を問われただけで答弁不能に陥った実績がある。
「甲斐の疾風」こと小宮山琴音は、遥室長の右腕。企画調整、連絡、資料作成、現場対応まで幅広くこなす、極めて優秀なフロントだった。
経理担当の谷口佳乃。通称「けちのん」。
予算の一円をも見逃さない徹底ぶりから、ひそかに「財務省のスパイ」と呼ばれている。備品購入の申請書に「念のため予備を一つ」と書かれていると、決まって「その念の根拠は何ですか?」と返してくる女だった。
法科大学院に通う内田あかねは、六法全書が頭の中に入っていると噂される法律の鬼。
高島里奈は宅建資格を持ち、施設の賃貸借や不動産関係の契約でも腕を振るう。
まさに精鋭揃い。
ただし、一人だけ様子の違う人物がいた。
葛城正男室長代理。
通称、まさにゃん。
朝、出勤する。
胡蝶蘭の葉を確認する。
霧吹きを手に取る。
置き場所を三センチ調整する。
「……うん。今日はええ艶ですわ」
仕事、終了。
もちろん、実際には室長代理としての職務もある。
しかし、普通の事務処理は遅いのに、鉄道旅行の企画書となると、なぜか徹夜で完成させてくる男だった。
遥室長は、その背中を眺めながら呟いた。
「……室長代理じゃなくて、胡蝶蘭管理主任なのら」
琴音は慎重に答えた。
「でも、奥大井鐡道の企画は見事だったじゃん」
「そこが腹立つのら……」
そんなヒロ室フロントには、もう一人、絶対に欠かせない人物がいた。
福永理沙である。
福井県福井市出身。
ファイナンシャルプランナーの資格を持ち、ヒロ室の財務を担当する金庫番。
金融機関との融資交渉、資金計画、予算管理、保険契約の整理。
お金の絡む仕事であれば、最後には必ず彼女のところへ資料が回ってくる。
その理沙には、恐ろしい経歴があった。
前職はN村証券。
通称「ノルマ証券」。
作中に登場するこの証券会社は、営業成績がすべてを支配する、泣く子も黙る猛烈な組織だった。
朝礼。
支店長が社員を見渡す。
「昨日の数字は?」
「目標の八割です!」
「八割で満足する理由は?」
「……ありません!」
「今日の数字は?」
「必達です!」
「何を必達する?」
「……目標です!」
「だから数字を言え!」
朝から数字。
昼も数字。
夕方も数字。
夢にまで数字が出てくる。
そんな伝説的な営業風土の中で、理沙は鍛え上げられた。
現在の彼女は、至って穏やかである。
銀行の応接室でも、落ち着いた声で話す。
「いつもお世話になっております。福永です」
担当者が提示した融資条件を確認する。
金利。
返済期間。
手数料。
担保条件。
一通り目を通し、微笑む。
「ありがとうございます。それでは、こちらの手数料の算定根拠について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
担当者が説明する。
理沙が頷く。
「なるほど。では、比較対象となる条件も資料でいただけますか?」
さらに説明する。
「ありがとうございます。続いて、こちらの条項ですが……」
終わらない。
穏やかである。
礼儀正しい。
しかし、曖昧な数字を一つも通さない。
いつしかヒロ室では、理沙をこう呼ぶようになった。
「越前の鉄壁」。
波田顧問は、彼女の仕事ぶりを見て笑った。
「理沙の前じゃ、適当な数字を言った瞬間に終わりだな」
もっとも、理沙が最も苦労するのは、銀行との交渉ではなかった。
戦闘任務の後始末である。
戦隊ヒロインが悪を倒す。
人々が救われる。
任務成功。
拍手。
歓声。
そこでヒロインたちの仕事は、ひとまず終わる。
だが、理沙のもとには、その数日後から恐ろしい書類が届き始める。
『特殊車両一台、大破』
『戦闘用機材二基、修復不能』
『備品損傷、詳細調査中』
『修理見積書、別紙参照』
理沙は、静かに書類をめくる。
「……なるほど」
次のページ。
『原因:房総大演舞』
手が止まる。
「……また、みのりさんですね」
館山みのり。
千葉の叡智。
普段は温厚で、理知的で、真面目。文学を愛し、礼儀を重んじる、誰からも好かれるヒロインである。
ところが、千葉県を侮辱されたり、グレースフォースの相方である杉山ひかりが傷つけられたりすると、彼女の中で何かが切り替わる。
必殺技「房総大演舞」。
悪を討つために放たれる、凄まじい破壊力。
敵の車両が吹き飛ぶ。
武器が粉砕される。
近くにあった備品も、時として運命を共にする。
その結果、理沙の仕事が増える。
ただし、理沙はみのりに対して、ほとんど不満を口にしなかった。
