困る前から、まゆちゃんは知っている ――北の精鋭を動かす、石巻工場の小さな現場管制官
宮城県石巻市。
太平洋へ開かれた港に、旧北上川がゆったりと流れ込む。
世界三大漁場の一つに数えられる三陸沖を背負い、港には新鮮な魚介が集まる。水産業だけでなく、製紙、造船、物流をはじめとする工業も盛んだ。
潮の香り。
巨大工場の煙突。
港を行き交うトラック。
街角で観光客を迎える、漫画の登場人物たち。
海と川とものづくり、そして漫画文化が一つの町に同居している。
石巻は、何度困難に見舞われても、そのたびに立ち上がってきた町でもある。
たくましくて、働き者で、人情がある。
菅野真結は、そんな石巻が大好きだった。
生まれも育ちも石巻市。
仙台市内の短期大学を卒業した後、地元へ戻り、北洋製紙石巻工場へ入社した。
以来、総務部一筋。
二十七歳になった現在まで、一度もほかの部署へ異動していない。
会社の面談でも、職場の飲み会でも、真結は笑顔で言い切っていた。
「私は、この工場で定年まで働きます」
誰も冗談だとは思っていない。
真結は本気だった。
石巻の町が好き。
巨大な工場が好き。
朝、工場へ向かう途中に見える煙突も好き。
製紙設備の規則正しい音も、社員食堂のにぎやかさも、地域の人々が野球部を応援してくれる光景も好きだった。
北洋製紙石巻工場は、真結にとって単なる勤務先ではない。
自分の人生を置くと決めた、大切な居場所だった。
◇
北洋製紙石巻工場は、敷地の中だけで一つの町が成立するほど大きい。
高くそびえる煙突。
複雑に走る配管。
巨大な製紙設備。
原料や製品を運ぶ大型車両。
多くの社員と協力会社の人々が、二十四時間体制で働いている。
その巨大工場の総務部に、小柄な女性社員がいた。
菅野真結。
小さな体。
可愛らしい童顔。
会社の制服を着て、構内を忙しそうに行き来している。
年配の従業員からは、
「ポケットさ入れて、持って歩きてえな」
と冗談を言われる。
若手社員からは、
「総務まで行くの面倒だから、各職場に一人ずつ配備してほしい」
と言われる。
真結は笑顔で返す。
「総務部員を備品扱いしないでください」
外見だけなら、総務部のかわいらしいマスコット。
ところが仕事が始まると、その印象は一変する。
真結が知らない総務の仕事は、ほとんどなかった。
社員証の再発行。
福利厚生。
慶弔関係。
工場見学。
来賓対応。
地域行事。
防災訓練。
構内放送。
会議室の調整。
弁当の発注。
遠征バスの手配。
落とし物。
迷子。
体調不良者。
硬式野球部の応援。
何を聞かれても、真結は一度だけ頷く。
「確認しますね」
数分後には、必要な部署への連絡も、書類の修正も、関係者への説明も終わっている。
そのため工場内では、独特の言葉が定着していた。
従業員が総務部へ向かう時は、
「総務へ行ってきます」
とは言わない。
「ちょっと、まゆちゃんとこ行ってくる」
で通じる。
記入方法の分からない書類があれば、
「これ、誰に聞けばいい?」
「それ、まゆちゃん」
で終わる。
社員証をなくした。
「それ、まゆちゃん」
扶養の書類が分からない。
「それも、まゆちゃん」
遠征バスの集合場所を忘れた。
「すぐ、まゆちゃん」
工場中で起きる細かな問題が、最終的に真結の机へ流れ着いていた。
◇
総務部の電話が鳴る。
真結の同僚が受話器を取った。
「総務部です」
『まゆちゃん、いますか?』
「ご用件を伺います」
『家族手当の申請書なんですけど』
「それは私の担当です」
『じゃあ、書き方を教えてください』
同僚が丁寧に説明する。
記入欄。
必要な証明書。
提出期限。
すべて説明し終えると、電話の相手が言った。
