湖峡の夜に二つの切り札――ひかりの涙、りんか民の執念、そして空から来る男
寸又峡の夜は、まだ凍ったままだった。
時計の針は深夜を回っている。
山あいの温泉地に、都市の夜のようなざわめきはない。あるのは川の音、風が木々を揺らす音、警察車両の低いアイドリング音、そしてときおり無線から漏れる短い声だけだった。
その中心に、一軒の旅館があった。
猟銃を持った男が立てこもっている。
人質がいる。
最初の発砲から、すでに時間が経っていた。
それでも事件は動かない。
動かないまま、少しずつ悪くなっていく。
男は薬物依存の疑いが濃かった。言葉は飛び、怒りは急に噴き出し、被害者意識と攻撃性が交互に顔を出す。政治的な主張を叫んだかと思えば、金銭トラブルへ戻り、次の瞬間には静岡市内の歓楽街で働く女性の名前を呼んだ。
「俺は騙されたんだ!」
「五千万用意しろ!」
「薬を持ってこい!」
「俺の話を全国に流せ!」
「政治家を呼べ!」
そしてまた、女の名前。
話は支離滅裂だった。
だが、まったく意味がないわけではなかった。
その乱れた言葉の中に、本人なりの筋道があった。金を失った。誰かに利用された。誰も自分の話を聞かなかった。だから世間に向けて喋る。そういう歪んだ論理で、男は自分の暴力を正当化しようとしていた。
その正面に立っているのが、杉山ひかりだった。
将来の女子アナを本気で目指している、静岡出身の戦隊ヒロイン。
普段のひかりは、おっとりしている。
声は柔らかく、笑い方も穏やかで、人を急かすことがない。静岡の空気をそのまま人にしたような、角のない話し方をする。
だがこの夜、その柔らかさは弱さではなかった。
猟銃を持つ薬物中毒者の犯人を前に、ひかりは一歩も引かなかった。
「うん」
「そうだったんだねぇ」
「そのお金の話、もう少し聞かせてくれる?」
「誰に、いつ、どんなふうに言われたの?」
「今、一番伝えたいことは何だら?」
責めない。
決めつけない。
だが流されもしない。
ひかりは、犯人の言葉の濁流に飲み込まれず、その中から少しずつ事実らしきものを拾っていった。
横では、土屋凜花がスマートフォンを構えていた。
RINKA MODE。
普段なら、りんか民相手にイベントの感想を語り、衣装の話をし、美月とのやり取りで笑いを取る配信である。
だが今夜は違う。
スマートフォンの小さな画面が、交渉の場になっていた。
犯人は「テレビで自分の主張を流せ」と要求した。
しかし、深夜の寸又峡にテレビ取材クルーをすぐ呼ぶことはできない。
そこで凜花が提案した。
動画配信なら、今すぐできる。
登録者は数十万人。
犯人はそれを受け入れた。
今、凜花はカメラマンであり、配信者であり、現場に立つ記録係でもあった。
怖くないはずがない。
猟銃がある。
人質がいる。
犯人の声は荒れている。
それでも凜花は、画角を乱さなかった。
ひかりを必要以上に寄りで撮らない。
犯人を刺激するような映し方をしない。
人質の顔は映さない。
余計なことは喋らない。
かつてアイドルとして、イベントコンパニオンとして、配信者としてカメラの前に立ち続けてきた経験が、まったく別の現場で役に立っていた。
画面の向こうでは、りんか民が息を呑んで見守っている。
コメント欄は普段と違っていた。
《煽るな》
《犯人を罵倒するな》
《人質の顔を特定するな》
《現場の位置情報を書くな》
《凜花とひかりの邪魔をするな》
《切り抜きで遊ぶな》
普段なら、美月をいじるためなら妙な団結力を発揮する連中である。
だが今夜、その団結力は別の方向へ働いていた。
赤嶺美月は、別室でそのコメント欄を見ていた。
