奥尻ブルーは、今日も輝く! ――海の向こうも総務案件です! 走れ彩芽、全部つなぐまゆちゃん
江差港近くの食堂では、つい先ほどまで、にぎやかな祝勝会が開かれていた。
旧江差線の記憶を悪用したジェネラス・リンクの計画を阻止し、ノースフロントの面々は、焼き魚やニシン料理を囲んでいたのである。
もっとも、菅野真結だけは祝勝会の途中から、北洋製紙石巻工場の従業員へ通勤経路変更届の書き方を説明していた。
「ですから、毎朝寄るコンビニは通勤経路に含めません」
『でも、毎朝必ず寄るんだよ』
「毎朝でも、寄り道は寄り道です」
『帰りに寄るスーパーは?』
「それも含めません」
『カラスの多い道を避ける場合は?』
「通勤経路変更届に、カラスの行動範囲まで記載しなくて大丈夫です」
真結が北海道の江差町から石巻工場の書類相談を受けている最中、高沢雪乃から緊急通信が入った。
『全員、その場で待機してください』
食堂の空気が変わる。
雪乃が共有した画面には、日本海に浮かぶ島の輪郭が表示されていた。
奥尻島。
江差で回収したジェネラス・リンクの端末から、奥尻島内の複数地点を示す座標が見つかったのだ。
北部。
西海岸。
南部。
そして島中央部。
『奥尻島で、江差と同じ形式の不審通信が始まっています』
雪乃の声は冷静だった。
『工作員はすでに島へ渡った可能性があります』
高城彩芽が箸を持ったまま立ち上がる。
「次は船で追うべさ!」
真結は電話を耳に当てたまま、彩芽の上着をつかんだ。
「まだ乗らないよ」
「でも、列車と違って船は来るっしょ!」
「出航時刻と装備を確認してから」
電話の向こうでは、石巻工場の従業員がまだ待っていた。
『まゆちゃん、カラスの話はもういい?』
「今から奥尻島へ行くので、続きは明日、総務部へ確認してください」
『奥尻島なら仕方ないな』
真結は思わず聞き返した。
「なぜ奥尻島なら納得するんですか?」
『島だから遠いでしょ』
「函館も江差も十分遠かったですよ」
こうして江差での祝勝会は、十五分後には奥尻島緊急作戦会議へ変わった。
◇
翌朝。
江差港のフェリー待合所には、明らかに準備不足のノースフロントが集まっていた。
高性能通信機は二台。
予備バッテリーは全員分に足りない。
小型ドローンは一機。
携行食は少々。
救急用品は最低限。
着替えに至っては、持っている者と持っていない者がいる。
佐々木玲香は、並べられた装備を見て眉をひそめた。
「これだけなの?」
木戸瑠美、通称るみねぇが答える。
「江差での任務直後なのよ。緊急手配できただけでも十分でしょう」
「うちの予備バッテリーがないっちゃ」
「昨日使ったでしょう」
「最初から奥尻島まで想定して用意するべきだったっちゃ」
「ジェネラス・リンクが旅程表を送ってくれなかったのよ」
隣では阿部柚葉が携帯端末の残量を確認している。
「残り四十二パーセント。島全体を調査するには不十分」
雪乃が答える。
「節電してください」
「追加装備を空輸できない?」
「到着を待てば、敵の送信開始に間に合いません」
柚葉は地図を見る。
「では、島全体を封鎖する」
菊池瑠璃が静かに振り返る。
「島民の生活まで止めないでくれるかい」
「島だから出入口は港と空港に限定される」
「柚葉ちゃんは、島を見ると最初に封鎖したくなるんだね」
玲香は腕を組み、柚葉は無表情のまま地図を見つめる。
装備不足。
睡眠不足。
江差任務の疲れ。
ノースフロントの空気は、フェリーへ乗る前から沈みかけていた。
そこで真結が、待合所の机へ一枚の紙を広げた。
左側に、
「足りないもの」
右側に、
「今あるもの」
と書く。
「通信機が足りません」
真結は左側へ書く。
「バッテリーも足りないっちゃ」
玲香が付け加える。
