誰もベンチじゃない! ――室戸岬・黒潮フルスイング教室と、海風に消えた“全員野球旗”
戦隊ヒロインプロジェクト四国総局には、局長がいなかった。
固定センターもいなかった。
四国四県を統括する組織なのに、本部は大阪府内のヒロ室西日本分室にある。
四国総局代理局長を務める藤堂隼人補佐官には、人事権がない。
予算決裁権もない。
香川、愛媛、徳島、高知の四人へ命令する権限もない。
しかし、問題が起きた際の責任だけは四県分ある。
隼人は、四国総局の組織図を見るたびに思っていた。
ないものは多い。
責任だけは、あり余っている。
それでも、阿波池田、小豆島と続いた巡回イベントは大成功。
四国各地からの出演依頼は、局長やセンターが決まるまで待ってはくれなかった。
次なる開催地は、高知県室戸市。
四国東南端に位置し、雄大な太平洋と黒潮に向き合う町。
白亜の灯台。
荒々しい岩礁。
海と大地の長い営みを感じさせる独特の地形。
海洋深層水や漁業など、海の恵みとともに暮らしてきた人々。
穏やかな瀬戸内海とは異なる、力強く豪快な風景が広がっている。
高知代表・神代なつめは、室戸開催を聞いた瞬間に椅子から立ち上がった。
「ついに高知開催ぜよ!」
隼人は嫌な予感を覚えながら答えた。
「今回は、なつめさんが地元案内担当です」
「地元案内担当兼センターぜよ!」
「兼任しません」
「高知で一番人気がある者が真ん中に立つがは、自然の摂理やろ!」
「四国総局に固定センターはいません」
「ほんなら、室戸限定センター!」
「地域限定制度もありません」
「一日センター!」
「日替わり制度もありません」
なつめは腕を組んだ。
「ないない尽くしぜよ」
「それは発足時から分かっています」
四国総局の次なるイベントは、始まる前からセンター争いの危険性を抱えていた。
◇
仕事も野球も、どちらも全力投球
今回のスポンサーは、高知県を主な営業基盤とする地域密着型の地方銀行。
個人の暮らし。
地域企業の挑戦。
地元産業。
観光。
自治体との取り組み。
長年にわたり、金融を通じて高知県の人々を支えてきた銀行である。
同行には、伝統ある社会人野球部があった。
選手たちは、野球だけをしているわけではない。
朝になれば、銀行員として出勤する。
窓口で顧客へ応対する者。
営業先を回る者。
地域企業の相談に乗る者。
本部で融資や事務を担当する者。
それぞれが職場で責任を果たし、勤務後にグラウンドへ集まる。
試合で本塁打を打った翌朝も出勤。
完封負けした翌朝も出勤。
大会で敗退して落ち込んでいても、顧客の前では銀行員として誠実に仕事をする。
彼らが大切にしているのは、
「野球人である以前に、社会人であれ」
という考え方だった。
挨拶。
時間厳守。
道具を大切にすること。
職場への感謝。
地域への恩返し。
試合へ出る選手だけでなく、ベンチから声を出す者、相手を分析する者、道具を準備する者も含めて一つのチーム。
一人のスターへ頼るのではない、
「一人ひとりが主役の全員野球」
を掲げていた。
隼人は企画会議で説明した。
「銀行野球部の全員野球と、四国総局のセンター不在――つまり全員ヒロインという方針には、共通するものがあります」
結月が頷く。
「誰か一人へ依存せず、全員が自分の役割を果たすということですね」
さつきも続ける。
「イベントの理念として、非常に分かりやすいと思います」
なつめは手を挙げた。
「全員が主役なら、全員四番打者でええが?」
隼人は即答した。
「野球には打順があります」
「四国総局は全員センターでも成立しちゅうやろ」
「センター不在です。全員センターではありません」
「言い方が違うだけぜよ」
「大きく違います」
みーちゃんが笑う。
「隼人さん、最近ずっと同じ説明をしてるね」
「四人が理解してくださらないからです」
◇
野球好きの助っ人二人
室戸イベントへ参加する四国総局のヒロインは四人。
高知代表・神代なつめ。
徳島代表・三好さつき。
愛媛代表・越智美晴、通称みーちゃん。
香川代表・大西結月。
さらに野球に詳しい助っ人として、西川彩香と江波のどかが加わる。
彩香の父・西川剛史は、かつて社会人野球で活躍した外野手。
社会人日本代表にも選ばれた経験を持ち、アマチュア野球界では比較的よく知られた選手だった。
ただし彩香は、父の現役時代を直接知らない。
彩香が生まれた時には、剛史はすでに選手を引退し、コーチになっていた。
