笑いの本丸、開演五分で台本迷子! ――「トリオ・ザ・大阪」、小っちゃい師匠・アホの大先生・ポコポコ親方に転がされる千日前初舞台
森ノ宮では、たこ焼き二百八十円の領収書を巡って大騒ぎ。
難波では、三千円の伝票を三万円へ水増ししようとして大騒ぎ。
枚方では、観覧車を半周で逆回転させようとして大騒ぎ。
富田林では、出演料をみかんで支給しようとして大騒ぎ。
東大阪では、町工場の未来を語るはずが、美月の父・真人による幼少期暴露プレゼンに全部持っていかれて大騒ぎ。
河内のスピーカー・赤嶺美月。
和泉の貯金箱・谷口佳乃。
浪速のバランサー・坂井まどか。
三人組の漫才ユニット、
「トリオ・ザ・大阪」
は、本人たちの想像を超える速さで、大阪の笑いの世界へ食い込み始めていた。
地域イベント。
商店街。
遊園地。
観光農園。
大学ホール。
舞台へ立つたびに、美月は叫び、佳乃は経費を削り、まどかは二人を現実へ引き戻す。
その型は少しずつ広まり、今ではイベント主催者から、
「最後に三人を出しておけば、何とかなる」
とまで言われている。
もっとも、まどかは、
「その“何とかなる”の中に、収拾がつかんようになる可能性も含まれとる」
と冷静に分析していた。
そんなある日の午後。
ヒロ室の会議室へ呼び出された三人は、遥室長の前に並んでいた。
美月は着席するなり尋ねる。
「室長、何ですか? うちらの新しい仕事ですか? それとも経費の話ですか?」
佳乃が美月を見る。
「経費の話なら、まず美月さん一人が呼ばれます」
「何で最初から、うちに問題ある前提やねん」
まどかがため息をつく。
「まだ何も聞いてへんのに、もう話が脱線しとる」
遥室長は三人のやり取りが落ち着くのを待ち、一通の封筒を机へ置いた。
封筒には、千日前の老舗劇場、
「なんば大笑堂」
の名が印刷されていた。
美月の表情が変わる。
「これ……まさか」
遥室長は静かに告げた。
「浪花人情笑劇団から、正式な出演オファーが届きました」
一秒。
会議室が完全に静かになる。
次の瞬間、美月が椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「うそやろおおおおっ!」
廊下を歩いていた職員が驚き、扉を開ける。
「何か事故ですか?」
美月が振り返る。
「事故よりすごい! うちら、なんば大笑堂へ出るねん!」
遥室長が訂正する。
「事故よりすごい、という表現は適切ではありません」
「室長、今はそこ細かく言わんでください!」
普段は落ち着いているまどかも、封筒を持つ手が震えていた。
「ほんまに、あの舞台へ……?」
遥室長が頷く。
「先方が、これまでの皆さんの漫才映像を見たそうです。三人の役割が明確で、大衆喜劇の中でも生かせるのではないか、と」
美月は両手で頭を抱える。
「大阪の笑いの本丸やで。うちら、とうとう本丸から呼ばれたんや!」
まどかが言う。
「客演や。攻め落とすみたいに言わんといて」
佳乃は出演依頼書を受け取った。
出演日。
稽古日。
拘束時間。
交通費。
出演料。
弁当。
美月が佳乃の手元をのぞく。
「この一大事に、最初に弁当を見るな!」
「重要な契約条件です」
「感動はないんか!」
佳乃は依頼書を机へ置いた。
眼鏡の奥の目が、わずかに潤んでいる。
「子どもの頃、祖母と毎週見てました」
美月とまどかが黙る。
佳乃は少し照れながら続けた。
「あの舞台へ自分が立てるんは……やっぱり、特別ですな」
美月は佳乃の肩を抱く。
「けちのんも、ちゃんとベタベタの大阪人やったんやな!」
「今まで何やと思うてたんです?」
まどかも封筒を見つめる。
「うちも家族で劇場へ行ったことある。役者さんが出てきただけで、客席が笑うねん。子どもの頃、何で歩いとるだけでおもろいんやろって、ずっと不思議やった」
遥室長は三人を見渡した。
「普段のイベントとは違います。長年舞台へ立ってきたプロの喜劇人たちと一緒です。台本、稽古、舞台上の約束を大切にしてください」
美月が胸を張る。
「任せてください。台本どおり、完璧にやります!」
遥室長は少しだけ間を置いた。
「先方からは、“台本どおりに進むと思わないでください”との伝言も届いています」
三人の笑顔が、わずかに固まった。
◇
ベタやない、百年磨いた型や
浪花人情笑劇団は、大阪の大衆文化を象徴する巨大喜劇集団だった。
本拠地の「なんば大笑堂」では、漫才、落語、コント、曲芸などの演芸に続き、毎日のように人情喜劇が上演される。
所属する座員は百人を超える。
若手。
中堅。
座長。
そして何十年にもわたり、同じ舞台で客を笑わせ続けてきた大ベテラン。
週替わりの物語へ、さまざまな座員が組み合わされて出演する。
舞台となるのは、食堂、旅館、商店、病院、銭湯、アパート、町工場。
庶民の暮らしに近い場所が多い。
借金を抱えた店。
土地を狙う悪徳業者。
身分を隠した社長。
長年離れていた親子。
最後の十分で明らかになる重大な秘密。
舞台袖へ逃げたはずの人物が、なぜか反対側から戻ってくる。
座ってはいけない時に壊れる椅子。
強く閉めると反対側から開く扉。
誰にも聞かれていないのに、重要な情報を大声で独り言にする悪人。
展開は、ある程度読める。
小柄なベテランが出れば、身長の話が始まる。
強面の男が金属盆を持てば、頭で音を鳴らす。