「専用車両もない」
柚葉も言う。
「準備時間もないわね」
るみねぇが続ける。
左側は、すぐに埋まった。
真結は右側へ移る。
「雪乃さんの解析力」
「るみねぇの判断力」
「瑠璃ちゃんの道南への知識」
「玲香ちゃんの機動力」
「柚希ちゃんの安全判断」
「乙実ちゃんの観察力」
「柚葉ちゃんの決断力」
「紗耶ちゃんの人と話す力」
「彩芽ちゃんの体力と根性」
彩芽が胸を張る。
「頭は書かないべか?」
真結は一瞬黙った。
「今回は、体力と根性を中心にお願いしようかな」
「了解だべさ!」
中野柚希が苦笑する。
「本人が納得したなら、いいんでねえか」
真結は最後に書いた。
「全員が無事にそろっている」
玲香が紙を見る。
「きれいごとでバッテリーは増えないっちゃ」
「増えないよ」
真結はあっさり認めた。
「だから、通信機を持つ人と、持たなくても動ける人に分けよう。充電が必要な仕事も順番を決めればいい」
不満を否定しない。
無理に前向きになれとも言わない。
あるものを並べ、動ける形へ変える。
柚葉が紙を見つめた。
「少なくとも、何が残っているかは分かりやすい」
玲香も渋々頷く。
「まあ、何もないわけではないっちゃ」
真結は笑う。
「うん。ないものだらけだけど、ゼロではないよ」
その一言で、少しだけ空気が軽くなった。
◇
フェリーが江差港を離れる。
甲板へ出た彩芽は、奥尻島の方向へ両手を広げた。
「奥尻島まで競走だべさ!」
真結が隣で尋ねる。
「何と競走するの?」
「このフェリー!」
「今、そのフェリーに乗ってるよ」
「中から応援したら速くなるっしょ!」
彩芽は船首へ向かって叫んだ。
「頑張るべさー!」
五分後。
船内の長椅子で横になっていた。
「まゆちゃん……海が縦に揺れてるべさ……」
「海じゃなくて、彩芽ちゃんが船酔いしてるの」
「天井も波打ってるっしょ……」
「天井は動いてないよ」
柚葉が彩芽を見下ろす。
「走ることには強いのに、乗り物には弱いのね」
玲香も不安そうに言う。
「最後を彩芽に任せる予定で、本当に大丈夫?」
真結は彩芽へ酔い止めと水を渡し、毛布をかけた。
「島へ着くまで休めば、その分、走る体力を残せるよ」
彩芽は目を閉じたまま拳を上げる。
「着いたら……なまら走るべさ……」
「今は静かに寝ようね」
玲香が小さく笑う。
重苦しかった船内の空気が、彩芽の船酔いで少し和らいだ。
◇
フェリーが奥尻港へ近づく。
青い海の向こうに、緑豊かな島が姿を現した。
透明感のある海。
荒々しい岩場。
風を受ける岬。
深い森。
海岸沿いを縫う道路。
島の象徴である、なべつる岩。
奥尻島は、場所によって海の色も、風景の表情も変わる、美しい離島だった。
「奥尻ブルー……」
紗耶が窓の外を見ながら呟く。
「本当にきれいだすけ」
奥尻島は、一九九三年の北海道南西沖地震による津波と火災で甚大な被害を受けた。
特に南部の青苗地区は、深い傷を負った。
それでも島の人々は立ち上がった。
町を再建し、防災施設を整え、被害の記憶と命を守る教訓を未来へ伝えてきた。
悲しみを忘れない。
しかし、悲しみだけで語られる島にもさせない。
奥尻島は、美しい海と、人々の強さが共存する島だった。
瑠璃は港へ降り立つと、静かに島を見渡した。
「こんなにきれいで、こんなに頑張ってきた島を、犯罪の中継地点にするなんて許せないっしょ」
真結も頷く。
「島を守るだけじゃなくて、島の方たちの生活を邪魔しないようにしよう」
彩芽がフェリーから降りてくる。
顔色はまだ少し青い。
「奥尻ブルーと同じ色になったべさ……」
「少し休んでからね」
「走れば治るっしょ!」
「治らないよ」
◇
緊急手配できたレンタカーは三台だった。
一台目はミニバン。
