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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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1132/1170

青い海は、母の昔の名を知っている ――陽菜と恵、夢のサイパン母娘旅行。南国で甦る“東洋のマタハリ”

ステップアップクイズ全国戦隊ヒロイン大会で十問連続正解を達成し、


「ペアで行く夢のサイパン六日間」


を獲得した白石陽菜。


最年少での快挙。


ゴンドラ最上段での満面の笑み。


紙吹雪の中で受け取った旅行目録。


全国放送の優勝インタビューでは、


「きれいな海を見たいです。それから、お母さんと一緒に行けたらと思います」


と答えた。


だが、陽菜を育ててくれた養母は、すでに亡くなっている。


旅行へ誰を誘うべきか迷っていた陽菜へ、養父の白石源三郎が提案した同行者は、白石家の家政婦・杉本恵だった。


陽菜にとって恵は、幼い頃から白石家を支え、自分を見守ってくれた最も信頼できる女性である。


料理が上手。


家事は完璧。


物腰は穏やか。


困った時は必ず助けてくれる。


しかし、その正体はただの家政婦ではない。


杉本恵こそ、陽菜の実の母。


かつて世界各地で諜報活動に従事し、


「東洋のマタハリ」


と呼ばれた伝説的な女性エージェントだった。


顔を変えた。


名前を変えた。


戸籍も経歴も過去も捨てた。


そして今は、母とは名乗らず、家政婦として実の娘のそばにいる。


陽菜は、その事実を知らない。


少なくとも、恵も源三郎も、そう思っている。


だが陽菜自身は、恵に対して説明のつかない親しさと懐かしさを感じていた。


恵は本当に、ただの家政婦なのか。


なぜ自分を、これほどまでに大切にしてくれるのか。


疑問はある。


それでも陽菜は、あえて答えを求めていなかった。


そんな奇妙な母娘が、初めて二人きりで海外へ旅立つ。


目的地はサイパン。


陽菜にとっては、クイズで勝ち取った夢の南国。


恵にとっては、かつて敏腕エージェントとして活動した、忘れられない任務の島だった。



美月から届いた「土産の発注書」


出発の数日前。


陽菜のスマートフォンへ、赤嶺美月から長文のメッセージが届いた。


件名は、


「サイパン土産・絶対忘れたらあかん一覧」


だった。


陽菜は白石家の居間で、その長すぎる一覧を恵へ見せる。


「美月さんから、お土産の希望が届きました」


「希望というより、商品発注書のようですね」


恵は画面を上から順に読む。


マカダミアナッツ入りチョコレート。


南国柄のシャツ。


現地限定らしいキーホルダー。


派手なサングラス。


ヤシの実を模したカップ。


南国の花の髪飾り。


サイパンの文字が大きく入った帽子。


そして最後に、


「浮き輪」


と書かれていた。


しかも赤い文字で、


「最重要」


と添えられている。


陽菜は首をかしげる。


「美月さん、ステップアップクイズの観覧席でも浮き輪を持っていましたよね」


「ええ。かなり目立っておられました」


「もう持っているのに、どうして新しい浮き輪が必要なんでしょう」


浮き輪の項目には、美月自身による説明があった。


「サイパンで買うた浮き輪には、サイパンの海の気が入っとる」


陽菜はしばらく画面を見つめる。


「空気を入れるのは日本へ帰ってからですよね」


「美月さんの中では、空気と海の気は別のものなのでしょう」


「難しいですね」


「深く考えない方がよろしいかと存じます」


直後、西川彩香から別のメッセージが届く。


「美月の分は全部買わんでええ。調子に乗る」


さらに美月から、


「怖いオバハンの妨害に負けたらあかんで」


という追伸。


陽菜は困ったように笑った。


「旅行前から、いつもどおりですね」


「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」


「それ、本人たちの前では絶対に言わないでください」


恵は静かに頷いた。


なお、美月が浮き輪を欲しがる本当の理由を、この時の陽菜も恵も知らなかった。


抜群の運動神経。


体力企画では常に上位。


走る、跳ぶ、投げる、踊る、何をさせても器用。


そんな赤嶺美月には、ほとんど知られていない致命的な弱点があった。


まったく泳げない。


正真正銘のカナヅチだった。


本人は、


「水泳は人間本来の移動方法やない」


などと強がっていたが、足のつかない場所では浮き輪がなければ三秒で真顔になる。


あのステップアップクイズの観覧席で、賞品のサイパン旅行に備えて浮き輪を首へかけていたのも、ただの悪ふざけではなかった。


本人なりの、極めて真剣な安全対策だったのである。



母娘ではなく、家政婦とお嬢様として出発します


出発当日。


陽菜は小さな旅行鞄に、着替え、ガイドブック、新Vロッド、白いリボンの予備、カメラ、土産一覧を入れて空港へ向かう。


