夜明けの山峡、最後の一局――“先生”の命懸けの交渉と奥大井駅弁、ヒロインたちが救った命
若林あおいの操縦するヘリコプターが、静岡の山々を越えていた。
機窓の下には、黒々とした山の稜線が幾重にも続いている。わずかに見える道路の灯りが、地上に細い線を描いていた。普段なら観光客が眠りについている時間である。駿河の奥座敷、寸又峡温泉。その静かな温泉街で、猟銃を持った男による人質立てこもり事件が続いていた。
機内の後席には、安岡真帆と一人の老政治家が座っていた。
与党の重鎮。幾度も大臣を務め、政界の表も裏も知り尽くした大ベテラン代議士である。歯に衣着せぬべらんめえ口調と豪快な笑い方で知られ、全国的な知名度を持つ人物だった。
ただし、戦隊ヒロインプロジェクトの関係者は、彼を役職名では呼ばない。
昔から、ただ「先生」である。
先生は、隣に座る真帆へ顔を向けた。
「おい、真帆」
「はい、先生」
「オレに万が一のことがあったらな」
真帆の表情が変わった。
「……何をおっしゃるんですか」
「最後まで聞け。オレの地盤は、お前に譲る。後援会の連中にも、そういう話をしておく」
「縁起でもないことを言わないでください!」
真帆は思わず声を上げた。
「私は先生を危険な場所へ送り込むために、お電話したんじゃありません!」
「ハッハッハ! 分かっとる!」
先生は豪快に笑った。
「だがな、こういう話は言えるうちに言っとくもんだ。政治の世界じゃ、明日のことなんざ誰にも分からねえ」
「だったら、無事に帰ってきてから改めてお話しください」
「お前、相変わらず強情だな」
「先生ほどではありません」
今度は二人とも少し笑った。
先生は再び窓の外へ目を向けた。
「波田と始めた戦隊ヒロインプロジェクトも、ここまで大きくなった。あいつらは、ちゃんと人のために働いてるらしいじゃねえか」
「はい。今夜も、現場の子たちが必死に踏ん張っています」
「なら、年寄りが一人ぐらい、役に立たにゃ格好がつかねえな」
その時、操縦席からあおいの声が入った。
「先生、真帆さん。まもなく指定された着陸地点です」
先生の笑みが消えた。
「よし。仕事だ」
ヘリコプターは、県警が安全を確認した臨時着陸地点へ降りていった。ローターの風が山の冷たい空気をかき回し、地面の落ち葉を舞い上げる。投光器の白い光の中で機体の扉が開き、まず真帆が降りた。
続いて先生が姿を現した。
コートの裾が風に大きく翻る。老政治家は足を止めず、まっすぐ現場本部へ向かった。
そこには波田顧問が待っていた。
普段の波田は、誰に対しても遠慮のないべらんめえ口調の男である。会議の最中に「始めるぞ」と言えば、太田すみれコーチが麻雀牌を取り出してしまうほど、その声には妙な迫力があった。
しかし、先生を見た波田は背筋を伸ばした。
「先生。深夜にお呼び立てして、申し訳ありません」
「馬鹿野郎!」
いきなり雷が落ちた。
「人質がいるんだろうが。詫びてる暇があったら状況を説明しろ!」
「……はい」
その光景を見ていた赤嶺美月も、珍しく姿勢を正した。
「センセイ、遠いところお疲れ様です」
先生の顔がぱっと明るくなる。
「おう、美月じゃねえか! 元気か!」
「はい! おかげさまで!」
「そうか、そうか! 相変わらず威勢がいいな!」
「ありがとうございます!」
横で山田真央が、目を丸くしていた。
「……美月さんが敬語使ったの、初めて見たがね」
土屋凜花も小さく頷いた。
「私も初めてです」
美月が二人を振り返る。
「聞こえとるで!」
ただし、声量はいつもの半分だった。
真央はさらに小声で言った。
「音量調節までできるんだがね」
「後で覚えとけよ!」
先生が笑った。
「ハッハッハ! お前ら、元気で結構!」
緊迫した現場に、ほんの数秒だけ笑いが戻った。
だが先生は、すぐに県警の責任者へ向き直った。
「で、残ってる人質は何人だ」
説明が始まった。
高齢者、女性、子どもは、杉山ひかりの粘り強い説得と、静岡市内から駆けつけた女性の協力によってほぼ全員が解放されている。しかし、成人男性の宿泊客と従業員が、まだ数名残されていた。