二台目はコンパクトカー。
三台目は荷物運搬用の軽バン。
玲香は軽バンを見て顔をしかめる。
「まさか、うちがこれに乗るの?」
柚葉は後部座席を確認する。
「窓が手動。充電端子も一つしかない」
るみねぇが答える。
「走れば十分よ」
「座席が硬いっちゃ」
「収納も少ない」
「観光旅行の車選びじゃないのよ」
真結は乗車表を見せる。
第一車。
瑠璃、玲香、柚希。
第二車。
雪乃、真結、彩芽。
第三車。
るみねぇ、乙実、柚葉、紗耶。
玲香がすぐに反応する。
「どうして、うちと柚希が同じ車?」
柚希も視線を外した。
真結は簡潔に答える。
「瑠璃ちゃんを、玲香ちゃんの機動力と柚希ちゃんの安全判断で支えてほしいから」
仲直りさせるためとは言わない。
冷戦を解消するためとも言わない。
仕事上、最も力が出る組み合わせだとだけ伝える。
柚葉には別の説明をする。
「柚葉ちゃんは、乙実ちゃんが見つけたことをすぐ作戦へ変えて。紗耶ちゃんには島の方からお話を聞いてもらうね」
柚葉は軽バンへ乗り込む。
「車には不満があるけど、編成は合理的」
玲香もミニバンの扉を開けた。
「一応、理由は分かったっちゃ」
るみねぇが笑う。
「文句を言いながらも、二人ともちゃんと乗るのね」
◇
ジェネラス・リンクの作戦名は、
「アイランド・トライアングル」
島の北部、西海岸、南部へ三つの中継器を設置。
同時に電波を発信し、沖合を航行する無人密輸艇へ、監視を避ける航路情報を送る。
三台の車は、島の三方向へ分かれた。
ところが走り始めて間もなく、通信が不安定になる。
敵が一部の電波を妨害していた。
高性能通信機は二台しかない。
一台は雪乃。
もう一台は瑠璃。
軽バン班は、決められた時刻に連絡可能地点へ戻らなければならない。
玲香の声が途切れながら届く。
『聞こえる? こんな状態で島全体を調べろって無理があるっちゃ』
続いて柚葉。
『だから島全体を封鎖して――』
そこで音声が切れた。
真結は通信機を見つめる。
「最後まで柚葉ちゃんらしいね」
雪乃が機器を確認する。
「通信回復には時間が必要です」
真結は鞄から紙とペンを出した。
集合時刻。
連絡不能時の合流地点。
異常を発見した場合の目印。
車同士がすれ違う時の合図。
作業終了後に確認する項目。
「アナログですね」
雪乃が言う。
真結は頷く。
「工場でも、設備が止まった時に最後まで使えるのは紙と人ですから」
最新設備が使えないなら、誰でも理解できる方法へ戻る。
物資不足を嘆くより、間違えにくい手順へ置き換える。
雪乃は紙の行動表を見て言った。
「これなら、通信が切れても最低限の行動を維持できます」
「完璧ではないけど、止まらずには済みます」
◇
島北部へ向かった軽バン班。
強い風が吹き、日本海が広がる。
柚葉は端末で通信反応を探すが、何も表示されない。
「反応なし」
乙実が観光案内板の裏側を見て、小さく呟いた。
「このねじだけ、新しいさげ……」
柚葉がすぐに振り返る。
「どこ?」
函館や江差での任務を経て、柚葉も乙実の観察力を理解していた。
案内板の裏には、自然環境の観測装置へ偽装した小型中継器が設置されていた。
紗耶は近くの住民へ穏やかに聞き取りを行う。
「この辺りで、見慣れない作業車を見ませんでしたか?」
住民は、北部から島中央へ向かった車両を見たと証言した。
柚葉が即座に言う。
「北部へ通じる道路を全て封鎖する」
紗耶が困ったように言う。
「島の人も動けなくなるすけ」
乙実が道路脇を指さす。
「新しいタイヤ跡、一本だけ中央さ向かってる」
柚葉は考えた。
「全部ではなく、この方向だけ監視する」
紗耶が少し驚く。
「柚葉ちゃん、自分で丸くしたんだな」
「真結の方法を参考にしただけ」
