北の海を救ったまゆちゃん、次は真夏のエアードームへ! ――石巻市代表のベンチで「困ったときのまゆちゃん」、ただし野球のルールは勉強中です
ノースフロント仙台分室の大型モニターに、赤い文字が並んでいた。
密漁母船、押収。
高速小型船、全船確保。
森町沿岸冷凍倉庫、活動停止。
偽装水産会社、摘発。
資金洗浄口座、凍結。
道南地区指揮系統、完全消滅。
高沢雪乃は、最後の報告書を静かに読み上げた。
「ジェネラス・リンク道南地区密漁拠点について、再建に利用できる船舶、施設、資金、通信網は残っていません」
木戸瑠美、通称るみねぇが腕を組む。
「つまり、完全壊滅ね」
「はい」
雪乃が大きく息を吐いた。
函館から始まった道南での戦い。
観光客のふりをした工作員。
旧江差線の記憶を悪用した暗号網。
奥尻島全体へ設置された中継器。
噴火湾で待ち構えていた密漁母船。
長く続いた道南任務は、ノースフロントの完勝で幕を閉じた。
仙台分室の会議室に、安堵の空気が流れる。
佐々木玲香が椅子の背にもたれた。
「今度は、一隻も逃がさなかったっちゃ」
中野柚希も静かに頷く。
「津軽海峡で残した借り、ようやく返せたべ」
菊池瑠璃は、噴火湾の海を映した写真へ目を向けた。
「函館も、江差も、奥尻島も、噴火湾も守れたんだね」
森田紗耶が穏やかに言う。
「地元の人たちが協力してくれたおかげだすけ」
今津乙実も、小さいながら以前よりはっきりした声で続ける。
「皆が見つけたもの、ちゃんとつながったさげ」
阿部柚葉は報告書を確認しながら総括した。
「船、人員、資金、販売経路を同時に止めた。再発防止策としても非常に合理的」
その瞬間、会議室の後方で椅子が大きく鳴った。
高城彩芽が立ち上がっていた。
「そして最後に赤い扉を開けたのは、あたしだべさ!」
菅野真結が横から静かに付け加える。
「二回押してから、引いたけどね」
「最後には開いたっしょ!」
「最初から扉に『引く』って書いてあったよ」
「押して開かないことを確認したから、引く判断ができたべさ!」
柚葉が真顔で言った。
「確認工程としては無駄が多い」
「でも開いたべさ!」
「そこだけは否定しない」
るみねぇが小さく笑う。
道南地区の巨大な犯罪網を壊滅させた最終報告会は、赤い扉の開け方を巡る議論で締めくくられようとしていた。
◇
一番目立たなかった功労者
雪乃はモニターを切り替えた。
道南任務での各メンバーの働きが映し出される。
現地の文化と土地勘を生かした瑠璃。
住民や漁業関係者から信頼を得た紗耶。
小さな異変を見逃さなかった乙実。
大胆な発想で敵の逃げ道を削った柚葉。
敵を引きつけ続けた玲香。
安全な進路と間合いを作った柚希。
圧倒的な体力と根性で最後の突入を決めた彩芽。
噴火湾で鮮やかな操船を見せた河合美音。
情報を解析した雪乃。
全体を統括したるみねぇ。
写真や映像には、誰もが分かる活躍が残っていた。
その一方で、菅野真結の写真は地味だった。
会議中に地図を広げている。
彩芽の救命胴衣をつかんでいる。
乙実の話を聞いている。
漁港で救急用品を並べている。
レンタカーの乗車表を書いている。
食堂で空いた皿を端へ寄せている。
敵船へ飛び移る映像もなければ、派手な必殺技もない。
真結本人も気にしていなかった。
「私は皆さんが動きやすいようにしただけですから」
雪乃が口を開こうとした時、玲香が先に言った。
「その“だけ”がなかったら、噴火湾で柚希と揉めたまま網へ突っ込んでたかもしれないっちゃ」
柚希が玲香を見る。
