千葉は遠くありません! ――お天気お姉さん杉山ひかり、作者ゆかりの湾岸都市で晴れのち防災
静岡市、甲府市、川崎市。
各地で大成功を収めてきた、お天気お姉さん・杉山ひかりの気象防災イベント、
『ひかりと備える、晴れのち防災!』
は、すっかりヒロ室の看板企画となっていた。
難しい気象情報を、杉山ひかりが誰にでも分かる言葉へ置き換える。
首藤凪が、現場で本当に必要となる安全対策を教える。
ぽかぽかトリオが、幼い子どもたちへ体操、工作、歌を通じて備えを伝える。
そして赤嶺美月が、毎回あり得ないほど間違った行動を取り、月島小春や専門家たちに止められる。
自治体関係者からは、
「笑いながら防災を学べる」
「家へ帰ってから家族で話し合うきっかけになった」
「美月さんがやったことの反対をすれば、おおむね正しい」
と高く評価されていた。
最後の感想だけは、人気ヒロインに対する褒め言葉として少し疑わしい。
美月は胸を張った。
「うちが悪い見本を極めた結果や!」
小春が答える。
「極めなくていい分野なんだけど」
全国各地から開催依頼が集まる一方、ヒロ室内部では、この企画を別の名前で呼ぶ者も増えていた。
「好評の我田引水防災企画」
川崎市では作者の実家。
甲府市ではフロントの琴音の故郷。
次は作者が長く暮らした街。
開催地の選定に、作者や関係者の個人的事情が強く反映されていたからである。
そして今回の舞台は――
千葉市
だった。
◇
作者の知人と行きつけの店も守ります
新橋のヒロ室フロント。
小宮山琴音が、分厚い企画書を会議机へ置いた。
表紙には、
「千葉市・広域都市型気象防災イベント開催案」
と書かれている。
芹沢遥室長が尋ねた。
「琴音ちゃん、今度はどうして千葉市なのら?」
琴音は資料を読み上げる。
「この小説の作者が、千葉市に長年住んどったからだそうです」
「中央区の若葉区や稲毛区に近い地域と、花見川区に長く住んどって、今も知り合いが多いじゃんね」
もう一枚、資料をめくる。
「現在も頻繁に千葉市へ行っとって、行きつけの飲み屋も多いそうです」
遥は一度だけ瞬きをした。
「ふーん」
それだけだった。
会議室の職員たちは、しばらく次の言葉を待った。
しかし遥は、普通に企画書の次のページを読んでいる。
職員の一人が恐る恐る手を挙げた。
「作者の知人や行きつけの飲食店を守るために、これほど大規模な防災イベントを開催するのでしょうか」
琴音は平然としていた。
「結果として千葉市民全体の役に立ちゃ、同じじゃんね」
「会場は?」
「もう仮押さえしとる」
「出演者は?」
「これから空ける」
職員が予定表を開く。
「皆さん、予定が埋まっています」
琴音は手帳を取り出した。
「空いとらん予定は、空ければいいじゃんね」
甲斐の疾風が、再び吹き始めた。
◇
人気ヒロインの日程は、力技でつなぎます
ひかりには、静岡でのテレビ収録。
みのりには、千葉県内でのグレースフォース関連活動。
美月と小春には、それぞれ別の地域イベント。
ぽかぽかトリオには親子向け公演。
凪には大分で企業安全研修。
大宮麗奈と森川美里には、イベントコンパニオンとして別の展示会。
千葉市在住の神代なつめと今津乙実には地域活動。
習志野市在住の菊池瑠璃には地元イベント。
熊本市出身で、ヒロ九の仕事のため船橋市と熊本市を行き来している西里香澄にも移動予定が入っていた。
琴音は、それらを次々と組み替えた。
ひかりのテレビ収録は、千葉市の会場からの気象防災特集中継へ変更。
みのりの活動は、千葉市防災イベント内のグレースフォース広報へ統合。
美月と小春の出演は、前日と翌日へ移動。
ぽかぽかトリオの親子公演は、会場内の子ども防災広場として開催。
凪の企業研修は、大規模施設の安全管理講座として同時開催。
麗奈と美里が出演する別の展示会は隣接会場だったため、中間地点に臨時控室を設置。