犯人は猟銃を保持したまま。長時間の籠城により疲労は濃く、違法薬物への依存が疑われる状態も不安定だった。
逃走資金五千万円。
逃走手段。
そして大物政治家との面談。
先生は最後まで黙って聞いた。
「分かった。オレは何をすりゃいい」
県警側が交渉への参加条件を説明する。人質の安全を最優先に、独断で動かないこと。現場責任者の指示に従うこと。危険が高まった場合には交渉を中断すること。
先生は頷いた。
「結構。警察の邪魔をするために来たんじゃねえ」
その隣で真帆が言った。
「私も同行します」
「分かっとる。お前がいなきゃ、オレが何を約束したか後で忘れちまう」
「忘れないでください」
「ハッハッハ!」
二人は県警の管理のもと、犯人との交渉に加わった。
旅館の中では、ひかりがすでに何時間も犯人と向き合っていた。
声は少しかすれている。
それでも、穏やかな駿河弁は変わらなかった。
「そうなんだねぇ」
「うん、聞いてるよぉ」
「その時、どう思ったの?」
隣では凜花がスマートフォンを構え、RINKA MODEの配信を続けている。
先ほどまで、りんか民は美月の新幹線乗り過ごしを面白がっていた。しかし今、コメント欄には事件を茶化す言葉がほとんどなかった。
《ひかりさん、ずっと話してる》
《凜花も休めてないよね》
《人質の人、どうか無事で》
《憶測で騒がないようにしよう》
その画面に、先生が入ってきた。
コメント欄が一瞬、激しく動く。
《えっ!?》
《先生!?》
《本物!?》
《あの人が来たの!?》
《本当に来るとは》
《まだ人質いるぞ、落ち着け》
犯人も驚いていた。
「……あんた、本当に……」
先生は犯人を見た。
「オレじゃ不満か?」
「え?」
「大物政治家を呼べって言ったんだろ。オレじゃ足りねえか?」
「い、いや……」
「じゃあ、話は聞くぞ」
犯人はしばらく先生の顔を見つめ、ようやく頷いた。
「……聞いてくれるのか」
「聞くために来たんだよ」
真帆が先生の横につき、ひかりが対談を進めることになった。
「先生、この方は、お金の問題について、これまで自分の話を聞いてもらえなかったとおっしゃっているんです」
先生は犯人に向き直る。
「うん。それで?」
犯人は話し始めた。
金の貸し借り。知人への恨み。返済の約束。紹介料。自分だけが損をしたという訴え。途中から政治の話になり、社会への不満になり、また金の話へ戻る。
筋道は相変わらず乱れていた。
しかし先生は遮らなかった。
「うん、うん」
「なるほどな」
「それで相手は何て言った?」
「ほう。そりゃ、いつの話だ?」
ひかりが適切なところで質問を差し込む。
「さっきお話ししてくれたお金と、今のお金は同じものだら?」
犯人は少し考え、説明し直す。
ひかりは頷く。
「うん。分かってきたよぉ」
先生も頷いた。
「確かに、金の話には調べなきゃならんことがあるようだな」
犯人が身を乗り出す。
「そうだ! 俺は騙されたんだ!」
「それを決めるには、事実を調べにゃならん」
「俺は被害者なんだ!」
「お前に言い分があるのは分かった。ただな」
先生は、ゆっくり言葉を切った。
「人質を取って、鉄砲を撃ったことは別だ。そこは、なかったことにはできねえぞ」
犯人は黙った。
先生は叱りつけなかった。
「お前は話を聞いてほしかったんだろ?」
「……ああ」
「今、オレが聞いてる。ひかりさんも聞いてる。大勢の人も見てる。だったら、もう何人か帰してやれ」
ひかりが静かに続けた。
「そうだら。さっきも約束守ってくれたもんねぇ」
犯人がひかりを見る。
「残ってる人も、帰してあげようよぉ」
沈黙が続いた。
県警の担当者は動かなかった。真帆も口を挟まなかった。凜花は、無言でカメラを構え続けた。
やがて犯人が言った。
「……二人、出せ」
旅館の扉が開いた。
男性の宿泊客が一人。
続いて従業員が一人。
二人は警察官に保護され、安全な場所へ移された。
現場本部で、小さな安堵の声が漏れた。
遥室長が息を吐く。
「……また二人、帰ってこられたのら」
みのりは口元を押さえていた。
