ヒロヒロ山陰どうでしょう 潮風は笑わない――梨乃の寄り道、残り十一秒、そして鳥取行きのサイコロ
夜の皆生温泉は静かだった。
静かすぎた。
前夜の玉造温泉では午前四時から寝起きドッキリが炸裂し、一条知佳は二夜連続で仲間を信用した結果、見事に罠へ落ちた。
だから視聴者たちは待っていた。
午前三時五十五分。
《そろそろ来るぞ》
《知佳ちゃん警戒して》
《梨乃の鼻待機》
《ピロピロ笛はまだか》
午前四時。
何も起こらない。
四時十分。
何も起こらない。
四時三十分。
配信すらない。
そして翌朝、番組画面には無情なテロップだけが表示された。
『昨夜は、本当に何も起こりませんでした。』
ヒロヒロ山陰どうでしょう史上、最大級の肩透かしだった。
その前夜。
米子での『商都米子! 米子の魅力を“仕入れて”売り込めPR選手権』を終えた七人は、皆生温泉のホテルへ入った。
江波のどか。
神門結衣。
山根梨乃。
一条知佳。
金城伊織。
杉山ひかり。
館山みのり。
今日も散々歩いた。
喋った。
梨乃だけは途中で食べた。
ホテルへ着いた時点で、全員それなりに腹が減っていた。
そして夕食会場の襖が開く。
誰も言葉を発しなかった。
日本海の鮮魚。
焼き物。
煮物。
地元野菜。
季節の小鉢。
山陰の海と山を一度に並べたような豪華な懐石料理。
のどかは腕を組んだ。
「……ノムさん」
「なんじゃ?」
「今回、ほんま飯だけは絶対外さんね」
「“飯だけ”いう言い方やめえや」
「企画は時々外すけえ」
「米子は完璧じゃったろ」
「今回はね」
知佳が横から静かに補足する。
「今回は事前準備、動線設計、目的設定とも非常によく整理されていました」
ノムさんは胸を張った。
「ほら見い」
知佳は続ける。
「松江の反省がかなり生かされていたと思います」
ノムさんの胸が少ししぼんだ。
のどかが笑う。
「知佳、よう言うた」
だが数分後。
七人はもうそんな話をしていなかった。
カニ。
刺身。
焼き魚。
山陰の幸。
すべてが強すぎた。
梨乃など、完全に獲物を前にした大型犬である。
「この刺身、まだあるだ?」
結衣が笑う。
「今ある分食べてから聞きんさい」
「無くなってからじゃ遅いが」
「何の争奪戦なん?」
その頃。
宴席の端ではノムさんとまさにゃんが堂々と酒を飲んでいた。
しかも生配信中。
ノムさんが盃を掲げる。
「いやあ、今日はええ仕事したけえ酒が美味いのう」
まさにゃんも、
「ほんまですわ。米子企画、ようまとまりましたもんなあ」
とすっかり上機嫌。
のどかがちらりと見る。
知佳も見る。
ひかりも見る。
だが目の前には豪華懐石。
全員、無言で箸を進めた。
見なかったことにした。
すると生配信コメント欄に、一件だけ異様な迫力を放つ書き込みが流れた。
《芹沢遥(本人):ノムさん、飲酒出演禁止!!》
コメント欄が爆発する。
《本人来た》
《室長www》
《ノムさん逃げろ》
《見られてるぞ》
《まさにゃんも巻き添え》
しかし。
誰も触れない。
ノムさんも画面を見ない。
まさにゃんも見ない。
七人もひたすら料理。
視聴者だけが騒いでいる。
その横。
伊織も静かに酒を飲んでいた。
のどかが気づく。
「伊織、飲んどる?」
「飲んでますよ」
「……全然変わらんね」
伊織はいつもの理知的な表情。
目も据わらない。
声も変わらない。
姿勢まで良い。
知佳が観察する。
「確かに、まったく酔っているようには見えませんね」
伊織はもう一口。
「まだこれくらいなら普通さー」
のどかはノムさんを見る。
かなり陽気。
伊織を見る。
冷静。
もう一度ノムさん。
陽気。
伊織。
冷静。
「……酒にも人格が出るんじゃね」
ノムさん、
「誰のこと言うとるん?」
「知らん」
コメント欄。
《伊織ちゃん酒が水》
《知性がアルコールに勝ってる》
《ノムさんは完全敗北》
夕食の後は皆生温泉。
七人が湯船へ身体を沈める。
「あぁぁぁ~~……」
のどか。
「ふわぁぁぁ~~……」
梨乃。
ひかりが吹き出した。
「二人とも、昨日も同じ声出してたよね?」
のどかは目を閉じたまま答える。
「温泉いうんは、これで正解なんよ」
梨乃も、
「気持ちええ時は声出るで」
と同意。
すると知佳が静かに始めた。
「皆生温泉は、昨日の玉造温泉とは泉質が違います」