なつめ、乙実、瑠璃、香澄の活動も、広域防災企画として一本化する。
職員は、次々と変わっていく予定表を見つめた。
「麗奈さんと美里さんは、直前まで隣の展示会へ出演しています」
「終わったら中間控室で衣装を替えて、そのまま入れるじゃん」
「控室は確保済みですか?」
「さっき押さえた」
「首藤さんの安全研修は?」
「参加企業ごと千葉へ来てもらう」
「ぽかぽかトリオの公演先は?」
「親子を千葉市へ招待するだよ」
遥が感心する。
「甲斐の疾風というより、予定表の都市開発なのら」
琴音は答えた。
「空いとらん場所へ、新しい道を通しただけじゃんね」
◇
海も工場も田園もある都市
千葉市は、東京湾岸の先進的な都市景観と、内陸部の穏やかな田園風景が共存する、多彩な街である。
湾岸部には高層ビル、大型商業施設、ホテル、広大な海浜公園、大規模住宅地が並ぶ。
国内外から多くの来場者を集める巨大なコンベンション施設もあり、展示会、スポーツ大会、式典、コンサートなどが一年を通じて開催されている。
中央区や臨海部には、大規模製鉄所をはじめとする工場、港湾施設、物流拠点が集まり、日本の産業を支えてきた力強い顔も持つ。
千葉駅周辺や湾岸部では商業も発展。
複数の人気プロスポーツチームが活動し、市民が年間を通してさまざまな競技を楽しめる街でもある。
美月が資料を眺めて言った。
「高層ビル、買い物、工場、スポーツ。何でもあるやん」
みのりは誇らしげに答える。
「千葉市は、一つの印象だけで語れる街ではありません」
市の東部や南東部へ進めば、景色は大きく変わる。
田畑。
林。
谷津田。
観光農園。
昔から続く集落。
大都市の一部とは思えないほど、のどかな風景が残る地域も少なくない。
作者が長く暮らした中央区の一部や花見川区にも、住宅地の近くに畑や緑地が広がる場所があったという。
小春が昔の写真を見た。
「千葉市の写真なのに、畑ばっかりじゃん」
みのりが即答する。
「それも千葉市です」
「幕張の高層ビルと全然違うね」
「海浜部も工業地帯も住宅地も田園地域も、全部あるのが千葉市です」
同じ千葉市でも、地域ごとに備えるべき災害は異なる。
湾岸部では、高潮、強風、液状化、津波。
中心市街地では、内水氾濫、帰宅困難者、商業施設の混雑。
工業地帯では、工場や港湾施設での安全確保。
住宅地では、停電、断水、集合住宅での在宅避難。
内陸の田園地域では、倒木、道路寸断、長期停電、移動手段の確保。
今回のイベントは千葉市全域を対象とする、シリーズ最大級の防災企画となった。
◇
国内最大級の巨大イベントホール
会場は、千葉市美浜区の湾岸地区にある、国内最大級の複合コンベンションセンター。
巨大な展示場。
国際会議施設。
大規模なイベントホール。
数多くの展示会や催事が開催される、日本を代表する集客施設である。
美月は客席を見渡した。
「広っ! うちの声でも、向こうまで届かへんのちゃう?」
イベントコンパニオンの大宮麗奈が、マイクを確認しながら答える。
「こういう会場で声を届けるのが、私たちの仕事よ」
森川美里も続ける。
「音響設備を使えば大丈夫です。ただし、予定外の台詞を増やさないでください」
「音響さんにもライブ感を味わってもらうんや!」
凪が告げる。
「台本を守ってください」
麗奈と美里にとって、この巨大施設は何度も仕事で訪れてきた、いわばフランチャイズのような場所だった。
控室。
搬入口。
混雑しやすい通路。
迷子が発生しやすい場所。
イベント終了後に人が集中する出口。
二人は施設の特徴を熟知している。
麗奈が館内図を示した。
「一度に全員を退場させると、ここが混雑するわ。区域ごとに時間をずらしましょう」
美里も頷く。
「案内スタッフが通路の中央へ立つと、かえって流れを止めます。壁側から誘導しましょう」