「玲香が前しか見ねえからだべ」
「うちは母船を見失わない役だったの!」
「だから、こっちは網を見てたんだべ」
「だったら最初から、もう少し優しく言えばいいっちゃ」
「海戦の最中に言い方まで指定されても困るべ」
二人の声が少しずつ強くなる。
真結が間へ入った。
「玲香ちゃんは母船を見失わなかった。柚希ちゃんは網を見つけた。二人が別の場所を見たから、美音ちゃんが東郷ターンを決められたんだよ」
玲香と柚希が黙る。
真結はどちらが正しいとも言わなかった。
どちらが悪いとも言わなかった。
二人がそれぞれ果たした役割だけを言葉にした。
玲香は少し視線をそらす。
「まあ……まゆちゃんが先に分けてくれたから、動きやすかったのは本当だっちゃ」
柚希も小さく頷いた。
「誰が何を見るか分がってれば、余計な迷いはなかったべ」
次に乙実が手を挙げた。
以前なら、誰かの発言が終わるのを待っているうちに会議そのものが終わっていた。
今は違う。
真結がすぐに乙実を見る。
「乙実ちゃん、どうぞ」
乙実は少し照れながら話した。
「私の声、いつも拾ってくれたさげ」
「乙実ちゃんが大事なことを見つけてくれたからだよ」
「でも、前は言っても誰にも聞こえねえことが多かった」
真結は笑う。
「今は皆も聞くようになったよ」
柚葉が頷く。
「乙実の発見は、作戦成功率への寄与が高い」
乙実は少し驚いて柚葉を見る。
柚葉は無表情のまま続けた。
「今後も、小さな違和感を発見した場合は、優先的に報告してほしい」
「うん」
乙実の返事は、これまでで一番大きかった。
紗耶も真結を見る。
「まゆちゃんがいると、失敗しても立て直せる気がするんだすけ」
「失敗しても、次にできることは残ってるからね」
瑠璃も穏やかに頷く。
「地元の人へ無理をお願いしないようにしてくれたのも大きかったよ。町や島を守る任務で、そこで暮らす人を困らせたら意味がないっしょ」
柚葉はタブレットへ何かを入力している。
真結が尋ねた。
「何を書いてるの?」
「菅野真結の評価」
「本人の前で査定を始めないでね」
柚葉は読み上げた。
「人的配置、情報共有、感情面の安定化、作戦崩壊時の再構築能力。総合評価は非常に高い」
「だから、人を資源みたいに数えないでね」
最後に、彩芽が勢いよく真結へ抱きついた。
「まゆちゃんのお陰だべさ!」
小柄な真結の体が、彩芽の勢いで椅子ごと数センチ後退した。
「彩芽ちゃん、力を少し弱めようね」
「本当に全部、まゆちゃんのお陰だべさ!」
「具体的には、どの辺りかな?」
彩芽は真剣な顔になる。
「走る場所を教えてくれたべさ」
「うん」
「走る時間も教えてくれたべさ」
「うん」
「誰を追えばいいかも教えてくれたべさ」
柚葉が即座にまとめる。
「彩芽には、その三点で十分」
彩芽はさらに付け加えた。
「まゆちゃんがいなかったら、あたし最初に見つけた小型船へ飛び移ってたべさ!」
「それは感謝の言葉というより、危険行動の告白だよ」
「でも、まゆちゃんが止めてくれたっしょ!」
「何度も止めたね」
「幼稚園児みたいに優しく言ってくれたべさ!」
玲香が吹き出す。
「自分で園児扱いを認めたっちゃ」
彩芽は胸を張った。
「優しくされるのは、いいことだべさ!」
真結は苦笑しながら、彩芽の頭を軽くなでた。
◇
ノースフロントの新しい合言葉
道南任務を終えてから、ノースフロント仙台分室では一つの言葉が急速に広がっていた。
玲香と柚希の席が会議で隣になる。
二人とも無言。
だが、周囲には低気圧が発生したような空気が漂う。
紗耶が小声で言う。
