北東回廊に消えた女――みのりとひかり、アメリカ東海岸7日間の危険な休暇
館山みのりが『世界ぐるっと!双六大旅行』で50番・大阪へゴールした瞬間、スタジオ中に鳴り響いたファンファーレと、司会の戌井浩平が本人以上に喜んで叫んだ「やったぁ~~~☆!」は、その後もしばらく戦隊ヒロイン仲間の語り草になった。
しかも44番パナマシティから「ピタリ宣言」を敢行し、本当に6を出したため、賞品はシングルではなく、
「交通公社で行くアメリカ東海岸7日間・ペアの旅」
へ格上げされた。
その場で戌井から、
「みのりちゃん、誰と行こか?」
と聞かれたみのりは、ほんの少し頬を染め、
「一番大切な人と行きます」
と答えた。
戦隊ヒロイン仲間は誰一人、
「それ誰?」
とは聞かなかった。
聞く必要がなかった。
杉山ひかり。
グレースフォースとして長く組み、戦闘でも日常でも一番近くにいる相棒。
恋人なのかと聞けば二人とも否定するか話を逸らすだろう。
しかし、ではなぜペア旅行の相手を決める際、みのりが一秒も迷わなかったのか。
その答えについても、誰も追及しないことになっていた。
旅行当日。
静岡から東京へ出たひかりは、上野の地下ホームから成田空港へ直行する青と白をまとった空港特急へ乗り込んだ。
都心側の二駅と国際空港を高速で結ぶために造られた列車で、全席指定。最高速度は在来線として国内最速級の160キロ。日暮里から空港第2ターミナル最寄り駅まで最短36分で走り、大型スーツケース専用の荷物置き場、広めの座席間隔、各席の電源まで備える。旅行者を「東京の日常」から一気に「海外旅行の入口」へ運ぶ、いかにも空港アクセス専用列車らしい存在だった。
ひかりは窓側の座席に腰を下ろし、隣席には自分のバッグを置いた。
発車。
上野の街並みが後ろへ流れ、日暮里を過ぎる。
やがて住宅地が低くなり、車窓に空が広がっていく。
スマートフォンを取り出した。
『今、向かってるよ』
すぐ返信。
『私も。先着いた方が待つということで』
ひかりは笑った。
『当たり前でしょ』
その頃、みのりは千葉市内から地元私鉄の電車を乗り継いで成田空港へ向かっていた。
こちらはひかりの乗る特急ほど華やかではない。
千葉県内の住宅街、古くからの市街地、学校、商業地を結び、毎朝の通勤通学客を乗せ、成田の門前町を経て、その線路が最後には世界への玄関口へ延びている。
みのりにとって、こちらの方がむしろ「千葉らしい電車」だった。
制服の高校生。
買い物帰りらしい女性。
旅行鞄を抱えた外国人。
普段着の県民と海外旅行客が同じ車両に乗っている。
窓外へ流れる千葉の風景を眺めながら、みのりが小さく呟く。
「千葉から世界へ、か……」
『世界ぐるっと!』で戌井に、
『今日は千葉から世界へ大いに羽ばたいてもらいたいと思います』
と言われた。
本当に羽ばたくことになった。
しかも隣にいるのは――。
いや、まだ隣にはいない。
みのりは時計を見る。
少しだけソワソワする。
成田空港。
国際線出発ロビー。
世界各都市の名前が大型表示板を流れ、人々が巨大なスーツケースを引いて行き交う。
みのりが人波の向こうを見る。
同時に、ひかりもこちらを見つける。
二人の視線が重なった。
ひかりが微笑む。
みのりも笑う。
どちらからともなく歩き出す。
空港の雑踏だけが少し遠ざかったようだった。
平成初期のトレンディドラマなら、ここで主題歌が流れてもおかしくない。
みのり。
ひかり。
数メートル。
三メートル。
二メートル。
そして――。
「お待たせ」
「ううん。私も今来たところ」
ひかりが時計を見る。
「嘘」
「何で分かるの?」
「みのり、約束の時間より早く来るタイプだから」
「……十二分前」
「ほら」
二人で笑った。
ひかりがみのりの大きめのスーツケースを見る。
「荷物多くない?」
「念のためが何回か重なった」
「七日間だよ?」
「ひかりが何か忘れた時にも対応できるし」
「私の分まで入ってるの?」
「少し」
「……そういうとこだよ」
「何が?」
「何でもない」
ひかりは先に歩き出した。
少し赤くなった耳を、みのりは見逃さなかった。
直後、みのりのスマートフォンが鳴る。
美月。
『やっぱりひかりやん!』
みのり、
『何のこと?』
三秒後。
『とぼけんな!』
ひかりが画面を覗き込む。
「美月?」
「うん」
「何て?」
「雑音」
そのまま二人はボストン行きの便へ乗り込んだ。
機体が成田を離陸する。
窓側のみのり。
その隣のひかり。
しばらくして、ひかりが眠った。