上品な女将が急に黙れば、誰かが徹底的に怒られる。
観客も、それを分かっている。
それでも笑う。
いや、分かっているからこそ、期待して笑う。
登場する角度。
最初の一歩。
客席を見る時間。
台詞を言う速度。
相手との距離。
笑いが収まるまで待つ秒数。
同じギャグに見えても、その日の観客、その日の共演者、その日の空気によって細かく変わる。
ベタなのではない。
何十年も磨き続けた結果、型になったのである。
笑わせる。
転ばせる。
怒鳴る。
泣かせる。
最後には人情で包み、観客を少し温かな気持ちにして劇場から送り出す。
それは単なる芝居ではなかった。
土曜の昼。
家族で囲む食卓。
祖父母と孫が一緒に笑う時間。
大阪人が何世代にもわたって共有してきた、生活文化そのものだった。
◇
稽古場へ入っただけで幸せです
稽古初日。
美月、佳乃、まどかは、予定時刻より三十分も早く劇場へ到着した。
佳乃は言う。
「遅刻による信用低下を避けるためです」
美月は否定する。
「違う。早く中へ入りたかっただけや!」
まどかも小さく頷く。
「今日は佳乃より、美月の理由の方が正直やな」
稽古場の壁には、過去の公演写真が並んでいた。
使い込まれた椅子。
書き込みだらけの台本。
舞台装置の見取り図。
端には、小道具が二種類に分けて置かれている。
本番で壊す物。
本番まで壊してはいけない物。
美月は表示を見て感動した。
「壊す前提の道具が、正式に管理されとる……」
佳乃が言う。
「資産区分が明確ですな」
まどかは床へ貼られた立ち位置の印を見る。
「ここで、あの名場面が何本も作られたんやろな」
三人が入口で感慨に浸っていると、背後から声が飛ぶ。
「感動するんはええけど、そこで止まられたら誰も入られへんで」
三人が振り返る。
今回の座長を務める笹本新平が立っていた。
食堂や旅館の主人役が多く、次々と現れるボケへ突っ込みながら物語を進める苦労人である。
美月たちは一斉に頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
美月の声だけが大きい。
新平は耳を押さえた。
「マイクあるから。千日前の外まで届けんでええ」
「すみません!」
「謝る声も大きい」
「すみま――」
まどかが美月の口を塞いだ。
◇
憧れの絹代師匠は、同じ東大阪の大先輩
最初に稽古場へ姿を見せたのは、安井絹代だった。
上品な服装。
柔らかな笑顔。
少しはにかんだような話し方。
舞台では食堂や旅館の女将役を演じることが多い。
普段は、
「まあまあ。皆さん、仲良うしなはれ」
と穏やか。
ところが店や家族、人情を侮辱されると、笑顔のまま相手へ近づき、突然猛烈な啖呵を切る。
東大阪市出身。
同じ東大阪で育った美月にとって、絹代は子どもの頃から憧れてきた存在だった。
美月は絹代の姿を確認した途端、緊張で動けなくなる。
まどかが小声で尋ねる。
「挨拶せえへんの?」
「待って。心の準備が……」
「さっきまで大阪の本丸を取る言うてた人が?」
「絹代師匠は別格やねん!」
絹代の方から近づいてきた。
「あなたたちが、トリオ・ザ・大阪の三人?」
三人は慌てて頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
絹代は美月を見た。
「美月ちゃん、東大阪の子なんやて?」
「はい! うち、子どもの頃から絹代師匠の大ファンで、ずっと見てました!」
美月は完全に早口になっていた。
「同じ東大阪の人が、あんな大きな舞台でお客さんを笑わせて、優しい女将さんやと思ったら急に怒って、相手を一回更地にして、最後はお茶を出すところが大好きで、うちもいつも参考にしています!」
絹代は、はにかんだように笑った。
「いややわぁ。そんな真っすぐ言われたら、恥ずかしいですやん」
美月はさらに頭を下げる。
「今日は勉強させてください!」
絹代は少し考え、美月へ尋ねた。
「美月ちゃんは、うちのどこを参考にしてるの?」
「大きい声で一気にまくしたてるところです!」
絹代は即答した。
「そこだけ真似したらあかんで」
まどかが噴き出す。
佳乃も眼鏡の奥で笑う。
美月は固まった。
「違うんですか?」
「大声を出したら、怒ってるようには見える。でも、それだけではお客さんは笑われへんのよ」
絹代は舞台中央を指さした。
「相手の台詞をまず受ける。すぐ怒鳴らんと、一回黙る。お客さんに“来るで”と思ってもらう時間を作る。それから、相手が一番困る言葉を返す」
美月は真剣に聞く。
「間、ですか」
「せや。声の大きさより、声を出さん時間の方が大事なこともある」
絹代は微笑んだ。
「それとな。自分だけがおもろうなろうとしたらあかん。相手を一番おもろく見せたら、自分も一緒におもろくなる。舞台は一人で勝つところやないからね」
美月はゆっくり頷いた。
普段なら、少しでも前へ出て、一つでも多く笑いを取りたいと思う。
だが、この舞台では、相手の台詞を待ち、相手を立てることが必要になる。
「ありがとうございます。覚えときます」
絹代は美月の肩を軽く叩いた。
「東大阪の子は、前へ出る力は強いから。あとは、ちょっと待つことを覚えたらええ」
美月は感激し、目を潤ませた。
「同郷でよかった……」
絹代が笑う。
「同郷やからいうて、稽古で手加減はせえへんよ」
美月の感動が半分、緊張へ変わった。