「困ったときのまゆちゃんだすけ」
真結が二人の間へ資料を一冊置く。
「この資料を二人で確認してね。玲香ちゃんは現場で実行できるか、柚希ちゃんは安全面に問題がないかを見て」
二人の視線が資料へ落ちる。
冷戦は継続中。
それでも、仕事は始まる。
別の日。
柚葉が会議で提案する。
「議論がまとまるまで、全員を会議室へ閉じ込める」
るみねぇが真結を見る。
「急いで、まゆちゃん」
真結は柚葉へ尋ねる。
「柚葉ちゃんは、全員が途中で退出しない状態にしたいんだよね?」
「そう」
「だったら施錠ではなく、終了予定時刻と議題ごとの時間を先に決めよう」
「また丸くされた」
「鍵を使わずに済んだね」
また別の日。
乙実が小さく手を挙げている。
だが玲香と彩芽が大声で話していて、誰にも気づかれない。
瑠璃が言う。
「静かに、まゆちゃん」
真結がマイクを取り、聞き取りやすい声で告げる。
「乙実ちゃんが発言します。いったん皆さん、話を止めてください」
会議室が静かになる。
さらに別の日。
彩芽が災害備蓄用の非常食を勝手に開封している。
雪乃が言う。
「最優先で、まゆちゃん」
真結は彩芽の手から缶を受け取る。
「彩芽ちゃん、これは訓練や災害の時に使うものだよ」
「賞味期限を確認しようと思ったべさ!」
「まだ二年あるよ」
「味も確認した方がいいっしょ!」
「味見のために備蓄を減らしません」
真結の右手には会議資料。
左手には非常食。
首には見学者用の名札。
机の上には玲香と柚希の役割表。
柚葉からは新しい封鎖案が送られている。
真結はとうとう声を上げた。
「何でも私に回さないでください!」
玲香が当然のように答える。
「でも、まゆちゃんへ聞くと早いっちゃ」
柚希も頷く。
「話がこじれねえべ」
柚葉は真顔で言う。
「成功率が最も高い」
彩芽は元気よく手を挙げた。
「困ってない時も、まゆちゃんだべさ!」
「それだと私が一日中忙しいんだけど」
「人気者は忙しいべさ!」
真結はノースフロントのリーダーではない。
命令権もない。
だが、チームの空気と流れを整える役として、早くも欠かせない存在になっていた。
◇
石巻工場でも通常運転
道南任務の最終報告会が終わろうとした時だった。
真結のスマートフォンが鳴った。
表示された名前は、
北洋製紙石巻工場・動力課。
真結は一度、天井を見上げてから電話に出る。
「はい、菅野です」
『まゆちゃん? 第一会議室を予約したはずなんだけど、別の部署も使うって言ってるんだよ』
「予約表を確認しましたか?」
『したよ。うちの名前、第二会議室に書いてある』
「では、第二会議室を予約しています」
『でも、いつも第一会議室なんだ』
「今回は第二です」
『第一、空いてないかな?』
「私は仙台にいるので、第一会議室の中は見えません」
『まゆちゃんなら分かると思って』
「私は監視カメラではありません」
電話の向こうが少し黙る。
『第二会議室にプロジェクターはある?』
「壁側の収納棚にあります」
『リモコンがない』
「上段を見てください」
『黒いリモコンが三つある』
「電源ボタンの下に“EP”と書いてあるものです」
『字が小さくて見えない』
「眼鏡をかけてください」
『眼鏡、机に置いてきた』
「取りに戻ってください」
玲香が小声で言う。
「そこから説明するの?」
電話は終わらない。
プロジェクターのリモコン。
予備電池。
延長コード。
会議資料の印刷部数。
来客用のお茶。
空調の設定温度。
机の配置。
終了後の原状復帰。