凪は感心した。
「経験に基づく具体的な提案は助かります」
美月が言う。
「さすが本職やな」
麗奈は笑顔を返した。
「美月ちゃんもベテランなら、台本を守ってね」
「結局そこへ戻るん?」
◇
大分から千葉は遠――くありません
イベント前日。
大分から首藤凪が到着した。
飛行機で羽田空港へ入り、モノレールと鉄道を乗り継ぎ、さらに湾岸方面の電車へ乗り換える。
巨大な荷物を置き、凪は苦笑した。
「大分から東京までは早かったですが、都内から千葉までが思ったより遠かったです」
その瞬間。
美月、小春、ひかり、麗奈の動きが止まった。
全員の顔に、
「言ってしまった」
と書いてある。
館山みのりが、ゆっくり振り返った。
普段は温厚。
冷静。
理知的。
多少の冗談にも動じない。
そのみのりの目が、明らかに変わっている。
「凪さん」
「はい?」
「今、千葉まで何とおっしゃいましたか?」
凪は、まだ危険を理解していない。
「都内から千葉まで、少し遠かったと――」
「千葉は遠くありません」
凪が目を丸くする。
「いえ、距離そのものではなく、乗り換えが多かったという意味です」
「それは経路選択と乗換構造の問題です。千葉市そのものへ責任を転嫁するのは論理的ではありません」
みのりは、理路整然と、しかし烈火のごとく続ける。
「千葉市は首都圏の主要都市です。東京方面とは複数の鉄道路線で結ばれ、湾岸部には業務、商業、居住、国際交流機能が集積しています」
「出発地点と目的地によって移動時間は異なります。“千葉は遠い”と一括りにするのは正確ではありません」
さらに決定的な一言を放つ。
「千葉まで遠いと言うと、私だけでなく、この小説の作者も怒り出すらしいですよ」
麗奈が首をかしげる。
「この小説の作者、本当に怒るの?」
みのりは即答した。
「作者は、千葉は川崎から近いと断言しています」
麗奈は少し考えた。
「そうなんだ~」
納得したような、まったく納得していないような返事だった。
美月、小春、ひかり、麗奈は、みのりと長い付き合いがある。
そのため、
「みのりの前で千葉を遠いと言ってはいけない」
ことは知っていた。
ただし麗奈は、作者にとっても同じ言葉が地雷だとは知らなかった。
凪は小声でひかりへ尋ねた。
「みのりさんは、千葉の話になるといつもこうなんですか?」
ひかりは凪の肩へ手を置いた。
「凪さん、みのりの前では“千葉遠い”は禁句だら」
美月も囁く。
「“東京から先が長い”も危険やで」
小春が続ける。
「“駅から会場まで歩く”くらいに言い換えた方が安全だね」
麗奈は腕を組む。
「作者にも聞こえないようにした方がいいみたいね」
凪は真剣に頷いた。
「安全管理上の注意事項として記憶します」
スタッフ用の非公式注意事項へ、
「館山みのり及び作者の前で、千葉まで遠いと言わないこと」
が追加された。
◇
千葉市まるごとお天気防災教室
イベント当日。
巨大ホールは、朝から多くの来場者で埋まった。
家族連れ。
地元住民。
企業や自治体の関係者。
戦隊ヒロインファン。
最初の企画は、
「ひかりとみのりの、千葉市まるごとお天気防災教室」
巨大モニターに、千葉市全域の地図が映し出される。
ひかりが説明を始めた。
「同じ千葉市内でも、海浜部と内陸部では注意する災害が異なります」
湾岸の埋立地。
中心市街地。
臨海工業地帯。
住宅地。
丘陵地。
田園地域。
ひかりは、それぞれの地域で想定される危険を具体的に紹介する。
「湾岸部では、台風や発達した低気圧による強風と高潮へ備える必要があります」
「地震の際には、液状化で道路に段差や陥没が生じる可能性があります」
「中心市街地では、短時間の強い雨による道路冠水や、鉄道が止まった時の帰宅困難者対策が重要です」
「内陸部では、倒木、停電、道路の通行止めも考えなければなりません」
みのりが生活に近い言葉で補足する。
