HADANO・BROKEN MEMORY――名水の街に沈む過去! KANA☆WAVE、丹沢の麓で因縁決着 ――守るべきは過去じゃない。愛すべき街と仲間と、今の自分だ。
秦野。
丹沢の山々に抱かれた盆地の街。
湘南の海岸線を西へ走り抜けてきたKANA☆WAVEにとって、その景色は新鮮だった。
潮の匂いがしない。
聞こえるのは波ではなく、山から下りてくる風の音だった。
水がいい。
緑が深い。
街を歩けば、丹沢の山並みが意外なほど近い。
海を向いて開かれた湘南とは違う。
山に囲まれ、その懐へ街を抱いている。
昔から湧水に恵まれ、名水の里として知られる秦野。
かつて葉たばこの栽培で栄え、今もその歴史を街の記憶として残す。
登山客。
住宅街。
畑。
古くからの商店。
新しい店。
そして、その向こうに丹沢。
同じ神奈川県でも、藤沢や茅ヶ崎とはまるで別の顔を持つ土地だった。
水無瀬澪がペットボトルの水を一口飲んだ。
「おいしいね」
誰も反応しない。
澪はもう一口飲んだ。
「……本当においしいよ」
南部沙羅が小声で言った。
「誰も否定してません」
その少し前を歩く平塚美波だけは、何も言わなかった。
いつもの彼女なら、
「だべ? 神奈川って海だけじゃねえんだぞ」
くらい言っていたかもしれない。
今日の美波は静かだった。
原因は分かっている。
数日前。
湘南海岸のジェネラス・リンク拠点を壊滅させた際、工作員が最後に口にした地名。
秦野。
美波はすぐ仙台の菅野真結――まゆちゃんへ照会した。
そして返ってきた答えが、
『秦野から伊勢原周辺に、不自然な活動があります』
だった。
新橋ヒロ室の大型モニター。
まゆちゃんが解析結果を示す。
『湘南海岸で押収した機器と接触した端末が、内陸へ移っています。秦野と伊勢原の間で複数回反応しています』
美波は地図を見ていた。
「……間違いねえ?」
『ジェネラス・リンクと断定できるレベルではありません。ただ、かなり怪しいです』
「分かった」
それだけ。
沙羅は眉を寄せた。
「美波さん」
「何?」
「秦野に何かあるんですか?」
「ジェネラス・リンクがいるかもしれねえ。それだけだろ」
「そうじゃなくて――」
美波が沙羅を見る。
視線だけで、その先を止めた。
紗耶が沙羅の腕を軽く引く。
「今日は聞かない方がいい」
沙羅もそれ以上は言わなかった。
美波には、秦野で思い出したくない過去がある。
昔。
まだライフセイバーでも、戦隊ヒロインでもなかった頃。
ただの――と言うには少々問題のある――レディース総長だった頃。
一人の男がいた。
美波より年上。
秦野育ち。
地元では名の知られたワルだった。
喧嘩。
警察沙汰。
無茶。
素行だけ見れば、褒められた人間ではなかった。
だが、弱い者いじめを嫌った。
多勢で一人を囲むような真似を最も軽蔑した。
子供には妙に優しかった。
困っている年寄りを見ると黙って荷物を持った。
仲間を売らなかった。
昔気質の男だった。
そして。
誰もが美波を、
「総長」
として見ていた頃。
その男だけは違った。
「総長やってようが何だろうが、お前は美波だろ」
一言。
それだけだった。
美波は今でも、その時の声を覚えていた。
強い女。
怖い女。
仲間を率いる女。
そういう看板を全部外した自分を見てくれた、初めての男だった。
恋人になった。
だが、長くは続かなかった。
男は暴行傷害事件を起こした。
結果、少年院へ送られた。
最後に会った時。
男は美波へ言った。
「待つな」
美波は言い返した。
「誰が待つかよ」
「それでいい」
その後。
男が少年院へ。
美波はレディースから離れた。
そして、人を傷つける側ではなく、人を救う側へ行こうと決めた。
海へ出た。
ライフセイバーになった。
二人の道は分かれた。
男はその後、地元の任侠団体へ入ったという。
逮捕された。
出てきた。
また捕まった。
まっとうな仕事をしているという話は、一度も美波の耳へ届かなかった。
それでも。
ジェネラス・リンクにまで関わっている。
そこまでは、考えたくなかった。
美波は丹沢を見ながら、心の中で一度だけ言った。
――違ってくれ。
その願いは。
叶わなかった。
まゆちゃんと柚葉の解析で、秦野郊外にある物流関連会社が浮かび上がった。
表向きは丹沢方面のアウトドア用品や飲料を扱う民間会社。
倉庫。
小規模な配送施設。