理世は確認の連絡を受け、落ち着いた声で言う。
「保護を確認しました。残る人質も必ず帰しましょう」
RINKA MODEのコメント欄にも、安堵が広がった。
《出てきた!》
《よかった!》
《二人無事!》
《ひかりさん、ありがとう》
《先生もありがとう》
《あと少し》
だが、交渉はそこで終わらなかった。
先生は犯人に、また話を促した。
「で、さっきの金の件だがな」
犯人は再び喋り始める。
同じ説明。
同じ恨み。
同じ不満。
先生は頷く。
「うん、うん」
「そうか」
「もう一度、そこを聞かせてくれ」
犯人が説明し直す。
先生はまた聞く。
やがて話題は、昔の勤め先や家族のことにまで及んだ。
真帆は気づいていた。
先生は、意図して話を長く続けている。
国会での長い議論も、地方での延々と続く陳情も経験してきた男である。相手が喋りたいのなら、喋らせる。途中で怒鳴っても、すぐには席を立たない。
まさに牛歩戦術だった。
ただし、目的は犯人を苦しめることではない。
興奮を少しでも鎮め、人質の安全を保ちながら、警察が次の対応を判断するための時間をつくること。
先生は水を一口飲んだ。
「急がなくていい。順番に聞くぞ」
ひかりも頷いた。
「そうだねぇ。ゆっくりでいいら」
犯人は、また話し始めた。
長い夜だった。
窓の外では、山の稜線が少しずつ明るくなっていた。
最初は墨を流したような黒だった山肌が、深い青へ変わる。やがて空に灰色が混じり、木々の輪郭が浮かび上がる。
寸又峡に朝が来ようとしていた。
現場本部では、波田顧問と隼人補佐官が県警側との調整を続けている。
すみれコーチと理世は、万一の救出要請に備え、ヒロインたちの状況を確認していた。
美月。
あかり。
みのり。
澪。
明日香。
美音。
真央。
全員が待機している。
理世は静かに言った。
「目的は犯人を倒すことではありません。残る人質を、全員無事に保護することです」
すみれコーチが続ける。
「県警の判断が出るまでは、絶対に独断で動かない。いいね」
美月が頷いた。
「了解や」
あかりも頷く。
「分かっとるに」
みのりは、画面の向こうのひかりを見つめていた。
「……ひかりさん、もう何時間も話してます」
理世は答えた。
「そうですね。だからこそ、私たちが冷静でいなければなりません」
その頃、先生は犯人の前で大きく息を吐いた。
「……腹空いたね」
犯人が顔を上げる。
「……何?」
「朝じゃねえか。飯、頼もうか」
凜花も思わず先生を見た。
ひかりも少し驚く。
先生は平然としていた。
「腹が減ったままじゃ、話もまとまらねえよ」
県警が安全を確認したうえで、食事が手配された。
福鉄旅行と奥大井鐡道が協力して用意したのは、前日の貸切列車で大好評だった、あの弁当である。
『戦隊ヒロイン 奥大井山の幸弁当』。
茶飯。
山菜。
椎茸の煮物。
川魚の甘露煮。
地元野菜。
彩りのよい副菜。
奥大井の山の恵みが、小さな容器にきちんと詰まっている。
先生は蓋を開けた。
「おっ、いいじゃねえか!」
一口食べる。
「……こりゃ、うまい!」
犯人も箸を取った。
茶飯を食べる。
椎茸を食べる。
川魚を食べる。
そして、ぼそりと言った。
「……うまいな」
もう一口。
「これ、本当にうまいな……」
先生は笑った。
「だろう! 奥大井はいいところなんだよ!」
ひかりも、少しだけ表情を緩めた。
凜花はスマートフォンを構えながら、前日の列車を思い出していた。
あの時、真央は同じ弁当を絶賛していた。
美月は「駅弁は列車で食うから三割増しでうまい」と言い、たつをは勝手に人の弁当を覗き込んでいた。
平和な旅行の、何でもない昼食だった。
それが今、立てこもり事件の現場にある。
犯人は箸を動かしながら、先生の話を聞いていた。
別室の真央も、その様子を見ていた。
「……まさか、私が食レポした弁当がこんな場面に出るとは思わんかったがね」
美月。
「駅弁が事件解決に貢献しそうなん、初めて見たわ」
まさにゃんが口を開く。
「奥大井鐡道の観光資源として、駅弁の商品価値は以前から――」
遥室長。