◇
小っちゃい師匠と、小柄な美月
続いて稽古場へ入ってきたのは、
小池めだ吉
小柄な身体。
少し猫背。
小さな歩幅。
しかし舞台へ出れば、登場しただけで客席を笑わせる大ベテラン。
通称、
「小っちゃい師匠」
である。
めだ吉の後ろには、大柄な島田岩造がいた。
美月は岩造ばかりを見上げる。
「岩造師匠、おはようございます!」
美月の腰付近から声がした。
「わしもおるで」
美月が下を見る。
「あっ! めだ吉師匠!」
めだ吉は不機嫌そうに言った。
「さっきから、わしの頭の上で会話すな」
美月は慌てて腰を深くかがめた。
「すみません!」
めだ吉が眉をひそめる。
「ねーちゃん、何もそこまで大げさにすることないやろ」
美月自身も、ヒロインたちの中では背が低い方である。
まどかが言う。
「美月かて、そんなに大きい方ちゃうやん」
佳乃も頷く。
「比較対象によっては、美月さんも十分小柄です」
めだ吉が美月を見る。
「何や。ねーちゃんも、こっち側か」
美月が反発する。
「誰が、こっち側ですか!」
めだ吉が手招きする。
「並んでみい」
二人が並ぶ。
めだ吉は美月の頭頂部を見る。
美月もめだ吉を見る。
めだ吉は言った。
「わしから見たら、大女や」
「そこまで違いませんやん!」
「ほな、わしを小さい言うな!」
「まだ言うてません!」
「心で言うた!」
「心まで読まんといてください!」
めだ吉は、急に口をへの字に曲げた。
「どうせ、みんなわしを小さい小さい言うんや……」
声が震える。
「わしだって、好きで小っちゃくなったんちゃうもん……」
美月が慌てる。
「師匠?」
めだ吉は稽古場の床へ座り込み、子どものように両手で目をこすった。
「うわあああん! 若い姉ちゃんに、また小さいって笑われたあああ!」
足をばたつかせる。
完全に泣き出した子どもである。
美月は青ざめる。
「師匠、泣かんといてください! うち、何も言うてません!」
「言うてないから、余計つらい!」
「どうしたらええんですか!」
美月は、しゃがんでめだ吉の背中をさする。
「師匠は大きいです! 存在が大きいです!」
めだ吉は泣きながら顔を上げる。
「存在は、何センチや?」
「センチでは測られへん大きさです!」
「ほな証明できへんやん!」
「ややこしい子どもやな!」
めだ吉は突然泣き止まった。
「今のツッコミ、ええやん」
美月が固まる。
「演技やったんですか?」
「当たり前や。泣いたら相手が近づいてくる。近づいたら、次の一言を返しやすいやろ」
めだ吉は立ち上がり、美月を見上げる。
「笑いはな、背ぇの高さやない。相手との距離や」
美月は感心する。
「ええ話ですね」
めだ吉は続ける。
「せやから、もっと低うなれ」
「最後に身長へ戻すな!」
稽古場が笑いに包まれた。
◇
アホの大先生は、理解しないから強い
次に現れたのは、
坂下ぽん太
口を大きく開けた笑顔。
少し不思議な歩き方。
何を説明されても分かったふりをするが、実際には何一つ理解していない。
劇団内では敬意を込めて、
「アホの大先生」
と呼ばれていた。
ぽん太は台本を上下逆に持っている。
佳乃が指摘する。
「師匠、台本が逆です」
ぽん太は平然と答えた。
「わざとや。逆から読んだら、結末から覚えられる」
まどかが言う。
「最初の台詞が分からへんようになります」
「ほな、最初から読んだらええ」
「最初から、そうしてください」
劇中で、ぽん太は世界的経営コンサルタントを自称する。
食堂の経営を救いに来たと言いながら、本当は無料定食券をもらえると思って来ただけである。
新平が説明する。
「先生、うちの食堂は三百万円の負債を抱えています」
ぽん太は大きく頷く。
「なるほど。三百万円の夫妻か」
「負債や!」
「仲ええ夫婦なんか?」
「借金や!」
「借金なら最初から言え!」
「最初から言うとるわ!」
ぽん太は帳簿をのぞく。
「売掛金、買掛金、未払金。金ばっかりや。金持ちやないか」
佳乃が思わず役を離れて説明する。
「自由に使えるお金やありません」
ぽん太が佳乃を見る。
「姉ちゃん、詳しいな。何者や?」
「財務担当です」
「わしの財布も見てくれ」
「空です」
「まだ開けてへん!」
「膨らみがありません」
ぽん太は財布を開ける。
本当に空だった。
「何で分かったんや!」
佳乃が答える。
「長年の経験です」
美月が言う。
「けちのんに財布見せたら、人生まで査定されるで」
ぽん太は美月の台詞も次々と聞き間違える。
「町工場と食堂を救いに来ました!」
「何を買いに来た?」
「救いに来た!」
「酢を買いに来た?」
「町工場を救いに来た!」
「猫工場を祝いに来た?」
「猫も祝いも関係ない!」
ぽん太は新平を見る。
「この姉ちゃん、何言うてるか分からんな」
美月が叫ぶ。
「大先生が聞き間違えとるだけや!」
ぽん太は客席がいる方向へ向かって言う。
「若いのに、かわいそうな子や」
「何でうちが心配されるねん!」
まどかは笑いながら呟く。
「論理で勝てへん人って、ほんまに強いな」
佳乃は真剣にメモを取った。
「説明を理解してもらおうとするほど、こちらが不利になります」
◇
ポコポコ親方は、本番前に本番用の盆を壊します
三人目は、
島田岩造
大柄。
強面。
太い眉。
舞台では町工場の親方や用心棒役が多い。
代表芸は、自分の頭へ金属盆を当てて軽快な音を鳴らす、