みのりが毎回、律儀に謝罪へ来るからである。
「理沙さん。このたびは、私の技によって備品を破損させてしまい、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げるみのり。
理沙は顔を上げる。
「みのりさん。お怪我はありませんでしたか?」
「はい。私は大丈夫です」
「ひかりさんも?」
「はい。無事です」
「それなら何よりです」
理沙は、柔らかく微笑んだ。
「事故報告書を正確に記入していただければ、あとは私が進めます」
「本当に、ありがとうございます」
みのりは、さらに頭を下げた。
その様子を見ていたひかりが、そっとみのりの手を握る。
「みのりちゃん。守ってくれて、ありがとうねぇ」
「……ひかりさん」
二人が見つめ合う。
近くにいた美月が叫んだ。
「そこ! 百合度上げても修理代は下がらへんで!」
理沙は真顔で頷いた。
「はい。残念ながら」
美月。
「理沙さんまで冷静に認めんといて!」
もっとも、いつもの損害案件であれば、理沙は保険契約を確認し、写真や見積書、事故報告書を整理して、損害保険会社の査定部と粘り強く交渉していた。
その能力は高く、相手の査定担当者も決して油断できなかった。
しかし。
そんな「越前の鉄壁」を揺るがす請求書が、ある日、ヒロ室へ届いた。
差出人は、高田美雪のマネジメント会社。
件名。
『ワシントンD.C.任務に伴うイリュージョン装置破損費用のご請求』。
高田美雪と西園寺綾乃が関わったワシントンD.C.での任務。
詳細は機密事項だったが、任務自体は成功していた。
問題は、その過程で美雪の大型イリュージョン装置が破壊されたことである。
特殊な設計を施した装置は、一般の舞台機材とは異なる。
部品は特注品。
制御機構も専用品。
技術者の手配にも費用がかかる。
マネジメント会社から届いた請求額は――。
一億五千万円。
理沙は、請求書を見つめた。
一秒。
二秒。
三秒。
「……一億五千万円ですか」
隣のけちのんが顔を上げた。
「何ですって?」
理沙は、書類を差し出した。
けちのんが読む。
無言。
もう一度読む。
「……桁、合ってます?」
「合っています」
「ゼロが一つ多いわけでは?」
「ありません」
「……本当に?」
「はい」
けちのんは、静かに書類を机へ置いた。
「これは保険で何とかしてください」
理沙も頷いた。
「そのつもりです」
ただし、今回の案件には、いつもと違う問題があった。
海外任務に関する特約である。
美雪の装置には海外使用を想定した保険が付されていた。
しかし、その内容を読み込むと、海外輸送や通常公演を中心とした記載が多く、政府の秘密任務に伴う特殊な使用については、十分に整理されていなかった。
さらに契約更新時の資料にも、今回の任務形態を保険会社へ明確に申告した記録が見当たらない。
理沙は約款をめくった。
特約。
別表。
申告書。
変更通知。
もう一度、特約。
「…………」
けちのんが尋ねる。
「理沙さん?」
「……少し、厄介ですね」
「どれくらい?」
理沙は、もう一度書類を見た。
「……相当です」
けちのんの顔色が変わった。
「理沙さんの『相当』は怖いんですよ!」
契約先は、架空の大手損害保険会社「東都総合損害保険」。
その特殊損害査定部を率いるのが、鷲尾冴子だった。
海外の大型損害案件を長年担当してきた、四十代の実力者である。
理沙は、まず電話で協議を申し入れた。
「いつもお世話になっております。ヒロ室の福永です」
冴子の声も、落ち着いていた。
「福永様。資料は拝見しております」
「ありがとうございます。今回の装置破損についてですが……」
「現時点では、損害額の全額を補償対象と認定することは難しいと考えております」
早い。
非常に早い。
理沙は、受話器を持つ手に力を込めた。
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「海外使用特約の適用条件です。海外へ装置を持ち出すことは申告されていますが、今回のような任務での使用形態までは、契約上、十分に確認できません」
「海外使用自体は補償対象となっていますね?」
「はい。ただし、海外で発生したすべての損害が、無条件に対象となるわけではございません」
理沙が一つ問う。
冴子が一つ答える。
冴子が資料を要求する。
理沙が提出を約束する。
両者とも丁寧だった。
怒鳴り声もない。
机を叩く音もない。
しかし、受話器の向こうには、互いに一歩も譲らない気配があった。