恵の荷物は驚くほど少ない。


陽菜が尋ねる。


「恵さん、それだけですか?」


「必要なものは入っております」


「六日間ですよ」


「衣類は現地でも洗えますから」


「旅行でも洗濯するんですか?」


「汚れたものを、そのまま持ち帰る必要はございません」


「恵さん、旅行先でも完全に家政婦さんですね」


「習慣ですから」


実際には、恵の鞄には一般的な旅行用品のほか、応急処置用品、簡易工具、複数の連絡手段、現地通貨、非常用の身分証明書、周辺地図などが目立たないよう収納されていた。


二人は飛行機へ乗り込む。


陽菜は窓側。


恵は通路側。


離陸すると、陽菜はガイドブックを開き、付箋を貼ったページを次々に見せる。


「初日はホテルの周辺を見て、次の日は北部の戦跡へ行きたいです」


「ずいぶん詳しく計画なさいましたね」


「せっかくの六日間ですから、無駄にしたくありません」


「お休みですから、少しゆっくりなさってもよいのですよ」


「でも、恵さんと行きたい場所がたくさんあるんです」


あまりにも無邪気な言葉だった。


恵は一瞬、返事を失う。


娘が、自分と過ごす時間を楽しみにしている。


母とは呼ばれない。


母娘旅行とも言えない。


それでも恵には、十分すぎるほど幸せなことだった。


「では、陽菜さんの計画に従いましょう」


「本当ですか?」


「ただし、休憩の時間も予定へ入れてください」


「分かりました。十五分くらいで」


「一時間ほどお願いいたします」


「長すぎませんか?」


「陽菜さんの予定が詰まりすぎなのです」


旅の主導権を巡る、静かな攻防が早くも始まった。



サイパンの青い海


飛行機がサイパンへ近づく。


窓の下に、緑の島と青い海が見えてくる。


陽菜は窓へ顔を寄せた。


「恵さん、見てください!」


「はい。よく見えております」


「本当に海が青いです。絵の具みたいです!」


恵は陽菜の肩越しに海を見る。


だがその視線は、美しい海だけを追ってはいなかった。


港。


道路。


丘陵。


建物の配置。


海岸線。


かつて任務で使った連絡地点。


緊急時の退路。


監視へ適した場所。


長い年月が過ぎ、建物や道路が変わっても、身体が覚えている。


恵は自分へ言い聞かせる。


今回は任務ではない。


陽菜との旅行だ。


東洋のマタハリは、もう存在しない。


ここにいるのは、白石家の家政婦・杉本恵である。



海ではなく、陽菜を見ています


ホテルへ到着。


部屋へ入った陽菜は、すぐにカーテンを開けた。


窓の向こうには、陽光を反射する太平洋が広がっている。


「恵さん、すごいです!」


陽菜は窓辺へ駆け寄る。


「パンフレットより、ずっときれいですよ!」


「ええ。とてもきれいですね」


陽菜が振り返る。


恵は海ではなく、陽菜の横顔を見ていた。


「恵さん、海を見ていませんでしたよ」


「陽菜さんが、あまりにも楽しそうでしたので」


「私ではなく、海を見てください」


「どちらもよく見えております」


「もう」


陽菜は恵の手を取り、窓辺へ引っ張る。


「一緒に見ましょう」


二人で並ぶ。


陽菜にとっては、クイズで勝ち取った夢の海。


恵にとっては、かつて警戒と緊張の中で眺めた海。


だが今回は、隣に娘がいる。


同じ景色が、以前とはまったく違って見えた。


陽菜はスマートフォンを取り出す。


「最初の写真を撮りましょう」


「まだ部屋へ入ったばかりですよ」


「最初だから撮るんです」


陽菜は恵の肩へ寄る。


画面の中に、笑顔の二人と青い海が収まる。


「少し親子旅行みたいですね」


陽菜が何気なく言った。


恵の胸が、小さく痛んだ。


「そう見えるでしょうか」


「恵さん、私が小さい頃からずっと一緒ですから」


陽菜は気軽に答え、写真を保存する。


恵は笑顔を崩さなかった。



アメリカン・メモリアル・パーク


二人が最初に訪れたのは、アメリカン・メモリアル・パーク。


陽菜は展示を一つずつ、時間をかけて見ていく。


戦争の経緯。


兵士たちの記録。


島で暮らしていた人々の生活。


戦闘へ巻き込まれた民間人。


陽菜の表情から、旅行初日の浮き立った明るさが消える。


「日本とアメリカだけの話ではないんですね」


「ここで暮らしていた方々にも、大きな犠牲がありました」


「戦争を地図で見ると、国と国の矢印になります。でも、その下には普通に生活していた人がいたんですよね」


恵は静かに頷く。


「地図の線は、人の暮らしを描いてはくれません」


「数字だけで覚えてはいけないんですね」


「ええ。数字の一つ一つに、名前のある方がいたのです」


陽菜は慰霊施設の前で深く頭を下げる。


恵も隣で祈る。


かつて任務のため、感情を切り離しながらこの島を歩いた恵。


今は娘とともに、失われた命へ思いを寄せている。


陽菜は、祈る恵の横顔をそっと見る。


初めて来た場所ではない。


なぜか、そんな気がした。



バンザイ・クリフ


島北部の断崖。


強い海風。


眼下に広がる青い太平洋。