幼い彩香が知っている父は、ユニフォーム姿で試合へ出る選手ではない。
練習用のノックバットを持ち、若手選手へ外野守備を教えるコーチだった。
それでも父の現役時代の話は、地元・姫路の社宅で嫌というほど聞かされてきた。
社宅の夏祭り。
会社の運動会。
近所の食堂。
父の元同僚と顔を合わせるたび、
「剛史さんは守備範囲が広かった」
「肩も強かった」
「日本代表へ選ばれた時は、会社中が盛り上がった」
「外野の頭を越されたと思った打球を、最後に追いついて捕った」
と、同じような思い出話を何度も聞いた。
彩香が小学生の頃には、
「それ、前にも聞きました」
と言えるほどだった。
父自身は、現役時代を必要以上に自慢しなかった。
ただし社会人野球についてはよく話した。
試合へ出た選手だけでなく、職場で応援してくれた人がいること。
大会期間中に仕事を代わってくれた同僚がいること。
野球部が会社の看板を背負っていること。
「野球がうまいだけでは、社会人野球の選手とは言えへん」
それが父の口癖だった。
彩香は、その影響で自然と野球好きになった。
打撃フォーム。
守備位置。
走者の動き。
投手交代。
社会人野球特有の応援。
専門家ではないが、普通のファンよりははるかに詳しい。
もう一人の助っ人・江波のどかは、かつて地元球団を熱心に応援していた元カープ女子。
自身もソフトボール経験があり、打撃や守備の基礎を理解している。
さらに柔道家として、人間の重心や足腰の使い方を見る目もある。
特に初心者へ、
「どう動けばいいのか」
を分かりやすく説明する能力に優れていた。
なつめは二人を見て言った。
「彩香さんは野球家族、のどかさんは野球柔道家ぜよ!」
彩香が眉を寄せる。
「野球家族って、何やねん」
のどかも首をかしげる。
「野球柔道家も新しい言葉じゃね」
「二人とも、うちの高知軍へ入ったらええぜよ!」
「入らへん」
「うちは広島じゃけえ」
「県は違うても、室戸では仲間ぜよ!」
その言葉だけは、二人とも否定しなかった。
◇
黒潮フルスイング教室、開幕
イベント当日。
会場は、室戸岬に近い太平洋を望む運動広場。
青い海。
白い灯台。
力強い潮風。
ステージには、室戸の地層をイメージした縞模様の巨大野球ボールが飾られている。
イベント名は、
「室戸・黒潮フルスイング教室――一人ひとりが主役の全員野球フェスタ」
さつきが、落ち着いた声で開会を告げる。
「太平洋の波と、大地の長い動きが形作った室戸。海とともに生きてきたこの町で、今日は仕事にも野球にも全力で取り組む銀行野球部の皆さんと、子どもたちのための野球教室を開催します」
続いて、なつめがマイクを握る。
「室戸は海も風も人も、全部が豪快ぜよ! 今日は遠慮せんと、思い切り野球を楽しむがや!」
会場から大歓声。
「なつめー!」
「お帰りー!」
「場外まで飛ばしてー!」
なつめは胸を張った。
「聞いたかえ! 完全にうちがセンターぜよ!」
舞台袖で、隼人が大きな札を掲げる。
「固定センターではありません」
なつめは太平洋の方を向いた。
「海がきれいぜよ」
「意図的に見ないでください!」
続いてさつきが紹介されると、保護者や年配の観客から大きな拍手が起きる。
鳴門出身の清楚な学生キャスター。
上品で聞き取りやすい話し方は、高知でも好評だった。
みーちゃんが小声で言う。
「なつめちゃんは子ども人気。さつきちゃんは保護者人気ね」
結月が客席を見る。
「支持する年齢層が明確に異なります」
さつきは困ったように笑った。
「選挙結果の分析ではありません」
◇
野球教室は挨拶から始まります
銀行野球部の選手たちは、いきなりボールを投げたり、バットを振らせたりはしなかった。
最初に行われたのは挨拶。
主将が子どもたちの前へ立つ。
「速い球を投げること、遠くへ打つことも大切です。でも、その前に相手の目を見て挨拶をする。人の話を聞く。使った道具は自分で片づける。それが私たちの野球の基本です」
野球部員と六人のヒロインが整列。
全員で頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
子どもたちも返す。
「よろしくお願いします!」
なつめが腕を組む。
「声が小さいぜよ! 腹から出すがや!」
子どもたちの声が大きくなる。
「よろしくお願いします!」
結月が補足する。
「声の大きさだけでなく、相手の顔を見てください」
さつきも言う。