長旅の疲れからか、ゆっくり頭が傾いてくる。
そして、みのりの肩へ。
みのりは一瞬固まった。
起こさない。
動かない。
毛布だけ少し掛け直す。
やがてみのりも目を閉じた。
二人だけのご褒美旅行は、静かに始まった。
少なくとも――この時点では。
最初の都市はボストン。
アメリカでも最も歴史の深い大都市の一つであり、古い赤煉瓦の街並みと現代的な高層建築が隣り合う。
市中心部のBoston Commonは米国最古の公共公園とされ、そこから伸びるFreedom Trailは約2.5マイル。赤い煉瓦の線を辿れば、Downtown、North End、Charlestownへと、独立革命期を中心とした歴史的地点が一本の道として連なっている。
さらにチャールズ川の向こうにはCambridge。
世界的な大学や研究機関が集まり、街角には学生、研究者、書店、カフェ。
アメリカ建国史と最先端の学術が、ごく普通の日常の中で共存している。
「いいね、ここ」
Boston Commonを歩きながら、みのりが何度目か分からない感想を漏らした。
「好きそうだと思った」
ひかりが言う。
「どういう意味?」
「落ち着いてて、歴史があって、知的で」
「それならひかりにも似合うよ」
「そう?」
「うん」
みのりが少し間を置く。
「二人に似合う街ってことで」
ひかりが横を見る。
みのりは平然とFreedom Trailの赤い線を見ている。
「……そういうことさらっと言うよね」
「何が?」
「何でもない」
一日目は何も起きなかった。
二人でFreedom Trailを歩き、歴史ある教会を眺め、港の風を浴び、チャールズ川沿いを歩いた。
夕食では名物のクラムチャウダーを分け合った。
「ひかり、一口いる?」
「自分のあるよ」
「でもこっち味違う」
「同じ店で頼んだ同じ料理だけど」
「いいから」
スプーンを差し出す。
ひかりは少し迷ってから食べる。
「……同じ」
「でしょ?」
「じゃあ何で食べさせたの?」
みのりは答えなかった。
二日目。
Harvard Square周辺の大学街を歩いた後、二人はQuincy Marketへ向かった。
食べ物の匂い、人の声、土産物店。
前日とは違う賑やかなボストンである。
そこで、一人の女性がみのりへぶつかった。
赤いコート。
黒い帽子。
「Sorry」
女性は顔を上げる。
三十代くらい。
整った顔立ち。
しかし、その目だけが異様に怯えていた。
みのりが英語で、
「大丈夫です」
と返す。
女性はみのりの顔をじっと見た。
何か言いたげだった。
しかし結局、
「Thank you」
だけを残して人混みへ消えた。
ひかりが戻ってくる。
「どうしたの?」
「今の人……何か変だった」
「知り合い?」
「ううん」
その数分後。
「まあ!」
聞き覚えのある日本語。
振り返る。
高田美雪。
「美雪さん!?」
「みのりちゃん、ひかりちゃん!」
世界的イリュージョニストとしてアメリカを拠点に活躍する美雪は、東海岸公演ツアー中だという。
「Boston、New York、それからWashington」
みのりが目を丸くする。
「私たちとほとんど一緒じゃないですか」
「えっ、二人も?」
「クイズ番組の賞品で」
美雪の顔に、いたずらっぽい笑み。
「ああ、見たわよ」
嫌な予感。
「『一番大切な人と行きます』」
みのり、
「…………」
ひかり、
「…………」
美雪、
「いいわねぇ~」
「美雪さんまでやめてください」
「何も言ってないでしょう?」
「顔が言ってます」
その日は本当に、それだけだった。
美雪は、
「せっかくなんだから二人でゆっくり楽しんできなさい」
と笑い、公演スタッフと去った。
みのりもひかりも知らない。
マーケットの二階。
手すり越し。
一人の男が望遠レンズで二人を撮影していたことを。
そしてその男のスマートフォンには――。
先ほどの赤いコートの女性の写真が表示されていた。
三日目。
Boston South Station。
二人はニューヨークへ向かう北東部の都市間列車に乗り込む。
この路線はBoston、New York、Philadelphia、Washingtonを一本につなぐアメリカ東北部の大動脈で、都市中心部から都市中心部へそのまま移動できる。
座席へ腰を下ろしたひかりが周囲を見る。
「広いね」
「新幹線よりちょっと大らかな感じ」
「また大らかって」
「アメリカの長距離列車って感じしない?」
座席には余裕があり、窓も大きい。
