ホームに帰ってきた女王陛下!?――土屋凜花、日本平“オレンジヒロインMATCH DAY”! 美月「プレーボール!」でサッカーの街が大爆笑!?
静岡市清水区の空は、朝からどこか明るかった。
駿河湾から吹いてくる風は柔らかく、港町らしい潮の匂いを少しだけ含んでいる。遠くには山があり、海があり、街にはお茶とみかんと魚介の豊かさがある。マグロ、しらす、桜エビ。清水港の名を聞くだけで、丼と味噌汁と湯気まで頭に浮かぶ。
そして清水といえば、国民的アニメの舞台として親しまれる街でもある。
どこか温和で、どこか人情があり、登場人物たちのように、肩肘張らずに笑い合える雰囲気がある。路地の向こうから「おはよう」と声が聞こえてきそうで、港へ行けば海の匂い、山側へ行けばお茶とみかんの香りがする。
だが、清水を語るうえで、もう一つ絶対に外せないものがある。
サッカーである。
この街には、日本プロサッカー創成期から走り続けてきた、伝統あるオレンジのクラブがある。リーグ開幕時から名を連ねたオリジナル10の一つであり、日本代表クラスの名選手も数多く送り出し、清水という街とともに日本サッカー界へ計り知れない貢献をしてきた名門である。
そのオレンジのクラブと、ヒロ室東海(仮称)がタイアップする特別マッチデー。
イベント名は、
『ORANGE HEROINE MATCH DAY ~清水から未来へ、みんなでつなぐサッカーの輪~』。
この企画が実現した理由は、土屋凜花だった。
凜花は昨年まで、このオレンジのクラブの公式アンバサダーを務めていた。試合前イベントに出演し、公式ホームページにも登場し、地域PRにも関わり、サポーターとも何度も交流してきた。
日本平スタジアムは、凜花にとってただの仕事場ではない。
何度も立った場所。
何度も声を浴びた場所。
何度も笑顔で手を振った場所。
そして今日、凜花は戦隊ヒロインとして、そこへ帰ってくる。
日本平スタジアムは、相変わらず素晴らしかった。
丘陵地にあるこのスタジアムは、天気が良ければ富士山と駿河湾が望める。風光明媚という言葉がこれほど似合うサッカースタジアムもなかなかない。ピッチとスタンドが近く、選手の声、ボールを蹴る音、サポーターの手拍子が、まるで体に直接届くような臨場感がある。
しかもスタジアムグルメが豊富だ。桜エビのかき揚げ、魚介を使った丼、みかん系のスイーツ、地元らしい飲み物。試合を見る前から腹も心も満たされる。
この小説の作者は、イエローとグリーンをまとった千葉のクラブ――こちらもオリジナル10の一つとして日本サッカーの歴史を背負ってきた誇り高いクラブ――のサポーターである。
それでも日本平は好きだ。
いや、かなり好きだ。
アウェイとして訪れても、あの景色、あの見やすさ、あの近さ、あのスタグルの充実ぶりは素直に認めざるを得ない。悔しいが、いいスタジアムである。
その日本平へ、ヒロ室東海(仮称)の面々が到着した。
山田真央、稲生明日香、伊吹真白、山本あかり、河合美音、杉山ひかり、赤嶺美月。そして土屋凜花。
さらに、水無瀬澪と南部沙羅も参加する。
駐車場からスタジアムへ向かう通路に入った瞬間、空気が変わった。
「りんかちゃーん!」
オレンジのユニフォームを着た女性サポーターが手を振った。
凜花が振り向く。
「はーい! お久しぶりです!」
今度は親子連れ。
「りんかちゃん、おかえりー!」
「戦隊ヒロインになっても応援してるよー!」
凜花はいつものクールな笑みではなく、少し素に近い柔らかい表情で手を振った。
「ありがとうございます! 今日もよろしくお願いします!」
美月が目を丸くする。
「凜花さん、めちゃくちゃ顔知られとるやん」
真央も感心した。
「完全にホームだがね」
ひかりは、同じ静岡市の人間として嬉しそうに笑った。