「ポコポコ頭突き」
だった。
岩造は舞台用の柔らかい盆を手に取る。
「三人とも、よう見とけよ。これが頭を使う仕事や」
美月が期待する。
「何をするんです?」
岩造は盆を頭へ乗せた。
「頭で形を整える!」
ポコ。
ポコ。
ポコ。
最後に大きく、
「ポコーン!」
盆の中央が見事にへこむ。
美月は手を叩いた。
「本物や! テレビで見てたやつや!」
岩造は胸を張る。
「料理を入れたら、全部真ん中へ集まる。便利やろ!」
佳乃が盆を見る。
「製品としては不良です」
「便利になったんや!」
まどかが言う。
「汁物を入れたら、一か所へ集まりますね」
「せやろ!」
「その一か所からしか食べられません」
岩造は別の盆を取る。
「ほな、もう一個作ったる!」
舞台監督が叫ぶ。
「岩造さん、それ本番用です!」
岩造の手が止まる。
「危なかった」
佳乃が、先ほどへこませた盆を指さす。
「そちらは?」
舞台監督が答える。
「それも本番用です」
岩造は盆を背中へ隠した。
「最初から、こういう形やった」
美月が叫ぶ。
「名人芸の直後に証拠隠滅すな!」
◇
はにかみ女将が、悪人を更地にします
通し稽古。
悪徳開発業者が、古い食堂と町工場を馬鹿にする。
「こんな古臭い食堂と油臭い工場、潰して駐車場にした方が儲かりますわ」
絹代は、湯飲みを拭いていた手を止めた。
笑顔は残っている。
「今、何て言いはりました?」
美月は舞台脇で息をのむ。
子どもの頃から何度も見てきた流れ。
だが目の前で見ると、空気の変わり方がまるで違う。
悪徳業者が繰り返す。
「古臭い食堂やと言うたんです」
絹代は、はにかむ。
「いややわぁ。聞き間違いやと思うたのに、ほんまに言うたんですねえ」
二秒の沈黙。
稽古場にいる全員が、次を待つ。
絹代の声が低くなる。
「あんたなあ。何十年も朝早うから働いて、油まみれになって、家族を養うてきた人間の仕事を、何や思うとんねん!」
そこから一気だった。
「金しか数えられへん目ぇで町の未来を語るな! 人の苦労を一円も勘定できへん人間が、偉そうに建物の値段だけ付けるな! その中身のない頭、駐車場にする前に一回更地にして、人情と礼儀を基礎から建て直してこい!」
悪徳業者が後ずさる。
美月、佳乃、まどかまで壁際へ下がっていた。
絹代は机を叩く。
「分かったんか!」
「はい!」
悪徳業者だけでなく、稽古場全員が返事をした。
絹代は肩をすぼめ、はにかんだ笑顔へ戻る。
「ああ、怖かった。うち、大きな声を出す人苦手やねん」
美月が叫んだ。
「一番大きい声出してたん、絹代師匠ですやん!」
絹代は美月を見る。
「今の、ちょっと早かったな」
美月の表情が変わる。
「早かったですか?」
「うちが笑顔へ戻って、お客さんが一回安心してから言うた方が、もっと笑いになる」
美月は頷き、台本へ書き込む。
絹代は微笑んだ。
「でも、よう聞いてた。次は待てると思うよ」
美月はうれしそうに答えた。
「はい!」
◇
三人は、稽古を見ているだけで幸せです
休憩時間。
美月の興奮は収まらなかった。
「小っちゃい師匠の泣き芸も、アホの大先生の聞き間違いも、ポコポコ親方の身体ギャグも、絹代師匠のキレ芸も、全部目の前やで!」
まどかも笑顔だった。
「子どもの頃から見とった人らと、同じ台本を持って立っとるんやな」
佳乃はノートを確認する。
「同じギャグでも、相手の反応に合わせて間を変えてはります。全部、計算と経験があるんですな」
美月は紙コップの茶を持ち上げた。
「各人の名人芸を、こんな近くで見られて幸せやわ」
背後から、めだ吉の声。
「幸せになってる場合ちゃう。まだ最初から最後まで一回も通せてへんぞ」
三人が振り返る。
新平が手を叩く。
「休憩終わり。次は止めずに行くで」
美月が立ち上がる。
「よっしゃあ!」
絹代が静かに言う。
「声」
美月は座り直し、小声で言った。
「……よっしゃ」
◇
劇中演目
『町工場は笑うて回せ!』
――なにわ精密食堂、閉店寸前の一日
本番当日。
舞台は東大阪の町工場街。
小さな部品工場「浪花歯車製作所」と、その隣にある大衆食堂「まいど食堂」。
工場は大口の取引を失い、経営難。
食堂も客が減り、月末で閉店する危機を迎えている。
そこへ大学の地域連携チームとして、美月、佳乃、まどかが現れる。
美月は派手な企画で食堂をテーマパーク化しようとする。
佳乃は暖簾、電球、箸まで減らそうとする。
まどかは、二人と町の人々を現実へ戻そうとする。
しかしベテラン座員たちが次々と現れ、台本は開始五分で予定の道から外れ始める。
◇
小っちゃい責任者は、カウンターから帽子しか見えません
幕が上がる。
食堂の主人・新平が帳簿を見て頭を抱える。
「このままやったら、今月いっぱいで店閉めなあかん」
女将の絹代は茶を入れながら言う。
「店は赤字でも、お茶は黒字ですから」
「お茶だけで経営できるか!」
そこへ、カウンターの向こうから帽子だけが動いてくる。
新平が周囲を探す。
「誰か来たんか?」
めだ吉の声がする。
「ここや!」
新平は床を見る。
「犬か?」
めだ吉が飛び出す。
「誰が犬や! 小柄な人間や!」
登場しただけで、満員の客席から大拍手。
舞台袖の美月は目を輝かせる。
「ほんまに、出てきただけで空気変わった……」
めだ吉が配達伝票を新平へ渡そうとする。