のどかが目を開ける。
「知佳先生、今日も始まった?」
「比較すると面白いですから」
知佳によれば、皆生温泉は塩化物泉を主体とする海辺の温泉。
温泉に含まれる塩類が肌の表面に付着し、熱が逃げにくくなるため、湯冷めしにくいのが特徴だという。
梨乃がまとめる。
「つまり、ずっとぬくい?」
知佳が少し考える。
「非常に大ざっぱですが、その理解で構いません」
梨乃、
「よし」
のどかが驚く。
「梨乃が一発で理解した!」
「うちを何だと思っとるだ?」
「偶数がまだ怪しい大学生」
「それはもう分かるで」
「ほんま?」
「たぶん」
「たぶん言うた!」
湯船には笑い声。
伊織も肩まで浸かり、
「今日はよく動いたから、身体がほぐれるさー」
結衣も、
「海の近くで温泉入っとると、ほんに山陰まで来た感じするねえ」
と満足そう。
ひかりは隣のみのりへ、
「明日の朝、海見に行けたらいいね」
みのりも、
「うん。一緒に行こう」
その会話を聞いたのどか。
「はいはい。二人でどうぞ」
二人同時に、
「何その言い方!」
声までぴったり。
のどか、
「その息ぴったりなんが余計あやしいんよ」
「普通に仲がいいだけ!」
「はいはい、尊い尊い」
その夜。
誰もドッキリをしなかった。
梨乃の鼻も無事だった。
知佳も騙されなかった。
ヒロヒロとしては奇跡的に平穏な夜だった。
翌朝。
ホテルロビー。
ノムさんがフリップを持って現れる。
七人の顔に警戒が走る。
のどかが言う。
「今日は何?」
「本当はのう、皆さんにトライアスロンをやってもらおうと思っとったんよ」
のどか。
「嫌じゃ」
即答だった。
ノムさん、
「まだ説明しとらん」
「水着は嫌じゃ」
「そこ?」
「そこじゃ」
のどかは柔道有段者。
身体は強い。
だが水は弱い。
要するに、カナヅチ。
さらに柔道で鍛えた体格ゆえ、水着で全国生配信という企画には一ミリも乗り気ではない。
「ウチは泳げんし、水着でカメラ回されるんも嫌じゃ!」
知佳も冷静に、
「準備なしでトライアスロンを要求するのは現実的ではありませんね」
「知佳、もっと言うたれ!」
ノムさんはあっさり別のフリップを出した。
「だからやめた」
「最初から出すな!」
代わりの企画。
『ヒロヒロ弓ヶ浜シーサイドサイクリング』
バイク部門だけ。
しかも電動アシスト自転車。
梨乃の顔が輝く。
「楽そうだで」
――その言葉を後で全員が思い出すことになる。
午前。
皆生温泉を出発。
弓ヶ浜の海岸線。
青い日本海。
白い砂浜。
松林。
海風。
そして遠くの大山。
企画史上まれに見るほど爽やかな映像だった。
「うわー、気持ちいい!」
ひかりが笑う。
隣を走るみのりも、
「最高! ずっと海見えるよ!」
と上機嫌。
二人は自然に並ぶ。
ペースまで同じ。
時折顔を見合わせて笑う。
潮風に髪が揺れる。
完全に絵になる。
コメント欄。
《尊い》
《何この二人》
《デートにしか見えない》
《グレースフォースだけ別番組》
のどかが後ろから叫ぶ。
「そこの百合カップル! 二人だけの世界に入らんでよ!」
ひかり、
「入ってません!」
みのり、
「普通に走ってるだけ!」
二人の返事まで同時。
コメント欄。
《息ぴったり》
のどか、
「ほら見い!」
知佳は自転車を漕ぎながら、
「のどかさん、からかいすぎです」
と言いつつ少し笑っている。
伊織は姿勢よく走る。
「海沿いのサイクリング、気持ちいいさー」
結衣も、
「こんなのんびりした企画、久しぶりだねえ」
梨乃は電動アシストに感動。
「これ、ずっと走れるで」
のどか、
「その発言、記録しとくけえね」
「なんで?」
「何となく」
知佳が横から、
「私も覚えておきます」
梨乃、
「怖いが」
往路は平和だった。
本当に平和だった。
ハードボイルドとは、静けさの中に次の災難を待つことである。
多分。
昼。
境港。
海鮮ランチ。
ここでも強かった。
刺身。
焼き魚。
海鮮丼。
カニ。
七人の顔がまた緩む。
のどか、
「今日も魚が強い!」
梨乃は海鮮丼を見て、
「これは優勝だで」
結衣、
「何大会?」
「知らん」
伊織も、
「自転車で走った後だから、でーじ美味しいさー」
ひかり、
「ほんと、美味しい!」
みのり、