さっきまで自分と全面戦争をしていた相手である。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
しかし。
「……りんか民、やる時はやるんやな」
思わず、そう漏らした。
山田真央が横で頷く。
「普段のレスバで統率力が鍛えられとるんだがね」
柏木理世が真顔で言う。
「集団内の自治機能としては、かなり高度です」
美月。
「レスバ民を社会学的に褒めるな」
その頃、ひかりの交渉は続いていた。
犯人は同じことを何度も繰り返す。
「俺は被害者だ」
「誰も聞かなかった」
「全部あいつらのせいだ」
「俺は悪くない」
ひかりは静かに頷く。
「あなたには、言いたいことがあるんだねぇ」
「そうだ!」
「今、それを聞いてるら」
犯人が一瞬黙る。
この「聞いてるら」という言葉が、不思議と男の怒鳴り声を止めることがあった。
犯人も静岡の人間だった。
生まれ育った土地の言葉なのか。
子どもの頃に聞いた近所の大人たちの言葉なのか。
ひかりのおっとりした駿河弁は、怒りで壊れかけた男の奥に、ほんの少しだけ残っている地元の感覚へ届いているように見えた。
それは論理ではない。
だが交渉の現場では、論理だけが人を止めるとは限らない。
声の調子。
間。
言葉の温度。
相手を否定しきらない呼吸。
ひかりは、それを本能的に使っていた。
犯人が猟銃を強く握る。
ひかりは、そっと声を落とした。
「それ、少し下げよう」
「俺に命令するな!」
「命令じゃないら」
「じゃあ何だ!」
「お話を続けるためのお願いだよぉ」
犯人はひかりを睨む。
ひかりは逸らさない。
泣きそうな目なのに、逃げない。
その姿を、凜花のスマートフォンが映していた。
やがてひかりは、人質の方を見た。
年配の男性が肩を押さえている。
高齢の女性が、隣の女性に支えられている。
子どもが母親の腕にしがみついている。
ひかりの喉が、小さく動いた。
彼女は感受性が強い。
誰かの恐怖が、すぐに自分の中へ入ってきてしまう。
だからこそ、きつい現場だった。
だが、その感受性は足を止めなかった。
むしろ、言葉になった。
「……お願いがあるら」
犯人が顔を向ける。
「何だ」
ひかりの目に涙が浮かぶ。
「おじいちゃんとか、おばあちゃんとか、女の人とか、子どもだけでも……帰してあげてほしいら」
「駄目だ」
即答だった。
ひかりは一歩も下がらなかった。
「お願い」
「人質がいなくなったら、誰も俺の話を聞かない!」
「聞いてるよぉ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないら」
ひかりは凜花のスマートフォンを見た。
「今、たくさんの人が見てる。凜花さんがずっと映してる。私も、ずっと聞いてる」
犯人の目が泳ぐ。
ひかりは続ける。
「だから、この人たちまでここに置いとかなくても、あなたの話は消えないよぉ」
犯人は黙る。
ひかりの声が震えた。
「子ども、怖がってるら」
沈黙。
山の夜が、さらに深くなったようだった。
県警の説得担当も、ヒロ室の面々も、画面の向こうのりんか民も、誰も声を出せなかった。
ひかりは涙を拭わない。
そのまま言う。
「あなたにも、言いたいことがたくさんあるのは分かった」
「お金のことも、全部あなたが悪かっただけじゃないのかもしれない」
犯人が、初めて少し顔を上げた。
「……そうだ」
「でも、この子たちは関係ないら?」
「……」
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、女の人も、この子も、あなたを騙した人じゃないよねぇ」
「……」
「だったら、帰してあげようよぉ」
長い沈黙だった。
誰かが咳をしただけでも壊れそうな沈黙。