「凜花ちゃん、本当に帰ってきたって感じだねぇ」
凜花は一瞬だけ黙った。
オレンジのタオルを掲げるサポーター。
スタグルの匂い。
ゴール裏から少しずつ聞こえてくる手拍子。
懐かしいスタッフの顔。
そして日本平の空。
「……そうですね」
凜花は小さく答えた。
「帰ってきた感じ、します」
その横で、美月はすでに売店の方向を見ていた。
「なあ、凜花さん」
「はい」
「スタグルって、もう食べてええん?」
凜花は微笑んだ。
「もちろんです。むしろ早めに食べた方がいいです。混みますから」
「野球場の球場飯みたいなもんやな!」
「そこは近いです」
「ほら! サッカーも野球と一緒のとこあるやん!」
「そこだけです」
澪が横から冷静に言った。
澪は地元川崎のサックスブルーのクラブのサポーターで、サッカーそのものにはかなり詳しい。ただし今日は招かれた側である。きちんとオレンジを応援する気で来ていた。
「今日はオレンジ側でいくから」
澪が言うと、美音も静かに頷いた。
「私も今日はオレンジを応援します」
凜花が振り向く。
「美音さん、“今日は”って言いました?」
「言っていません」
「言いましたよね?」
「気のせいです」
河合美音。
浜松出身。
遠州の勇者。
実は県内最大のライバルであるサックスブルーのクラブのサポーターである。
ただし今日、その事実は伏せる。
ここは日本平。
オレンジの聖地である。
一方で問題は、美月だった。
赤嶺美月は野球には詳しい。応援も好きだ。声も大きい。ノリもいい。チームを盛り上げる力はある。
ただし。
サッカーは。
ズブの素人だった。
一応、ルールは知っている。
一応、十一人でやることも分かっている。
一応、手を使ってはいけないことも分かっている。
しかし頭の中で、すべてが勝手に野球へ変換されてしまう。
沙羅、真白、あかり、明日香は、サッカーも野球もあまり詳しくないため、そもそも何がどう違うのか分からない。
真央は器用な愛知県人で博識なので、なんとなくサッカーのことも知っている。しかし詳しいわけではない。
だから、中途半端に分かる分だけ、逆に混乱する。
そこで試合前イベントとして、
『凜花先生の10分でわかる! はじめてのサッカー観戦講座』
が行われることになった。
凜花はボードの前に立ち、さすが元アンバサダーらしく、明るく分かりやすく説明を始めた。
「まず、サッカーは一チーム十一人です」
美月が頷く。
「知っとる」
「前半四十五分、後半四十五分です」
「それも知っとる」
「基本的に、フィールドプレーヤーは手を使えません」
「それも知っとる」
「ゴールを多く決めたチームが勝ちです」
「そらそうや」
凜花は安心した。
「じゃあ大丈夫そうですね」
美月は胸を張った。
「要するに、九回がない野球やろ」
凜花の笑顔が固まった。
澪が吹き出した。
ひかりが口元を押さえた。
美音は目を閉じて肩を震わせた。
真央は真剣な顔で考え込んだ。
「九回がない野球……違う気もするけど、完全に違うとも言い切れんような……」
凜花が慌てて止める。
「真央さん、考えないでください。違います」
沙羅が首を傾げる。
「九回じゃないんですか?」
真白も続く。
「アウトはないんですか?」
あかり。
「攻守交代は?」
明日香。
「打順は?」
凜花がボードを抱えた。
「美月さんのせいで、初心者組が別方向に行きました!」
美月は不満そうだった。
「でも試合開始はプレーボールやん?」
凜花は深呼吸した。
「サッカーではキックオフです」
「でも、始まるんやろ?」
「始まります」
「ほな野球で言うプレーボールやん」
「野球で言わないでください!」
澪はもう我慢できずに笑っていた。
「美月さん、サッカーを野球へ戻そうとしないで!」
「戻してへん。分かりやすくしてるだけや」
「分かりにくくなってるよ」