『ありがとうございます。念のため、まゆちゃんにも確認しておいてください』
同僚は受話器を握ったまま、真結を見る。
「私が担当なんですけど」
『分かっています。でも、まゆちゃんにも』
「私が正式な担当です」
『まゆちゃん、今日いますよね?』
同僚は静かに受話器を真結へ差し出した。
真結は申し訳なさそうに頭を下げる。
「代わりました、菅野です」
電話の向こうから安心した声が返ってくる。
『ああ、まゆちゃん。よかった』
真結が仕事を奪っているわけではない。
むしろ、本人は同僚へ任せようとしている。
それでも工場の従業員は、最後に真結の声を聞かなければ落ち着かない。
もはや総務部の組織図より、菅野真結という個人名の方が機能していた。
◇
午前八時。
真結が出社すると、机の上には五枚のメモが置かれていた。
工場見学者が三人増えた。
社員食堂前の通路で補修工事が始まる。
野球部の遠征バスの運転手が変更された。
来賓の一人に食物アレルギーがある。
防災倉庫の乾電池が不足している。
真結は鞄を置き、上着も脱がないまま電話をかけ始めた。
「工場見学は三名追加ですね。名札だけでなく、ヘルメットと保護眼鏡も追加してください」
次の電話。
「食堂前の通路は使えませんので、昼休みだけ西側通路を一方通行にします。案内板はこちらで作ります」
次。
「遠征バスの新しい運転手さんへ、西門の地図を送ってください。正門へ来ると原料搬入車と重なります」
次。
「来賓のお一人は甲殻類が苦手です。お弁当を変更して、配膳表にも印をつけてください」
最後。
「乾電池は今日中に補充します。使用期限が近いものから使えるように、棚も並べ直しておきます」
一つの依頼を処理するだけではない。
その変更によって次に何が起きるかまで予測している。
見学者が増えれば、名札だけでなく安全装備も必要になる。
通路が変われば、案内板と構内放送が必要になる。
運転手が変われば、時刻だけでなく入口の地図が必要になる。
弁当を変えれば、配膳を間違えない仕組みも必要になる。
小柄な真結の頭の中には、巨大工場全体の流れが入っている。
まるで人間の姿をした運行管理装置だった。
◇
午前十時。
工場の玄関へ、協力会社の男性が現れた。
受付担当者が、真結へ小声で尋ねる。
「菅野さん。あの方、どちらの会社でしたっけ?」
真結は男性を一度見る。
「去年の安全大会へ来た、東北設備の佐々木さんです。以前は仙台営業所でしたけど、今年の春から石巻担当へ変わった方ですよ」
男性が驚いて振り返る。
「一度しかお会いしていませんよね?」
「はい。去年の六月です」
「よく覚えていますね」
真結は素直に答えた。
「名札を上下逆につけていらしたので」
男性は自分の胸元を見る。
「そんな理由で覚えられていたんですか?」
「お名前も担当業務も覚えていますよ」
「先にそちらを言ってください」
受付周辺に笑いが起きる。
真結は一度会った人物の顔と名前だけでなく、以前交わした会話、所属、担当業務まで覚えている。
相手を覚えていることは、単なる記憶力自慢ではない。
「自分を大切に扱ってもらえた」
そう感じた相手は、次から真結へ率直に話をしてくれる。
真結の記憶力は、人間関係を円滑にする立派な仕事道具だった。
◇
真結が持ち歩く鞄も、工場内では有名だった。
安全ピン。
絆創膏。
裁縫道具。
油性ペン。
予備の名札。
スマートフォンの充電器。
酔い止め。
飴。
軍手。
小型懐中電灯。
ウェットティッシュ。
予備の靴下。
なぜ靴下まで入っているのか。
以前、雨の日の工場見学で子どもの靴下が濡れたからである。