「今は営業報告しなくていいのら!」
まさにゃん。
「……失礼しました」
ほんのわずかな笑い。
しかし、すみれコーチの声で全員の表情が戻った。
「まだ終わってないよ」
犯人は食事によって一時的に落ち着いているように見えた。
先生の話も聞いている。
だが、猟銃は依然として残っている。
人質も、まだ全員は解放されていない。
県警は状況を慎重に見極め、最終的な救出行動へ移る判断を下した。
理世は連絡を受け、すみれコーチと顔を見合わせた。
「……要請です」
「分かった」
すみれはヒロインたちを見る。
「みんな、行くよ。ただし、最優先は人質と交渉に入っている人たちの安全」
「了解!」
美月が答える。
あかり、みのりも頷いた。
澪、明日香、美音、真央は、警察側との連携を確認する。
波田顧問と隼人補佐官が、県警の責任者と最後の打ち合わせを行った。
そして、救出行動が始まった。
その瞬間を、後に凜花は「音が急に変わった」と振り返ることになる。
それまで聞こえていたのは、犯人の声と先生の相槌、そして弁当の容器が小さく触れ合う音だけだった。
そこへ、県警の指示が飛んだ。
ひかりと凜花に退避が伝えられる。
県警の特殊部隊が動き、理世とすみれの指揮のもと、ヒロインたちも人質の救出支援へ入った。
美月、あかり、みのりが前方で人質の保護を支える。
澪、明日香、美音、真央は、周囲の安全確保と救護に備える。
一瞬で、現場の空気が変わった。
犯人は驚いて顔を上げた。
だが、激しく抵抗することはなかった。
先生に話を聞いてもらった。
ひかりは、最後まで自分の言葉を遮らなかった。
凜花の配信では、大勢の視聴者が話を聞いていた。
そして、奥大井の駅弁は本当においしかった。
そのどれが決め手になったのか、誰にも断定はできない。
ただ、男は疲れ切った顔で猟銃から手を離した。
「……もう、いい」
県警が身柄を確保する。
残された人質も、全員保護された。
寸又峡猟銃立てこもり事件。
ここに終結。
その直後だった。
「……って、何でお前がおんねん!?」
美月の叫び声が響いた。
救出に動いた県警とヒロインたちの後方に、なぜかタツノオトシゴが一体いた。
たつをである。
前の夜から行方が分からなくなっていた、あの五歳児である。
いつの間にか現場近くまで来ていたらしく、県警の警察官に制止されながら、懸命にフリップを掲げていた。
《てっぽう おいて》
美月。
「もう置いたわ!」
たつを。
《みんな ぶじ?》
警察官が頷いた。
「全員無事だよ」
たつを。
《よかった》
その一枚に、美月は一瞬だけ黙った。
「……まあ、それはほんまやな」
だが、たつをは次のフリップを出した。
《おべんとう おいしかった?》
連行される直前の犯人が、思わずたつをを見た。
「……何だ、あれ」
たつをはもう一度掲げる。
《おいしかった?》
犯人は、力のない笑みを浮かべた。
「……ああ。うまかったよ」
たつを。
《じゃあ また きてね》
美月。
「観光案内すな! 今から警察行くんや!」
たつを。
《つぎは へいわに》
その言葉に、犯人は何も答えなかった。
ただ、目を伏せた。
たつをが事件解決の決定打になったわけではない。危険な場所へ勝手に近づいたことは、当然ながら厳しく注意された。それでも、最後に場の緊張を少しだけ解いたのは、相変わらず訳の分からないタツノオトシゴだった。
遥室長が駆けつける。
「たつを! どこ行ってたのら!」
《ひみつ》
「秘密にするななのら!」
《はんせい》
「本当に?」
《すこし》
「全部反省するのら!」
事件の結果が、正式に伝えられた。
人質は全員救出。
犯人の身柄を確保。
ヒロイン、警察官、旅館従業員、宿泊客を含め、負傷者はゼロ。
現場本部に、深い安堵が広がった。
真帆は先生を見た。
「……先生」
「何だ」
「無事でよかったです」
先生は疲れた顔で笑った。
「だから言ったろ。オレはまだ死なねえよ」
「地盤の話は、まだ結構です」
「ハッハッハ! お前、可愛くねえな!」
波田顧問が先生へ深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