オフサイドの説明ではさらに大混乱になった。
凜花が図を描く。
「攻撃側の選手が相手の最終ラインより前にいて――」
美月が手を挙げる。
「つまり、前の走者が飛び出して――」
「走者じゃありません」
「じゃあ打者が――」
「打者もいません」
「塁は?」
「ありません」
「一塁も?」
「ありません」
「二塁も?」
「ありません!」
「三塁も?」
「ないです!」
「満塁は?」
「ありません!」
ひかりがついに笑いながら言った。
「美月さん、全部野球にしないでぇ」
美音も肩を震わせる。
「サッカー通訳が必要ですね。サッカーから野球へではなく、野球からサッカーへ」
凜花が言う。
「一番いらない翻訳です」
真央は頭を抱えた。
「うちは美月さんの説明で余計に分からんくなってきたがね」
沙羅、真白、あかり、明日香は全員そろって、
「???」
という顔をしていた。
凜花は決断した。
「もう細かいことは試合を見ながら覚えましょう」
美月は頷く。
「実戦形式やな」
「それも野球っぽいです」
試合前イベントはまだ続く。
次は、子どもたちと一緒に行うPKターゲットチャレンジだった。
ゴールの中に番号パネルが設置され、指定された的を狙ってボールを蹴る。ヒロインたちが順番に挑戦し、子どもたちを盛り上げる企画である。
凜花はさすがだった。
蹴る前の立ち姿から絵になる。少し髪を耳にかけ、片足を引き、観客へ笑顔を向ける。イベントコンパニオンとして、どこから撮られても綺麗に見える角度を知っている。
軽く助走。
きれいにインパクト。
ボールは狙ったパネルの近くへ飛んだ。
「惜しい!」
客席から拍手。
凜花は笑って手を振る。
「ちょっと悔しいですね」
澪はフォームが自然だった。
さすが普段からサッカーを見ているだけある。蹴り方に無駄が少ない。
美音も妙に上手かった。
ボールが低く鋭く飛ぶ。
凜花が目を細める。
「美音さん」
「何でしょう」
「やっぱりサッカー、かなり見てますよね」
「一般常識です」
「その一般常識、浜松寄りじゃないですか?」
「気のせいです」
ひかりは地元の子どもたちに手を振りながら、やわらかく蹴る。
真央は勢いよく蹴って、パネルではなくポスト付近に当てた。
「おお、惜しいがね!」
真白、あかり、明日香、沙羅はそれぞれ慣れないながらも楽しそうだった。ボールが弱くても、子どもたちが拍手してくれる。
そして。
赤嶺美月の番。
MCが明るく言った。
「それでは、赤嶺美月さん、お願いします!」
美月は両手を高く上げた。
スタンドへ向かって、大きく息を吸う。
凜花が嫌な予感を覚える。
「美月さん、まさか――」
美月が叫んだ。
「よっしゃ! プレーボールや!」
一瞬。
日本平が静まり返った。
そのあと。
爆笑。
オレンジのサポーターも、子どもたちも、スタッフも、ヒロインたちも、全員が笑った。
凜花は顔を覆った。
「美月さん! キックオフです!」
「せやった!」
ひかりはしゃがみ込むほど笑っていた。
澪は壁の方を向いて肩を震わせている。
美音は冷静な顔を作ろうとして完全に失敗していた。
真央が叫んだ。
「日本平プレーボール事件だがね!」
「事件にすな!」
美月は顔を赤くしながら助走を取った。
「ほな、ここから挽回や!」
狙う。
蹴る。
ボールは豪快に飛んだ。
とても豪快に飛んだ。
枠へ。
ではなく。
ゴール上。
はるか。
向こう。
壮大な枠外。
スタンドの前方にいたスタッフが慌てて目で追う。
観客席から、
「おおおおお!」
という別の意味の歓声。
美月は蹴った姿勢のまま固まった。
凜花が口を押さえる。
澪がついにしゃがみ込む。
ひかりは涙目。
美音は完全に横を向いた。
真央が腹を抱えて笑った。
「プレーボールからの場外ホームランだがね!」
美月が叫ぶ。
「誰が場外ホームランや!」