そして犯人は、低い声で言った。
「……年寄りから出せ」
現場が動いた。
県警が慎重に配置を変える。
旅館の入口が開く。
まず高齢者。
一人。
二人。
肩を借りながら出てくる。
続いて、女性が数名。
子どもが一人。
母親に抱きつきながら泣いている。
保護された瞬間、現場に小さな安堵が広がった。
遥室長はモニターを見ながら、声を漏らした。
「ひかり……やったのら」
みのりは涙ぐんでいた。
「ひかりさん……」
美月も黙って拳を握る。
「すごいわ、あの子」
理世は冷静だったが、その声にはわずかに熱があった。
「犯人に“人質を解放しても、自分の発言力は失われない”と思わせました。非常に高度な交渉です」
真央。
「ひかり、女子アナどころか交渉人だがね」
すみれコーチ。
「でも、まだ終わってない」
その通りだった。
犯人は、一部を解放した。
だが、全員ではない。
そして次に出した条件が、事件をさらに複雑にした。
「女を連れてこい」
彼が何度も名前を叫んでいた、静岡市内の歓楽街の人気キャバクラ嬢である。
彼女に会わせれば、さらに人質を解放する。
そう言った。
この頃、RINKA MODEを見ていたりんか民の一部は、すでに動いていた。
犯人の発言。
過去の配信中に聞こえた店名らしき言葉。
静岡市内。
歓楽街。
女性の源氏名。
数百万を使ったという話。
それらをつなぎ、かなり早い段階で該当する女性を絞り込んでいた。
だが、コメント欄は暴走しなかった。
《名前を書くな》
《店を晒すな》
《本人に突撃するな》
《警察へ情報提供》
《私刑禁止》
《これは遊びじゃない》
りんか民は、普段の軽さからは想像できないほど自制していた。
情報は警察へ渡る。
店側を通じて、女性本人と連絡が取られる。
女性は最初、完全に拒否した。
「知らないです」
「ただのお客さんです」
「勝手にお金を使っただけです」
「私には関係ないですよね?」
そして、吐き捨てるように言った。
「正直、鬱陶しかったです」
無理もなかった。
彼女に責任はない。
犯人が勝手に通い、勝手に金を使い、勝手に思い込んだだけである。
警察も、彼女を現場へ引き出すことに慎重だった。
だが、犯人は条件を出した。
彼女が来れば、人質をさらに解放する。
その情報が伝えられた時、女性は長く黙った。
やがて、確認した。
「私が行ったら、本当に誰か出すんですか」
「保証はできません」
警察官は正直に答えた。
「ただ、可能性はあります」
女性は目を伏せる。
「……私は悪くないですよね」
「はい」
「責任を取れって話じゃないですよね」
「違います」
そこへ、警察経由で届いたりんか民のメッセージがあった。
あなたを責めていない。
あなたは悪くない。
危険な場所まで行く必要はない。
ただ、姿を見せるだけで人質が減るかもしれない。
断ってもいい。
でも協力してくれるなら、必ず警察に守ってもらって。
女性はその文面を見つめた。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「……分かりました」
ただし、と彼女は続けた。
「絶対に、あの人の近くには行きません。銃の届く場所にも行きません。直接話すかどうかも、警察の指示に従います」
警察はその条件を受け入れた。
女性は警察車両へ乗った。
同行するのは警察関係者。
そして、情報提供に関わったりんか民の一部も、事情聴取と確認のため、警察の管理下で移動することになった。
もちろん、勝手に現場へ押しかけるのではない。
警察車両。
警察の指示。
完全な管理下。
その車内で、女性は隣にいたりんか民に尋ねた。
「あなたたち、何なんですか」