陽菜はしばらく言葉を失っていた。


「こんなにきれいな場所で、悲しいことがあったなんて……」


恵が答える。


「美しい場所だからこそ、忘れてはいけないことがあります」


「悲しい場所として残すだけじゃなく、平和を願う場所にするんですね」


「そうであってほしいと思います」


陽菜は用意していた小さな花を供える。


白いリボンが海風に揺れる。


恵はその姿を見ながら思う。


かつて自分が守ろうとした未来。


失ってはならないと願ったもの。


その未来が、今、自分の隣へ立っている。


陽菜が振り返る。


「恵さん、前にもここへ来たことがあるんですか?」


唐突ではない。


恵の表情と足取りを見ていれば、自然に生まれる疑問だった。


恵は一瞬だけ間を置く。


「昔、近くを訪れたことがあります」


「旅行で?」


「仕事に関係する用事でした」


嘘ではない。


だが、真実の大部分を隠した答えだった。


陽菜は恵の目を見る。


その先を聞くこともできた。


だが聞かなかった。


「そうだったんですね」


それだけ答え、再び海へ向き直る。


恵は、陽菜の沈黙へ少し救われ、同時に少し胸を痛めた。



ラスト・コマンド・ポストで、家政婦の目ではなくなります


ラスト・コマンド・ポスト。


残された砲。


洞窟状の施設。


厚いコンクリート。


狭い通路。


陽菜は戦闘の痕跡を前に、静かに見学する。


「この中で、最後まで戦っていたんですね」


「出口を失った人間は、選択肢を失います」


恵の声が一瞬だけ低くなる。


「逃げ道がなくなる前に、戦いを止めなければならないのです」


陽菜が振り返る。


恵は案内板ではなく、周囲を見ていた。


入口。


奥の通路。


天井。


死角。


観光客の位置。


離れた場所へ立つ二人の男。


その目は、白石家の家政婦のものではなかった。


「恵さん?」


呼ばれると、恵はすぐ穏やかな表情へ戻る。


「足元が悪いので、気をつけてください」


「はい」


陽菜はそれ以上聞かない。


だが胸の中で、疑いが確信へ近づいていく。


恵は、ただの家政婦ではない。


料理や家事を極めただけでは説明できない何かを持っている。


それでも本人が話さない以上、無理に聞くべきではない。


相手の秘密を暴くより、秘密を守る方がよい時もある。


陽菜は、そう判断した。



バードアイランドで「親子ですか?」


バードアイランドを見渡す展望台。


青い入り江。


緑に覆われた小島。


陽菜はスマートフォンを持ち上げる。


「恵さん、写真を撮りましょう」


「陽菜さんをお撮りします」


「二人で来たのに、私だけの写真になってしまいます」


近くにいた女性観光客へ撮影を頼む。


陽菜と恵は、少し距離を空けて並んだ。


撮影を頼まれた女性が笑う。


「もう少し近づいた方がいいですよ。せっかくの親子旅行でしょう?」


恵の表情が、ほんのわずかに揺れる。


陽菜は気にせず、恵の腕へ自分の腕を絡めた。


「これくらいですか?」


「ええ。とても仲のよい親子に見えます」


シャッターが切られる。


陽菜は写真を確認する。


「本当に親子みたいですね」


「そうですね」


「顔はあまり似ていませんけど」


「……ええ」


顔を変えたのだから当然だった。


それでも写真の中の二人は、どこから見ても親子だった。


顔立ちではない。


肩の寄せ方。


互いを見る目。


陽菜を包む恵の姿勢。


言葉にできない部分が、血のつながりを映し出していた。



家政婦の反射神経


グロットへ続く階段。


陽菜は洞窟の奥から差し込む青い光へ目を奪われる。


「海が青いというより、青色そのものが光っているみたいです」


「陽菜さん、足元を見てください」


「見ています」


「手すりから離れないでください」


「恵さん、同じことを三回言っています」


「陽菜さんが三回よそ見をなさったからです」


「旅行中も、ずっと家政婦さんですね」


「陽菜さんが危なっかしいからです」


その直後。


前を歩いていた観光客が足を滑らせた。


身体が後ろへ傾く。


恵の腕が伸びる。


相手の肩と腕を同時につかみ、ほとんど音もなく重心を戻す。


観光客は転倒する前に立ち直った。


「ありがとうございます!」


相手は驚きながら礼を言う。


陽菜は恵を見る。


「今の、ものすごく速かったですよね」


「危ないと思いましたので」


「普通は間に合いません」


「落ちそうなお皿を受け止めることもありますから」


「人間とお皿は違います」


「基本は同じです」


恵は涼しい顔で先へ進む。


陽菜は、その小さな背中をじっと見つめた。


やはり只者ではない。


だが、今はまだ聞かない。



チャモロ料理と、広すぎる家政婦業務


夕食。


チキン・ケラグエンを口へ運んだ陽菜は、目を輝かせる。


「さっぱりしていて、おいしいです」


「少し辛みがありますね」


「恵さん、辛い料理も平気なんですか?」


「多少は」


「英語も話せて、旅行の手続きも全部できて、歴史にも詳しくて、反射神経もすごい」