道南地区密漁網の壊滅報告は十二分で終わった。
会議室一室の準備相談は、すでに十五分を超えている。
柚葉が時計を見る。
「犯罪組織の拠点壊滅より、会議室の使用開始に時間がかかっている」
玲香も呆れる。
「会議室一つで、そこまで問題が起きるものなの?」
柚希は笑う。
「石巻工場でも、困ったときのまゆちゃんだべ」
彩芽が電話へ顔を近づける。
「第二会議室を使って、黒いリモコンで映せばいいべさ!」
電話の相手が尋ねた。
『今の誰?』
真結が答える。
「札幌の同僚です」
彩芽は胸を張る。
「まゆちゃんの一番弟子だべさ!」
「弟子にした覚えはないよ」
『彩芽さんへ会議室の準備を頼めない?』
「絶対に駄目です」
彩芽が頬を膨らませる。
「会議室くらい準備できるべさ!」
「彩芽ちゃん、昨日の反省会にクラッカーを持ってきたよね?」
「会議を盛り上げるためだべさ!」
「通常の会議は、開会と同時に紙テープを飛ばさないんだよ」
『楽しそうな会議だな』
電話の向こうの従業員が、少しうらやましそうに言った。
◇
石巻市代表、エアードームへ
数日後。
北洋製紙石巻工場から、仙台分室へ朗報が届いた。
北洋製紙石巻硬式野球部が、厳しい予選を勝ち上がった。
今年も石巻市代表として、都市対抗野球大会への出場を決めたのである。
都市対抗野球。
それは企業チームの全国大会であると同時に、それぞれの都市が誇りを懸けてぶつかる真夏の祭典だった。
選手が背負うのは、会社の名だけではない。
石巻市。
大阪市。
札幌市。
広島市。
全国各地の都市名が、ユニフォームと応援旗へ掲げられる。
会社の同僚。
家族。
取引先。
地域住民。
自治体関係者。
学生。
吹奏楽団。
応援団。
チアリーダー。
一つの都市を応援する人々が、首都の巨大屋内球場――エアードームへ集結する。
応援席には巨大な社旗が揺れる。
郷土芸能が登場する。
地元の祭りを思わせる衣装が並ぶ。
ブラスバンドの音が白い屋根へ反響する。
チアリーダーが一糸乱れぬ演技を披露する。
応援団の掛け声が、反対側のスタンドへぶつかる。
得点が入れば、数千人が一斉に立ち上がる。
試合はグラウンド上だけで行われるのではない。
観客席でも、都市と都市が文化と情熱を競い合う。
地方の名物。
方言。
祭り。
応援歌。
会社の伝統。
その全てが持ち込まれる。
野球を詳しく知らない人でも、派手で郷土色豊かな応援合戦を見れば、いつの間にか手拍子をしている。
エアードームが、日本各地の都市を一つの空間へ詰め込んだ巨大な夏祭りへ変わる。
それが都市対抗野球だった。
石巻工場でも、代表決定と同時に準備が始まった。
応援バス。
宿泊。
弁当。
応援旗。
横断幕。
吹奏楽団の楽器運搬。
来場者名簿。
記念品。
迷子対策。
東京での集合場所。
そして野球部員と野球部長から、一つの強い要望が出された。
菅野真結を、ダイヤモンドサポーターとしてベンチ入りさせてほしい。
◇
ベンチの総務部
真結は現在、ノースフロントへ出向している。
野球部の大会へ同行するため、一時的に戻るには調整が必要だった。
それでも野球部長は譲らなかった。
仙台分室とのオンライン会議で、真剣な表情を見せる。
「菅野さんがいると、選手が落ち着くんです」
若手選手たちからも、次々と声が届く。
『失敗した時、無理に“気にするな”って言わないんです』
『次に何をすればいいかだけ、短く言ってくれます』
『出番のない選手にも、お守りを作ってくれます』
『誰が緊張しているか、一番早く気づきます』