「今日普通に旅行じゃない?」
のどか、
「ずっとこれでええんよ」
そこへ知佳。
「ちなみに境港は――」
のどか、
「来た」
魚があれば、知佳の講義もある。
境港の水産業。
ベニズワイガニ。
日本海の漁業。
知佳のトリビアが次々出る。
「ベニズワイガニは一般的なズワイガニより深い水深に生息していて――」
梨乃がカニを見ながら言う。
「知佳」
「はい?」
「冷めるで」
知佳。
沈黙。
料理を見る。
「……食べてからにします」
のどかが箸を置いて笑う。
「梨乃、知佳の止め方だけは覚えたんじゃね!」
午後。
水木しげるロード。
そこから空気が少し変わる。
いや。
正確には――梨乃が変わった。
妖怪ブロンズ像。
店。
グッズ。
記念撮影。
水木しげるの世界。
梨乃は完全に童心へ戻った。
「あ! ここにもおる!」
のどか、
「いっぱいおるけえね」
「こっちも!」
「分かった分かった」
伊織はキジムナーを見つけ、
「沖縄の妖怪もいるさー」
と少し嬉しそう。
のどか、
「伊織の地元枠がおった!」
ひかりとみのりは一緒に写真。
結衣も楽しそう。
知佳は妖怪文化について説明。
そして水木しげる記念館。
ここが決定打だった。
梨乃。
見る。
読む。
また見る。
土産を見る。
戻る。
もう一度見る。
のどかが何度も言う。
「梨乃、時間あるけえね」
「分かっとる」
その「分かっとる」は、世界で最も信用してはいけない言葉だった。
集合予定時刻。
七人が集まる。
いや。
六人。
のどかが数える。
「一、二、三、四、五、六……」
もう一度。
「一、二、三、四、五、六」
知佳、
「増えませんよ」
「分かっとる!」
ひかり、
「梨乃ちゃんは?」
沈黙。
結衣、
「さっきまでおったよ?」
みのり、
「……嫌な予感」
探す。
そして発見。
梨乃は少し離れたところで妖怪グッズを見ていた。
しかも手には食べ物。
のどかが歩いていく。
ゆっくり。
怒っている人間ほど、歩みは静かだ。
「梨乃」
「ん?」
「今、何時?」
「あ」
「“あ”じゃない」
「これ見とった」
「見たら分かる!」
「あとちょっとだったで」
「何が!?」
「全部」
「“全部”が一番怖いんよ!」
その瞬間。
スタッフが時計を見る。
空気が変わった。
「皆さん」
「何?」
「レンタサイクルの返却締切まで――あと35分です」
全員。
「…………」
梨乃、
「35分もあるで」
のどかがゆっくり振り返った。
「お前なあ」
声が低い。
「“35分も”じゃない」
一歩。
「“35分しか”ないんよ!」
画面。
【返却期限まで 34分47秒】
コメント欄。
《始まった》
《梨乃案件》
《地獄編突入》
《さっきまで爽やかだったのに》
《ラブラドール回収完了》
七人は自転車へ。
ここからは安全最優先。
信号を守る。
無理に追い越さない。
危険な速度は出さない。
その代わり――一秒も無駄にしない。
みのりがルート担当。
「このまま直進! 次もそのまま!」
ひかりが後方確認。
「全員いる!」
のどか、
「梨乃は!?」
「いる!」
「梨乃だけは毎回名前で確認して!」
梨乃、
「なんでうちだけ!」
「誰のせいじゃ!」
伊織は隊列管理。
「焦らんで! 車間取って、安全第一さー!」
知佳は時計を見る。
「現在の平均ペースなら、約5分の余裕があります」
のどか、
「その5分、梨乃一人で全部溶かせるけえ信用できん!」
梨乃、
「もう何もせんで!」
三秒後。
「あ、自販機」
のどか、
「見るなあああ!」
コメント欄。
《自販機回避w》
《支部長ファインプレー》
《梨乃から目を離すな》
残り25分。
まだ行ける。
往路では潮風を楽しんだ。
今は違う。
往路。
「海きれい!」
帰路。
「残り何分!」
往路。
「気持ちいいね!」
帰路。
「全員いる!?」
往路では百合カップルと弄られていたグレースフォースも、今は完全にナビゲーションチーム。
ひかり、
「みのり、この道でいい?」
「いい! 次も直進!」
のどか、
「今日はイチャイチャしとる暇ないけえね!」
二人、
「してない!」
こんな状況でも声は揃った。
知佳、
「余裕ありますね」
残り15分。
梨乃が悲鳴。
「足疲れただ!」
全員、
「電動アシスト!」
梨乃、
「電動でも漕ぐのはうちだで!」