陽菜は指を折りながら数える。


「恵さんって、何でもできますよね」


「家政婦ですから」


「家政婦さんの業務範囲は、そんなに広くありません」


「白石家では必要なことです」


「白石家、そんなに危険な家ですか?」


恵は一瞬黙った。


陽菜も自分の言葉に気づく。


だが二人とも、あえて笑った。


「この料理、美月さんも好きそうですね」


陽菜が話題を変える。


「かなり召し上がると思います」


「浮き輪を頼むくらいだから、海も好きなんでしょうか」


「観覧席でも着けていらっしゃいましたね」


「泳ぐ気満々なんでしょうね」


この時、二人とも大きな誤解をしていた。


美月は泳ぐ気満々なのではない。


浮き輪がなければ、泳ぐ気を出すことすらできない。



「白い蘭は、今も夜に咲きますか」


旅行三日目。


ガラパンの小さなカフェ。


店を切り盛りする年配の女性は、マリア・サブランと名乗った。


陽菜が店内の雑貨を見ている間、マリアは恵をじっと見つめる。


顔が違う。


名前も違う。


年齢を重ね、雰囲気も変わっている。


かつての姿を知る者でも、同一人物だと確信するのは難しいはずだった。


恵は飲み物を受け取る。


その時、カップの取っ手を無意識に左へ回した。


かつて協力者へ、


「監視者がいる」


と知らせるための癖。


マリアの指が止まる。


そして、ごく小さな声で言った。


「白い蘭は、今も夜に咲くのかしら」


恵が昔使っていた暗号名。


ホワイト・オーキッド。


恵は表情を変えない。


「この島では、いろいろな花が咲くのでしょうね」


「そうね。昔と同じ花も」


陽菜が戻ってくる。


「恵さんのお知り合いですか?」


マリアが陽菜を見る。


「昔、この方によく似た女性が店へ来たことがあるの」


「似た方?」


「ええ。とても勇敢で、誰かを守るためなら自分の命を惜しまない女性だったわ」


マリアの視線が再び恵へ向く。


彼女は本当に、恵をホワイト・オーキッドだと見抜いたのか。


顔や名前が変わっていても、手の動き、声、目の奥から確信したのか。


それとも、昔の人物へ重ねただけなのか。


答えは明かされない。


店を出る時、マリアは恵の手へ小さな紙片を押し込む。


裏には、短い言葉。


「昔の荷物を探している者がいる」


恵は紙を握りつぶす。


陽菜には見せなかった。



写真へ写ったもの


ホテルの部屋。


陽菜は、その日に撮った写真を整理する。


戦跡。


海。


恵の横顔。


土産物店。


その中の一枚。


ラスト・コマンド・ポストで撮った写真の背景に、二人の男が写っていた。


立入区域に近い場所。


地面から、古い金属ケースのようなものを取り出している。


「作業員の方でしょうか」


陽菜が写真を拡大する。


恵は一目で事情を悟る。


男たちが探しているのは、単なる戦争遺物ではない。


かつて恵がサイパン任務で追っていた密輸組織。


その取引関係者を記録した名簿。


通称、


「オーキッド・リスト」


恵は過去の任務で組織の中枢を壊した。


しかし名簿自体は回収できず、島のどこかへ隠されたとされていた。


そこへ、かつてのエージェントに似た女が現れた。


さらに、その同行者の写真へ発掘現場が写り込んだ。


組織の残党は、恵が名簿を回収するため戻ったと誤解する。


陽菜は何も知らない。


だが男たちにとっては、証拠を持つ危険な目撃者だった。



陽菜は気づいても聞きません


その夜から、恵の動きが変わる。


ホテルの部屋へ入る前に、廊下の左右を確認する。


エレベーターでは、鏡越しに後方を見る。


レストランでは、入口と非常口の両方が見える席を選ぶ。


陽菜と歩く時は、必ず車道側へ立つ。


同じ男を二度見かけると、自然に進路を変える。


陽菜は、その変化に気づいていた。


「恵さん」


「はい」


「何かありましたか?」


「いいえ。慣れない土地ですから、少し慎重になっているだけです」


「そうですか」


陽菜は、それ以上聞かなかった。


恵の返事が真実ではないことも分かっている。


だが恵は、自分を怖がらせないために黙っている。


ここで問い詰めれば、恵を困らせる。


さらに踏み込めば、自分も知らなくてよい危険へ近づくかもしれない。


相手が話さないことを、無理に暴かない。


陽菜は空気を読んだ。


ただし何も考えていないふりはしなかった。


「一人で抱え込まないでくださいね」


「陽菜さん?」


「私も、一応は戦隊ヒロインですから」


陽菜は笑う。


恵は、その聡明さと優しさへ胸を締めつけられる。


この子だけは守る。


どんなことがあっても。


今度こそ、絶対に失わない。



偽のホテル送迎車


翌日。


観光地から戻ろうとした二人へ、送迎会社の制服を着た男が近づく。


「ホテルのシャトルが変更になりました」


男は陽菜の名前も、宿泊先も知っていた。


車体にはホテルに似た表示。


陽菜は乗り込もうとする。


だが恵は、いくつもの不自然さへ気づく。


名札の字体。