凜花が笑いをこらえながら言った。
「いや、これは……サッカー的には枠外です」
澪が言う。
「でも野球的には確かに場外」
「澪まで乗るな!」
沙羅、真白、あかり、明日香は真顔で聞いた。
「今のは良かったんですか?」
凜花は即答した。
「よくないです」
美月は胸を張った。
「でも盛り上がったやろ」
それは。
否定。
できなかった。
試合前イベントは大成功だった。
その後、凜花はヒロインたちを連れてスタジアムグルメのエリアを案内した。
「日本平は試合だけじゃないんです。早めに来て、スタグルを食べて、グッズを見て、イベントを見て、それから試合へ入る。この時間も全部ホームゲームの楽しみなんです」
桜エビのかき揚げ。
魚介系の丼。
みかんを使ったスイーツ。
お茶のドリンク。
焼き物。
揚げ物。
香ばしい匂いがあちこちから漂う。
美月は目を輝かせた。
「これ、野球場の球場飯より種類あるんちゃう?」
凜花は得意げに笑った。
「でしょう?」
「なんで凜花さんが勝ち誇っとるん?」
「ホームなので」
「強いな、その一言」
オレンジのサポーターがまた声を掛ける。
「りんかちゃーん!」
「凜花先生、今日も綺麗!」
「アンバサダー戻ってきてー!」
凜花は一人ひとりに手を振る。
「ありがとうございます!」
「今日は戦隊ヒロインとして来ました!」
「試合も一緒に応援しましょう!」
美月はその様子を見て言った。
「ここでは女王陛下やなくて、りんかちゃんなんやな」
凜花は少し考えた。
「……そうかもしれません」
RINKA MODEでは女王陛下。
らぶりんか王国では絶対君主。
でも、この日本平では、昔からサポーターに呼ばれてきた「りんかちゃん」だった。
その響きは、少し照れくさく、かなり嬉しい。
試合前、凜花はチャントや手拍子の入り方も教えた。
「歌詞が分からなくても、まずは手拍子だけで大丈夫です。ゴール裏のリズムを見て、周りに合わせれば自然に入れます」
日本平のゴール裏からは、すでにサンバのリズムが聞こえていた。
太鼓。
手拍子。
オレンジのタオル。
揺れる旗。
美月の目が輝く。
「ええやん! こういう応援、好きや!」
澪が笑う。
「美月は応援だけならすぐ入れるね」
「応援なら任せとき!」
凜花は笑った。
「サッカーの理解は?」
「それは今からや」
「順番が逆です」
この日の対戦相手は、東京の伝統あるグリーンのチーム。
オレンジ対グリーン。
スタンドは鮮やかだった。
試合開始。
美月はうっかり立ち上がりかけた。
「よっしゃ、プレー――」
全員が同時に言った。
「キックオフ!」
「分かっとるわ!」
試合が動き出す。
美月は最初、ボールを目で追うだけで精一杯だった。
「え、どこ見るんこれ」
凜花が言う。
「まずボールを見て、慣れてきたら選手の動きも見ると面白いです」
澪が補足する。
「ボールがないところで走ってる選手も大事だよ」
美月は真剣な顔になる。
「ランナーの動きみたいなもんか」
凜花。
「違います」
澪。
「近いようで違う」
美音。
「でも空間を使うという意味では、少しだけ通じるところはあります」
凜花。
「美音さん、やっぱり詳しい」
美音。
「一般常識です」
沙羅、真白、あかり、明日香は三人の説明を聞いてさらに混乱していた。
真白が言う。
「結局、走者はいるんですか?」
凜花。
「いません」
あかり。
「でも走ってますよね?」
澪。
「走ってるけど走者じゃない」
明日香。
「難しいですね」
沙羅。
「サッカーって哲学みたいです」
真央は腕を組む。
「美月さんの野球翻訳が微妙に分かるから、余計に迷うがね」
凜花が頭を抱えた。
「今日は真央さんまで崩れてる」
一方、美月は応援にはすぐ馴染んだ。
サンバのリズム。
手拍子。
ゴール裏の熱。
オレンジのサポーターの一体感。