ビジネスマン。
学生。
旅行客。
それぞれが長い移動時間を自分の方法で過ごしている。
列車がBostonを離れる。
Providence。
海岸線。
New Haven。
みのりは窓へ頬杖をつく。
「飛行機だと都市と都市が点なんだよね」
「うん」
「列車だと、その間にも人が住んでることが分かる」
「みのり、こういうの好きでしょ」
「好き」
「次は千葉の話する?」
「……先に言われた」
ひかりが笑った。
その時だった。
隣の車両へ向かう赤い影。
みのりが顔を上げる。
「ひかり」
「うん。私も見た」
クインシー・マーケットの女。
赤いコート。
ひかりが少しして様子を見に行く。
戻ってきた。
「いない」
「トイレは?」
「いない」
「カフェ車両」
「見た」
「降りた?」
「停車してない」
二人は顔を見合わせた。
巨大な列車。
前後には車両。
走行中。
それでも――女はいなかった。
まるで北東回廊の途中で消えたように。
ニューヨークへ着く頃には、二人とも、
「見間違いかもしれない」
という結論へ無理やり押し込めていた。
New York。
Bostonとはまるで違った。
Times Squareでは巨大な電光広告が昼夜の境界を曖昧にし、人、人、人。
世界各国の言語。
クラクション。
劇場。
高層ビル。
少し離れればCentral Parkの緑。
南へ行けば金融街。
さらに海上には自由の女神。
歴史ある街というより、世界中から集めたエネルギーを無理やり一つの島へ詰め込んだような都市だった。Times Square、Statue of Liberty、Central Park、Rockefeller Centerなどは、今もManhattanを代表する観光地として案内されている。
Times Square。
二人で写真。
自由の女神。
今度は肩を寄せる。
撮影した観光客が、
「Beautiful couple!」
と笑った。
みのりとひかり、
「…………」
ひかり、
「否定する?」
みのり、
「わざわざ?」
「……いいか」
「うん」
二人とも妙に赤い。
SNSへ写真を投稿。
美月。
『ニューヨークやん! ええなぁぁぁ!』
彩香。
『美月はトロントまでやったもんな』
美月。
『怖いオバハンは黙っとれ!』
彩香。
『誰がオバハンや!』
みのりはスマホを閉じた。
「何で私たちの写真で喧嘩するんだろう」
「仲いいんだよ」
「本人たちに言ったら怒られるよ」
夜。
美雪のNew York公演。
華やかな照明。
巨大な箱。
一瞬で消える人影。
何もなかった場所から現れる美雪。
観客は熱狂する。
みのりも目を輝かせる。
「凄い……」
しかしひかりは、美雪を見ていた。
笑っている。
だが、一度だけ。
ほんの一瞬。
舞台袖へ向けた目が、イリュージョニストの目ではなくなった。
冷たい。
鋭い。
何かを監視する人間の目。
「みのり」
「ん?」
「美雪さん、何か変」
次の瞬間。
ステージで閃光。
爆発音。
大歓声。
美雪は再び完璧な笑顔になっていた。
四日目。
Manhattan。
昼下がり。
みのりが雑踏の向こうを見て足を止める。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「綾乃さん?」
西園寺綾乃。
みのりは思わず駆け寄った。
「綾乃さん、お久しぶりです。まさかニューヨークで会うとは思いませんでした」
綾乃が振り返る。
その表情が――一瞬だけ崩れた。
本気で驚いていた。
「……みのりさん?」
すぐいつもの柔らかな笑顔。
「まあ、ひかりさんも。ほんま奇遇どすなぁ」
ひかりが首を傾げる。
「奇遇なんですか?」
「もちろん」
「美雪さんも今こっちにいますよ」
綾乃の目が止まった。
「……美雪さんに会わはったん?」
二人は聞き逃さなかった。
みのり、
「何かあるんですか?」
「何にもあらしまへんえ」
「今、明らかに声変わりましたよ」
「気のせいどす」
その晩。
ホテル。
みのりが土産物を整理していた。
Quincy Marketの紙袋。
中から、小さな銀色のチャームが転がる。
自由の鐘を模したもの。
「ひかり、これ買った?」
「買ってない」
「私も」
二人の視線が重なる。
赤いコート。
列車。
消えた女。
その時。
カチャ。
ホテルのドアノブ。
ゆっくり回る。
みのりの顔が変わる。
ひかりを背後へ。
扉へ近づく。
開く。
廊下。
無人。
「……みのり」
振り返ると、ひかりがみのりの袖を掴んでいた。