「言葉の最後まで、ゆっくり伝えましょう」
みーちゃんは、声が出せずにいる女の子へ近づく。
「小さな声でも大丈夫だよ。一緒に言ってみようか」
女の子は、みーちゃんと一緒に挨拶する。
四人の指導方法は違う。
なつめは勢い。
結月は基本。
さつきは伝え方。
みーちゃんは安心感。
誰か一人が全部を教えるのではなく、それぞれが違う形で子どもたちを支えていた。
◇
「あの西川剛史さんの娘さんですか」
準備運動の途中。
彩香は、銀行野球部のベテランコーチと話していた。
「私の父も、社会人野球におったんです」
コーチが尋ねる。
「お父さんのお名前は?」
「西川剛史です。外野手でした」
コーチの目が大きくなる。
「西川剛史さん?」
「はい」
「あの西川剛史さんの娘さんですか」
彩香は少し戸惑う。
「父を知ってはるんですか?」
「もちろんです。私が若い頃、何度か大会でプレーを見ました。社会人日本代表にも選ばれたでしょう。守備範囲が広くて、打球への一歩目が速い外野手でした」
近くでストレッチしていた若手選手が顔を上げる。
ベテランコーチは若手へ言った。
「おい、彩香さんのお父さん、元日本代表選手だったぞ」
「本当ですか?」
「アマチュア球界では有名な外野手だった」
若手選手たちが、一斉に彩香を見る。
彩香は慌てて両手を振る。
「選手やったのは父です。うちは普通の野球好きですから」
「現役時代の話は、よく聞かれたんですか?」
若手選手に尋ねられ、彩香は苦笑した。
「生まれた時には、もう引退してコーチやったんです。現役の父は映像でしか知りません」
「そうなんですね」
「でも姫路の社宅に住んでたから、父の元同僚や会社の人に散々聞かされました」
彩香は、少し父の声をまねる。
「“お父さんは昔、守備範囲が広かったんやぞ”とか、“日本代表で海外へ行ったんやぞ”とか。夏祭りでも運動会でも、会う人みんな同じ話をするんです」
コーチが笑う。
「それだけ皆さんの記憶に残っていたということです」
「子どもの頃は、“またその話か”と思ってました。でも今考えたら、父一人の思い出やなくて、会社や社宅の皆さんの思い出でもあったんでしょうね」
彩香は野球部員たちを見る。
「父は、野球部は応援してくれる職場の人がおって初めて成り立つと言うてました。試合へ出る人間が、会社の仕事で手を抜いたらあかんって」
ベテランコーチは静かに頷いた。
「西川さんらしいですね」
若手選手が感心したように言う。
「彩香さんが野球に詳しい理由が分かりました」
「小さい頃から、食卓でも社宅でも野球の話ばっかりでしたから」
「外野守備も詳しいんですか?」
「父の話を聞いただけですけど、打球へ一歩目を切る前に、投手の球筋と打者の構えを見ろとは言われました」
コーチが笑う。
「それは本格的ですね」
なつめが横から割り込む。
「彩香さん、今日から高知代表の外野守備コーチぜよ!」
彩香が振り向く。
「何で県籍ごと変わるねん!」
「室戸におる間だけ貸してくれたらええやろ!」
「兵庫県民はレンタル移籍せえへん!」
若手選手たちは大笑い。
初対面だった彩香と野球部員の間に、社会人野球という共通言語ができていた。
◇
黒潮キャッチボール教室
最初の実技はキャッチボール。
相手の名前を呼ぶ。
投げる前に確認する。
胸元へ投げる。
受け取ったら返事をする。
単なる投球練習ではなく、相手を思いやる練習だった。
さつきは、相手の胸元へ正確な球を投げる。
清楚で上品な印象に反し、軸の安定したきれいなフォーム。
観客から感心の声が上がる。
みーちゃんも子どもとキャッチボールをする。
ただし投げた直後、正面カメラへ笑顔を向ける。
結月が注意する。
「美晴さん、投球相手を見てください」
「投げる時は見てるよ」
「球が手を離れきる前に、カメラへ向いています」
「長年の感覚だから」
球は不思議と相手の胸元へ収まっている。
野球部員が感心する。
「顔はカメラなのに、制球は安定していますね」
「みーちゃん、ステージでは周辺視野が広いの」
結月は子どもたちへ、脚の使い方を教える。
「腕だけで投げないでください。後ろ足で地面を押し、力を身体の中心から前へ伝えます」
元競輪選手らしい指導。
なつめは、最初から大きく振りかぶる。
「室戸岬の先まで投げるぜよ!」
隼人が止める。
「この会場も室戸岬周辺です!」
なつめの球は大きくそれ、スポンサー銀行が設置した、
「地域の未来を堅実に支えます」