先生は波田の肩を叩いた。
「礼なら、ひかりと凜花に言え。あの二人が夜通し話をつないだんだ」
美月も、きちんと頭を下げた。
「センセイ、ありがとうございました」
先生は美月を見る。
「おう。お前らもよくやった」
横で真央が小声で言う。
「美月さん、まだ敬語だがね……」
美月。
「お前、ほんまに後で覚えとけよ」
ようやく、いつもの美月に戻った。
ひかりは、事件が終わったと聞いた瞬間に力が抜けた。
みのりが駆け寄る。
「ひかり!」
「……みのり」
「大丈夫ですか?」
ひかりは頷こうとした。
しかし、先に涙が落ちた。
「……よかったら」
声が震える。
「みんな、無事で……ほんとによかったら……」
みのりも涙ぐみ、ひかりを抱きしめた。
美月は、その光景を見ていた。
いつもなら「尊い」と茶々を入れるところである。
だが、この時ばかりは何も言わなかった。
凜花もスマートフォンを握ったまま立っていた。
長い時間、画面を支えていた腕が重い。
自分がどれだけ緊張していたのか、事件が終わって初めて分かった。
凜花はRINKA MODEの画面を自分へ向け直した。
「りんか民のみんな……」
声が少し詰まる。
「人質の方々は、全員無事に保護されました」
コメント欄が一気に流れる。
《よかった……》
《全員無事!》
《本当によかった》
《ひかりさんありがとう》
《凜花、お疲れ様》
《みんな無事でよかった》
凜花は深く頭を下げた。
「最後まで見守ってくれて、ありがとう。今日は、ここで配信を終わります」
ひかりも隣に立ち、涙の跡が残る顔で小さく一礼した。
「みんな……ありがとうねぇ」
配信終了。
画面が暗くなった。
長い夜が、ようやく終わった。
その後、犯人は県警の捜査員に付き添われ、旅館の玄関から出てきた。
夜明けの光が、山の木々を照らしている。
男は、その明るさを眩しそうに見た。
事件を起こすまでに抱えていた金銭トラブル。
薬物への依存。
人間関係。
それらが、この朝になったからといって消えるわけではない。
彼が訴えていた金銭関係には、他にも調べるべき事情があった。
だが、人質を取り、猟銃を撃ったという事実もまた、消えることはない。
先生は少し離れた場所から声をかけた。
「おい」
犯人が振り向く。
「お前の金の話は、ちゃんと調べてもらえ。言い分があるなら、これからはまともな場所で話せ」
犯人は黙っている。
先生は続けた。
「だがな、人質を取って鉄砲を撃った責任は、きちんと取らなきゃならんぞ」
「……分かってます」
「本当に分かるのは、これからだ」
男は俯いた。
しばらくして、ぽつりと漏らした。
「……あの弁当、うまかったな」
先生は一瞬だけ目を細めた。
「そうか」
「……あんな飯、久しぶりに食いました」
先生は、静かに言った。
「だったら今度は、人を脅さずに食いに来い」
男は答えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
警察車両の扉が閉まる。
車がゆっくり走り出す。
先生は、それを見送った。
犯人が口にした「うまかった」という言葉は、事件を軽くするものではない。彼が今後向き合わなければならない責任も、被害者が受けた恐怖も、その一言では消えない。
ただ、交渉中の一食が、男を一瞬だけ普通の人間の顔に戻したことも事実だった。
寸又峡の朝は、静かだった。
川の音が聞こえる。
鳥の声が聞こえる。
昨夜まで事件現場を照らしていた投光器が、少しずつ消されていく。
事件は終わった。
しかし、ヒロ室東海(仮称)には、もう一つ問題が残っていた。
旅行が、完全に台無しになったのである。
福鉄旅行は二日目の寸又峡散策を中止し、参加者百二十名の安全な帰路を優先することを決めた。
朝、宿のロビーに集まった参加者たちは、口々に話していた。
「いやあ、無事でよかった」
「本当に怖かったですね」
「でも、皆さんありがとうございました」
「……夢のつり橋、渡りたかったなあ」
最後の一言には、多くの人が頷いた。