地域イベントで司会者の名札が外れれば、安全ピンが出る。
子どもが転べば、絆創膏が出る。
来賓の携帯電話の充電が切れれば、充電器が出る。
野球部員のズボンの裾がほつれれば、裁縫道具が出る。
社員が尋ねた。
「その鞄、四次元なの?」
真結は真顔で答えた。
「総務です」
総務とは、本来、空間を超越する部署なのかもしれなかった。
◇
真結の能力が最も発揮されるのは、大規模な行事である。
工場見学。
地域の夏祭り。
安全大会。
防災訓練。
硬式野球部の壮行会。
真結は会場図面を広げ、人の流れを読み取る。
受付。
来賓席。
一般参加者席。
出演者控室。
救護所。
搬入口。
非常口。
車椅子を利用する人の経路。
高齢者が休憩できる場所。
迷子が出た場合の集合地点。
雨が降った時の代替動線。
一つずつ確認する。
上司が呆れる。
「そこまで細かく決めなくてもいいんじゃないか?」
真結は首を横へ振る。
「当日困るのは、来てくださった方ですから」
イベント当日。
音響担当者が体調を崩す。
真結は代役を手配。
来賓の車が予定と違う入口へ到着する。
誘導スタッフを移動。
子どもが迷子になる。
構内放送と捜索範囲を即座に決定。
突然の雨。
屋内経路へ変更。
予定外の出来事が同時に起きても、真結の声は変わらない。
「大丈夫です。順番に対応しましょう」
その一言で、周囲が落ち着く。
真結自身が全ての仕事を抱え込むのではない。
誰が何を得意としているかを把握し、適切な人物へ役割を渡す。
声のよく通る社員には場内案内。
顔の広い社員には迷子の捜索。
機械に詳しい社員には音響設備。
来賓を知っている上司には応対。
一人で十人分動くのではなく、十人全員が最大限動ける環境を作る。
それが菅野真結の本当の能力だった。
◇
そんな真結の活躍が最も目立つのが、北洋製紙石巻工場硬式野球部である。
真結は野球部のマスコットガールを務めていた。
ダイヤモンドサポーターと呼ばれて
都市対抗野球では、専用ユニフォームを着てベンチ入りする。
選手の飲み物。
タオル。
用具。
連絡事項。
応援席との調整。
真結は試合開始前から忙しい。
北洋製紙の選手には、真面目な若手が多い。
勢いに乗れば強い。
しかしエラーや失点が続くと、全員が自分を責め始める。
ベンチ全体が一気に暗くなる。
そんな時、真結は無理に、
「元気出して!」
とは叫ばない。
失策した内野手の隣へ、黙って水を置く。
交代した投手へタオルを渡す。
次の打席へ集中している選手には話しかけない。
落ち込んでいる若手へだけ、小さな声で言う。
「試合、まだ終わってないよ」
監督が考えている時は近づかない。
応援席の声が小さくなれば、応援団へ合図を送る。
流れが変わる瞬間には、誰よりも大きく拍手する。
真結が明るく振る舞うと、沈んでいた選手たちも少しずつ顔を上げる。
真結はボールを投げない。
バットも振らない。
試合へ直接出ることもない。
それでも、確かにベンチの空気を動かしていた。
◇
都市対抗野球の前には、選手とスタッフ全員へ手作りのお守りを渡す。
監督。
コーチ。
選手。
マネジャー。
トレーナー。
用具係。
応援団。
バスの運転手。
荷物の積み込み担当者。
一人ずつ名前を入れ、裏側には短い言葉を縫い込む。
若手投手には、
「いつもどおり」
失敗を引きずりやすい内野手には、
「次の一球」
控え選手には、
「出番は来る」
裏方スタッフには、
「あなたもチーム」
用具係の社員が、恐縮したように尋ねる。
「選手でもない私たちにまで?」
真結は当然のように答える。
「用具がなければ試合はできません」
遠征バスの運転手にも渡す。
「私もですか?」