ホテル名の発音。


通常とは異なる車の番号。


運転手が陽菜ではなく、彼女のスマートフォンばかり見ている。


制服の袖口から見える、小さな刺青。


かつての密輸組織が使っていた印。


恵は周囲を見る。


別の男が、二人の退路を塞いでいる。


ここで騒げば、陽菜が危険へさらされる。


恵は、あえて車へ乗った。


走り始めて数分。


陽菜が窓の外を見る。


「恵さん、この道、ホテルとは反対ではありませんか?」


「海沿いを回るのでしょう」


恵は穏やかに答える。


しかし膝の上では、指が短く動いていた。


マリアから渡された古い連絡手段を使い、位置を知らせている。


陽菜は恵の横顔を見つめる。


声は静か。


表情も穏やか。


だが身体全体が、いつでも動ける状態になっている。


陽菜は確信する。


恵は状況を理解している。


しかも、こうした危機に慣れている。


それでも陽菜は、何も尋ねなかった。


代わりに、スマートフォンを鞄の奥へ入れた。


恵の負担を少しでも減らすためだった。



東洋のマタハリが甦ります


車は、観光客のいない古い倉庫地区へ入る。


錆びた扉。


使われていないコンテナ。


潮風にさらされた建物。


二人は車から降ろされる。


男たちは陽菜へ、スマートフォンを渡すよう要求する。


「写真を消せば、帰していただけますか?」


恵が静かに尋ねる。


「端末ごと置いていけ」


「この子は何も知りません」


「なら、説明する必要もない」


一人の男が陽菜の腕をつかもうとする。


その瞬間。


恵の表情から、家政婦の柔らかさが消える。


半歩前へ出る。


伸びてきた手をかわす。


手首へ触れる。


肘を制する。


腰を落とす。


大柄な男の勢いを利用し、床へ転がす。


もう一人が背後から迫る。


恵は振り返らず、陽菜の肩を押して安全な位置へ移す。


同時に身体を回し、男の足元を崩す。


陽菜が目を見開く。


「恵さん!?」


「下がっていてください」


低く、短い声。


人へ命令することに慣れた者の声だった。


男の一人が、恵の動きを見て息をのむ。


「その動き……」


別の男が呟く。


「まさか、オーキッド……」


恵の目が鋭くなる。


「人違いです」


「顔が違う」


「ですから、人違いです」


「だが、その目は――」


男が最後まで言う前に、恵が間合いを詰める。


攻撃するためではない。


陽菜への道を塞ぐためだった。


かつて東洋のマタハリと呼ばれた敏腕エージェントが、南国の古い倉庫で甦る。


だが今回の目的は、国家でも任務でもなかった。


たった一人の娘を守るため。



娘には指一本触れさせません


男たちは陽菜を人質にしようとする。


恵は陽菜の前へ立った。


「この子には、指一本触れさせません」


鉄製の扉が勢いよく閉まり、二人を分断しようとする。


恵は片手で扉を受け止める。


小柄な身体とは思えない力。


「陽菜さん、こちらへ!」


扉を支えたまま、陽菜を安全な側へ通す。


別の男が追う。


恵は低い壁へ片足をかけ、軽々と飛び越える。


着地と同時に陽菜の手を取り、空の台車を男たちの進路へ滑り込ませる。


一人を倒す。


一人の腕を封じる。


一人の足元を崩す。


動きに無駄がない。


敵を痛めつけることが目的ではない。


陽菜へ近づけさせない。


逃げ道を作る。


時間を稼ぐ。


全ての動きが、娘を守るためだけに組み立てられている。


最後の一人が、陽菜へ向かって突進する。


恵との距離が離れている。


間に合わない。


恵は迷わず、陽菜の前へ飛び込んだ。


自分の身体を盾にする。


「恵さん!」


恵は陽菜を抱き寄せ、背中で衝撃を受け止める。


二人は床へ倒れる。


痛みで表情を歪めながらも、恵は陽菜を腕の中へ庇い続ける。


「陽菜さん、怪我は?」


「私は大丈夫です! 恵さんが……」


「よかった」


自分が傷ついたことより、娘が無事であることへ安堵する。


男が再び近づく。


恵は立ち上がった。


身体がわずかに揺れる。


それでも陽菜の前から退かない。


「何度来ても同じです」


静かな声。


だが、男たちを圧する力があった。


「この子には、触れさせません」


直後、倉庫の外からサイレンが聞こえる。


マリアから情報を受けた現地当局と警備員が到着。


男たちは逃走を試みるが、包囲される。


事件は終わった。


恵は最後まで、陽菜の手を離さなかった。



昔、ちょっと武道をやっていたものですから


安全な場所へ移動した後。


恵は軽い打撲の手当てを受ける。


陽菜は隣へ座り、離れようとしない。


「恵さん」


「はい」


「今のは、何だったんですか?」


「何と申しますと?」


「男の人を一瞬で転ばせました」


「皆さん、足元が悪かったようです」


「低い壁を飛び越えました」


「それほど高い壁ではございませんでした」


「鉄の扉を片手で止めました」


「火事場の力でしょうか」


「三人の動きを、全部先に読んでいました」


「偶然です」