「自宅だけではなく、学校、職場、よく行く店、それぞれの場所でハザードマップを確認してください」
「家族が同じ場所にいるとは限りません。連絡方法と集合場所も決めておきましょう」
美月が手を挙げる。
「作者の行きつけの飲み屋も、全部確認するん?」
みのりは真顔で答えた。
「作者自身が確認してください」
小春が笑う。
「川崎編でも同じ結論になったじゃん」
続いて、乙実が集合住宅での在宅避難を説明。
水。
食料。
携帯トイレ。
照明。
充電手段。
停電でエレベーターが止まった場合を考え、各家庭で備蓄する必要性を伝える。
瑠璃は、千葉市と習志野市の境界を越えて通勤、通学する住民の立場から説明する。
「災害情報は、自宅の自治体だけ確認すればよいとは限りません。学校や職場が別の市なら、その地域の避難情報も確認してください」
香澄は、土地勘のない場所で被災した場合の行動を担当。
「旅行先や出張先では、今いる場所の地名と最寄りの避難場所を確認してください。普段利用しない路線が止まると、帰宅経路が分からなくなることがあります」
海浜部だけでなく、住宅地、田園地域、隣接自治体まで扱う、本格的で実用性の高い内容となった。
◇
麗奈と美里の巨大会場安全講座
続いて、大宮麗奈と森川美里による、
「大きな会場で慌てないための五つの約束」
が始まる。
入場した時に非常口を確認する。
館内放送を最後まで聞く。
走らない。
荷物を取りに戻らない。
係員の誘導に従う。
麗奈は、聞き取りやすく落ち着いた声で館内放送を実演した。
「ただいま安全確認を行っております。来場者の皆さまは走らず、係員の案内に従って移動してください」
巨大ホール全体へ、麗奈の声が明瞭に響く。
美里は、迷子になった子ども、車椅子利用者、日本語に不慣れな来場者への対応を実演する。
相手の目線に合わせる。
進行方向を手で明確に示す。
長い説明を避ける。
同じ指示を、短い言葉で繰り返す。
凪は高く評価した。
「不安を与えない話し方と表情が素晴らしいです」
美月も館内放送へ挑戦する。
「皆さーん! 慌てんと、人気ヒロインのうちについてきてやー!」
麗奈が即座に止める。
「避難誘導中に、自分を宣伝しないの」
美里も続ける。
「どの区域の方へ、どの出口を案内しているのかを明確にしてください」
美月は肩を落とした。
「本職、厳しいなあ」
小春が言う。
「美月パイセンの案内だと、ファンだけ後ろについてきそうじゃん」
◇
ぽかぽかトリオのちばっ子防災広場
ぽかぽかトリオは、子ども向け防災を担当する。
白浜麻衣は、
「ぐらっと来たら、だんごむし体操」
揺れを感じたら頭を守る。
慌てて走らない。
大人の声を聞く。
安全な場所で動かず待つ。
子どもたちは楽しそうに体を丸める。
宮沢萌音は、
「家族の集合場所カード」
家族の連絡先。
学校や職場。
迎えに来られない時の約束。
避難する場所。
子どもたちは色鉛筆やシールで、家族専用のカードを作る。
藤原詩織は、
「海の水が来る前に、高い方へ」
という防災ソングを披露。
さらに、暗いテントの中で懐中電灯を探す停電体験も行われる。
麻衣が呼びかける。
「暗い場所では走らないでください。壁や大人の声を確認しましょう」
テントの中で詩織が歌い始める。
しかし方向を間違え、誰もいない壁へ向かって歌っていた。
萌音が肩をたたく。
「詩織ちゃん、子どもたちは反対側です」
「暗くて分かりませんでした」
子どもたちは大笑い。
ひかりは、すぐに実用的な説明へ結びつける。
「停電すると、知っている場所でも方向が分からなくなることがあります。懐中電灯は、暗くなってから探さず、決まった場所に置いておきましょう」
笑いが、そのまま役立つ知識へ変わっていった。
◇
美月とみのりの千葉市防災寸劇
イベント最大の目玉は、