通信が回復した時、柚葉は真結へ報告した。
『封鎖は一か所に限定した』
真結は笑う。
「自分で調整できたんだね」
『ただし、島全体を封鎖する予備案は残してある』
「その予備案は捨てていいよ」
◇
西海岸。
瑠璃たちのミニバンは、奥尻ブルーの海と奇岩が続く道を走っていた。
黄色い上着の工作員を発見する。
玲香はすぐに車を降りようとした。
「今なら追いつけるっちゃ!」
柚希が止める。
「この先は道が狭いべ。対向車も来るかもしれねえ」
「また止めるの?」
「安全を確認してるだけだべ」
「そんなことしてる間に逃げるっちゃ」
二人の口調が鋭くなる。
瑠璃は運転中で、間へ入る余裕がない。
その時、ダッシュボードに置かれたカードが目に入った。
真結が出発前に渡した役割カード。
玲香。
「対象を見失わない」
柚希。
「玲香が安全に追える道を作る」
玲香は言葉を止め、対象へ視線を戻す。
柚希は地図と地形を確認する。
「正面は行き止まりだ。次の分岐で山側へ曲がるべ」
「本当?」
「ほかに道はねえ」
玲香は柚希の判断を信じて先回りする。
予測どおり、黄色い上着の男が姿を現した。
「いたっちゃ」
「だから言ったべ」
「そこは褒めてないから」
「別に褒められようと思ってねえべ」
口調は相変わらず冷たい。
だが追跡は成立していた。
真結がその場にいなくても、役割が二人を任務へ戻していた。
◇
南部の青苗地区では、ジェネラス・リンクが防災設備の点検業者を装っていたことが判明する。
島の人々が、多くの犠牲と経験を経て整えてきた防災施設。
その信頼を悪事へ利用する。
瑠璃は静かに怒った。
「この島で、防災を名乗って嘘をつくなんて絶対に許せないっしょ」
紗耶は住民へ慎重に話を聞く。
過去の被害を無理に思い出させない。
不安をあおらない。
「覚えている範囲で大丈夫です。見慣れない作業車を見ませんでしたか?」
住民は、偽業者が荷物を積み替えていた場所を教えてくれた。
そこから三つ目の中継器が見つかる。
さらに工作員が、島中央部へ向かったことも判明する。
奥尻島の人々が積み重ねてきた防災への意識と、人と人とのつながり。
それこそが、敵の偽装を見破る力となった。
◇
北、西、南。
三つの中継器を回収。
ところが雪乃の解析により、それらが全て囮だと判明する。
本物の送信装置は、島中央部の高所にある。
同じ頃、レンタカーの一台がパンク。
通信機のバッテリーも残り少ない。
三方向から包囲する作戦は崩れた。
玲香が不満を爆発させる。
「だから予備車両が必要だったっちゃ!」
柚葉も淡々と文句を言う。
「車両不足、通信不足、電力不足。補給計画としては赤点」
るみねぇが答える。
「緊急任務へ通信簿をつけないで」
彩芽が立ち上がる。
「車が一台減ったなら、あたしが一台分走るべさ!」
真結が上着をつかんだ。
「まだ走らない」
「今度こそ出番だべ?」
「最後に一番大事なところで走ってもらうから」
「最後が長すぎるべさ!」
乙実が、小さく呟く。
「囮の端末……全部、同じ方向さ向いてるように見えるさげ……」
誰もすぐには反応しない。
玲香は車両不足へ文句。
柚葉は配置の再計算。
彩芽は走る構え。
その時、紗耶が自然に言った。
「こういう時こそ、困ったときのまゆちゃんだすけ」
全員の視線が真結へ向く。
真結は目を丸くする。
「それ、石巻工場の言い方なんだけど」
柚希が苦笑する。
「もう、こっちでも通じるべ」
玲香も言う。
「早く何とかして、まゆちゃん」
柚葉は地図を差し出した。
「現状を再構成して」
瑠璃も穏やかに頷く。
「お願いするっしょ」
真結は困ったように笑う。
「一度に言わないで。順番に聞くから」
それでも、すぐに紙を広げた。
ノースフロントでも、