電話を終えた理沙は、しばらく考え込んだ。
「……なるほど。そう来ますか」
琴音が横から尋ねる。
「どうだったでえ?」
「非常に優秀な方です」
「……勝てそうけ?」
理沙は微笑んだ。
「できる限りのことをします」
琴音は、少し不安になった。
……いつもなら、もっと自信ありそうなんだけどねえ。
そこから、長い攻防が始まった。
理沙は、美雪のマネジメント会社から装置の購入記録、技術資料、損傷写真、修理見積書を取り寄せた。
海外の技術者にも確認する。
交換が必要な部分。
修理できる部分。
再利用できる部品。
装置の所有関係。
任務中の使用状況。
開示可能な資料を一つずつ整理し、保険会社へ提出する。
冴子は、それを徹底的に精査した。
「損傷したこと自体は確認できました」
「ありがとうございます」
「ただし、損傷が確認されたことと、保険金の支払対象になることは別問題です」
理沙は、微笑みを崩さなかった。
「承知しております。では、補償対象外と判断される項目について、該当条項をお示しいただけますか?」
「もちろんです」
数日後。
届いた回答書は、分厚かった。
理沙が目を通す。
一枚。
二枚。
三枚。
海外特約の不備。
事前申告の不足。
通常公演との使用条件の違い。
補償対象となる費用の範囲。
どれも、保険会社側に一定の根拠がある。
理沙は、思わず息を吐いた。
「……こちらの契約管理にも、不備がありますね」
理沙は、法律の鬼・内田あかねを呼んだ。
あかねは、約款を読み込む。
そして、問題の条文を指さした。
「……ここです」
「やはり?」
「海外で使用できることと、今回のような任務中の損傷まで補償されることは、同じではありません」
理沙は頷いた。
「そうですね」
「ただし、保険会社側の解釈について、まだ検討できる部分はあります」
「ありがとうございます。そこを詰めましょう」
高島里奈は、装置の所有関係と関連契約を整理した。
藤堂隼人補佐官は、政府側とマネジメント会社の連絡窓口を一本化した。
遥室長は、理沙の通常業務を一部けちのんへ振り分けた。
ヒロ室フロント、総動員。
対する東都総合損害保険も、特殊損害査定部の精鋭を投入。
ワシントンD.C.の任務はすでに終わっていたが、その後始末は、東京の会議室で第二ラウンドを迎えていた。
最終協議の日。
理沙と冴子は、会議室で向かい合った。
机の上には、双方が提出した資料が積み重なっている。
冴子が口を開く。
「福永様。損害額一億五千万円については、技術資料と見積書を確認し、当方でも算定の前提として認める方向です」
理沙は頷いた。
「ありがとうございます」
「ただし、海外任務特約の適用条件を踏まえますと、全額のお支払いは困難です」
理沙は、真正面から冴子を見た。
「では、御社として認定可能な金額を伺えますか?」
冴子が、一枚の資料を差し出した。
理沙は受け取った。
数字を見る。
一億二千万円。
損害額の八割。
理沙の表情は変わらなかった。
ただし、胸の内には、重いものが落ちていた。
三千万円。
差額は、三千万円である。
「……もう一度、海外特約について確認させてください」
理沙は、最後の交渉に入った。
契約更新時の記録。
事前申告の内容。
装置の使用方法。
損傷した構成部品。
一つひとつ、説明する。
冴子も、一歩も引かない。
理沙が示した資料のうち、認められるものは認める。
しかし、契約に含まれない部分については、明確な理由を示して線を引く。
両者の声は、最後まで穏やかだった。
それでも、会議室の空気は張り詰めていた。
一時間。
二時間。
そして、理沙は悟った。
提出できる資料は、すべて提出した。
主張できる論点も、出し尽くした。
これ以上の支払いを求めるには、契約解釈を巡る長期の争いが必要となり、全額回収の見通しも立たない。
一方で、美雪の装置は修理と再調達を急ぐ必要がある。
ヒロ室としても、案件をいつまでも未決のままにはできなかった。
理沙は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かりました」
冴子が顔を上げる。
「それでは」
「一億二千万円の支払いを受ける方向で、最終的な手続きを進めます」
冴子は、静かに頷いた。
「承知いたしました」
交渉成立。
しかし、理沙の心には、勝利の感覚がなかった。
一億五千万円の損害に対して、一億二千万円。
八割を確保したとはいえ、三千万円もの負担が残ったのである。
冴子は、理沙へ言った。