何の変哲もない。
ただし、通信量だけが不自然だった。
柚葉がタブレットを見せる。
「深夜の電力使用と暗号通信が一致しています」
真結の声。
『湘南海岸で停止したネットワークと同系列の通信です』
美波、
「行くべ」
誰も異議を唱えない。
そして監視写真。
柚葉が一枚を拡大する。
「美波さん。この人物――」
美波の動きが止まった。
少し老けた。
顔つきも荒れた。
昔より身体が大きく見える。
だが。
立ち方が変わっていなかった。
左肩を少し下げる。
片手をポケットへ。
気を抜いているように見えて、周囲を全部見ている。
見間違えるはずがなかった。
美波が低く呟いた。
「……バカ野郎」
陽菜が美波を見る。
「知っている方ですか?」
長い沈黙。
美波は画面から目を離さない。
「昔の男」
陽菜が目を丸くした。
「えっ」
沙羅も言葉を失う。
エミリーは何も言わない。
伊織は静かに美波を見る。
紗耶だけは、目線を少し落とした。
美波は写真を閉じた。
「でも任務には関係ねえ」
柚葉、
「美波さん」
「関係ねえんだよ」
今度は少し強かった。
「ジェネラス・リンク側にいるなら、敵だべ」
陽菜が何か言いかけた。
紗耶が小さく首を振った。
その先を言わせなかった。
美波は立ち上がる。
いつもの指揮。
「柚葉、まゆちゃんとの回線維持」
「はい」
「紗耶、出入り見る」
「了解」
「沙羅、表から探れ」
「分かりました」
「陽菜、一般人」
「はい」
「澪、裏」
「うん」
「伊織、エミリー。ウチと中」
伊織、
「了解さー」
エミリー、
「Got it」
普段と同じ。
そのことが逆に、七人には重かった。
美波が意識して普段通りにしている。
それが分かるから。
作戦開始。
山の風が倉庫の外壁を撫でていた。
紗耶が作業員姿の男を一人見る。
「違う」
美波、
「何が」
「本職じゃない」
「理由」
「荷物持つ時、腰使ってない。手も綺麗」
美波、
「紗耶センサー」
紗耶、
「今日はそれでいいよ」
美波が紗耶を見る。
一瞬だけ。
二人の目が合う。
紗耶は何も言わない。
美波も何も言わない。
それで話は終わった。
裏では澪。
「同じ車、三回通った」
沙羅、
「ちゃんと監視してたんですか?」
「してない」
「え?」
「ぼーっとしてたら三回来た」
沙羅、
「それを監視っていうんです」
澪、
「そうなの?」
いつもの調子。
そのやり取りを聞いた美波の口元が一瞬だけ緩んだ。
すぐ戻る。
突入。
伊織が正面。
工作員が二人。
伊織は最小限の動きで一人目をかわす。
腕を取る。
崩す。
次。
踏み込む。
鋭い蹴り。
間を置かない。
三人目。
相手の勢いを流し、そのまま床へ。
「そこ邪魔さー」
淡々と言っている割に、動きは容赦なく速い。
エミリーは高所へ。
荷台。
鉄骨。
通路。
一気に飛び上がる。
「Move!」
男が驚く。
「何だこいつ!」
「KANA☆WAVE!」
沙羅の声が通信へ入る。
『毎回名乗る必要あります?』
エミリー、
「Coolだから」
『理由がアメリカンなんですよ!』
わずかな笑い。
だが美波は笑わない。
「エミリー、そのまま奥」
「Roger!」
柚葉、
『美波さん、通信中枢は北側です』
「伊織、左」
「はいさー」
「紗耶、一人抜けた」
「見えてる」
「澪、裏」
「もう塞いだ」
「早え」
「暇だったから」
いつもの八人。
いつもの連携。
一人だけ、いつもより静か。
やがて中枢装置へ到達。
柚葉と真結が接続を確認。
真結、
『停止できます』
美波、
「やって」
柚葉が操作。
赤い通信反応。
一つ。
二つ。
最後の一つ。
消える。
『秦野側ネットワーク、停止しました』
普通なら。
「よっしゃ!」
だった。
今日は。
「……了解」
それだけ。
そして。
倉庫の奥から足音がした。
美波は振り返る。
男が出てくる。
昔の恋人。
二人の間に、何年分もの空白が横たわった。
男が止まる。
美波も止まる。
誰も口を挟まない。
やがて男が言った。
「久しぶりだな、美波」
美波の眉が少し動く。
「……最悪の再会だべ」
男が苦く笑った。
「相変わらず口悪いな」
「あんたに言われたくねえ」
「立派になった」
「あんたは随分落ちたな」
男の笑みが消える。
美波は目を逸らさない。
まだ。
「何でこんな連中と組んだ」
「仕事だ」
「仕事?」
「金だよ」