『ベンチへ戻った時、まゆちゃんが笑っていると安心します』
選手の多くは、真結より年下だった。
真面目で責任感が強い。
石巻市と工場の名を背負う大舞台だからこそ、自分を追い込みすぎる選手もいる。
真結は、そんな選手を子ども扱いしない。
過剰に慰めない。
一人の競技者として尊重しながら、その人に必要な言葉を渡す。
野球部長は最後に言った。
「菅野さんは、勝利の女神というより――」
少し考える。
「ベンチの総務部です」
真結は複雑な表情を見せた。
「それは褒められているのでしょうか」
「最大限に褒めています」
るみねぇが笑う。
「出向元がそこまで言うなら、少しくらい返してあげないとね」
雪乃も頷く。
「石巻市を代表する重要な活動です。ノースフロントはこちらへ任せてください」
真結の一時帰任と、エアードームでのベンチ入りが決まった。
最も不安そうな顔をしたのは彩芽だった。
「まゆちゃんが東京へ行ったら、誰があたしを止めるべ?」
柚葉が答える。
「自分で止まりなさい」
「それができたら、まゆちゃんはいらないべさ!」
真結は彩芽の頭をなでる。
「成長しても、私はいなくならないよ」
「本当だべ?」
「数日で戻ってくるから、雪乃さんとるみねぇの言うことを聞いてね」
「手はお膝だべ?」
「会議中はね」
柚葉が真顔で言う。
「必要なら、椅子へ固定する」
「固定はしないでね」
真結は東京へ行く前から、留守中の安全管理まで始めることになった。
◇
みんなのまゆちゃん、ただしルールは勉強中
真結が北洋製紙石巻硬式野球部の練習場へ姿を見せると、若手選手たちが一斉に集まってきた。
「まゆちゃん、お帰りなさい!」
「今年もベンチへ入ってくれるんですか?」
「お守り、あります?」
真結は大きな箱を開ける。
中には、手作りのお守りが並んでいた。
「いつもどおり」
「次の一球」
「出番は来る」
「あなたもチーム」
選手だけではない。
監督。
コーチ。
トレーナー。
用具担当。
応援団。
バス運転手。
荷物を運ぶ工場職員。
大会を支える全員分が用意されていた。
「多すぎませんか?」
若手選手が驚く。
「誰かが足りないと嫌だから」
「まゆちゃん、こういうところだけは準備が異常に早いですよね」
「こういうところ“だけ”って言った?」
練習試合が始まる。
真結はベンチで選手たちを見守った。
エラーを引きずっている選手へ、水とタオルを渡す。
「次の守備で一つ取ろう」
出番を待つ控え選手へ声をかける。
「まだ試合は終わってないよ」
投手が緊張している時は、無理に話しかけず近くへ座る。
得点が入れば、誰よりもうれしそうに拍手する。
頼れるお姉さん。
みんなのまゆちゃん。
ただし、野球のルールだけは、五年目になっても少し怪しかった。
送りバントが成功する。
真結は拍手した。
「きれいに送れましたね」
若手選手が答える。
「宅配便じゃないですよ」
「送りバントだから、送るんですよね?」
「意味は合っていますけど、表現が違います」
満塁で三つ目のアウト。
攻守交代となる。
真結は一塁、二塁、三塁を見回した。
「塁にいた三人は、次の回もそこから始めるんですか?」
「全員ベンチへ戻ります」
「せっかく進んだのに?」
「攻守交代ですから」
「塁へ置いていくんですか?」
「置いていったら、次の守備で邪魔です」
大きな打球が飛ぶ。
わずかにファウル。
真結は惜しそうに言った。
「今のは、半分くらいヒットですか?」
「ゼロです」
「ヒット候補?」
「候補制度はありません」
「ヒット見習い?」
「ありません」