それらを前にして、黙っていられる赤嶺美月ではない。
「行けぇぇぇ!」
「そこや!」
「前や前!」
「今のええ球や!」
凜花が笑う。
「球って言わない」
「ボールやから球やろ!」
ひかりも笑う。
「美月ちゃん、だんだん楽しそうだねぇ」
美月はもうノリノリだった。
相手のシュートをオレンジのGKが防ぐ。
「ナイスキャッチ! ワンアウト!」
凜花が即座に突っ込む。
「アウトは増えません!」
澪が笑う。
「一生ゼロアウトだよ」
「ややこしいな!」
オレンジがチャンスを作る。
「送れ送れ! 進塁させろ!」
「進塁じゃありません!」
「サイド変えた! 逆方向への流し打ちや!」
美音がついに吹いた。
「流し打ちではありません」
澪は腹を抱える。
「でも言いたいことはちょっと分かるのが悔しい」
凜花も笑いながら、
「分かったら負けです」
と言う。
序盤、オレンジが先制する。
ゴールが決まった瞬間、日本平が大きく揺れるような歓声に包まれた。
美月は立ち上がった。
「先制適時打や!」
「ゴールです!」
ひかりが笑いながら言う。
「美月さん、せめて得点って言おう?」
その後、前半のうちにオレンジが追加点。
2―0。
美月はますます調子に乗る。
「ええぞ! このまま完封リレーや!」
美音が反射的に訂正した。
「クリーンシートですね」
凜花がじっと見る。
「美音さん」
「何でしょう」
「今の反応、絶対サッカー見てる人です」
「一般常識です」
「それ、今日何回目ですか?」
「必要な回数です」
美月はそんなやり取りを聞きながら、手拍子を続けていた。
「サッカー応援、リズムええな。サンバっぽくて楽しいわ」
澪が頷く。
「このクラブの応援の雰囲気、独特でいいよね」
ひかりも嬉しそうに言う。
「清水らしい明るさがあるよぉ」
沙羅が聞く。
「今、どっちが攻撃ですか?」
真白。
「ボールを持っている方ですか?」
あかり。
「でも持ってはいないに」
明日香。
「足で扱っていますからね」
凜花は笑いすぎて涙が出そうだった。
「初心者組、そこからですか」
ハーフタイム。
スタジアムは、さらにヒロ室東海(仮称)一色になった。
オレンジ色のタオルを使ったヒロインショー。
まず凜花が中央に立つ。
元アイドルらしい姿勢。
長い手脚。
視線の流し方。
一瞬でスタンドの視線を集める。
だが、今回は独り占めしない。
真央に元気な掛け声を任せる。
明日香には愛知から見た清水の魅力を語らせる。
真白には水都大垣育ちの視点から、港町清水の水と海の印象を語らせる。
あかりには三重の海と清水港の違いを話してもらう。
美音には「今日はオレンジ応援ですよね?」と少しだけ圧をかけて笑いを取る。
ひかりには地元静岡市の誇りとして清水の魅力を語らせる。
澪にはサッカー通として試合の見どころを振る。
沙羅には初心者目線で「初めてでも応援が楽しい」と話してもらう。
そして美月には、盛り上げ役としてマイクを渡す。
美月はオレンジ色のタオルを頭上で振り回した。
「日本平、最高やー!」
ゴール裏が沸く。
「オレンジ、後半も行くでー!」
スタンドも応える。
凜花は横で笑っていた。
美月は確かにサッカーを理解していない。
でも、応援の熱を伝えることだけは抜群にうまい。
最後は全員でタオルを掲げ、オレンジのスタンドと一体になる。
日本平のサポーターのハートは、しっかり掴んだ。
後半。
試合はオレンジが優位に進める。
美月はすっかり応援モードだった。
「行けぇぇぇ!」
「今の走塁ええで!」
「走塁じゃない!」
「そこ盗塁や!」
「違う!」
「相手の攻撃切れ! ゲッツー取れ!」
澪が爆笑する。
「サッカーでゲッツーは無理!」
「じゃあ併殺は?」
「言い方変えても無理!」
真央は珍しく混乱していた。
「でも二人止めたらゲッツーっぽい気もするがね……」