という看板へ直撃した。
看板の「堅実」の部分が、わずかにへこむ。
なつめは胸を張る。
「銀行の宣伝へ協力したぜよ!」
隼人が看板を確認する。
「堅実さが物理的に損なわれています!」
◇
のどか先生と、初めてバットを握る女の子
打撃教室。
参加した子どもたちが、野球部員からバットの握り方を教わる。
その中に、一人の小学生の女の子がいた。
野球経験はない。
バットを持つのも初めて。
兄に誘われて来ただけで、本人は見学するつもりだった。
周囲の男の子たちが勢いよく素振りをする。
女の子はますます不安そうになり、バットを持ったまま動けなくなる。
のどかが近づく。
「重たい?」
女の子は小さく頷く。
「当たらないと思う」
「最初から当てんでもええよ」
「でも、みんな打ってる」
「みんなも最初は打てんかったんよ。今日は一回振ってみたら、それで十分じゃ」
のどかは女の子の足元を指した。
「足を肩くらいに開いてみんさい」
女の子が足を開く。
「そうそう。膝を少し曲げて。腕だけで振ろうとせんでええ。後ろの足で地面を押して、腰をくるっと回すんよ」
のどかはバットを持ち、ゆっくり見本を見せた。
ソフトボール経験者らしい、無駄の少ないスイング。
「バットで球を追いかけんでええ。球が来るところへ、バットの真ん中を持ってくるだけじゃ」
女の子がゆっくり素振りする。
「今のええよ」
「本当?」
「本当じゃ。ほいじゃ、同じように一回だけやってみようや」
野球部員が柔らかい球をトスする。
女の子は、後ろ足で地面を押す。
腰を回す。
バットが球を捉える。
鋭い音。
打球は低い軌道で、真っすぐ前へ飛んでいく。
初めてバットを握ったとは思えない、力強い一打。
会場から歓声。
女の子は、自分の打球が飛んだ方向を見たまま動かない。
のどかが笑う。
「打てたじゃろ?」
女の子は目を輝かせた。
「飛んだ」
「自分で飛ばしたんよ」
「もう一回やっていい?」
「もちろんじゃ」
二度目は、女の子から打席へ入る。
野球部の打撃担当がのどかへ言った。
「説明が分かりやすいですね。初めての子に、いきなり手の動きを教えると固くなるんです」
のどかは笑う。
「柔道でも、腕だけで相手を動かそうとしたら力が入るんよ。足と腰を使うところは似とるけえ」
彩香も感心する。
「ソフトボールと柔道、両方が生きとるんやな」
「難しい言葉を使わん方がええだけよ」
女の子は三球目も打つ。
打球は先ほどより遠くへ飛ぶ。
周囲の男の子たちも拍手する。
女の子の表情から、最初の不安は消えていた。
◇
結月、子ども相手に記録更新を狙います
結月は走塁教室を担当。
一塁までの最初の三歩。
身体の傾け方。
腕の振り。
ベースの手前で減速しないこと。
駆け抜けた後に安全に止まる方法。
説明は細かいが分かりやすい。
見本として走る。
元女子競輪選手らしい爆発的な加速。
あっという間に一塁を駆け抜ける。
野球部員が思わずストップウォッチを見る。
「速い……」
結月は振り返る。
「何秒でしたか?」
隼人が止める。
「記録会ではありません」
「改善点を知るには測定が必要です」
「小学生へ同じ速度を要求しないでください」
「要求はしていません。目標として示しています」
「目標が遠すぎます!」
なつめがスタートラインへ立つ。
「うちなら勝てるぜよ!」
「受けます」
「受けないでください!」
野球教室は一瞬、戦隊ヒロイン五十メートル競走へ変わりかけた。
◇
みーちゃん、一塁コーチをライブに変えます
みーちゃんは一塁コーチ。
打った子どもへ大きく手を振る。
「そのまま走って!」
「ナイスバッティング!」
「みんなも拍手してね!」
会場全体を巻き込むのがうまい。
空振りして下を向いた子にも、
「打席へ立ったことが、最初の一歩だよ。次はもっと大きく振ってみよう」
と笑顔で声をかける。
ただし、子どもが一塁へ到着するたびに撮影スタッフへ指示する。
「走者とみーちゃんが一緒に映るようにお願いね」
野球部監督が笑った。
「一塁コーチというより、応援団長ですね」
「応援されたら、いつもより速く走れるでしょ?」
「それは確かにあります」
みーちゃんは野球理論より、観客心理と舞台経験で子どもたちを走らせていた。
◇
さつき、猫の二度目の朝食を速報します
さつきは場内実況を担当。
子どもたちのプレーを、一つずつ丁寧に伝える。
転びながら打球を捕った男の子には、