「困ったときのまゆちゃん」
が合言葉になった瞬間だった。
◇
動ける車は二台。
使える通信機は一台。
敵の正確な位置は不明。
だが、乙実が三つの囮端末の向きに気づいている。
瑠璃が、その方向にある高所と管理道を特定する。
柚葉が、敵が使える退路を三本から一本へ絞る。
紗耶が、住民と観光客を安全な迂回路へ案内する。
玲香と柚希は、同じ車で正面から接近。
雪乃とるみねぇは、残った通信機で全体を統括する。
真結は役割を書き直した。
足りないものは増やせない。
だが、残った人と道具を、最も力が出る場所へ置き直すことはできる。
そして彩芽へ向き直る。
「彩芽ちゃんは、敵が車を捨てたら走る」
「やっと出番だべさ!」
「覚えることは三つ」
「三つなら完璧だべさ!」
真結は指を立てる。
「銀色のケースを持つ人を追う」
「うん!」
「海側ではなく、道路側へ追い込む」
「うん!」
「ケースを落とさせない」
「任せるべさ!」
「復唱して」
彩芽は自信満々に答える。
「銀色の人を持って、道路を海へ追い込んで――」
「最初からやり直そうか」
「確認してよかったべさ!」
二回目。
「銀色のケースを追って、海を道路へ――」
「違うね」
三回目。
「銀色のケースを持つ人を追う。道路側へ追い込む。ケースを落とさせない」
「合格」
彩芽は拳を握る。
「今度こそ、本当に最後だべ?」
「本当に最後だよ」
◇
島中央部の高所。
ジェネラス・リンクの工作員は、送信装置を起動していた。
沖合の無人密輸艇へ、島周辺の監視を避ける航路を送ろうとしている。
玲香が正面から工作員を追い立てる。
柚希が道路側の退路を読む。
乙実が工作員の視線から、次に逃げる方向を予測。
柚葉が一本の林道だけを封鎖。
紗耶と瑠璃が、島民と観光客を安全な場所へ誘導する。
追い詰められた工作員は、銀色のケースを持って車を捨てた。
管理道へ走り出す。
真結が彩芽を見る。
「今!」
「待ってましたべさ!」
彩芽が駆け出した。
舗装路。
細い管理道。
急な上り坂。
曲がりくねった道。
日本海から吹き上げる強い風。
遠くには、青く輝く奥尻の海。
通信が途切れる。
真結は地図と、これまで集まった情報だけで判断する。
「彩芽ちゃん、次の分岐を左! そのまま十秒走って!」
彩芽は迷わない。
真結の指示どおり左へ曲がる。
工作員の前へ回り込んだ。
相手は銀色のケースを崖下へ投げようとする。
彩芽は道路脇の低い柵へ片足をかけ、大きく跳んだ。
空中でケースを抱え、そのまま草地へ転がり込む。
肩も膝も泥だらけ。
それでも、ケースだけは離さない。
「頭は少し足りなくても、体力と根性は満タンだべさ!」
工作員が叫ぶ。
「自分で言うな!」
玲香と柚希が追いつき、工作員を確保する。
送信装置は停止。
無人密輸艇も、海上監視班によって捕捉された。
物資不足。
通信制限。
車両故障。
急ごしらえの作戦。
何度も崩れかけた。
それでも、ノースフロントは奥尻島の青い海と、島の人々の日常を守った。
彩芽は泥だらけのまま、銀色のケースを高く掲げる。
「奥尻ブルーは、悪い人には渡さないべさ!」
真結が駆け寄る。
「彩芽ちゃん、膝を見せて」
「任務は成功したべさ!」
「成功しても手当てはするよ」
真結はすぐに救急用品を取り出した。
最後まで、現場を整える仕事は終わらない。
◇
任務終了後。
一行は奥尻港近くの、島民がよく利用する小さな食堂へ入った。
壁には手書きの献立。
窓の外には夕暮れの奥尻ブルー。
店主と常連客の、気取らない会話。
食卓には、島の恵みが並ぶ。
新鮮な刺身。
焼き魚。
煮つけ。
ウニ料理。
温かな汁物。
雪乃がグラスを上げる。