しかしカウンターが高く、手が届かない。
新平が手を伸ばす。
めだ吉が背伸びする。
届かない。
新平が少しかがむ。
めだ吉がなぜか手を引っ込める。
何度も繰り返した後、めだ吉が怒鳴る。
「最初から、そっちがしゃがめ!」
客席が爆笑する。
◇
美月も小柄なのに、師匠を大げさに探します
「トリオ・ザ・大阪」が登場する場面。
美月の声だけが、舞台袖から先に響く。
「こんにちはー! 町工場と食堂を救いに来ましたー!」
新平が耳を押さえる。
「まだ姿見えてへんのに、声だけ先に来た!」
美月、佳乃、まどかが登場。
めだ吉は、美月のすぐ横に立っていた。
ところが美月は、わざと大げさに左右を見回す。
「めだ吉師匠、どこですか?」
めだ吉が美月の腰を叩く。
「ここや」
美月は、さらに大げさに床へ膝をつく。
「師匠、こんなところに!」
めだ吉は呆れた顔をする。
「ねーちゃん、何もそこまで大げさにすることないやろ」
客席が笑う。
めだ吉は美月を見上げる。
「ねーちゃんかて、そんなに大きないやないか」
美月が反論する。
「うちは師匠より大きいです!」
「何センチや?」
美月が答える。
めだ吉は少し考える。
「わしより、みかん箱一個分くらいやな」
「人の身長を、みかん箱で測るな!」
めだ吉は突然、子どものような顔になる。
「また小さいって言うた……」
「師匠が先に聞いたんですやん!」
めだ吉は舞台中央へ座り込み、両手で目をこする。
「うわあああん! 若い姉ちゃんが、わしを小さいっていじめるううう!」
客席が沸く。
美月は慌てる。
「師匠、泣かんといてください!」
「ねーちゃんも小さいのに、仲間やと思うたのに!」
「うちは小さない!」
「裏切り者おおお!」
「何の仲間やねん!」
美月がめだ吉の背中をさする。
「師匠は舞台の上では誰より大きいです!」
めだ吉が泣き止む。
「ほな、ねーちゃんは?」
美月が胸を張る。
「うちは声が大きい!」
めだ吉が客席を見る。
「そこは全員知っとる」
大爆笑。
美月は笑いが収まるまで待った。
絹代から教えられた「間」を思い出していた。
めだ吉が小さく頷く。
◇
アホの大先生に、三回聞き間違えられます
美月が企画書を広げる。
「この食堂と町工場を、うちらが救います!」
ぽん太が耳へ手を当てる。
「何を買うんや?」
「救うんです!」
「酢を買う?」
「町工場を救う!」
「猫工場を祝う?」
「猫も祝いも関係ない!」
ぽん太が新平へ言う。
「この姉ちゃん、何言うてるか分からんな」
美月が叫ぶ。
「大先生が聞き間違えとるだけや!」
客席では、西日本在住の仲間たちが笑っていた。
西川彩香。
白浜麻衣。
春日美咲。
迫田澪香、迫田澄香。
三好さつき。
大西結月。
遥室長と隼人補佐官。
さらに美月の父・真人、母・春菜、祖父・清一、祖母・花。
彩香は涙を拭きながら言う。
「美月、完全に転がされとるやん!」
麻衣は手を叩く。
「でも美月さん、楽しそうやねえ」
美咲は、ベテランたちが客席の反応を見て台詞の速度を変える様子へ感心していた。
迫田ツインズは小声で話す。
「稽古で見た流れと違うね」
「でも、美月がちゃんと返してる」
さつきは、舞台全体の間と視線の使い方を静かに見つめる。
結月は岩造の動きを見て、
「受け身がうまい」
と、別の角度から感心していた。
真人は、誰より大きな声で笑っている。
美月が舞台上から、その笑い声に気づく。
一瞬、客席の父をにらむ。
ぽん太がすぐに拾った。
「姉ちゃん、誰見て怒っとるんや?」
「うちのおとーちゃんです!」
「舞台中に家庭問題を持ち込むな!」
「大先生に言われたない!」
真人の笑い声が、さらに大きくなった。
◇
まどか、舞台上で引き抜かれます
美月は食堂の入口へ観覧車を置こうとする。
佳乃は暖簾を半分に切ろうとする。
ぽん太は三千万円を三千円と聞き間違える。
岩造は機械を直すと言いながら部品を一つ余らせる。
めだ吉はカウンターの向こうで見えなくなる。
まどかは、それらを一つずつ処理して物語を前へ進めていく。
新平は、台本にない一言を発した。
「まどかちゃん。うちの一座へ入らへんか?」
まどかが固まる。
「今、舞台上で勧誘します?」
美月が慌てる。
「うちらのバランサーを引き抜くな!」
佳乃が真顔で尋ねる。
「年間契約ですか。出演料と拘束日数は?」
まどかが叫ぶ。
「本人抜きで移籍交渉すな!」
めだ吉が木箱の上から言う。
「わしと同じくらいの身長の役者も募集中や」
まどかは答える。
「全然同じやありません」
「心の身長や!」
「意味分かりません!」
客席が大きく沸いた。
◇
ポコポコ親方に、台詞まで飛ばされます
岩造の見せ場。
舞台用の盆を頭へ当てる。
ポコ。
ポコ。
ポコ。
客席から手拍子。
岩造は予定より一回多く叩く。
美月は次の台詞を待つ。
さらに一回。
ポコーン。
美月の頭から、台詞が消える。
岩造が盆を外す。
「次、ねーちゃんやで」
美月は正直に言った。
「今ので台詞飛びました!」
客席が爆笑する。
まどかが小声で教える。
美月が思い出そうとした瞬間、岩造がもう一度盆を鳴らした。
「思い出した記念や!」
「また飛ばすな!」
佳乃は舞台袖の進行担当者が出している時間超過の札を見る。
「現在、九分三十七秒超過しています」
まどかが小声で言う。
「舞台上で進行管理せんでええ」
ぽん太が聞きつける。