選手が頭を抱えた。
「まゆちゃん、何年間ベンチにいるんですか?」
真結は指を折る。
「今年で五年目かな」
「五年間、何を見ていたんですか?」
真結は当然のように答えた。
「みんなの顔色です」
選手は何も言えなくなった。
ルールは曖昧でも、選手が無理をしているかどうかは分かる。
誰が焦っているか。
誰が自信を失っているか。
誰が明るく振る舞いながら、内心では落ち込んでいるか。
真結は、野球そのものよりも、そこで戦う人を見ていた。
だから選手たちは、彼女を必要としていた。
◇
エアードームの向こう側
一方、大阪。
大阪市代表として都市対抗野球へ出場する大手ガス会社の応援団では、赤嶺美月がチアリーダーとして練習していた。
白いロングブーツ。
華やかな衣装。
力強いダンス。
美月は練習終了後、胸を張って宣言する。
「うちらの応援で、エアードーム揺らしたるで!」
周囲のチアリーダーが止める。
「建物は揺らさないでください」
「そんくらい盛り上げるっちゅう意味や!」
美月は、真結が石巻市代表のベンチへ入ると知った。
すぐに電話をかける。
『まゆちゃんもエアードーム来るん?』
「うん。ベンチへ入ることになったよ」
『ほんなら戦隊ヒロイン対決やん!』
「私は試合に出ないよ」
『うちも応援席や!』
「直接は何も対決しないよね?」
『ベンチ対応力と応援力の勝負や!』
「どうやって採点するの?」
『声の大きさ!』
「私は大声を出す役ではないよ」
『ほんなら、お守りの数や! うちはチアの皆へ作るで!』
「私は選手、スタッフ、運転手さんまで七十八個作ったよ」
電話の向こうで、美月が黙った。
『……七十八?』
「うん」
『多いな! そこは負けたわ!』
対戦カードさえ決まっていないのに、美月はお守り部門で早くも敗北を認めた。
戦隊ヒロインファンと社会人野球ファンの間では、微妙な注目が集まり始める。
大阪市代表の応援席で踊る赤嶺美月。
石巻市代表のベンチを支える菅野真結。
「美月は確実に目立つ」
「真結は映像に映るのか」
「真結は五年目でルールを覚えたのか」
「そもそも両チームは対戦するのか」
期待されているのか、心配されているのか、よく分からない盛り上がりだった。
◇
出発前から「困ったときのまゆちゃん」
エアードームへ向かう前日。
ノースフロントのメンバーが、仙台分室で真結を見送る。
玲香は少し素っ気なく言った。
「こっちのことは心配しなくていいっちゃ」
柚希も続ける。
「彩芽が飛び出したら、皆で止めるべ」
柚葉はタブレットを見せる。
「彩芽の行動予測表も作成した」
彩芽がのぞき込む。
「何が書いてあるべ?」
「走る。食べる。飛び出す」
「三つなら完璧だべさ!」
「予測しやすいという意味」
乙実は真結へ小さなお守りを渡した。
「まゆちゃんも、いつもどおりでいてほしいさげ」
紗耶は笑う。
「石巻の皆さんば元気にしてきてけろ」
瑠璃も頷く。
「エアードームでも、まゆちゃんらしくね」
最後に彩芽が、大きな紙を広げた。
太い文字で、
「まゆちゃんのお陰たべさ!」
と書かれている。
真結は紙をしばらく見つめた。
「彩芽ちゃん。『お陰だべさ』だよ」
「“だ”がなくても、元気で補えるべさ!」
「助詞は元気では補えないよ」
「気持ちは伝わったっしょ!」
「それは、すごく伝わったよ」
真結は紙を受け取り、うれしそうに笑った。
その瞬間、スマートフォンが鳴る。
表示は、
北洋製紙石巻工場・硬式野球部。
「はい、菅野です」
『まゆちゃん? 応援バスの座席表なんだけど、二号車の三列目だけ一人余るんだよ』