「その時、美月はどうする!? 幕張湾岸・液状化と巨大イベント編」
今回は美月、小春だけでなく、みのりも寸劇へ参加する。
美月は、大型展示会を楽しみに来た一般客。
小春は同行者。
みのりは、千葉を愛する冷静な案内役。
ひかりが気象と地震を解説。
凪、麗奈、美里が安全指導を担当する。
第一場面――海辺の強風
強風の演出。
美月は大きな傘を差し、風へ向かって進もうとする。
「白いロングブーツを履いとるから、足元は完璧や!」
みのりが即答する。
「ブーツと横風への耐性は無関係です」
「傘を広げたら、そのまま駅まで飛べるんちゃう?」
「飛ばないでください」
小春が傘を取り上げる。
「飛んだとしても、駅へ着く保証はないじゃん」
ひかりが客席へ説明する。
「海沿いでは、傘を支えられないほど強い風が吹くことがあります。無理に外を歩かず、頑丈な建物へ移動してください」
第二場面――地震と液状化
地震が発生し、地面から砂や水が噴き出す演出。
美月は目を輝かせる。
「見てや! 地面から噴水出とる!」
近づこうとした美月の腕を、みのりがつかんだ。
「近づかないでください。地面に段差や陥没が生じている可能性があります」
「千葉の新しい観光名所ちゃうん?」
みのりの声が一段低くなる。
「千葉を災害観光地にしないでください」
客席は爆笑。
凪が説明する。
「液状化が起きた場所では、地面や建物の周囲が不安定になっている可能性があります。見物目的で近づかないでください」
第三場面――巨大施設からの避難
麗奈の落ち着いた館内放送が流れる。
「来場者の皆さまは、走らず係員の案内に従ってください」
全員が指定された出口へ向かう。
しかし美月だけが、物販コーナーへ戻ろうとする。
「限定グッズをまだ買うてへん!」
美里が進路を塞ぐ。
「商品や荷物を取りに戻らないでください」
「売り切れたらどうするん?」
小春が答える。
「命は再入荷しないよ」
美月は床へ倒れ込み、物販コーナーへ手を伸ばす。
「せめて整理券だけ!」
凪と麗奈に両側から引かれ、舞台袖へ運ばれていく。
最終場面――最大の地雷
避難を終えた美月が、額の汗を拭った。
「いやあ、幕張まで遠かったな!」
会場が一瞬、静まり返る。
小春、ひかり、麗奈が同時に美月から一歩離れた。
みのりが、ゆっくり振り返る。
「今、何と言いましたか?」
美月が後ずさる。
「いや、凪ちゃんが昨日言うてたから、台本へ入れたら受けるかなと思って……」
凪が慌てる。
「私を巻き込まないでください!」
みのりが美月へ近づく。
「千葉は遠くありません」
「でも東京駅の乗り換えが――」
「千葉は遠くありません」
「駅から会場まで少し――」
「千葉は遠くありません」
みのりは千葉市の交通網、都市機能、湾岸地域の発展について、理路整然と説明し始める。
小春が客席へ向き直る。
「今回、一番避難した方がいいのは、美月パイセンかもしれないじゃん」
美月は、みのりに腕をつかまれながら叫ぶ。
「千葉は近い! 千葉は便利! 作者の知人も飲み屋も守る!」
「最後の二つは、作者自身で確認してください」
ひかりは笑いをこらえながら、客席へまとめる。
「移動時間には個人差があります。災害時に慌てないためにも、普段使わない会場へ行く時は、帰宅経路や代替路線を事前に確認しておきましょう」
爆笑の後には、必ず役立つ知識が残る。
それが、このイベントの持ち味だった。
◇
イベントは大成功
千葉市編は、シリーズ最大級の来場者を集め、大成功を収めた。
湾岸部の高潮、強風、液状化。
中心市街地の内水氾濫と帰宅困難者。
工業地帯での安全確保。
住宅地での在宅避難。
内陸部の倒木、停電、道路寸断。
大規模会場における群衆誘導。
子ども向けの地震、津波、停電対策。
一つの市を一つのイメージで語らず、地域ごとに異なる課題を示した点が高く評価された。