「九分三十七秒、何が?」
「公演時間の超過です」
ぽん太は客席へ向く。
「皆さん。今から九分三十七秒、黙ってください」
美月が叫ぶ。
「笑劇を止めるな!」
◇
絹代師匠、本番では美月まで更地にします
悪徳開発業者が、町工場と食堂を馬鹿にする。
絹代が静かになる。
満員の客席から、
「来るで」
という期待のざわめきが広がる。
絹代は、はにかんだ笑顔で悪徳業者へ近づく。
「今、何て言いはりました?」
悪徳業者が繰り返す。
二秒の沈黙。
美月は、稽古で教わったことを思い出す。
すぐに口を挟まない。
絹代の沈黙を待つ。
客席が待つ。
そして啖呵が始まる。
工場を馬鹿にしたこと。
食堂を古いと言ったこと。
金だけで町を測ったこと。
人情を一円も理解していないこと。
絹代の言葉は止まらない。
さらに話は、突然「トリオ・ザ・大阪」の過去へ飛んだ。
「それになあ! そこの大声の姉ちゃん!」
美月が自分を指さす。
「うちですか?」
「三千円を三万円にした伝票、ほんまか!」
「漫才のネタです!」
佳乃が横から答える。
「実際の伝票でも、桁を間違えたことがあります」
「けちのん、余計な証言すな!」
絹代は佳乃を見る。
「観覧車を半周にしたんは?」
「経営合理化案です」
「子どもの夢を経費削減すな!」
「はい!」
今度は佳乃まで素直に返事をする。
「みかんで出演料払おうとしたんは?」
佳乃は答える。
「ビタミン補給を兼ねた現物支給です」
絹代が机を叩く。
「難しい言葉でケチをごまかすな!」
美月が思わず言う。
「師匠、そこはうちもずっと言うてます!」
絹代は美月へ顔を向ける。
「あんたは黙っとき!」
「何で味方したうちまで怒られるんですか!」
絹代は美月へ近づいた。
「あんた、後で楽屋来なさい」
「舞台より怖いやつや!」
客席では、春菜が真人へ言う。
「美月、本当に怒られている顔をしてるわね」
真人は頷く。
「あれは演技ちゃうな」
清一も笑う。
「子どもの頃と同じ顔や」
祖母・花だけが、
「美月、頑張りや」
と小さく声援を送っていた。
絹代は啖呵を終える。
笑顔へ戻る。
肩をすぼめる。
「ああ、怖かった。うち、大きな声出す人苦手やねん」
美月は、すぐには突っ込まなかった。
一拍。
客席が安心したところで叫ぶ。
「一番大きい声出してたん、師匠ですやん!」
大爆笑。
舞台袖の新平が、わずかに頷いた。
絹代の目元も笑っていた。
◇
笑った後には、ちゃんと人情が残ります
物語は終盤へ入る。
大学と町工場による共同開発。
若い学生の発想。
職人たちが積み重ねてきた技術。
地域の人々が集まる食堂。
悪徳業者も、自分の父親がかつてこの工場で働いていたことを知り、考えを改める。
工場は小さな試作品作りから再出発する。
食堂も、学生と職人が集まる交流の場として残ることになる。
笑い続けていた客席が、少し静かになる。
美月が話す。
「新しい物を作るいうんは、古い物を全部壊すことやない。今ある技術や、人のつながりを、次へ渡すことも未来づくりや」
佳乃が続ける。
「必要な物へは、きちんとお金を使う。働いた人へ正当な対価を払う。それができて初めて、技術も店も次へ残せます」
まどかが工場と食堂を見渡す。
「人が集まる場所が残ったら、また新しい縁が生まれる。工場も食堂も、一人では続けられへんのやな」
温かな拍手が起こる。
しんみりした空気の中、ぽん太が前へ出た。
「わしも一つ、分かったことがある」
新平が警戒する。
「何が分かった?」
「三千万円の定食は、結局出えへんのか?」
「最後まで、それか!」
客席が再び爆笑する。
岩造が修理した椅子へ座る。
椅子が横へ崩れる。
岩造は床へ寝転びながら叫ぶ。
「壊れてへん! 昼寝しやすなっただけや!」
暗転。
幕が下りる。
美月、佳乃、まどかは、満員の客席から送られる拍手を全身で受け止めた。
◇
終演後、三人は動けません
舞台袖へ戻った瞬間、美月は床へ座り込んだ。
「台本どおりやった場面、半分もなかったぞ!」
まどかも壁へ背を預ける。
「一個のボケが終わる前に、別のボケが入ってくる。元へ戻そうとしたら、師匠がまた泣き出す」
佳乃は腕時計を見る。
「予定より十四分十二秒延びました」
美月が驚く。
「そんな延びたん?」
「絹代師匠の啖呵が、稽古より三分四十八秒長うなっています」
そこへ絹代が、はにかみながら入ってくる。
「ごめんなあ。お客さんがよう笑うてくれはったから、つい長うなってしもて」
美月は少し後ろへ下がる。
「うち、ほんまに楽屋へ呼び出されたんですか?」
絹代は笑う。
「それは芝居の話やがな」
美月が胸をなで下ろす。
絹代は続けた。
「でも、伝票の話は後で聞かせてもらおかな」
佳乃が鞄を開く。
「当時の資料があります」
「けちのん、出すな!」
◇
楽屋でも、小っちゃい師匠は泣きます
楽屋には、めだ吉、ぽん太、岩造、新平も集まってきた。
めだ吉は鏡前の高い椅子へ座ろうとする。
足が届かない。
美月が手を貸そうとすると、めだ吉は首を横へ振った。
「自分で座れる」
小さな踏み台を持ってきて、椅子へよじ登る。
美月は感激したまま見つめる。
めだ吉が鏡越しに言う。
「何や?」
「楽屋でも、小っちゃい師匠やな思うて」
めだ吉の顔がくしゃくしゃになる。
「また小さい言うたあああ!」
「泣かんでください!」