「身体を投げ出しながらも、最後までボールから目を離しませんでした。見事なプレーです」
と実況。
男の子は誇らしそうに立ち上がる。
休憩時間には、子どもたちが作った室戸ニュースを読む。
一人の少年が書いた原稿は、
「今日、うちの猫が朝ご飯を二回食べました」
さつきは真剣な表情でマイクへ向かう。
「本日朝、室戸市内の住宅で、飼い猫が朝食を二度要求する事案が発生しました」
みーちゃんが突っ込む。
「事件みたいにしなくていいから!」
「飼い主によりますと、容疑猫は現在も追加の食事を要求しているとのことです」
少年は大喜び。
なつめは真顔で言う。
「食べ盛りぜよ。無罪にしたれ」
「裁判ではありません」
会場には笑いが広がった。
◇
なつめの打球が、室戸の風に負けます
地元代表のなつめは四番打者役。
打席へ立っただけで大歓声。
「なつめー!」
「太平洋まで飛ばしてー!」
なつめはバットを高く掲げた。
「黒潮を越える一発を見せるぜよ!」
隼人と野球部員が声をそろえる。
「越えさせません!」
安全な柔らかいボールが投げられる。
なつめは豪快に振り抜く。
ボールは高々と上がる。
そのまま前へ飛ぶと思われた。
だが室戸の強い海風が押し返す。
ボールはなつめの頭上を越え、打席の後方へ落ちた。
会場は大爆笑。
なつめは空を見上げる。
「室戸の風、敵なが?」
さつきが冷静に答える。
「地元の自然を敵扱いしないでください」
「高知県民のうちに逆らったぜよ!」
「風に県民意識はありません」
打球は前へ飛ばなかった。
しかし人気と笑いだけは、場外まで届いていた。
◇
誰もベンチじゃないミニゲーム
イベントの最後は、野球部員、ヒロイン、子どもたちを混ぜたミニゲーム。
勝敗は重視しない。
全員が一度は役割を持つ。
打者。
走者。
守備。
得点係。
道具係。
ベンチから声を出す者。
球を拾う者。
誰か一人だけが活躍するのではなく、全員が試合へ関わる。
銀行野球部の主将が話す。
「本塁打を打った人だけが主役ではありません。次の打者へつなぐ人、走者を進める人、一つのアウトを取る人、仲間へ声をかける人。全員がそろって野球になります」
最後の打者は、のどかに教わった女の子。
女の子は、自分から打席へ入る。
のどかが声をかける。
「最初と同じでええよ。後ろの足から腰を回すんよ」
彩香も外野から叫ぶ。
「ボールをよく見て、思い切って振って!」
トスされた球。
女の子のバットが捉える。
打球は二遊間を抜ける。
「走って!」
結月が一塁までの走り方を指示する。
みーちゃんが観客へ拍手を促す。
さつきが実況する。
「初めてバットを握った選手が、見事な一打を放ちました!」
なつめがベンチから大声を出す。
「そのまま行くぜよー!」
女の子が一塁を駆け抜ける。
会場全体から拍手。
女の子は一塁上で振り返り、のどかへ笑顔を見せる。
勝敗よりも大切なものが、そこにあった。
一人の子どもが、
「自分にもできる」
と思えたこと。
それが全員野球フェスタ最大の成果だった。
◇
海風に消えた全員野球旗
閉会式では、銀行野球部員、六人のヒロイン、参加した子どもたちの署名が入った記念旗を披露する予定だった。
白い旗。
中央には青い野球ボール。
その周囲には、
「一人ひとりが主役」
の文字。
地元の少年野球チームへ贈られる、
「全員野球旗」
だった。
ところが披露直前。
太平洋側から、強い風が吹きつける。
旗を固定していた留め具の一つが外れる。
大きな白い布が膨らんだ。
さつきが気づく。
「旗が外れます!」
次の瞬間。
旗はフレームから抜け、空高く舞い上がった。
「待つぜよー!」
なつめが走り出す。
隼人が叫ぶ。
「旗は返事をしません!」
旗は広場を越え、室戸岬方面へ流されていく。
周辺には岩場。
海岸植生。
見学用遊歩道。
無理に追えば危険だった。
銀行野球部の主将が全員を止める。
「いったん止まりましょう。まず安全確認です」
なつめが振り返る。
「見えちゅううちに走った方が早いぜよ!」
「危険な場所へ飛び込んで事故を起こせば、旗を取り戻しても意味がありません」
「けど逃げるぜよ!」
主将は静かに言った。
「野球人である以前に、社会人です」
なつめの足が止まった。
全力とは、考えずに突進することではない。
地域の自然を傷つけず、自分や仲間の安全を守り、そのうえで目的を果たすこと。
なつめは少し悔しそうに戻る。
「分かったぜよ」
隼人は感心する。
「私が止めても、いつも聞いてくださらないのですが」