自治体担当者は琴音へ言った。
「千葉市の多様性を踏まえた、非常に有意義な内容でした」
施設関係者も続ける。
「麗奈さんと美里さんの案内技術、首藤さんの安全管理は、今後の大規模イベントにも活用できます」
スポンサー担当者は、少し申し訳なさそうに言った。
「作者の知人と行きつけの飲み屋を守る企画だと聞いた時は、正直、不安でした」
琴音は答える。
「作者都合は入口だけじゃんね」
「中身は、ひかりちゃんたちが本気で作っとるだよ」
◇
稲毛区のホルモン焼き店へ
イベント終了後。
出演者一行は、稲毛区の私鉄沿線にあるホルモン焼き居酒屋へ向かった。
以前にも登場した、みのり行きつけの店である。
駅から少し歩いた住宅街。
気取らない外観。
扉を開けると、ホルモンを焼く香ばしい匂いと、常連客のにぎやかな声が迎えてくれる。
壁には、
カルビ。
ハラミ。
シロ。
レバー。
ホルモン盛り合わせ。
といった焼肉の品書き。
さらに、
馬刺し。
辛子れんこん。
だご汁。
熊本風の一品料理。
球磨焼酎。
といった熊本料理も並んでいる。
居酒屋ではあるが、熊本県玉名市出身のオーナーは親切で、家族連れにも優しい。
子ども用の食器や椅子も用意され、近所のファミリー層が気軽に利用する、居心地の良い店だった。
美月は、イケメンオーナーを見るなり満面の笑顔になった。
「店長さん、また男前になったんちゃう?」
オーナーは苦笑する。
「前回から、それほど変わってませんよ」
「いや、今日の方が三割増しや」
「何か注文したいものがありますか?」
「地域防災へ貢献した人気ヒロインへ、サービスの一品とかないん?」
「やっぱり、それが目的でしょう」
美月はカウンターへ肘をつく。
「うちら、巨大な会場で何千人もの命を守る話をしてきたんやで」
「実際に説明したのは、ひかりさんや凪さんでは?」
「うちは悪い見本として、命を守る知識を伝えた!」
小春が後ろから美月の肩をつかむ。
「美月パイセン、店長さんを困らせないで」
オーナーは笑った。
「分かりました。ホルモンを一皿、サービスします」
美月は両手を上げる。
「さすが男前! 顔だけやなくて、心も男前や!」
小春が呆れる。
「ウザ絡みで一皿獲得したじゃん」
凪は真面目な顔で言う。
「店側が自主的に提供したのであれば、問題ありません」
「凪ちゃん、そこを安全判定せんでええねん」
◇
玉名と熊本市、方言が濃くなります
熊本市出身の西里香澄は、店の辛子れんこんを一口食べた。
目を見開き、すぐに熊本弁が出る。
「こら、うまかね。ちゃんと熊本ん味がするたい」
オーナーも熊本弁へ切り替わった。
「分かるね? こっちん人にも食べやすかごつ、ちっと変えとるばってん、基本は変えとらんとよ」
「辛さもよか具合たい。だご汁も出汁がしっかりしとる」
「玉名じゃ家ごとに味の違うけんね。熊本市ん方は、どぎゃん味が多かね?」
「うちん近くじゃ、もうちっと濃い味ん店もあるばってん、こら飲みやすか味たい」
二人の会話は、時間がたつほど速く、濃くなる。
周囲は完全に置いていかれた。
麗奈が小声で尋ねる。
「今、何の話をしているの?」
美里が首をかしげる。
「料理を褒めていることだけは分かります」
ひかりは楽しそうに笑った。
「同郷の方同士だと、自然に方言が強くなるんですね」
美月も会話へ入ろうとする。
「うちも熊本のこと知っとるで! 馬刺しと、くまモ――」
小春が美月の口を塞いだ。
「美月パイセン、知識が観光案内の最初で止まってるから落ち着いて」
オーナーは、独自の仕入れルートを使い、山鹿から直送された馬刺しを出した。
鮮やかな赤身。
ほどよい脂。
香澄が一口食べる。
「こら絶品たい! 山鹿から直送ね?」
「知り合いんところから、いい時だけ送ってもらいよる」
「千葉でこぎゃん馬刺しが食べらるるとは思わんだった。熊本でも十分通るばい」