凜花が叫ぶ。
「真央さん、戻ってきてください!」
コーナーキックになる。
美月は立ち上がった。
「満塁チャンスや!」
ひかりが笑う。
「満塁じゃないよぉ!」
美音が静かに言う。
「セットプレーです」
凜花がまた美音を見る。
「詳しい」
「一般常識です」
「もういいです」
沙羅、真白、あかり、明日香は完全に迷子だった。
沙羅が言う。
「今のは満塁ではないけど、チャンスなんですね」
凜花。
「はい」
真白。
「では美月さんは半分正解ですか?」
凜花。
「悔しいですけど、気持ちは半分正解です」
美月が得意げに胸を張る。
「ほら!」
「調子に乗らないでください!」
終盤。
オレンジのクラブが選手交代を行った。
背番号が掲示され、途中出場の選手がピッチへ走り込む。
美月の目が輝く。
「代打や!」
全員が同時に、
「違う!」
と突っ込んだ。
しかし、その途中出場の選手が数分後、試合を決定づける。
右サイドから美しいクロスが上がる。
ゴール前へ走り込む。
ボールは少し浮いている。
途中出場の選手が身体をひねり、鮮やかなボレーシュート。
足に当たった瞬間、乾いた音。
ボールがゴールネットを揺らす。
3―0。
日本平が爆発した。
美月も爆発した。
「入ったぁぁぁぁぁ!」
飛び上がる。
そのまま隣の凜花へ抱きつく。
凜花も満面の笑顔で抱き返す。
「やったぁ!」
美月は叫んだ。
「代打ホームランや!」
凜花は抱き合ったまま笑った。
「だからゴールです!」
「でも途中出場が決めたんやろ! 代打ホームランやん!」
澪が笑いすぎて座席に手をついた。
「意味は分かるのが嫌だ!」
美音まで声を出して笑った。
「これは確かに、代打ホームランと言いたくなる気持ちは分かります」
凜花が驚く。
「美音さんまで!」
美月はまだ凜花を抱きしめたまま、スタンドを見る。
オレンジの旗。
跳ねるサポーター。
サンバのリズム。
笑顔。
歓声。
ゴールが決まる。
スタジアム全体が揺れる。
この感じ。
美月は知っていた。
野球の得点シーン。
応援席が一気に爆発する瞬間。
あれと同じではない。
でも。
似ている。
いや。
同じくらい気持ちいい。
「サッカーもおもろいやん!」
凜花が笑った。
「今さらですか?」
「今さらや!」
試合はそのまま終了。
オレンジのクラブが、東京の伝統あるグリーンのチームに3―0で快勝した。
クリーンシート。
完勝。
日本平は歓喜に包まれた。
そして試合後、凜花には大きな仕事が残っていた。
勝利インタビューである。
ピッチサイドに立つ凜花。
戦隊ヒロインの衣装。
手にはマイク。
昨年まで公式アンバサダーとして何度も立った場所。
そこへ今日は、戦隊ヒロインとして戻ってきた。
凜花の進行は見事だった。
先制点の話。
追加点。
後半途中出場の選手による三点目。
無失点で終えた守備。
サポーターへの感謝。
選手が話しやすいように言葉を選び、場内の熱を冷まさず、テンポよく質問を重ねていく。
美月は舞台袖で腕を組んでいた。
「凜花さん、ほんまに慣れとるな」
ひかりが優しく言う。
「去年までここで頑張ってたんだねぇ」
インタビューが終わった後、場内MCが凜花を呼び止めた。
「凜花さん、戦隊ヒロインとして帰ってきた日本平はいかがでしたか?」
凜花はオレンジ色に染まったスタンドを見渡した。
少しだけ言葉を探す。
そして、笑った。
「……日本平帰ってきました」
歓声。
凜花は続ける。
「やっぱり日本平、いいですね」
さらに歓声。
「私のホームだよ、って思いました」
オレンジのタオルが揺れる。
「去年で公式アンバサダーは卒業しました。でも、アンバサダーを卒業したからって、このクラブのサポーターを卒業したわけじゃありません」
スタンドが静かに聞いている。
「私はこれからも、一生オレンジ色のサポーターです!」