陽菜は恵をじっと見る。


「偶然が多すぎます」


恵は服の乱れを整え、いつもの涼しい顔へ戻る。


「昔、ちょっと武道をやっていたものですから」


数秒の沈黙。


陽菜が答える。


「ちょっとの範囲を、完全に超えています」


「家事も武道も、基本は重心です」


「料理と諜――」


陽菜は途中で言葉を止めた。


諜報活動。


その言葉が喉まで出かかった。


男たちは恵を、


「オーキッド」


と呼びかけた。


マリアも、昔の勇敢な女性に似ていると言った。


恵は英語も使える。


危険を察する能力がある。


戦うことに慣れている。


ただの家政婦ではない。


陽菜の中で、疑いは確信へ変わった。


だが、あえて口にしなかった。


恵が話そうとしないのには理由がある。


過去を知られることで、自分や白石家へ危険が及ぶのかもしれない。


ならば、今は聞かない方がいい。


陽菜は少し笑う。


「家政婦さんの研修って、すごいんですね」


恵は、陽菜が意図的に踏み込まなかったことへ気づく。


「ええ。幅広い仕事ですから」


二人はそれ以上話さなかった。


互いに相手が何かを隠していると知りながら、知らないふりを選んだ。


それは疑いではなく、信頼だった。



どうして、そこまでして守ってくれるのですか


その夜。


ホテルの部屋。


陽菜は眠れず、窓辺へ立つ恵のそばへ行く。


暗い海へ、月の光が伸びている。


「恵さん」


「眠れませんか?」


「少しだけ」


陽菜は正直に答える。


「怖かったです」


「申し訳ありません。私がもっと早く気づいていれば――」


「違います」


陽菜は首を振る。


「恵さんがいてくれたから、私は大丈夫でした」


恵は何も言えない。


「恵さんが前に立ってくれた時、絶対に守ってくれると思いました」


陽菜は、少しためらう。


「どうして、そこまでして私を守ってくれるんですか?」


最も答えたい質問。


そして、最も正直に答えられない質問だった。


娘だから。


自分が産んだ、世界でただ一人の大切な娘だから。


一度手放さざるを得なかった娘。


二度と失いたくない娘。


どんな危険があっても、自分の命と引き換えにしても守りたい。


だが、その言葉は口にできない。


恵は海へ顔を向けたまま答える。


「白石家の大切なお嬢様ですから」


陽菜は少し不満そうにする。


「それだけですか?」


恵の表情が揺れる。


「陽菜さんが笑っていると、私もうれしいのです」


「陽菜さんが傷つくことは……私には耐えられません」


それが、今の恵に言える限界だった。


陽菜は恵の隣へ並ぶ。


「家族みたいですね」


恵の目に涙が浮かぶ。


だが陽菜に見られる前に、海へ視線を戻す。


「長くお仕えしていますから」


「また家政婦さんの答えで逃げましたね」


陽菜は恵の腕へ、そっと自分の腕を絡める。


「今日だけは、そばにいてください」


「はい」


恵は答える。


「ずっと、そばにおります」


それは家政婦としての返事ではなかった。


母としての誓いだった。



聞かないことも、優しさです


翌朝。


恵が目を覚ますと、陽菜は窓辺で前日の写真を見ていた。


「早いですね」


「旅行では時間がもったいないですから」


陽菜はスマートフォンを置き、恵を見る。


「昨日のこと、詳しく話さない方がいいですよね」


「陽菜さん?」


「現地の警察へ必要なことは話しました。でも、恵さんのことは……」


陽菜は少し考える。


「昔、武道をやっていた家政婦さんが、とても頑張って助けてくれた。それで十分ですよね」


恵は、陽菜が何を言おうとしているのか理解する。


この子は気づいている。


全てではない。


だが、恵に普通ではない過去があることを察している。


しかも、それを暴こうとしない。


話せる時まで待とうとしている。


「ありがとうございます」


恵は、そう言うことしかできなかった。


陽菜は笑う。


「何のお礼ですか?」


「いいえ。何でもありません」


秘密を問い詰めない。


相手が話せる日まで待つ。


それもまた、陽菜なりの愛情だった。



昨日より仲良くなったから


二人はホテル前の海岸へ出る。


前日の事件が嘘のように、海は穏やかだった。


陽菜がスマートフォンを取り出す。


「恵さん、写真を撮りましょう」


「昨日も、たくさん撮りましたよ」


「昨日より、今日の方が仲良くなったからです」


陽菜は恵の肩へ寄り添う。


二人の背後には青い海。


空には白い雲。


陽菜がカメラを構えながら、何気なく言う。


「お母さんと旅行したら、こんな感じだったのかな」


恵の表情が揺れる。


陽菜は画面を見ているため、その変化に気づかない。


あるいは気づいても、何も言わなかった。


「恵さん、笑ってください」


「はい」


恵は娘の隣で、心から微笑む。


シャッター音。


写真の中には、肩を寄せて笑う二人。


家政婦と雇い主の娘ではない。


本物の母娘そのものだった。



美月の浮き輪を買います


危機を乗り越えた後。