「無茶しないで」
みのりの険しい表情が少し緩む。
「ひかりも」
「私はしない」
「そこ即答?」
「みのりよりは」
それでも、その夜だけは二人のベッドの間隔が、いつもより少し近かった。
五日目。
New YorkからWashington D.C.へ向かう列車。
出発直前に綾乃から来たメッセージは短かった。
『予定変えんと、そのまま乗ってください』
そして乗車後。
『後ろを見んといてください』
みのり、
「ものすごく見たい」
ひかり、
「我慢して」
みのり、
「ちょっとだけ」
ひかりがみのりの手を握った。
「ダメ」
みのりは動かなくなった。
「……分かった」
なぜかさっきより素直だった。
数両先に美雪。
別車両に綾乃。
二人とも他人のふり。
背後には新聞を読む男。
途中、カフェ車両へ向かった美雪がなかなか戻らない。
乗客だったはずの男性が一人消える。
みのりのバッグの位置が微妙に変わっている。
Philadelphiaを過ぎた頃。
ようやく美雪と綾乃が現れた。
「ごめんなさい」
美雪が最初に謝った。
綾乃も、
「巻き込んでしもうて、ほんますんまへん」
みのりは銀色のチャームをテーブルへ置いた。
「これですね」
綾乃の顔から笑みが消えた。
「そうどす」
内部には政府系研究データへ接続する暗号鍵。
赤いコートの女は本来の運び役。
Bostonで追跡を悟り、無関係な観光客だったみのりの紙袋へ一時的に隠した。
列車内から消えたのも、美雪側が秘密裏に保護して別経路へ逃がしたためだった。
「それで」
みのりは美雪と綾乃を見る。
「お二人は何者なんですか?」
沈黙。
ひかり、
「もうイリュージョニストと戦隊ヒロインだけでは説明つかないですよね」
綾乃がため息。
「……鋭いお二人は困りますなぁ」
政府側のエージェント。
それが二人のもう一つの顔だった。
六日目。
Washington D.C.。
New Yorkが「世界の欲望を集めた街」なら、Washingtonは「国家というものを建築にした街」だった。
広く取られた軸線。
Washington Monument。
その向こうにLincoln Memorial。
反対方向には議会議事堂。
National Mallは「America's front yard」とも呼ばれ、記念碑、歴史的モニュメント、Smithsonian系をはじめとする博物館群が集中する、国家の歴史を歩いて読むような空間である。
みのりとひかりはLincoln Memorialの階段に立った。
Reflecting Poolの向こうにWashington Monument。
「大きいね」
ひかりが言う。
みのりは少し考えた。
「建物だけじゃなくて、意味が大きいんだと思う」
「千葉の叡智」
「やめて」
「褒めてるのに」
ようやく普通の旅行へ戻った。
――と思ったところで電話。
綾乃。
『すんまへん』
みのりが天を仰いだ。
「来た」
『正式に、グレースフォースのお力を貸してもらえませんやろか』
ひかり、
「どうする?」
みのりはため息。
「ここまで巻き込まれて断れる?」
午後。
ポトマック川沿いの国際交流施設。
各国の政財界人、学術関係者、文化人を集めた夜のレセプション。
表向きのメインイベントは、
高田美雪スペシャル・イリュージョン。
みのりとひかりは華やかなドレス姿で一般客に紛れる。
美雪はステージ。
綾乃は裏方。
偽の暗号鍵を囮にして敵を誘い出す。
作戦は完璧だった。
途中までは。
敵の一人がひかりの存在に気づいた。
ひかりの腕を掴む。
「……っ」
強く引き寄せる。
「離して!」
その声を。
みのりが聞いた。
すっと表情が消えた。
「……今」
敵を見る。
「ひかりに何した?」
ひかり、
「みのり」
綾乃がモニターを見て固まる。
「美雪さん」
「何?」
「房総入りました」
「房総?」
「暴走の方どす」
普段のみのりは穏やかだった。
理屈が先。
感情的になることは少ない。
だから「千葉の叡智」。
しかし、本質的には拳法の達人。
戦隊ヒロインでも屈指の武闘派。
しかも――。
今回はひかりに手を出された。
通常より出力が一段どころではない。
「房総大演舞!」
第一撃。
敵が飛ぶ。
第二撃。
別の敵が転がる。
連撃。
回転蹴り。
掌底。
踏み込み。
美雪、
「え?」
綾乃、
「ちょっと火力高すぎまへん?」
美雪、
「私も今そう思ってた!」
みのりの一撃。
敵が避ける。
その先には、美雪の大型イリュージョン装置。
ドン!