「球場へ着かなければ、試合は始まりません」
荷物搬入口を担当する社員にも渡す。
「私まで?」
「荷物が入らなければ、やっぱり試合はできません」
真結にとって、グラウンドへ立つ選手だけがチームではない。
同じ試合を支える全員が、同じ一勝を目指す仲間だった。
◇
ここまで聞けば、真結は誰よりも野球を理解しているように思える。
ところが、唯一にして大きな問題があった。
真結は野球のルールを、今ひとつ理解していない。
都市対抗野球のベンチへ何度も入っている。
練習試合にも同行している。
選手の名前、出身校、背番号、使用している用具、好みの飲み物まで覚えている。
しかし試合中。
真結は隣に座るマネジャーへ、小声で尋ねた。
「今、勝っていますか?」
マネジャーがスコアボードを指さす。
「三対一で勝っています」
真結は感心する。
「あの大きい数字が得点なんですね」
マネジャーが真結を見る。
「何年、ベンチに入っているんですか?」
「四年目です」
「四年間、何を見ていたんですか?」
「選手の顔色です」
迷いのない答えだった。
◇
送りバントが成功する。
真結は勢いよく立ち上がり、ホームランのように拍手した。
「すごい! ちゃんと送れました!」
マネジャーが説明する。
「送りバントですから」
「きれいに送れましたね」
「宅配便ではありません」
ファウルボールがスタンドへ飛ぶ。
真結が尋ねる。
「今のは半分ヒットですか?」
「ゼロです」
「でも、前へ飛びましたよ」
「前でも、線の外ならファウルです」
「惜しいヒット?」
「ファウルです」
「ヒット見習い?」
「ファウルです」
真結は少し残念そうに座った。
二死満塁。
打者が三振。
攻守交代になる。
真結は塁上を見ながら言う。
「でも、三人も残っています。次の人が打てば一気に帰れますよね」
マネジャーが静かに答える。
「チェンジです」
「三人はどうなるんですか?」
「残塁です」
「置いていくんですか?」
「その言い方をすると、すごく冷たい競技みたいになりますね」
真結は、ベンチへ戻ってくる選手たちへ大きく手を振った。
「大丈夫! 次は全員一緒に帰ってきましょう!」
失点を防げず、落ち込んでいた選手たちが思わず笑う。
真結はルールを理解していない。
だが、落ち込んでいる人物を笑わせるという点では、見事に成功していた。
◇
相手チームの選手が、難しい打球を好捕する。
真結は反射的に拍手した。
「今の、すごく上手でした!」
監督が小声で注意する。
「真結さん。今のは相手チームのファインプレーです」
「はい。すごかったです」
「気持ちは分かりますが、ベンチでは少し控えてください」
「では、小さく拍手します」
「拍手しないでください」
真結は両手を膝の下へ隠した。
それでも感動した表情は隠せない。
味方の選手がホームランを打つ。
真結は誰よりも喜ぶ。
「今のは分かります! 全員、帰ってきました!」
「打者一人です」
「でも、途中で誰にも止められませんでした」
「ホームランですから」
「ホームラン、すごいですね!」
「今、知ったんですか?」
試合後、若手選手が尋ねる。
「真結さん、今日の試合、楽しかったですか?」
「すごく楽しかったよ」
「どこが一番よかったですか?」
真結は真剣に考える。
「七回に、みんなが急に走り出したところ」
「ホームランです」
「あれがホームランなんですね」
「そこからですか?」
なぜ野球のルールを理解していないのに、毎回あれほど楽しそうなのか。
選手にも分からない。
真結本人にも、よく分かっていない。
ただ、選手が笑えばうれしい。
得点が入ればうれしい。
応援席が盛り上がればうれしい。