陽菜は、旅行を怖い記憶だけで終わらせたくないと思う。


恵も同じだった。


二人は予定どおり、土産物店へ向かう。


マカダミアナッツ入りチョコレート。


南国柄のシャツ。


派手なサングラス。


ヤシの実風カップ。


花の髪飾り。


そして、問題の浮き輪。


売り場には、さまざまな浮き輪が並んでいる。


ピンク色のフラミンゴ型。


大きなパイナップル型。


透明な中に南国の花が入ったもの。


サメ型。


海亀型。


陽菜が尋ねる。


「美月さんなら、どれを選ぶと思いますか?」


恵は売り場で最も大きな、ピンク色のフラミンゴ型を見る。


「最も目立つものではないでしょうか」


「やっぱり、これですよね」


フラミンゴの側面には、


「SAIPAN」


と大きく印刷されている。


「持ち帰るのが大変そうですが」


「空気を抜けば大丈夫です」


「観覧席でお持ちだったものより、さらに目立ちますね」


「今度のクイズ番組に、持ってくるかもしれません」


「それは避けていただきたいですね」


陽菜は浮き輪を買い物籠へ入れる。


その時、店員が笑顔で尋ねる。


「お友達は泳ぐのが好きなんですか?」


陽菜は答える。


「たぶん、すごく好きなんだと思います。いつも浮き輪を持っていますから」


恵も頷く。


二人とも、完全に逆の理解をしていた。


美月が浮き輪を持ち歩く理由は、海が好きだからではない。


沈みたくないからである。



昔の協力者は、本当に気づいていたのでしょうか


帰国前。


二人はもう一度、マリアのカフェの前を通る。


マリアは店先に立ち、遠くから恵を見ている。


二人は近づかない。


言葉も交わさない。


マリアは胸元へ手を当て、ほんのわずかに頭を下げる。


かつての協力者へ送る敬礼なのか。


単なる観光客への挨拶なのか。


恵も、ごく小さく頷く。


陽菜は、そのやり取りへ気づいた。


だが尋ねなかった。


マリアが本当に、顔も名前も変えた恵をホワイト・オーキッドだと見抜いていたのか。


手の動きで気づいたのか。


声で気づいたのか。


目で気づいたのか。


あるいは、最後まで確信はなかったのか。


答えは明かされない。


ただ店内には、白い蘭の写真が飾られている。


その下には、以前にはなかった二つの貝殻が並んでいた。


一つは大きく。


一つは小さい。


まるで、再び島を訪れた母と娘を表しているようだった。



空港で偶然、波田顧問に会います


六日間の旅行を終え、陽菜と恵は無事に日本へ帰国する。


到着ロビー。


陽菜が荷物を引きながら出てくると、養父の白石源三郎が待っていた。


その隣には、なぜか波田巌蔵も立っている。


陽菜は驚く。


「波田さんまで迎えに来てくれたんですか?」


波田は、少し慌てたように首を振る。


「違う違う。俺は空港に別の用があって来ただけだ」


「別の用ですか?」


「ああ。偶然、ここで源さんと鉢合わせたんだよ」


源三郎が無言で波田を見る。


波田も源三郎を見る。


二人の間に、微妙な沈黙が生まれる。


陽菜は首をかしげる。


「到着時間も便名も知らないのに、ちょうど到着ロビーで会ったんですか?」


「世の中には偶然ってもんがあるんだよ」


「ずいぶん正確な偶然ですね」


聡明な陽菜は、波田が自分たちを心配して迎えに来たことを察する。


だが、ここでも追及しなかった。


「では、偶然会えてよかったです」


「おう。そういうことにしといてくれ」


源三郎は、陽菜と恵を順番に見る。


「楽しかったか?」


「はい。楽しいことも、怖いことも、いろいろありました」


源三郎の眉が動く。


「怖いこと?」


恵が穏やかに説明する。


「少し予定外の出来事がございました」


波田は恵の立ち方と、わずかに庇うような陽菜との距離を見る。


それだけで、何かが起きたと察した。


「後で聞かせてもらおうか」


「必要な範囲で」


恵は静かに答える。


陽菜は、大きな土産袋を持ち上げる。


「美月さんから頼まれたものも、全部買えました」


袋の隙間から、ピンク色のフラミンゴの頭がのぞいている。


波田が目を細めた。


「何だ、そのでかい鳥は」


「浮き輪です」


「何でサイパン旅行の土産が浮き輪なんだ」


「美月さんの指定です」


波田は少し考え、首を振った。


「聞いた俺が悪かった」



浮き輪の本当の理由


後日。


新橋ヒロ室で土産が配られる。


美月には、マカダミアチョコ。


南国柄のシャツ。


派手なサングラス。


そして、巨大なフラミンゴ型浮き輪。


美月は目を輝かせる。


「これや! うちが求めとったサイパンの安全装備や!」


陽菜が首をかしげる。


「安全装備?」


美月は慌てて言い直す。


「いや、南国アイテムや!」


彩香が横から見る。


「何で浮き輪を二個も持つ必要あんねん」


「予備や」


「観覧席に浮き輪の予備がいるんか?」


「いつ海へ行くか分からへんやろ!」


「泳げるんか、お前」


彩香の何気ない一言。


美月の動きが止まる。


「当たり前や」