支柱が曲がる。
美雪、
「私のセット!」
続けて巨大パネルが倒れる。
ガシャーン!
照明が回転。
幕が落ちる。
舞台上に白煙。
観客、
「おおおおおおおっ!」
拍手。
美雪が客席を見る。
誰も事件だと思っていない。
むしろ、
今日一番盛り上がっている。
世界的イリュージョニストの反射神経が働いた。
美雪は即座に両手を広げる。
「Ladies and gentlemen――!」
照明スタッフも意図を察してスポットを振る。
倒れた壁。
煙。
戦うみのり。
全部が超大規模イリュージョンの演出になった。
観客総立ち。
綾乃、
「作戦にこんなん入ってました?」
美雪、
「入れてないわよ!」
それでもみのりは止まらない。
ひかりが走った。
「みのり!」
反応なし。
「みのり!」
拳を構える。
ひかりがもう一度呼ぶ。
今度は柔らかく。
「みのり。もう大丈夫」
止まった。
「私はここにいるよ」
ゆっくり振り向く。
「……ひかり?」
「うん」
「怪我ない?」
「ないよ」
「本当に?」
「本当に」
みのりの肩から力が抜ける。
そして周囲を見る。
敵。
倒壊したセット。
折れた支柱。
垂れ下がった幕。
美雪。
「…………」
みのりの顔が青くなる。
「美雪さん」
「はい」
「すみません……」
深々と頭を下げる。
「本当にすみません……!」
美雪は壊れたセットを見る。
次に客席。
割れんばかりの拍手。
少し考える。
「……いいよ」
「え?」
「お客さん大満足してるから」
「でもセットが」
「今日一番ウケた」
綾乃、
「怪我の功名どすな」
ひかり、
「美雪さん優しい……」
美雪、
「修理代は政府に請求するし」
ひかり、
「ちゃんと現実的だった」
その間に敵は全員確保。
しかも一般客は最後まで、
「ものすごいイリュージョンを見た」
としか思っていない。
任務完了。
その夜。
四人はポトマック川を望む格式あるレストランにいた。
美雪からの正式なお礼だった。
白いクロス。
磨かれた銀器。
控えめな照明。
グラスへ注がれるワイン――みのりとひかりには年齢に合わせてノンアルコールのペアリング。
先ほどまで敵を蹴り飛ばしていた四人とは思えない。
会話も自然と静かになる。
美雪がグラスを置いた。
「改めて。今日はありがとう」
みのり、
「私は壊した方ですけど……」
「いいの。ショーとしては大成功だったから」
綾乃が微笑む。
「みのりさんの即興演出、ニューヨークの評論家に見せたかったくらいどす」
「演出じゃないです」
ひかり、
「完全に我を忘れてました」
みのりが横を見る。
「ひかり」
「事実でしょ?」
美雪が興味深そうに二人を見る。
「房総大演舞は前にも聞いてたけど」
綾乃、
「今日のは別物でしたな」
「……そんなに?」
「ひかりさんに手ぇ出されましたからなぁ」
みのりのフォークが止まった。
ひかりも止まる。
美雪、
「なるほど」
綾乃、
「なるほど」
みのり、
「何がなるほどなんですか!」
ひかりは黙って水を飲んでいる。
耳が赤い。
上品なディナーなのに、そこだけ妙に甘かった。
やがて会話は任務の話へ移る。
美雪は、イリュージョンと諜報活動は意外によく似ていると言った。
「人は、見えているものが事実だと思う。でも実際には、何を見るかを誰かに決められていることもある」
綾乃が続ける。
「情報も同じどす。隠すだけが仕事やありません。相手に別のもんを見せる方が有効なこともあります」
みのりは静かに聞いている。
「だから偽物の暗号鍵を見せたんですね」
「そう」
ひかり、
「でも相手に疑われない偽物を作るには、本物を理解してないといけない」