「そぎゃん言ってもらえると、仕入れた甲斐のあるたい」
玉名。
山鹿。
熊本市内の店。
温泉。
祭り。
道路事情。
二人の会話は地元民にしか分からない方向へ進み、周囲は時々聞こえる地名だけで内容を推測するしかなかった。
◇
土佐女と大分女、焼酎を水のように飲みます
豪快な土佐女・神代なつめは、席へ着くなり球磨焼酎を注文した。
一杯。
二杯。
三杯。
水でも飲むような速度でグラスを空けるが、表情はほとんど変わらない。
美月が驚く。
「なつめさん、それ水ちゃうで」
「分かってるき」
「飲む速さが水やん!」
なつめは平然としている。
「おいしいから」
その隣では、普段は真面目で堅い凪も、静かなペースで焼酎を飲んでいた。
なつめが尋ねる。
「凪さん、意外といけるね」
「大分でも焼酎は身近ですから」
「もう一杯どう?」
「では、少しだけ」
その「少しだけ」が何度も繰り返される。
二人の前だけ、空のグラスが順調に増えていった。
みのりが注意する。
「明日の移動へ影響しない範囲にしてください」
凪は真面目な顔で答える。
「睡眠時間と帰路を考慮した上で飲んでいます」
美月が感心する。
「酒量まで安全管理しとる!」
なつめは笑った。
「凪さん、次はロック?」
「では、それで」
計算された酒量とは思えない飲み方だった。
◇
上品な女子会と、美月パイセンの再避難
店内では、自然にいくつかのグループができていた。
ひかり、みのり、麗奈、美里、今津乙実、菊池瑠璃は、落ち着いた席で上品な女子会。
巨大施設での誘導。
千葉市の集合住宅。
習志野市や船橋市との情報共有。
イベントコンパニオンの仕事。
地元の菓子店。
料理を少しずつ取り分けながら、穏やかに話している。
乙実が言う。
「集合住宅の備蓄展示は、水や食料だけでなく、携帯トイレの必要数を具体的に示した方が伝わりやすいと思います」
瑠璃も頷く。
「鉄道が止まった場合は、千葉市だけでなく習志野市や船橋市の一時滞在施設も確認した方がいいですね」
麗奈は館内放送を振り返る。
「説明は、もう少し短くできたかもしれないわね」
美里が続ける。
「短く、具体的に、同じ言葉で繰り返すことが大切ですね」
みのりは、ひかりの皿へ焼けた肉を置く。
「ひかりは長時間司会をしていたから、たんぱく質を取って」
離れた席から、美月が叫んだ。
「上品な女子会の中でも、みのりちゃんの愛があふれとるで!」
小春が美月の腕を引く。
「美月パイセン、別の席へ絡みに行かないで」
美月は焼酎を飲み、少し頬が赤くなっていた。
香澄と楽しそうに熊本の話をするイケメンオーナーが気になり、再びカウンターへ近づく。
「店長さん、香澄ちゃんとばっかり話してへん?」
「熊本の地元の話をしていただけですよ」
「うちにも熊本の話してや」
「どの地域の話がいいですか?」
「何でもええ。できれば店長さんの個人的な話を」
小春が後ろから美月を抱えるように止めた。
「美月パイセン、落ち着いて」
「小春、離してや! うちは熊本文化を知りたいだけや!」
「店長さんの個人的な話って言ったじゃん」
「熊本県民の生活文化や!」
オーナーは笑いながら、水を一杯差し出した。
「まず、これを飲んでください」
美月は水を受け取る。
「優しい……やっぱり男前や」
「美月パイセン、席へ戻ろう」
小春は、美月の肩を抱えて連れ戻す。
その姿は、防災寸劇で美月を避難させる場面とほとんど同じだった。
凪が焼酎のグラスを持ったまま言う。
「今回も、小春さんの誘導が適切です」
「打ち上げまで避難誘導せんでええねん!」
◇
ぽかぽかトリオは子どもたちと遊びます
店内には、近所の家族連れも多かった。
酒があまり得意ではないぽかぽかトリオは、焼酎よりも料理とジュースを楽しんでいる。
近くの席にいた未就学児たちが、三人に気づいた。
「体操のお姉さんだ!」