りんか民の一人が答える。
「凜花さんの配信の視聴者です」
「それは聞きました」
「普段は、美月さんと戦っています」
「……誰ですか、美月さんって」
「強い人です。新幹線を乗り過ごします」
「意味が分からないんですけど」
重い車内に、ほんの少しだけ笑いが漏れた。
寸又峡へ向かう警察車両は、深夜の山道を走る。
街灯は少ない。
カーブが続く。
車窓の外は黒く、ヘッドライトの先だけが白い。
その中で、女性は黙っていた。
自分は関係ない。
確かにそうだ。
だが、関係ないままでは終わらない夜もある。
寸又峡へ到着すると、現場はさらに張り詰めていた。
県警は女性を防護線の内側、安全な位置に置く。
犯人へ伝える。
「本人が来た」
犯人は信じない。
「嘘だ!」
女性がマイクを持つ。
声は硬い。
だが、逃げてはいない。
「来ましたよ」
犯人が窓の向こうで固まる。
「……本当に?」
「本当です」
「俺に会いたかったのか」
女性は即答した。
「違います」
現場が一瞬、妙な沈黙に包まれた。
別室で見ていた美月が小声で言う。
「そこはハッキリ言うんやな……」
女性は続ける。
「人質を帰してほしいから来ただけです」
犯人。
「でも来たじゃないか」
「来ました」
「俺のために」
「人質のためです」
犯人の顔が歪む。
その空気を、ひかりがそっと受け取った。
「来てくれたよぉ」
犯人がひかりを見る。
ひかりは、いつもの駿河弁で言った。
「約束、覚えてる?」
犯人は黙る。
「来てくれたら、もっと人を帰すって言ったら」
「……」
「この人も、怖いのに来てくれたら」
ひかりの声は穏やかだった。
「今度は、あなたが約束を守る番だら」
犯人の肩が落ちた。
長い沈黙の後、低い声。
「……女と子ども、出せ」
旅館の扉が開く。
女性。
子ども。
さらに高齢者。
次々と出てくる。
県警が保護する。
泣き崩れる人。
震えながら頭を下げる人。
担がれるように出てくる人。
ほぼすべての高齢者、女性、子どもが解放された。
ひかりは、その光景を見た瞬間、堪えていた涙を落とした。
だが、崩れなかった。
「ありがとう」
犯人に向かって、そう言った。
凜花もカメラを構え続けた。
その指先は冷たくなっていたが、映像は乱れなかった。
コメント欄には、言葉が流れていた。
《ひかりさんありがとう》
《凜花さんありがとう》
《キャバ嬢さんありがとう》
《まだ終わってない》
《残ってる人がいる》
そう。
まだ終わっていなかった。
人質は大幅に減った。
それは大きな成果だった。
しかし、犯人はそこで再び膠着した。
むしろ、自分の要求が通るという感覚を持ったようにも見えた。
「五千万だ」
「逃走資金を用意しろ」
「車を持ってこい」
「俺を逃がせ」
そして新しい要求。
「政治家を呼べ」
県警の交渉担当が問う。
「誰だ」
「大物だ」
「具体的には」
「テレビに出てるような奴だ。国会議員だ。誰もが知ってる奴を連れてこい」
要求は、また大きくなった。
現場本部に重い空気が落ちる。
遥室長は眉を寄せる。
「今度は大物政治家なのら……」
隼人補佐官は冷静に言う。
「ただ、人質が減ったことで対応の幅は広がりました」
波田顧問。
「だが残っている以上、乱暴には動けん」
その時、東京の新橋ヒロ室にも情報が入っていた。
深夜にもかかわらず、臨時対応室のようになった新橋ヒロ室に、安岡真帆がいた。
彼女はかつて、与党の大物代議士に仕えていた。
誰もが名前を知っている。
長く政界の中心にいた。
テレビにも出る。
重い場面で名前が挙がれば、周囲が一瞬黙る。
そういう男だった。
犯人が求めているのは、大物政治家。
真帆は数秒だけ考えた。
そして、スマートフォンを取った。