美雪が笑った。
「やっぱり二人とも頭いいわね」
グレースフォース。
知的で上品。
そして必要なら圧倒的な力も使える。
美雪と綾乃が二人を改めて認める場面だった。
最後に、美雪の表情が変わった。
「ただし」
みのりもひかりも察する。
「今日知った、私と綾乃の仕事については――」
みのり、
「国家機密ですね」
綾乃、
「話が早うて助かります」
ひかり、
「誰にも言いません」
「お願いします」
四人は小さくグラスを合わせた。
舞台の上では決して見せられない美雪。
京都の柔らかな言葉の奥に刃のような判断力を隠す綾乃。
二人の正体を知ったことで、みのりとひかりは政府の影で動く世界をほんの少しだけ覗いた。
七日目。
Washingtonの空港。
帰国便の出発ロビー。
そこへ美雪と綾乃が見送りに来た。
「本当に来てくれたんですか?」
ひかりが驚く。
美雪、
「巻き込んだ責任もあるしね」
綾乃、
「せっかくやから、お顔見てお別れしよう思いまして」
みのり、
「次は普通の旅行にしてくださいね」
美雪、
「もちろん」
綾乃、
「事件が起きなんだら」
「綾乃さん!」
四人で笑う。
搭乗口へ向かう時間。
美雪がみのりを見る。
「ひかりちゃん、大事にしてあげてね」
「えっ」
綾乃、
「でないと、また房総が暴走しますさかい」
「もう!」
ひかりは笑っている。
美雪と綾乃に手を振り、二人は保安検査へ向かう。
少し歩いてから、みのりが言った。
「七日間、早かったね」
「うん」
「Boston、New York、Washington」
「赤いコートの女」
「それ旅行先じゃない」
「列車で尾行されて」
「それも観光じゃない」
「みのりが美雪さんのセット壊して」
「それは忘れて」
ひかりが笑う。
みのりも笑う。
そして少し沈黙。
みのりが、前を向いたまま言った。
「でも」
「うん?」
「ひかりを選んでよかった」
ひかりの歩みが少し遅くなる。
「旅行に?」
みのりも足を止めた。
ひかりを見る。
「全部」
ひかりは何も言わない。
数秒。
そして手を伸ばす。
みのりの手に、自分の指を重ねた。
「私も」
それ以上は言わなかった。
言わなくてもよかった。
一番大切な人。
番組では少し照れながら言った言葉だった。
七日間を終えた今は、その意味をみのり自身が以前よりはっきり理解していた。
そしてグレースフォースとしても。
未知の土地。
正体不明の尾行者。
国家機密。
一般市民に気づかれない作戦。
力だけでは解決できない状況。
二人は一回り成長していた。
もっとも――。
ひかりが危険にさらされた場合のみ、館山みのりの「理知的」という評価は一時的に無効になることも判明した。
その瞬間。
ピコン。
みのりのスマートフォン。
美月。
『帰ってくるんやろ? アメリカ土産忘れんなよ!』
続けて、
『あと自由の女神のキーホルダーな!』
さらに、
『彩香の分はいらんで!』
数秒後。
彩香。
『美月の分こそいらんからな』
みのりは画面を閉じた。
ひかり、
「どうしたの?」
「日本に帰るのが嫌になってきた」
「何で?」
「美月と彩香が待ってる」
ひかりは吹き出した。
みのりも笑った。
北東回廊に消えた女。
ボストンの赤煉瓦。
ニューヨークの光。
ワシントンの白い記念碑。
美雪と綾乃が隠していたもう一つの顔。
そして、想像以上の火力でイリュージョン装置まで破壊した「房総大演舞」。
危険な休暇だった。
普通のご褒美旅行とは、とても言えなかった。
それでも二人に尋ねれば、おそらく答えは同じだっただろう。
――また二人で行きたい。
できれば次は。
本当に、旅行だけで。