次の瞬間、日本平が大きく沸いた。
ゴール裏から自然に声が起こる。
「りーんーか!」
「りーんーか!」
「りーんーか!」
凜花は一瞬、言葉を失った。
注目されるのは好きだ。
声援も好きだ。
カメラもステージも大好きだ。
けれど、このコールはいつもの「女王陛下」への歓声とは違う。
日本平で積み重ねてきた時間。
アンバサダーとして関わってきた日々。
清水の人たちからの「おかえり」。
それが全部、今の自分に返ってきている。
凜花は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
美月はその姿を見て、少しだけ静かになった。
「凜花さん、ほんまにここがホームなんやな」
澪も頷く。
「いいね。クラブと人の関係って」
美音もオレンジのスタンドを見ながら言った。
「素敵なスタジアムですね」
今日はライバルの色を胸にしまい、ただその熱を受け止めていた。
夜。
新幹線ひかり号。
美月は指定席に座り、スマートフォンを開いた。
イヤホン装着。
腕組み。
表情は真剣。
ただし、目的は偵察。
本人はそう言い張っている。
RINKA MODE。
開始。
画面の向こうに、凜花が現れた。
肩にはオレンジのタオル。
いつもより明らかに上機嫌。
「りんか民のみんなぁ、ごきげんよう♡」
コメントが一気に流れる。
《おかえり凜花ちゃん》
《3-0最高》
《一生オレンジ泣いた》
《日本平よかった》
《陛下かわいい》
凜花は手を振った。
「日本平から帰ってきたよ~。やっぱり日本平いいね。私のホームだよ」
美月は小声で言う。
「ほんま嬉しそうやな」
凜花はにこにこしていた。
「オレンジのクラブ、勝ったよぉ♡ 3対0、しかも無失点!」
「私たちの応援で勝った……って言ったら、選手の皆さんに怒られるかな?」
《勝利の女神》
《陛下効果》
《オレンジの天使》
《ヒロ室東海(仮称)効果》
凜花はあざとく首を傾けた。
「じゃあ、ちょっとだけ私たちのおかげってことにしよ♡」
美月。
「図々しいなぁ」
でも。
笑っている。
次の瞬間。
コメント欄の流れが変わった。
《美月のプレーボール草》
美月の眉が跳ねた。
《日本平プレーボール事件》
《サッカーの街でプレーボール》
《河内の球審》
《PK場外ホームラン》
《代打ホームランで3点目》
美月は小声で唸る。
「お前らぁ……!」
コメント欄を開く。
本人見てるで。
入力。
指が送信ボタンの上で止まる。
「アカン」
削除。
「これでは偵察にならへん」
そもそも何を偵察しているのか。
もう誰にも分からない。
さらにコメント。
《美月だけ9回裏までやる気》
《コーナーキックを満塁チャンス扱い》
《ゲッツー取れは無理》
《オフサイドを走者で理解しようとしてた》
美月はスマホに向かって小声で言う。
「理解しようとした努力を評価せえ!」
前の座席の乗客が少し振り返る。
美月は即座に頭を下げた。
「すんません」
画面の中の凜花がコメントを読んだ。
「ちょっと、りんか民」
美月は身を乗り出す。
「そうや。言うたれ」
凜花は少し真面目な顔を作る。
「美月さんのこと、そんなに笑っちゃダメだよ」
美月は満足そうに頷いた。
「せやせや」
「美月さん、サッカーあんまり知らないのに、一生懸命応援してくれてたんだから」
「凜花さん、分かっとるやん」
「PKも、ちゃんと全力で蹴ってたし」
美月は胸を張りかけた。
凜花の口元が上がる。
「まあ、全力で枠外だったけど♡」
美月は座席で無言のまま全力で突っ込んだ。
「結局笑っとるやないか!」
コメント欄が加速する。
《陛下公認枠外》
《場外ホームラン》
《日本平の空に消えたボール》
《プレーボールからの即ファウル》
《美月、蹴球ではなく野球》
美月はまた入力する。
本人ここにおるで!!