「ほな今度、海で競争しよか」


「競争は水深一メートルまでや」


「何でや」


「安全のためや」


「足つくやないか」


「安全第一や!」


陽菜が美月を見る。


「もしかして、美月さん……」


「違うで」


「まだ何も言ってません」


「泳げる。めっちゃ泳げる」


「何泳ぎですか?」


「……浮き輪泳ぎ」


彩香が目を見開く。


「アホツインテール、お前まさかカナヅチなんか?」


美月はフラミンゴ浮き輪を抱きしめる。


「カナヅチちゃう! 水と相性が合わんだけや!」


「それをカナヅチ言うんや!」


「運動神経抜群のうちにも、一個くらい苦手なもんあってええやろ!」


陽菜も驚く。


「本当に泳げないんですか?」


「泳げるで。浮き輪があったら」


「それは浮いているだけや!」


彩香が笑う。


美月は頬を膨らませる。


「人の弱点笑うな、怖いオバハン!」


「散々うちが八段から落ちたん笑っとったやろ!」


「クイズと水泳は別や!」


「同じ失敗や!」


「うちは沈んでへん!」


「浮き輪あるからやろ!」


数分後。


ヒロ室中央には、空気を入れられた巨大なフラミンゴ浮き輪が鎮座していた。


美月は南国柄のシャツとサングラスを着け、浮き輪の中央へ入る。


「どうや! サイパン帰りに見えるやろ!」


彩香は即答する。


「近所の市民プールへ行く途中のカナヅチや」


「何でやねん!」


「そもそもサイパンへ行ってへんやろ」


「土産が行った証拠や!」


「土産は陽菜が行った証拠や!」


陽菜は笑いながら、二人の喧嘩を見ていた。


その隣には、恵が立っている。


二人の間には、サイパンで撮った一枚の写真。


青い海を背景に、肩を寄せて笑う二人。


陽菜が写真を見ながら言う。


「本当に親子みたいですね」


恵は、写真へ静かに目を落とした。


「ええ」


少し間を置く。


「とても、よい写真です」



青い海が結んだもの


夜。


白石家。


陽菜は、サイパンで撮った写真をアルバムへ収めていく。


アメリカン・メモリアル・パーク。


バンザイ・クリフ。


ラスト・コマンド・ポスト。


バードアイランド。


青い光のグロット。


現地料理。


土産物店。


フラミンゴ浮き輪を抱えて笑う陽菜。


そして最後に、海辺で恵と肩を寄せた一枚。


陽菜は写真の下へ、小さく書き添える。


「恵さんと、初めてのサイパン」


廊下から恵が、その様子を見ていた。


陽菜が気づき、手招きする。


「恵さんも見ますか?」


「はい」


二人は並んでアルバムを見る。


楽しかった思い出。


怖かった思い出。


恵の過去を思わせる、説明のつかない出来事。


陽菜は、ホワイト・オーキッドという名を口にしない。


なぜ恵が戦えたのかも尋ねない。


マリアが何者だったのかも聞かない。


恵には、話せない理由がある。


そのことだけは分かっている。


過去の名前や肩書より、自分を命懸けで守ってくれた今の恵の方が大切だった。


恵もまた、陽菜の聡明な沈黙へ気づいている。


この子は何かを察している。


それでも、自分が話せる時まで待ってくれている。


母娘の秘密は、まだ明かされない。


陽菜は、恵が実の母だとは知らない。


恵も、母とは名乗れない。


二人の関係には、説明できない空白がある。


それでもサイパンでの日々を通じ、その空白を埋めるように、新しい思い出が増えた。


一緒に海を見た。


戦跡で祈った。


同じ料理を食べた。


笑い合った。


危機の中で、恵は陽菜を守った。


陽菜は、恵の秘密を守ることを選んだ。


奇妙な母娘の絆は、真実を明かさないまま、以前より確実に強くなっていた。


かつて恵にとって、サイパンは任務と危険の島だった。


顔も名前も捨て、誰も信じられないまま歩いた場所。


その島で今度は、娘と笑い、写真を撮り、娘のために戦った。


過去の任務地は、母娘の思い出の島へ変わった。


陽菜はアルバムを閉じ、恵へ笑いかける。


「いろいろありましたけど、恵さんと一緒に行けてよかったです」


「私もです」


「また、二人で旅行したいですね」


恵は目元をわずかに潤ませる。


それを隠すように、いつもの穏やかな笑顔を見せた。


「ええ。ぜひ、ご一緒させてください」


母とは名乗れない。


娘も真実を尋ねない。


それでも二人は、もう単なる家政婦と雇い主の娘ではなかった。


遠く離れたサイパンの青い海だけが、恵の昔の名前と、二人の本当の関係を知っている。


そして新橋ヒロ室では、その頃も美月がフラミンゴ浮き輪の中央から立ち上がれず、彩香に助けを求めていた。


「彩香、ちょっと引っ張って!」


「一人で入ったんやから、一人で出ろや!」


「足が引っかかったんや!」


「運動神経抜群ちゃうんか!」


「陸上限定や!」


「水にも入ってへんやろ!」


美しい母娘の物語の裏で、赤嶺美月の泳力だけは――。


海へ入る前から、完全に底をついていた。

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