「本番終わったから、もう優しゅうしてくれへんのや!」
「本番中より面倒になっとる!」
めだ吉は急に泣き止まる。
「今の返しもええ」
美月が頭を抱える。
「どこからどこまで芸なんですか!」
「わしにも分からん」
◇
アホの大先生は、二十六年前の領収書を持ってきます
ぽん太は、古い紙袋を佳乃の前へ置いた。
「佳乃ちゃん。これ、経費で落ちるか見てくれ」
佳乃が一枚を取る。
「日付が二十六年前です」
「大事に置いてた」
「但し書きが“人生勉強代”です」
「よう勉強したからな」
「金額が水でにじんで読めません」
「わしも読めへん」
佳乃は領収書を袋へ戻した。
「確認不能です」
ぽん太は美月を見る。
「この子、ほんまに厳しいな」
美月が答える。
「せやから、けちのん言われとるんです」
佳乃が美月を見る。
「誰が呼んでるんです?」
美月は視線をそらした。
ぽん太は領収書を取り戻す。
「ほな、来年また持ってくるわ」
「年月を重ねても、確認可能にはなりません」
◇
ポコポコ親方の弁償は、三人割りにはできません
岩造は、へこんだ盆を抱えていた。
舞台監督が言う。
「岩造さん、その盆は弁償ですよ」
岩造は美月へ盆を渡す。
「客演三人で割ったら安いやろ」
佳乃が即答する。
「原因者負担です」
「若いのに、しっかりしとるな」
「褒めても負担割合は変わりません」
美月が岩造へ尋ねる。
「師匠、頭痛ないんですか?」
「頭は大丈夫や」
「盆が心配です」
「若い子は、もっと人を心配せえ!」
清一が後から楽屋へ入ってきて、へこんだ盆を見る。
「金属は叩けば何でも直るいうもんやない」
岩造が胸を張る。
「ワシの舞台では、大体直る」
清一が真顔で答える。
「現実では悪化する」
佳乃が横で強く頷いた。
◇
三人とも筋がいい
ひとしきり笑った後、座長・新平が三人へ向き直った。
「三人とも、初めてにしてはようやった」
美月の顔が明るくなる。
「ほんまですか?」
「美月ちゃんは、舞台へ出た瞬間に空気を変えられる。声も表情も大きいし、予定外のことを言われても逃げへん」
美月は頭を下げる。
新平は続けた。
「前半は、自分から笑いを取りに行きすぎてた。でも後半は、相手の間を待てるようになってた。絹代さんの後の一拍、あれはよかった」
美月は絹代を見る。
絹代は、はにかみながら頷いた。
「ちゃんと待てたね。うちの言うたこと、すぐ使えてた」
美月は感激する。
「ありがとうございます!」
新平は佳乃を見る。
「佳乃ちゃんは、真顔の一言が強い。舞台上で一人だけ、ほんまに経理監査しとるように見える。それが武器や」
ぽん太が言う。
「せやから、ほんまの領収書持ってきた」
新平は笑う。
「ただし、本番中に時間を秒単位で計算するんは、ほどほどにな」
佳乃は真剣に答える。
「改善します」
次はまどか。
「まどかちゃんは、相手の台詞をよう聞いとる。誰かが暴走したら止める。話が脱線しても、客に分かる形で元へ戻せる。一座には、こういう役者が絶対必要や」
まどかは少し照れながら頭を下げる。
「ありがとうございます」
めだ吉も、踏み台の上から三人を見た。
「三人とも筋がええ。失敗しても、その失敗を笑いに変えられる」
美月が言う。
「うち、台詞飛んだって正直に言うてしまいました」
「黙って固まるより、よっぽどええ。舞台では、起きたことをなかったことにするより、使うた方が強い」
岩造は三人の肩を順番に叩いた。
「また一緒に舞台やろうや! 次は盆二枚使うたる!」
佳乃が即答する。
「盆をへこませない演目でお願いします」
絹代は三人へ温かい茶を渡す。
「三人とも、ちゃんと相手の話を聞ける子やから、一緒にやって楽しかったわ」
美月が尋ねる。
「ほんまに、また出てもええんですか?」
新平が笑った。
「また役に合う話があったら、声かける。こっちも一緒にやりたいと思うてる」
三人は顔を見合わせる。
そして、そろって深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
美月の声が、また大きい。
絹代が耳を押さえる。
「次までに、声量だけ一段下げてきてな」
◇
観劇組も、笑いながら楽屋へ来ます
終演後、観劇していた仲間たちも楽屋へ案内された。
彩香は美月の肩を叩く。
「美月、舞台の端から端まで、きれいに転がされとったな!」
「転がされとったんちゃう。胸借りとったんや!」
「床まで借りとったで」
麻衣は三人へ微笑む。
「いっぱい笑うたのに、最後はちょっと泣きそうになったよ。温かい舞台やったねえ」
美咲は感心している。
「アドリブが多いのに、物語の大切な部分は崩れないのですね」
澪香が言う。
「美月、めだ吉師匠が泣き出した時、本当に困ってたよね」
澄香も笑う。
「最初、完全に信じてた」
美月は反論する。
「あれ、目の前でやられたら本気にするって!」
さつきは絹代へ丁寧に頭を下げる。
「啖呵へ入る前の沈黙が、とても印象的でした。客席全体が次の一言を待っていました」
絹代は、はにかむ。
「いややわぁ。そんな真面目に見られたら恥ずかしいですやん」
結月は岩造へ尋ねる。
「盆を頭へ当てる角度は、毎回同じですか?」
岩造は胸を張る。
「その日の頭の調子や!」
隼人補佐官は腕時計を見る。
「十四分延長しましたが、途中で止められる空気ではなかったですね」
遥室長は三人へ微笑む。