結月が答える。
「日頃の信頼の差でしょうか」
「代理局長として、非常に傷つきます」
◇
外野手の娘が、風を読みます
旗の捜索は、六人のヒロインと野球部員による合同作戦となる。
さつきが地図を広げ、目撃情報を整理。
みーちゃんはイベント映像を確認する。
「最初は岬の方へ飛んだけど、途中で右側へ流されてる」
野球部の外野手が映像を見る。
「布はボールより風の影響を受けます。上空と地表で、風向きが違うかもしれません」
彩香も海と周囲の木々を見る。
父から何度も聞かされた言葉がよみがえる。
外野手は、打球だけを見るな。
投手。
打者。
走者。
風。
球場全体を見ろ。
「海側へ飛んだように見えても、風が弱まったところで内側へ戻されてるかもしれません」
ベテランコーチが頷く。
「剛史さんも、よく風を読む外野手でした」
彩香は少し照れる。
「うちは現役時代を知らないんですけどね」
「でも話は受け継いでいる」
若手外野手が彩香へ言う。
「西川さん、一緒に外野側を見てもらえますか?」
「もちろんです」
彩香は、もうイベントへ招かれたゲストではなかった。
同じ旗を追うチームの一員になっていた。
◇
白いものは、だいたい旗ではありません
結月となつめは、指定された遊歩道を左右に分かれて捜索する。
なつめが柵の向こうへ白い物を見つけた。
「旗があったぜよ!」
柵を越えようとする。
結月が衣装の襟元をつかむ。
「遊歩道から外れないでください」
「向こうに白い物がある!」
「ごみ袋です」
「遠くから見たら旗ぜよ!」
「似ていても立入禁止です」
数分後。
今度は結月が白い布を見つける。
慎重に近づく。
観光客が落としたタオルだった。
なつめが笑う。
「結月さんも間違えたぜよ!」
「旗だとは断定していません」
「絶対に旗やと思うた顔しちょった!」
「表情は捜索記録へ残りません」
「負け惜しみぜよ!」
全員野球旗を探しているのに、二人だけは白い物発見競争を始めていた。
◇
のどかが聞いた、風の中の音
捜索が続く。
太平洋の波。
岩へ当たる水音。
強い海風。
観光客の声。
その中で、のどかが立ち止まった。
「ちょっと待って」
全員が振り返る。
のどかは耳を澄ませる。
風が吹くたびに、
ばたっ。
ばたっ。
何か布のような物が、硬い場所へ当たる音。
「向こうから、旗がはためくような音がせん?」
野球部員たちも耳を澄ませる。
ばたっ。
ばたっ。
音の方向へ、全員で慎重に進む。
旗は岩場へ落ちたのではなかった。
遊歩道の先。
安全柵の外側へ、旗の端が引っかかっている。
なつめが身を乗り出す。
「見つけたぜよ!」
結月が腰を支える。
「身体を出さないでください」
旗は手の届かない位置にある。
無理に引けば、引っかかっている端が外れ、海側へ落下する可能性がある。
野球部主将が施設スタッフへ連絡。
長い回収棒。
安全ロープ。
保護具。
必要な道具を借りる。
誰も勝手には動かなかった。
◇
一人ひとりの仕事が、旗へつながります
回収作戦が始まる。
若手外野手が長い回収棒を操作。
別の選手が安全ロープを保持する。
結月が旗の揺れを観察する。
「強く引けば外れます。風が弱まる瞬間を待ってください」
彩香は海面と草木を見る。
父から聞いた外野守備の話を思い出しながら、風の間隔を読む。
「今の風が過ぎた後、一瞬弱くなります」
さつきが全員へ分かりやすく指示を伝える。
「彩香さんの合図で、棒を右へ動かしてください。ほかの方は位置を維持してください」
みーちゃんは、近くの観光客や子どもたちを安全な場所へ誘導する。
「ここから先へ入らないでね。安全な場所から応援しよう」
のどかは、布の音を聞きながら位置を伝える。
「もう少し下。そこから右じゃ!」
なつめは、回収棒を操作する選手の腰を後ろから支える。
「絶対に離さんぜよ!」
風が強く吹く。
旗が大きくはためく。
全員が待つ。
風が弱まる。
彩香が叫ぶ。
「今です!」
回収棒が動く。
棒の先が、旗の端へかかる。
選手が慎重に引く。
結月が旗の動きを読む。
彩香が次の風を確認する。
さつきが全体へ指示。
のどかが位置を修正。
みーちゃんが周囲を守る。
なつめが選手を支える。
少しずつ、白い布が遊歩道側へ戻ってくる。
最後は全員で旗を受け止めた。
全員野球旗には、少し土と潮の汚れが付いていた。
しかし、
「一人ひとりが主役」
の文字も、子どもたちの署名も無事だった。