「福永様。今回の資料整理は、非常に丁寧でした。こちらとしても、確認できる限りのものは確認したつもりです」
「ありがとうございます」
「次回の海外任務では、ぜひ事前に補償条件をご相談ください」
理沙は、深く頭を下げた。
「……必ず、そういたします」
相手が理不尽だったわけではない。
保険会社には、契約に基づいて査定する責任がある。
理沙も、そのことは十分に理解していた。
だからこそ、悔しかった。
もっと早く。
もっと細かく。
海外特約を見直していれば。
必要な申告を済ませていれば。
違う結果になったかもしれない。
その思いが、頭から離れなかった。
ヒロ室へ戻った理沙は、最終報告書を提出した。
遥室長が、書類を確認する。
「……八割は支払ってもらえるのら?」
「はい」
「それなら、頑張ったのら」
理沙は首を横へ振った。
「いいえ。三千万円が残りました」
波田顧問も報告書に目を通した。
「海外特約の詰めが甘かったんだろ。だったら仕方ねえな。よく八割まで持っていったじゃねえか」
理沙。
「ですが……」
「次に同じことを起こさなきゃいいんだよ」
けちのんまで、珍しく穏やかだった。
「理沙さん。今回は契約上の問題があったんですから、全額回収は無理ですよ」
理沙は、信じられないものを見るように顔を上げた。
「……佳乃さんが、諦めるんですか?」
「はい」
「三千万円ですよ?」
「分かってます」
「本当に?」
「分かってますってば!」
けちのんは、少し腹を立てた。
「私だって、出ない保険金を無理やり出せとは言いませんよ!」
遥室長が苦笑した。
「理沙ちゃん。けちのんが仕方ないって言うんだから、今回は受け止めるしかないのら」
それでも理沙は、納得できなかった。
彼女にとって、三千万円という数字は、単なる帳簿上の金額ではない。
戦隊ヒロインプロジェクトは、公的資金によっても支えられている。
皆様の血税を預かっている。
一円たりとも、軽く扱ってはならない。
理沙は、財務担当として、そのことを誰よりも強く意識していた。
「……三千万円」
自分の机へ戻る。
椅子へ座る。
書類を広げる。
電卓を取り出す。
三千万円。
入力。
しばらく考える。
また入力。
琴音が、心配そうに近づいた。
「理沙さん、大丈夫け?」
「はい。大丈夫です」
「……全然、大丈夫そうに見えんじゃん」
理沙は、電卓を見つめたまま答えた。
「三千万円で、何ができたのかを計算しています」
琴音は首をかしげた。
「……何のために?」
理沙は、真顔だった。
「地域イベントなら、何回開催できたでしょうか」
「……うん」
「遠征費に充てれば、何人のヒロインを派遣できたでしょうか」
「……うん」
「装備品の更新にも使えました」
「……そうだねえ」
「皆様の血税です。それを、私の管理不備によって……」
琴音は、慌てて理沙の電卓をそっと伏せた。
「理沙さん。もう十分考えたじゃん!」
「ですが、数字から目を背けるわけには……」
「じゃあ、今日は数字からちょっと離れるじゃん!」
理沙は、しばらく黙った。
そして。
ノートパソコンを開いた。
表計算ソフトが起動する。
琴音。
「電卓を止めた意味がねえじゃん!」
理沙は、真剣だった。
三千万円。
この金額を、いかにして今後の予算管理で取り戻すか。
その方法を考えずにはいられなかったのである。
翌朝。
理沙のデスクには、分厚い資料が積み上がっていた。
『海外任務特約・見直し案』
『高額機材使用時の事前申告手続』
『海外任務開始前チェックリスト』
『保険契約更新時の法務確認体制』
『財務部による二重承認フロー』
琴音は、資料の山を見て絶句した。
「……理沙さん。これ、いつ作ったでえ?」
「昨夜です」
「寝たけ?」
「……少しだけ」
「何時間?」
「二時間ほど」
「寝てないじゃん!」
理沙は、淡々と答えた。
「同じことを繰り返すわけにはいきませんから」
遥室長も、心配そうに声をかけた。
「理沙ちゃん。いったん休むのら」
「ですが、まだ対策が……」
「対策は、みんなで考えるのら」
波田顧問も、腕を組んで頷いた。
「特約の不備は組織全体の問題だ。一人で背負い込むんじゃねえよ」
内田あかねが言った。
「契約書の見直しは、私も担当します」
高島里奈も続ける。
「所有関係や保管契約の整理はこちらで進めます」
隼人補佐官。
「政府側との連絡調整も、私に任せてください」
けちのんも、珍しく優しい声を出した。
「次からは、海外特約を私も一緒に確認します。二人で見れば、見落としも減らせますから」