「よく頑張りました。普段とは違う舞台で、三人とも自分の役割を果たしていました」
美月は胸を張った。
「室長、うちら本丸で戦ってきました!」
「客演です。攻め込んだわけではありません」
◇
赤嶺家は、美月より師匠たちに夢中です
赤嶺家の四人も楽屋へ入ってきた。
母・春菜は美月へ言う。
「よかったわよ。いつもより、人の話をちゃんと聞いていたわね」
「普段も聞いとるわ!」
父・真人は、ぽん太へ深く頭を下げる。
「師匠、娘をおいしくしていただいて、ありがとうございました」
美月が叫ぶ。
「料理みたいに言うな!」
真人は管理職らしい口調で本番を分析する。
「前半は、自分から笑いを取りに行きすぎていた。中盤から相手の間を待てるようになった。絹代師匠に追い詰められる表情は、非常に自然だった」
「あれは、ほんまに怖かったんや!」
「せやから自然やったんやな」
祖父・清一は岩造と金属加工の話を始める。
祖母・花は、めだ吉へ丁寧に挨拶した後、美月の手を握った。
「子どもの頃、一緒に見とった舞台へ、美月が立つとは思わんかったわ」
美月は少しだけ言葉を失う。
「おばあちゃん……」
花はうれしそうに笑った。
「ほんま、立派やったで」
美月の目が潤む。
花は続ける。
「でも、ぽん太師匠の方がよう笑うたわ」
「最後に身内から刺すな!」
楽屋が、また大きな笑いに包まれた。
◇
「また一緒にやろな」
帰り支度をしている時、まどかが楽屋の壁へ目を止めた。
座員たちの名札が並ぶ中に、三枚の新しい札が加わっている。
赤嶺美月
谷口佳乃
坂井まどか
正式な木札ではない。
厚紙へ手書きされた仮の名札。
その横には、
「客演・また一緒にやろな」
と書かれていた。
まどかは札を見つめる。
「これ、持って帰ってええんかな」
佳乃が答える。
「劇場備品の可能性があります。勝手に持ち出したらあきまへん」
美月は笑った。
「今は、そういう話ちゃうやろ」
三人は、誰もいなくなった舞台へ戻る。
食堂のセット。
へこんだ盆。
横へ倒れた椅子。
高いカウンターの横に置かれためだ吉用の木箱。
少し前まで、満員の観客が笑っていた場所。
美月は舞台中央へ立った。
「うちら、ほんまにここへ立ったんやな」
まどかも暗くなった客席を見る。
「子どもの頃、テレビで見とった舞台の中へ、自分らが入ったんや」
佳乃は静かに舞台へ頭を下げる。
「次に呼んでもらえた時は、今日よりもっとええ仕事をせなあきまへんな」
その時、舞台袖からぽん太の声が飛ぶ。
「誰か、わしの弁当知らんか!」
三人が振り返る。
机の下に弁当箱がある。
佳乃が拾った。
「ここにあります」
ぽん太が走ってくる。
「よかった! 危うく今日の出演料が赤字になるところやった!」
美月が突っ込む。
「最後まで金の話かい!」
佳乃は弁当箱の札を見る。
「これ、ぽん太師匠の物やありません。差し入れ用です」
ぽん太は一瞬黙った。
「ほな、見つからんかったことにして」
佳乃は弁当を取り上げる。
「できません」
まどかが笑う。
「佳乃、初日から一座へなじみすぎや」
舞台上へ、三人とベテラン座員の笑い声が響く。
ベタは、古いのではない。
同じ型で何十年も観客を笑わせ続けた結果、伝統になったのである。
「トリオ・ザ・大阪」は、本物の大阪大衆喜劇の舞台で転がされ、泣かされ、怒鳴られ、鍛えられた。
そして最後には、憧れのベテランたちから、
「三人とも筋がいい」
「また一緒に舞台をやりましょう」
という、何よりうれしい言葉を贈られた。
劇場を出る時、美月は大きな看板を何度も振り返る。
「また、ここへ出たいな」
まどかが答える。
「次は、今日より相手の台詞を聞かなあかんな」
佳乃も頷く。
「公演時間も守りたいですな」
美月は笑った。
「そこは、うちらだけでは無理やろ」
背後から、絹代の声が飛ぶ。
「美月ちゃん!」
三人が振り返る。
劇場入口には、絹代、新平、めだ吉、ぽん太、岩造が並んでいた。
絹代は、はにかみながら手を振る。
「また一緒に舞台やりましょうね」
めだ吉は木箱の上から手を振っている。
ぽん太は、誰の物か分からない差し入れ袋を抱えている。
岩造は、へこんだ盆を記念品のように掲げている。
新平は、そんなベテランたちを呆れた顔で見守っていた。
美月、佳乃、まどかは、そろって深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
千日前の夜。
三人の声と、劇場から聞こえる次の公演の笑い声が重なる。
大阪中を笑いの渦へ包み始めた「トリオ・ザ・大阪」は、この日初めて、本物のコテコテに転がされる幸せを知った。
美月は歩きながら、絹代からもらった言葉を思い返す。
自分だけがおもろうなろうとしたらあかん。
相手を一番おもろく見せたら、自分も一緒におもろくなる。
美月は、まどかと佳乃を見る。
「次の漫才、ちょっと変われる気がするわ」
まどかが笑う。
「まず、人の台詞を最後まで聞くところからやな」
佳乃も続ける。
「声量も一段下げてください」
美月が千日前の夜空へ叫んだ。
「そこは無理やー!」
背後の劇場から、めだ吉の泣き声が聞こえる。
「また大きい声で、わしをびっくりさせたあああ!」
美月は振り返った。
「まだ泣くんですか!」
この日最後の笑いが、にぎやかな大阪の夜へ広がっていった。