「歌のお姉さんもいる!」
麻衣は笑顔で手を振った。
「今日はお店だから、小さな声で遊ぼうね」
麻衣は手遊び。
萌音は紙ナプキンで動物を折る。
詩織は周囲へ配慮し、小さな声で防災ソングを歌う。
店の一角が、即席の親子交流コーナーになった。
子どもたちは大喜び。
保護者たちは、安心して食事を楽しむ。
美月が、その様子を眺める。
「ぽかぽかトリオ、仕事終わっても仕事しとるで」
麻衣は笑った。
「仕事ではなく、一緒に遊んでいるだけです」
オーナーも感謝する。
「子どもたちが楽しそうで助かります」
詩織は、子どもから折り紙の花をもらい、うれしそうに胸元へ飾った。
店内は、まるで親戚一同が集まったような温かな雰囲気に包まれていた。
◇
笑いながらも反省会は真剣です
食事を楽しみながら、意見交換も始まる。
ひかりが言った。
「千葉市全域を一度に扱うには、内容が多かったですね。海浜部、中心市街地、内陸部に分けて開催してもよいと思います」
みのりも頷く。
「来場者が、自分の生活地域を選んで学べる展示があると分かりやすいです」
麗奈と美里は、大規模会場での誘導方法を提案。
乙実は、集合住宅向けの備蓄展示を増やす案。
瑠璃は、隣接自治体との情報共有。
香澄は、旅行者や土地勘のない来場者向けの案内を提案する。
凪は焼酎を飲みながらも、真面目にメモを取っていた。
「美月さんの寸劇は、正しい行動を記憶してもらう上で有効でした」
美月が胸を張る。
「せやろ!」
「ただし、みのりさんの“千葉は遠くない”という説明が、予定より七分長くなりました」
みのりは落ち着いて答える。
「誤解を訂正するために必要な時間です」
美月が笑う。
「これから“千葉は遠い”って言うたら、イベントが七分延びるんやな」
全員が声をそろえた。
「言わない方がいい」
麗奈が付け加える。
「作者も怒るみたいだしね」
美月は周囲を見回す。
「ほんなら訂正しとくわ。千葉は近い! 便利! ホルモンもうまい!」
みのりは満足そうに頷いた。
「最後の部分も正しいです」
店内に、また笑い声が響いた。
◇
次回開催地は未定です
翌日。
新橋のヒロ室フロント。
琴音は、千葉市編の報告書を遥室長へ提出した。
自治体。
会場関係者。
スポンサー。
来場者。
すべてから高い評価を得たこと。
大規模施設での避難誘導が、今後の催事にも活用できること。
海浜部と内陸部の違いを紹介した点が、地元住民に好評だったこと。
遥は満足そうに頷いた。
「作者の知人や行きつけの飲み屋も、少しは守れそうなのら」
琴音は答える。
「店ごとの避難経路は、作者本人に確認してもらうじゃんね」
遥は次の企画書を探した。
「次はどこなのら?」
琴音は端末を確認する。
「まだ未定らしいじゃん」
「作者が住んでいた街は、もうないのら?」
「候補はあるみたいだけど、まだ決めとらん」
「珍しく、我田引水する先が決まっていないのら」
「開催地が決まるまでは、普通の防災イベントじゃんね」
遥は一度だけ頷く。
「ふーん」
シリーズ初の、
「次回開催地、未定」
だった。
一方、稲毛区のホルモン焼き店では、美月がオーナーへ連絡していた。
『次の開催地が決まるまで、店で待機してもええ?』
返信は早かった。
『普通に食事へ来るなら歓迎します』
美月は小春へ画面を見せた。
「歓迎されとるで!」
小春はため息をつく。
「待機所としては断られてるじゃん」
次の街は、まだ決まっていない。
それでも、お天気お姉さん・杉山ひかりと仲間たちの防災活動は続いていく。
晴れているうちに備える。
地域による違いを知る。
分からないことを、家族や仲間と話し合う。
笑いながら学び、いざという時には迷わず動く。
そして何より――
千葉は、決して遠くない。
少なくとも、館山みのりとこの小説の作者の前では、そう言っておくのが最も安全だった。