誰か一人の必殺技ではない。
なつめ一人の力でもない。
結月一人の脚力でもない。
彩香一人の知識でもない。
のどか一人の聴覚でもない。
全員が自分の仕事を果たし、それを次の人へつないだからこそ、旗は戻ってきた。
◇
助っ人から、同じチームの仲間へ
旗を持って会場へ戻る途中。
若手外野手が彩香へ言った。
「風の弱まる瞬間、ぴったりでした」
「父から聞いた話を思い出しただけです」
ベテランコーチが笑う。
「受け継いだものを、必要な場所で次の人へ渡す。それも立派な力ですよ」
彩香は、少しだけ父のことを考える。
現役時代は知らない。
それでも父の野球は、社宅の人たちの記憶や、何度も聞かされた話の中へ残っている。
そして今日、その話が一本の旗を助けた。
別の選手は、のどかへ頭を下げる。
「音に気づいてくれなければ、旗は見つかりませんでした」
「たまたま聞こえただけよ」
のどかは照れたように笑う。
すると、打撃を教えた女の子が走ってくる。
「のどか先生!」
「先生いうほどじゃないよ」
「またバッティング教えて」
のどかは少し考えた。
「次は守備もやってみる?」
「やる!」
「ほんなら、次に会うまでにキャッチボールの練習もしときんさい」
「うん!」
なつめが彩香とのどかの肩を抱く。
「今日から二人も高知の仲間ぜよ!」
彩香が笑いながら反論する。
「県籍は変えへんで」
のどかも言う。
「うちは広島じゃけえ」
なつめは二人の肩をさらに強く抱く。
「県は違うても、仲間ならええぜよ」
今度は、誰も否定しなかった。
◇
汚れたままの旗を掲げます
閉会式。
回収された全員野球旗を見たスタッフは、新しい旗を用意し直そうとする。
だが子どもたちが止める。
「その旗がいい」
「みんなで取り戻した旗だから」
銀行野球部の主将も頷く。
「この汚れも、今日の全員野球の証しです」
少し土と潮の跡が残る旗が、そのまま掲げられる。
主将が子どもたちへ語る。
「私たちは野球だけをしているのではありません。銀行員として働き、地域の皆さんに支えていただきながら野球を続けています」
野球部員の後ろには、職場の同僚。
家族。
地域の応援者。
「試合へ出る選手だけが主役ではありません。打てなくても、守れなくても、その日にできる役割があります。仲間へ声をかけることも、道具を整えることも、仕事で野球部を支えることも、すべてチームの力です」
そして、四国総局の四人を見る。
「四国総局も、固定されたセンターを置かず、四人全員が代表だと聞きました」
さつきが答える。
「はい。私たちは性格も得意分野も違います。それでも誰か一人だけでは、四国四県をつなぐことはできません」
結月が続ける。
「今日も、一人だけでは旗を取り戻せませんでした」
みーちゃんは笑顔を見せる。
「一番長くカメラへ映っていた人だけが、主役ではないということですね」
彩香が小声で突っ込む。
「自分で言うんや」
のどかも頷く。
「野球もヒロインも、目立つ人だけで成り立つもんじゃないんじゃね」
なつめは子どもたちへ向かって拳を上げた。
「今日の四番は、みんなぜよ!」
主将が笑う。
「それなら、私たちも全員四番です」
隼人が小声で言う。
「野球の打順としては成立しませんが、今回は黙っておきましょう」
会場から温かな拍手が起こった。
◇
全員が入る写真は、横に長すぎます
閉会式後。
銀行野球部員、六人のヒロイン、参加した子どもたちは、太平洋を背に記念撮影を行う。
四国総局はセンター不在。
そこで全員横一列に並ぼうとする。
写真係が困った。
「横一列では全員入りません!」
みーちゃんが自然にカメラ中央へ移動。
なつめも地元代表として前へ出る。
結月が列を整えようとする。
さつきは子どもたちを中央へ呼ぶ。
彩香とのどかも人の流れに押され、位置が変わる。
隼人が声を上げる。
「四国総局は全員横一線です!」
写真係が答えた。
「横一線にすると、左右の端が隣の市へ入ります!」
最終的には、全員野球旗と子どもたちを中央へ置き、銀行野球部員とヒロインが周囲を囲む形となる。
主役は中央の一人ではない。
写真に写る全員。
そして写真には写っていない、職場や家族、地域の人々も含めた一つのチームだった。
撮影後、銀行野球部の主将は、四国総局の四人へ一個のボールを渡す。
ボールには、
「全員が主役。地元とともに」
と書かれている。
主将が言った。