「それで人の街荒らしてんの?」
「俺に今さら善人期待すんな」
美波の目が冷たくなる。
「期待なんかしてねえよ」
一歩。
「ただ、ここまで落ちてほしくなかっただけだ」
男が黙る。
それが一番効いた。
怒鳴られるより。
罵られるより。
静かな失望の方が、男には重かった。
しばらくして男が言う。
「いい仲間持ったな」
美波は即答。
「最高だべ」
「昔のお前なら、一人で来ただろ」
「昔のウチじゃねえからな」
男が拳を握る。
「なら最後くらい、昔みたいに決めるか」
伊織が美波を見る。
美波は右手を上げた。
「ここはウチがやる」
「美波さん」
「私情じゃねえ」
伊織は黙る。
美波は男から目を離さない。
「任務だ」
その言葉は。
男へではなく。
自分へ言っているようにも聞こえた。
伊織が一歩引く。
「分かったさー」
エミリーも下がる。
紗耶。
柚葉。
沙羅。
陽菜。
澪。
七人が距離を置く。
美波と男。
二人。
山から冷たい風が抜けた。
男が構える。
美波は軽く肩を回した。
男、
「本当にやるのか?」
「あんたが敵側に立ってる限りな」
「昔惚れた男だぞ」
美波の目が険しくなる。
「昔の話、持ち出すんじゃねえ」
拳を握る。
「今ここにいるのはKANA☆WAVEの平塚美波だ」
男が踏み込んだ。
重い拳。
美波がかわす。
次。
腕で受ける。
衝撃。
足が半歩下がる。
男、
「軽くなったか?」
美波、
「速くなったんだよ!」
前へ。
拳。
男が受ける。
押し返す。
美波が横へ。
蹴り。
男が腕で防ぐ。
両者が距離を取る。
男は力がある。
昔より重い。
場数も踏んでいる。
美波は速い。
ライフセイバーとして鍛えた持久力。
救助のために鍛えた脚。
海で何度も人間の重さを支えた身体。
若い頃とは別の強さ。
男、
「昔は真正面から来ただろ!」
「昔は頭悪かったんだよ!」
沙羅が離れた場所で小声。
「今のところだけいつもの美波さんですね」
紗耶、
「黙って見てよう」
男の拳。
美波はかわす。
身体を沈める。
懐へ。
男が肘を落とす。
美波はさらに横へ。
一撃。
男がよろめく。
それでも倒れない。
「まだだ!」
再び来る。
美波も前へ出る。
拳。
拳。
意地。
過去。
怒り。
失望。
全部がぶつかる。
男、
「何でそこまでやる!」
美波、
「守るもんがあるからだ!」
男の動きが一瞬止まる。
美波は続ける。
「海も!」
一撃。
「湘南も!」
さらに。
「神奈川も!」
男が下がる。
そして。
「あいつらもだ!」
七人。
男の視線が一瞬KANA☆WAVEへ。
その瞬間。
美波が入る。
大振りの一撃を外す。
身体を入れ替える。
重心を崩す。
男が体勢を立て直そうとする。
遅い。
美波の最後の一撃。
男が倒れた。
静かになった。
美波だけが立っている。
荒い呼吸。
拳。
肩。
風。
男が仰向けのまま笑う。
「……強くなったな」
美波は答えなかった。
男を見ない。
視線を横へ。
丹沢の山。
男、
「美波」
何も言わない。
顔をさらに逸らす。
「俺は――」
美波は聞かない。
もう見ない。
倒れた元恋人へ背を向ける。
勝ったのに。
勝者の顔ではなかった。
悔しそうでもない。
泣いてもいない。
ただ。
何もなかったことにしたい人間のように。
男から目を逸らした。
男はそれを見て、小さく息を吐いた。
「……そうか」
やがて男は連れて行かれる。
美波の横を通る。
一瞬だけ足を止める。
「美波」
返事なし。
「海、似合ってるぞ」
美波は振り返らなかった。
男も、それ以上は言わなかった。
足音が遠くなる。
消える。
真結の声。
『秦野側の反応、完全に消えています。任務完了です』
柚葉、
「了解しました」
誰も歓声を上げない。
美波はしばらく山を見ていた。
いつもの彼女なら。
「よっしゃ、飯行くべ!」
と言う。
今日は言わない。
やがて七人へ向き直る。
笑おうとしたように見えた。
でも。
やめた。
「悪い」
陽菜、
「美波さん?」
「ちょっと一人にしてほしい」
短い。
それだけ。
誰にも説明しない。
美波は歩き出す。
ブロンズヘアーが山の風に揺れる。
背中。
肩。
戦闘の跡。
足取りはまっすぐだった。
下を向いていない。
それが逆に、いつもの美波より寂しく見えた。
陽菜が心配そうに一歩出る。
「追いかけた方がいいんじゃ……」
紗耶が腕を軽く止める。