登録された番号を見つめる。
かける。
深夜。
数回の呼び出し音。
低い声が出た。
「……真帆か」
「先生、寸又峡の事件はご存じですね」
「見ている」
「犯人が、大物政治家との面談を要求しています」
電話の向こうが沈黙した。
「まさか」
「お願いします」
「俺に行けというのか」
「はい」
再び沈黙。
真帆は、余計なことを言わなかった。
相手がどういう男か知っている。
政治的な計算をする男である。
だが、それだけではない。
最後に人命が絡めば、逃げない男でもある。
電話の向こうで、男が言った。
「俺が行けば、解決するのか?」
真帆は即答しなかった。
少しだけ間を置き、正直に言う。
「分かりません」
「だろうな」
「でも、人質をさらに解放させる材料にはなるかもしれません」
「警察は承知しているのか」
「調整中です」
「危険だぞ」
「承知しています」
「残っている人質は」
「成人男性が中心です」
深い息。
「分かった」
真帆の表情が動いた。
「先生」
「行く」
「ありがとうございます」
「礼は終わってからだ」
そして男は、いつもの低い声で続けた。
「俺を英雄に仕立てるな。使えるなら交渉材料として使え。だが、政治ショーにはするな」
真帆は少しだけ笑った。
「昔と変わりませんね」
「余計なことを言うな」
移動手段が問題だった。
寸又峡は遠い。
深夜の山道を車で急行しても時間がかかる。
道路事情もある。
現場は一刻を争う。
そこで動いたのが、若林あおいだった。
ヘリコプター。
夜間飛行。
山岳地帯。
簡単な移動ではない。
だが、あおいは短く言った。
「飛べます」
格納庫に灯りが入る。
ヘリの機体が闇の中に浮かび上がる。
ローターがゆっくり回り始める。
風が床を叩く。
作業員が身を低くする。
真帆がコートの襟を押さえながら機体へ向かう。
その隣に、大物政治家が歩く。
年齢を重ねた男の足取りは、決して軽くはない。
しかし迷いはなかった。
秘書でも記者でもなく、真帆が隣につく。
あおいは操縦席で計器を確認する。
「搭乗確認」
真帆。
「お願いします」
大物政治家が低く言う。
「若林君だったな」
あおい。
「はい」
「落とすなよ」
あおいは前を見たまま答える。
「落としません」
真帆が思わず横を見る。
男は薄く笑った。
「いい返事だ」
ローター音が大きくなる。
機体が震える。
新橋の夜景が窓の向こうで揺れた。
そして、ヘリは浮いた。
都市の明かりを背にして、若林あおいの操縦する機体は、深夜の空へ出る。
下には東京。
やがて暗い山並み。
高速道路の光。
河川の黒い帯。
機内は会話が少ない。
真帆はヘッドセット越しに現場情報を確認する。
「人質の一部解放を確認。残りは成人男性中心。犯人は興奮状態。薬物切れの可能性あり。大物政治家との面談を要求」
大物政治家は目を閉じて聞いている。
やがて言った。
「面談はしない」
真帆が見る。
「では」
「交渉だ。相手の舞台に乗ってやるだけだ。主導権まで渡す必要はない」
真帆。
「承知しました」
あおいの声が入る。
「山岳部へ入ります。揺れます」
機体がわずかに沈み、また持ち上がる。
夜の山は、黒い海のようだった。
寸又峡へ向かうにつれ、灯りは少なくなる。
その暗さの中に、やがて一点だけ不自然に明るい場所が見えた。
投光器。
警察車両。
現場旅館。
あおいが言う。
「現場上空、接近します」
現場本部に無線が入る。
「機体接近」
寸又峡の温泉街に、ローター音が響き始めた。
最初は遠い低音。
やがて、山の壁に反響して大きくなる。
犯人が窓へ顔を向ける。
「何の音だ」
ひかりは犯人を見る。
「来てくれたみたいだよぉ」
「本当に来たのか」