美月も大きく伸びをした。
「……結局、夢のつり橋、行かれへんかったな」
凜花は残念そうに言った。
「私、写真を撮るの楽しみにしていたんですけど……」
真央。
「寸又峡まで来たなら、やっぱり渡りたいがね」
美音。
「朝の景色も、きれいだったと思うに」
澪は眠そうに呟いた。
「……私は、ちゃんと寝たかった」
理世が真顔で頷いた。
「それが最も切実な要望かもしれません」
ひかりも、少し残念そうに笑った。
「今度は、ゆっくり散策したいら」
みのりが隣で言う。
「ひかりと一緒に、夢のつり橋を渡りたかったです」
ひかり。
「私も、みのりと渡りたかったよぉ」
二人が微笑み合う。
美月。
「はい、尊い」
凜花。
「ようやくいつもの美月さんに戻りましたね」
美月。
「事件中は我慢しとったんや!」
その時、たつをがやってきた。
手にはフリップ。
《ゆめの つりばし》
美月。
「せや。渡られへんかったな」
《また こよう》
美月は少し笑った。
「……まあ、そやな」
次の一枚。
《こんどは へいわに》
全員が頷いた。
だが、たつをはさらにめくった。
《けいひは ひろしつもち》
遥室長。
「勝手に決めるななのら!」
《おべんとう つけて》
美月。
「お前、駅弁に味しめとるやろ!」
さらに。
《まーじゃん きんし》
波田顧問。
「おい!」
すみれコーチ。
「それは事件と関係ないでしょう!」
まさにゃん。
「前夜の対局は、私が優勢だったのですが……」
遥室長。
「最高戦略会議は永久に開催禁止なのら!」
たつを。
《けいひ せつやく》
「そこを節約しなくていいのら!」
参加者たちから笑いが起きた。
昨夜の銃声以来、久しぶりに聞く、心からの笑い声だった。
少し離れた場所で、先生はその光景を見ていた。
隣には真帆がいる。
「……いい連中じゃねえか」
「はい」
「波田と始めた仕事、間違っちゃいなかったな」
真帆は、ひかりと凜花の姿を見た。
長い夜を戦い抜いた二人は、まだ疲れ切っている。それでも参加者に笑顔で挨拶し、一人ひとりを見送っていた。
「ええ。私もそう思います」
先生は頷いた。
「よし。帰るぞ」
真帆。
「先生、朝食はいかがなさいますか?」
「食うに決まってんだろ!」
「先ほど駅弁を召し上がったばかりですが」
「馬鹿野郎! 交渉しながら食う弁当は、朝飯に数えねえんだよ!」
真帆は、とうとう声を出して笑った。
「先生、それは無理があります」
「いいから飯だ、飯!」
豪快な笑い声が、山あいの朝に響いた。
一方、まさにゃんはすでに福鉄旅行静岡支店へ電話をかけていた。
「はい。今回の代替企画についてですが……奥大井鐡道の貸切列車と寸又峡温泉、そして夢のつり橋を組み込んだ再催行を検討したいのですが……」
遥室長が振り向く。
「……まさにゃん?」
「はい」
「もう次の仕事してるのら?」
「鉄道旅行の汚名は、鉄道旅行で返上すべきですから」
遥室長は呆れた顔をした。
「こういう仕事だけは、本当に早いのら」
美月が声を上げる。
「せやけど、次は絶対事件抜きやで!」
真央。
「駅弁は今回と同じのがええがね!」
凜花。
「今度こそ、夢のつり橋で写真を撮りたいです♡」
みのり。
「ひかり、一緒に行きましょうね」
ひかり。
「うん。約束だよぉ」
たつを。
《さんか します》
美月。
「だから、お前は呼ばれてないやろ!」
たつを。
《いっぱんきゃく》
「またそれかい!」
奥大井の山々に、笑い声が戻った。
事件によって予定は狂った。楽しみにしていた夢のつり橋も渡れず、鉄道旅行は本来の行程を終えることができなかった。
それでも、百二十名の参加者は全員無事に帰路へつく。
人質も全員救出された。
誰も命を落とさず、誰も負傷しなかった。
そして、ヒロ室東海(仮称)の面々には、もう一度この地へ来る理由ができた。
次こそは、何事もない旅で。
大井川の車窓を楽しみ、アプト式鉄道に乗り、奥大井湖上駅で写真を撮り、寸又峡の湯に浸かり、あの駅弁を食べる。
そして、夢のつり橋を渡る。
今度は、全員が心から笑える旅行にするために。