「やめとこう」
「でも……」
陽菜は遠ざかる美波を見る。
「一人にしたら、もっと辛くないですか?」
紗耶は少しだけ考える。
陽菜は若い。
八人の中で最年少。
恋愛経験もなく、男との別れを経験したこともない。
「好きだった人と戦って、自分で倒したんですよね?」
「そうだね」
「だったら、誰か一緒にいた方が……」
紗耶は美波の背中を見たまま言う。
「陽菜」
「はい」
「人ってね、悲しい時に必ず慰めてほしいわけじゃないんだよ」
陽菜が紗耶を見る。
「そうなんですか?」
「うん」
「でも話を聞いた方が……」
「話したい時ならね」
紗耶の声は穏やかだった。
「美波さんは今、“一人にしてほしい”って言った」
「はい」
「だったら、今はその言葉をそのまま受け取ってあげるのがいいと思う」
陽菜はまだ納得しきれない顔。
「好きだった人なのに、敵だったんですよね」
「たぶん、それだけじゃないんだと思う」
「?」
紗耶は少し苦笑した。
「好きだった頃の思い出まで、今日全部悪いものになったわけじゃないでしょ」
陽菜が黙る。
「昔は好きだった」
「はい」
「でも今は止めなきゃいけなかった」
「はい」
「だから止めた」
「……はい」
「それって、頭で整理したからって、心まで同じ速さで整理できるとは限らないよ」
陽菜は遠くの美波を見る。
「難しいですね」
紗耶が微笑む。
「そういうもんだよ」
陽菜、
「紗耶さんは分かるんですか?」
紗耶、
「まあ……陽菜よりはね」
「大人ですね」
「五歳くらいしか違わないけどね」
少しだけ笑いが起きた。
重い空気に、小さな穴が開く。
陽菜がもう一度聞く。
「戻ってきますか?」
今度は伊織。
「戻ってくるさー」
エミリー、
「Of course」
柚葉、
「戻る場所があります」
沙羅、
「私たちですね」
澪が美波の去った方向を見ながら言う。
「帰ってきたら普通にしよう」
全員が澪を見る。
沙羅、
「珍しく良いこと言いますね」
澪、
「珍しく?」
紗耶が笑った。
「それでいいと思う」
陽菜、
「何も聞かない?」
澪、
「美波さんが話したら聞けばいいよ」
陽菜はしばらく考えた。
そして頷いた。
「分かりました」
七人は追わない。
でも。
帰らない。
美波が戻る場所を、そのまま残しておく。
一人になった美波は、秦野の街を歩いていた。
夕暮れ。
丹沢の稜線が黒くなっていく。
山から降りてくる風。
名水の街らしく、どこかで水の流れる音がする。
車が一台。
遠くを通り過ぎる。
昔。
秦野へ来る理由は、あの男だった。
今。
その男との関係を終わらせるために、自分はまた秦野へ来た。
笑えない話だった。
美波はポケットから通信端末を取り出す。
画面を見る。
メッセージはない。
陽菜。
沙羅。
伊織。
エミリー。
紗耶。
柚葉。
澪。
誰も送っていない。
《大丈夫?》
《どこにいる?》
《戻ってきて》
一件もない。
美波は画面を見つめた。
そして。
ほんの少しだけ口元を緩める。
「……分かってんじゃん」
端末をしまう。
歩く。
昔好きだった男を、自分の手で倒した。
私情を捨てたつもりだった。
任務だから戦った。
それは嘘ではない。
だが。
何も感じなかったわけではない。
だから男を見られなかった。
だから勝った後、何も言えなかった。
昔の自分を知っている男。
総長ではなく、美波と呼んだ男。
もう戻らない。
戻れない。
それでいい。
今の自分には。
海がある。
守るべき街がある。
ライフセイバーとして救う命がある。
そして。
七人がいる。
美波は顔を上げた。
夕暮れの丹沢。
普段なら拳でも突き上げて、
「よっしゃ!」
と笑うところだ。
今日はしない。
ただ、まっすぐ歩く。
元レディース総長。
ライフセイバー。
KANA☆WAVEのリーダー。
誰かの元恋人。
全部が平塚美波。
過去は消えない。
消す必要もない。
ただ。
過去へ戻らなければいい。
歩く美波の背中が、夕暮れの秦野の街へ小さくなっていく。
いつもの豪快な笑い声はない。
任務後の「集会」もない。
けちのんとの予算交渉もない。
今日だけは。
それでよかった。
KANA☆WAVE――秦野任務、完了。
勝利の夜。
七人は、仲間を追わずに待った。
そして美波は、一人で過去から歩いて帰ってくる。
その先に、自分の居場所があることを知りながら。