「うん」
ひかりの声は、疲れていた。
しかし、揺れていない。
「だから、約束を守ろうね」
凜花はスマートフォンを構えたまま、空の音を聞いていた。
コメント欄がざわつく。
《ヘリ?》
《本当に政治家が来るの?》
《すごい音》
《まだ騒ぐな》
《人質を全員帰して》
現場の安全区域。
投光器に照らされた臨時着陸地点。
強い風が舞い、砂と落ち葉が巻き上がる。
警察官が手で合図を出す。
ヘリが降りてくる。
ローター音。
風。
白い光。
夜の山。
その中で、機体のドアが開いた。
最初に降りたのは安岡真帆だった。
髪を風に乱されながらも、姿勢は崩れない。
視線はすぐに現場本部へ向く。
次に、大物政治家が降りる。
コートの裾が風に煽られる。
顔には疲労がある。
だが、目は鋭い。
報道番組で見せる表情ではなかった。
国会の演説で見せる顔でもない。
人質事件の現場へ来た男の顔だった。
現場が一瞬、静まり返る。
若林あおいは操縦席でエンジン音を落としながら、周囲を確認する。
真帆が政治家の横に並ぶ。
「先生、こちらです」
男は短く頷く。
「状況を聞く」
波田顧問が迎える。
隼人補佐官も立つ。
遥室長が少し離れた位置で見る。
「本当に来たのら……」
美月も、遠くからその姿を見ていた。
「空から超大物政治家て、どんな展開やねん」
真央が小声で言う。
「もう旅行イベントの続きじゃないがね」
理世は表情を変えずに答える。
「それでも、全員がここに集まった意味はあります」
すみれコーチが低く言う。
「これが最後の交渉カードになる」
美月は拳を握る。
「駄目なら」
すみれは答えない。
だが、美月は分かっていた。
駄目なら、突入。
ひかりが作った均衡。
凜花がつないできた配信。
りんか民が動かした情報。
キャバクラ嬢の到着。
そして今、空から来た大物政治家。
使えるカードは、ほとんど出尽くした。
現場旅館の中では、犯人が窓の外を見ていた。
「本当に来た……」
その声には、驚きと高揚が混ざっていた。
ひかりは静かに言った。
「来てくれたねぇ」
犯人。
「俺のために来たんだ」
ひかり。
「人質を帰すために来てくれたんだと思うら」
犯人は一瞬、言葉を失った。
凜花はその表情を映しすぎないよう、少しだけ画角を外した。
コメント欄は、緊張で静かになっていた。
現場本部では、真帆が短く状況を説明する。
政治家は最後まで黙って聞いた。
そして言った。
「分かった。俺は出る。ただし、銃口の前には立たん。相手に演説はさせない。人質解放を条件に話す」
波田顧問が頷く。
「それで十分です」
隼人補佐官。
「県警と最終調整します」
理世が時計を見る。
すみれコーチがヒロインたちへ目を向ける。
美音。
真白。
あかり。
明日香。
真央。
美月。
澪。
みのり。
全員が待機している。
ひかりは前にいる。
凜花も前にいる。
長い夜の、終点が近づいていた。
ただし、終点が救出なのか、突入なのかはまだ分からない。
寸又峡の夜空に、まだローターの余韻が残っていた。
その音の下で、人質事件は最後の山場へ向かっていた。
誰も、もう笑っていなかった。
ただ一人、美月だけが小さく呟いた。
「……まさにゃん、せっかく麻雀勝っとったのにな」
真央が隣で小声で返す。
「そこ思い出す場面じゃないがね」
ほんのわずかな笑い。
だが、すぐに消える。
視線は再び、旅館へ向いた。
猟銃を持った男。
残された人質。
穏やかな駿河弁でつなぎ止めるひかり。
スマートフォンを構え続ける凜花。
情報で支えた、画面の向こうのりんか民。
そして、深夜の空から降り立った真帆と大物政治家。
奥大井の夜は、いよいよ最後の局面へ入った。
次回へ続く。