「厳しい条件の中、全員よく任務を遂行しました。そして、奥尻島の皆さんの協力に感謝します。乾杯」
「乾杯!」
彩芽は料理が並ぶ前から箸を構えている。
真結が尋ねる。
「また準備運動?」
「奥尻式の最終調整だべさ!」
「函館とも江差とも変わってないよ」
玲香は刺身を食べながら言う。
「レンタカーの座席は硬かったけど、魚はすごくおいしいっちゃ」
柚葉も一口食べる。
「通信環境には改善余地がある。ただし料理の品質は非常に高い」
るみねぇが笑う。
「二人とも、結局奥尻島を気に入ってるじゃない」
「それと装備不足は別問題だっちゃ」
「評価項目が違う」
二人は文句を言いながら、料理をおかわりしていた。
乙実は、以前より少し大きな声で話している。
紗耶は店主や常連客と打ち解けている。
瑠璃は奥尻島の復興と、島の人々が守ってきた暮らしについて静かに語る。
真結は全員の皿を確認し、追加の飲み物を注文する。
任務後も、総務部員の動きが抜けない。
◇
その時。
真結のスマートフォンが鳴った。
画面には、
北洋製紙石巻工場・抄造第二課
真結は一度、目を閉じた。
「はい、菅野です」
『まゆちゃん? 備品購入申請書の理由欄なんだけど、“必要だから”でいいかな?』
「駄目です」
『でも必要だから買うんだよ』
「何に使用し、現在の在庫ではなぜ不足するのかを書いてください」
『ボールペンが欲しい』
「必要本数は?」
『いっぱい』
「“いっぱい”では申請できません」
『二十本くらい』
「現在庫は?」
『探してない』
「まず確認してください」
『まゆちゃん、どこにあるか知らない?』
「私は今、奥尻島にいます」
『知ってるよ』
「石巻工場の備品棚は見えません」
『まゆちゃんなら分かると思って』
真結の説明は、どんどん細かくなる。
現在庫。
月間使用量。
油性と水性の違い。
黒、赤、青を何本ずつ買うか。
替え芯では対応できないのか。
共有備品なのか個人貸与なのか。
引き出しの奥を確認したか。
電話は十分を超える。
柚葉が呟く。
「無人密輸艇より、ボールペン二十本の方が難航している」
玲香も言う。
「奥尻島から石巻工場の在庫管理してるっちゃ」
柚希が苦笑する。
「島では通信が切れたのに、工場からの電話だけ感度いいべ」
電話の相手が尋ねる。
『理由欄は、“業務に必要なため”でいい?』
「何の業務に必要なのか書いてください」
『書類を書くため』
「どの書類ですか?」
『いろいろ』
「“いろいろ”も不可です」
彩芽が我慢できず、電話へ向かって叫ぶ。
「引き出し探して、なかったら黒を二十本買うって書けばいいべさ!」
電話の相手が驚く。
『今の誰?』
真結が答える。
「札幌の同僚です」
彩芽は胸を張る。
「ノースフロント総務部の副部長だべさ!」
「そんな部署も役職もないよ」
『彩芽副部長へ代わってもらえる?』
真結はスマートフォンを遠ざける。
「絶対に代われません!」
食堂に大きな笑い声が響いた。
物資は足りなかった。
通信も十分ではなかった。
作戦は何度も崩れた。
それでも、ノースフロントは奥尻島を守った。
何度傷ついても立ち上がり、美しい海と未来を守ってきた島。
その強さは、完璧な装備がなくても互いを支え、最後まで諦めなかったノースフロントの姿と重なっていた。
そして今や、
「困ったときのまゆちゃん」
は石巻工場だけの言葉ではない。
函館。
江差。
奥尻島。
そしてノースフロント。
誰かが困るたび、全員が自然に真結を見る。
真結は少し困った顔をしながら、それでも笑って答える。
「一度に持ってこないでください。順番に聞きますから」
奥尻ブルーは、今日も輝く。
この島は、悲しみだけで語られる島ではない。
海の美しさと、人々の強さと、未来へ進む力を持つ島なのである。