止まる。
削除。
「冷戦や。耐えろ美月」
凜花は配信の中で笑いながら続けた。
「でもね、後半の美月さん、本当に楽しそうだったの」
コメント欄が少し落ち着く。
「三点目が入った時なんて、私より喜んでたかも」
《抱き合ってた》
《美月オレンジ沼入り》
《もうサポーター》
《次はユニフォーム》
美月は小声で否定する。
「まだ入ってへん」
凜花は画面の向こうで頷いた。
「途中出場の選手が決めたから、美月さんが“代打ホームランや!”って叫んでて」
一拍。
凜花。
耐えきれず。
笑う。
「ごめん、あれは本当に面白かった♡」
美月。
「フォローどこ行った!」
《陛下も爆笑》
《代打ホームラン公式化》
《次回から実況席に美月》
《サッカーを全部野球で解説してほしい》
美月はまた指を動かす。
絶対やらん。
止まる。
消す。
「危ない。普通に返事するとこやった」
完全に、りんか民の術中である。
凜花はその後、少し表情を柔らかくした。
「でも、私は嬉しかったよ」
「美月さんがあんなに楽しそうに応援してくれて」
「サッカーって、詳しくなくても、まず楽しいって思えるのが大事だと思うから」
美月は画面を見つめる。
「……凜花さん、ええこと言うやん」
凜花は続ける。
「だから、りんか民もあんまり美月さんをバカにしないの」
美月。
「せや!」
凜花。
「まあ、プレーボールは一生忘れないけど♡」
美月。
「お前も一生忘れる気ないやん!」
コメント欄。
《一生プレーボール》
《美月プレーボール記念日》
《来年も同じマッチデー希望》
《ORANGE BASEBALL MATCH DAY》
美月はスマホを握りしめた。
「それもう競技変わっとるやろ……!」
それでも、凜花の配信は最後には温かくなった。
「今日は、戦隊ヒロインとして日本平に帰れたのが本当に嬉しかったです」
「去年までアンバサダーを務めていた場所に、今度は違う形で戻ってこられて」
「“おかえり”って声をかけてもらえて」
「やっぱり日本平いいね。私のホームだよって、改めて思いました」
コメント欄にも温かい言葉が流れる。
《また帰ってきて》
《一生オレンジ》
《凜花ちゃんはずっと仲間》
《戦隊ヒロインでも応援する》
凜花は少しだけ目を細めた。
「アンバサダーじゃなくなっても、私は一生オレンジ色のサポーターです♡」
美月はそれを見て、少し静かに笑った。
「凜花さん、ほんまにあのチーム好きなんやな」
その直後。
《美月も一生オレンジ》
《プレーボール担当で残留》
《美月は球審枠》
《次はチャント覚えよう》
美月の顔がまた険しくなる。
「りんか民ぃ……!」
書かない。
今日も。
書けない。
だから、りんか民は知らない。
新幹線ひかり号の車内で、赤嶺美月が一人、画面の向こうのコメント欄と戦争していることを。
配信が終わる。
美月はスマートフォンを閉じ、夜の車窓を見た。
少しだけ、今日の日本平を思い出す。
オレンジのスタンド。
サンバのリズム。
スタグルの香り。
ピッチの近さ。
ゴールが決まった瞬間の爆発。
凜花が「私のホーム」と言った時の歓声。
「凜花さんとは、ますます仲良うできそうや」
美月は小さく言った。
少し考える。
「サッカーも……まあ、おもろかった」
さらに一拍。
「せやけど、りんか民。お前らとの冷戦は継続やからな」
相手は、その冷戦の存在を知らない。
それでも、美月の中では極めて真剣だった。
こうして、**『ORANGE HEROINE MATCH DAY』**は大成功に終わった。
オレンジのクラブは、伝統あるグリーンのチームを相手に3―0の快勝。
凜花は戦隊ヒロインとして日本平へ凱旋。
ひかりは地元清水の誇りを再確認。
澪は一日限定でオレンジを応援し、美音は本当の推しクラブを伏せたまま最後までプロとして振る舞った。
真央は中途半端なサッカー知識で珍しく混乱し、沙羅、真白、あかり、明日香は最後まで「サッカーとは何か」を考え続けた。
そして美月は、サッカーの楽しさに少し目覚めた。
ただし同時に、日本平の長い歴史に、刻まなくてもいい新伝説も刻まれてしまった。
赤嶺美月・プレーボール事件。
さらに。
PK枠外場外ホームラン。
コーナーキック満塁チャンス。
途中出場代打ホームラン。
完封リレー改めクリーンシート。
サッカーの街・清水はこの日、オレンジの勝利とともに、河内のスピーカーが残していった謎の野球用語を、しばらく忘れられなくなるのであった。