理沙は、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
そして、深々と頭を下げた。
しかし。
その数分後。
まさにゃんが、胡蝶蘭の鉢を抱えて通りかかった。
「いやあ、今日もええ艶ですなあ。葉っぱが喜んどりますわ」
理沙の視線が、ゆっくり動いた。
「……葛城室長代理」
「はい?」
「その胡蝶蘭ですが、維持管理費はいくらでしょうか?」
まさにゃんが止まった。
「……え?」
「肥料代、植え替え費用、消耗品費。年間の支出を確認したいのですが」
「いや、そない大した金額やないですけど……」
「金額の大小ではありません。根拠が必要です」
まさにゃんは、胡蝶蘭を抱きしめた。
「……これは寄贈品ですさかい」
「では、寄贈後の維持管理費を」
「……理沙さん?」
「葉を磨いている布は、備品でしょうか?」
「ひえっ!」
琴音が飛んできた。
「理沙さん! 胡蝶蘭は関係ないじゃん!」
理沙は、はっとした。
「……そうですね。申し訳ありません」
まさにゃんは、鉢を抱えて後ずさりした。
「……胡蝶蘭まで査定されるとは思いませんでしたわ」
遥室長は、天井を仰いだ。
「理沙ちゃん、完全に三千万円が頭から離れないのら……」
波田顧問は、豪快に笑った。
「ノルマ証券仕込みだからな! 一度負けたくらいで、気が済むわけねえだろ!」
理沙は、少しだけ苦笑した。
しかし、三千万円という数字は、まだ彼女の胸に重く残っていた。
その日の夕方。
琴音が理沙のデスクを覗くと、彼女は再び表計算ソフトを開いていた。
「……今度は何してるでえ?」
「三千万円を、十年間の業務効率化で回収する場合の試算です」
「……十年間?」
「年間三百万円の削減です」
琴音は、深いため息をついた。
「理沙さん。計算は合ってるけど、そういう話じゃないじゃん!」
理沙は、真剣な表情だった。
「でも、三千万円は三千万円ですから」
その言葉に、琴音は何も言えなくなった。
理沙は、決して自分の失敗を軽く扱わない。
それは彼女の長所だった。
同時に、一人で抱え込みすぎる原因でもあった。
夜。
フロントの執務室に、人影がほとんどなくなった頃。
理沙は、机の上に三つのファイルを並べていた。
一つ目。
保険会社との交渉記録。
二つ目。
海外任務特約の改訂案。
そして、三つ目。
まだ表紙だけの、新しいファイル。
そこには、理沙自身の字で、こう書かれていた。
『ワシントンD.C.案件――残額三千万円に関する検討』
理沙は、その表紙をじっと見つめた。
保険会社との交渉は終わった。
一億二千万円の支払いも決まった。
しかし、だからといって、残る三千万円について何も考えなくてよいとは思えなかった。
もちろん、適切な負担先が見つかる保証などない。
別の契約を確認したところで、何も出てこないかもしれない。
それでも、まだ検討できることがあるのではないか。
理沙は、静かに呟いた。
「……これで、本当に終わりでしょうか」
その時、執務室の入り口から声がした。
「理沙ちゃん。まだ帰ってなかったのら?」
遥室長だった。
理沙は、慌ててファイルを閉じた。
「……申し訳ありません。もう帰ります」
遥は、机の上に積まれた資料を見た。
そして、何も言わず、理沙の肩を軽く叩いた。
「今日は休むのら。三千万円のことは、明日からみんなで考えるのら」
理沙は、少し驚いたように顔を上げた。
「……はい」
遥室長が去った後、理沙は三つ目のファイルを引き出しへ収めた。
今日は、もう開かない。
ただし。
表紙だけは、捨てなかった。
越前の鉄壁は、今回の保険交渉に敗れた。
だが、ヒロ室の金庫番としての仕事を、まだ終えたつもりはなかったのである。
その頃。
まさにゃんは、自分の机の下へ胡蝶蘭を隠していた。
「……明日から、水やりも経費申請せなあかんのやろか」
琴音が、呆れた顔で言った。
「水やりまで申請せんでいいじゃん!」
「いや、理沙さんのあの目ぇ、怖かったですわ……」
執務室の外から、理沙の穏やかな声が聞こえた。
「葛城室長代理。ちなみに、今月の胡蝶蘭関連費用についてですが……」
まさにゃん。
「ひええええっ!」
遥室長。
「理沙ちゃん! 今日はもう帰るのら!」
ヒロ室の夜に、久しぶりの笑い声が響いた。
しかし、その笑いの裏には、まだ片づいていない三千万円の問題が残っている。
戦隊ヒロインが悪を倒せば、戦いは終わる。
だが、福永理沙の戦いは、その後から始まる。