知佳、
「それは正しいですね」
のどか、
「そこで梨乃に加勢せんで!」
視聴者。
《原因だけど頑張れ》
《ラブラドール走れ》
《電動を信じろ》
伊織、
「梨乃ちゃん、あと少しさー!」
「少しって何分?」
「聞かん方がいいです」
「怖っ」
残り8分。
返却場所が近づく。
知佳、
「このままなら間に合います」
のどか、
「ほんま?」
「計算上は」
「その言葉嫌いになりそう!」
その時。
前方の信号が赤へ。
七人停止。
画面。
【残り6分51秒】
コメント欄。
《赤あああああ》
《ここで信号》
《長い》
のどかは赤信号を見る。
「まだ?」
知佳、
「停止してから11秒です」
「体感2分なんよ!」
伊織、
「焦らんでください。安全第一さー」
青。
「行くで!」
残り2分。
ひかりが前を見る。
「あった!」
みのり、
「返却場所!」
七人の顔が明るくなる。
画面。
【残り1分48秒】
順に到着。
みのり。
ひかり。
伊織。
知佳。
結衣。
のどか。
最後。
梨乃。
「梨乃は!?」
後ろ。
来ている。
「待ってぇなあ!」
コメント欄。
《梨乃おおおお!》
《頑張れ!》
《原因お前だけど頑張れ!》
《ラブラドール帰還》
梨乃到着。
残り44秒。
のどか、
「よっしゃ!」
スタッフ、
「まだです! 自転車を所定位置へ戻して返却確認まで!」
のどか、
「厳しい!」
七人がそれぞれ自転車を戻す。
一台。
二台。
三台。
四台。
五台。
六台。
七台。
確認。
スタッフが時計を見る。
残り11秒。
「全車返却完了!」
「やったああああああ!」
歓声。
そして静寂。
のどかはその場にしゃがみ込む。
「……疲れた」
ひかりも、
「往路の三倍疲れた気がする……」
みのり、
「距離同じなのに……」
伊織、
「精神的なものさー」
知佳、
「実際、時間制限があることで心理的負荷は――」
のどか、
「今は分析せんでええ!」
結衣は梨乃を見る。
「誰のせいでこうなったと思っとる?」
梨乃。
「間に合ったで」
六人。
「そういう問題じゃない!」
潮風が吹く。
七人は疲労困憊。
もう動きたくない。
のどかはベンチへ座り込む。
「もうここで泊まろうや」
ひかり、
「温泉入りたい……」
みのり、
「今日はもう自転車乗りたくない……」
知佳、
「私も少し休憩したいです」
伊織、
「今日は十分運動したさー」
結衣、
「ほんに疲れたねえ」
梨乃、
「腹減った」
六人が見る。
「何?」
のどか、
「お前の胃袋だけ別世界に住んどるじゃろ」
その時。
足音。
七人が顔を上げる。
ノムさんだった。
右手には――
巨大なサイコロ。
一同。
「…………」
ハードボイルドな世界では、悪い予感ほどよく当たる。
のどかの目が細くなる。
「ノムさん」
「なんじゃ?」
「その手に持っとる物、何?」
「サイコロ」
「見れば分かる!」
ノムさんは笑顔。
七人は笑わない。
「皆さん、レンタサイクル無事返却、お疲れさんでした!」
拍手はない。
「さて」
嫌な接続詞だった。
「本日はこれから、次の宿泊地へ移動します」
知佳が聞く。
「どちらですか?」
ノムさんはフリップを出した。
そこには大きく――
【鳥取市】
県都・鳥取。
梨乃が目を丸くする。
「今から鳥取行くだ?」
「そうじゃ」
ひかり、
「結構移動するよね?」
「するねえ」
みのり、
「どうやって?」
ノムさんがサイコロを持ち上げた。
「それを今から決めます」
七人。
「…………」
知佳が目を閉じる。
「またですか……」
結衣、
「さっきまで返却時間と戦っとったんだけど……」
伊織、
「もう今日は十分運を使った気がするさー」
ひかり、
「普通に移動させてください……」
みのり、
「嫌な目しか入ってない気がする……」
そして。
梨乃が少し元気になる。
「うち振る?」
のどかが立ち上がった。
疲れていた。
脚も重い。
声も少しかすれていた。
だが、この一言だけは腹の底から出た。
「お前だけは絶対振るな!」
夕暮れの境港。
七人の前に置かれる巨大サイコロ。
県都鳥取への道は、まだ見えない。
ただ一つ確かなことがあった。
今日という日は――。
まだ終わっていない。
そして次の地獄は、六つの目のどこかに隠れていた。