「参加者名簿と照合しましたか?」
『した。でも誰を座らせるか決まらない』
「家族参加者の組み合わせを見直してください。小学生を一人だけ別の列へ置かないように」
『弁当は一号車へ全部積む?』
「一号車だけだと荷物が集中します。二号車にも分けてください」
『メガホンは?』
「応援団用と一般参加者用を混ぜないでください」
『大太鼓はバスの座席?』
「楽器運搬車です。大太鼓へシートベルトを締めて人の席へ座らせないでください」
『一席空いてるから、ちょうどいいと思って』
「太鼓は乗客ではありません」
説明は続く。
応援バスの座席。
休憩場所。
弁当の積み込み。
大太鼓。
応援旗。
救急用品。
迷子対策。
エアードーム到着後の集合場所。
柚葉が時計を見る。
「出発前から遠隔運営が始まった」
玲香が笑う。
「まだ仙台を出てないっちゃ」
彩芽が電話へ向かって叫んだ。
「まゆちゃんの席だけ確保して、あとはエアードームで何とかすればいいべさ!」
電話の相手が尋ねる。
『今の誰?』
真結が答える。
「札幌の同僚です」
彩芽は胸を張った。
「まゆちゃんの留守番責任者だべさ!」
真結がスマートフォンを少し遠ざける。
「一番不安になる肩書を名乗らないで」
『その人へ仙台分室を任せて大丈夫?』
「私も今、不安になっています」
仙台分室に大きな笑い声が響いた。
◇
中締め――北の海から真夏の祭典へ
函館。
江差。
奥尻島。
噴火湾。
ノースフロントは、道南を食い物にしていたジェネラス・リンクの密漁拠点を完全に壊滅させた。
その中で、新加入の菅野真結は一度も派手な必殺技を使わなかった。
敵船を操ったわけでもない。
敵の工作員を薙ぎ倒したわけでもない。
一番速く走ったわけでもない。
それでも、彼女は誰よりも多くの人を動かした。
小さな声を拾った。
衝突する二人へ、別々の役割を渡した。
大胆すぎる案を、実行できる形へ整えた。
暴走する彩芽を何度も止め、最後に最も活躍できる場所へ送り出した。
劣勢でも、できないことばかりを数えなかった。
今ある人、物、情報をつなぎ直した。
年下のヒロインたちは、真結を頼れるお姉さんとして慕うようになった。
ノースフロントでは、
「困ったときのまゆちゃん」
が正式な合言葉になった。
出向元の北洋製紙石巻工場でも、その言葉は今日も発令され続けている。
そして次の舞台は、北の海ではない。
全国の都市が誇りを懸けて集う、真夏のエアードーム。
石巻市代表のベンチへ、みんなのまゆちゃんが帰ってくる。
野球のルールは、まだ勉強中。
送りバントを宅配便の仲間だと思っている。
ファウルを半分ヒットだと考えている。
攻守交代になると、塁上の走者を置いていくことを心配する。
それでも真結は、誰よりも大会を楽しみにしていた。
彼女が見たいのは、勝敗だけではない。
選手が笑う瞬間。
控え選手へ出番が訪れる瞬間。
工場の仲間と石巻の人々が一つになる瞬間。
数万人の応援が、白い屋根の下へ響き渡る瞬間。
人と人が一つにつながる大きなイベント。
それこそ、菅野真結が最も力を発揮する場所だった。
そして、エアードームの別の応援席では、赤嶺美月がすでに準備運動を始めている。
戦隊ヒロイン対決は実現するのか。
石巻市代表と大阪市代表は本当に対戦するのか。
真結は大会終了までに、野球のルールを一つでも多く覚えられるのか。
応援バスの空席には、誰が座るのか。
大太鼓は、本当に楽器運搬車へ積まれたのか。
それは次の物語で明らかになる。