「私たちは、銀行員としても野球部員としても、もっと地域の皆さんから応援していただける存在を目指します」
さつきが答える。
「四国総局も、四県の皆さんに身近なチームだと思っていただけるよう努力します」
結月も頷く。
「イベントで目立つだけでなく、普段の活動と地域への向き合い方を大切にします」
みーちゃんが続ける。
「応援されるには、まず私たちが地域の人を大切にしないとね」
なつめはボールを握りしめる。
「次に室戸へ来る時も、一緒に野球するぜよ!」
主将が手を差し出した。
「約束です。今度は、もっと多くの子どもたちを呼びましょう」
なつめが力強く握手する。
その後ろで彩香は、ベテランコーチへ頭を下げる。
「父のことを覚えてくださっていて、ありがとうございました」
「今度お会いした時に伝えてください。娘さんも今日、立派に野球の縁をつないでいました、と」
彩香は、少し照れながら笑った。
父の現役時代を自分は知らない。
それでも、父の野球は多くの人の記憶に残り、今日の室戸までつながっていた。
のどかの手を、あの女の子が握る。
「のどか先生、絶対また来てね」
「分かった。次は守備練習じゃね」
「約束!」
「約束じゃ」
◇
誰もベンチではありません
別れの時間。
野球部員たちは、翌朝には銀行員として職場へ戻る。
窓口。
営業。
本部。
地域企業への訪問。
またそれぞれの日常が始まる。
ヒロインたちも、それぞれの拠点へ帰っていく。
なつめの周りには、最後まで室戸の子どもたちが集まっている。
さつきは保護者から、実況が聞き取りやすかったと感謝される。
みーちゃんは、子どもたちと最後の記念写真。
結月は使用したバット、ボール、ヘルメットが全て戻っているか、一つずつ確認している。
彩香は野球部員たちと握手。
のどかは女の子へ、家でできる簡単な素振りをもう一度教えている。
隼人は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
誰か一人だけが輝いたイベントではない。
彩香の野球への理解。
のどかの指導力。
結月の脚力と安全意識。
みーちゃんの盛り上げる力。
さつきの観察と伝達。
なつめの行動力と地元への愛情。
野球部員たちの経験。
銀行員として培った責任感。
全てがつながり、イベントとクエストを成功させた。
隼人は、静かに呟く。
「センターがいなくても、チームは動くものですね」
遠くにいたなつめが、隼人の声を聞きつける。
「代理局長も、今日は役に立ったぜよ!」
隼人は少し驚いた。
「私がですか?」
「最初から最後まで、責任者としてずっとおった!」
「在席していただけでは?」
「それも役割ぜよ!」
主将も笑って言う。
「全員野球なら、最後までベンチにいる人にも仕事があります」
隼人は少し考える。
「私はベンチ要員だったのですか?」
さつきが微笑む。
「ベンチにいても、誰もベンチ外ではないということです」
「うまくまとめられましたね」
「学生キャスターですから」
室戸の太平洋を、夕方の光が照らしている。
潮の匂いを含んだ風の中で、回収された全員野球旗が大きくはためく。
少し汚れた白い旗。
そこには野球部員、ヒロイン、子どもたちの名前。
中央には、
「一人ひとりが主役」
の言葉。
本塁打を打つ者だけが主役ではない。
華やかなセンターだけがヒロインではない。
働く者。
支える者。
教える者。
聞く者。
声を出す者。
安全を守る者。
最後までその場にいる者。
誰にも、自分にしかできない役割がある。
銀行野球部の主将が、四国総局の四人へ言う。
「次に会う時まで、私たちも地元に応援されるチームであり続けます」
なつめが答える。
「うちらも、もっと四国のみんなに愛されるチームになるぜよ!」
結月が頷く。
「再会した時に、互いの成長を報告しましょう」
みーちゃんも笑う。
「次は、もっと大きな会場にしようね」
さつきが静かに締めくくる。
「それぞれの場所で役割を果たし、またこの町で一つのチームになりましょう」
彩香とのどかも、野球部員たちと再び握手する。
夕暮れの室戸岬。
太平洋へ沈み始めた光。
風にはためく全員野球旗。
その下で、銀行員野球部とヒロインたちは再会を誓い合う。
野球人である以前に、社会人であれ。
ヒロインである以前に、地域の一人であれ。
誰もベンチではない。
今日ここにいた全員が、室戸の主役だった。
明るい笑い声が、黒潮から吹く風に乗って、室戸の大地へ長く響いていった。