負けている時でも、誰かがもう一度前を向けばうれしい。
真結は野球の複雑な規則より、野球を通じて人々が一つになる瞬間が好きなのだった。
◇
ノースフロント仙台分室。
高沢雪乃は、集まったヒロインたちへ真結の経歴を紹介していた。
大型スクリーンには、総務部で働く真結。
工場見学者を誘導する真結。
地域行事でマイクを握る真結。
都市対抗野球のベンチで、選手へお守りを渡す真結。
そして相手チームの好プレーへ拍手し、監督から止められている真結が映っている。
佐々木玲香が、画面を指さした。
「この人、本当に野球部の担当なの?」
雪乃は冷静に答える。
「野球部関係者からの信頼は絶大です」
中野柚希が、少し首をかしげる。
「でも、ルールは分がってねえように見えるべ」
「理解は十分ではありません」
阿部柚葉が冷静に言う。
「十分ではないというより、ほとんど分かっていない」
雪乃は否定しない。
「ですが、誰が落ち込んでいるかは、誰よりも早く分かります」
スクリーンの中では、エラーした若手選手へ、真結が黙って水を渡している。
励ましすぎない。
失敗へ触れない。
ただ、必要な物を置き、近くにいる。
選手が少しだけ顔を上げる。
雪乃が続ける。
「ノースフロントに必要なのは、この力です」
◇
会議へ入ってきた芹沢遥室長が、スクリーンの真結を見て首をかしげた。
「どこかで見たことがある気がするのら」
北洋製紙は、複数の製紙会社が合併して誕生した企業である。
その中には、遥の父親が勤務している製紙会社も含まれていた。
遥の父は業務や会議のため、何度か石巻工場を訪れている。
遥は、その場で父へ電話をかけた。
「お父さん、石巻工場の菅野真結さんって知ってるのら?」
電話の向こうで、父が考える。
やがて、どぎつい駿河弁で答えた。
「そういやあ、石巻の総務に、えらいちんこいくせして、よう気ぃ回る子がおったら」
遥が身を乗り出す。
「真結ちゃんなのら?」
「名前までは覚えちゃいんが、茶ぁ出すのも早えし、こっちが何も言わんうちに資料までそろえとったに。あの子ぁ、感じよかっただら」
「小さかったのら?」
「ちんこかったら。工場ん中を、ちょこちょこ、ちょこちょこ動き回っとったもんで、よう覚えとる」
隣で聞いていた、るみねぇが言う。
「小さいことしか覚えていないみたいね」
遥は気にしない。
「父が知ってる人なら、もう身内みたいなものなのら!」
「一度お茶を出してもらっただけでしょう」
「十分なのら!」
「十分ではないわよ」
◇
後日、その話を真結へ伝える。
真結は少し考えた。
「静岡の工場から来られた方ですか?」
遥が驚く。
「覚えてるのら?」
「会議資料を一部多く欲しいとおっしゃっていました。お茶は濃いめで、お砂糖を使わない方ですよね」
数年前に一度会っただけの人物。
それでも真結は覚えていた。
遥は目を輝かせる。
「やっぱり、もう親戚なのら!」
「親戚ではないと思います」
「遠慮しなくていいのら」
「遠慮ではなく、事実関係の問題です」
◇
ノースフロントへの加入が正式に決まり、真結はメンバーの前で自己紹介をする。
二十七歳。
メンバーの中では最年長。
戦闘経験は最も少ないが、社会人経験は最も長い。
玲香。
柚希。
乙実。
柚葉。
紗耶。
瑠璃。
彩芽。
全員が年下だった。
真結は少し緊張しながら話す。
「年齢では、私が一番上になるそうです」
「でも、年齢で壁を作りたくありません」
少し照れながら笑う。
「“菅野さん”とか“真結さん”と呼ばれると、総務部の窓口みたいになってしまうので――」
「“まゆちゃん”か、“かんちゃん”って呼んでください」
彩芽が真っ先に手を挙げる。
「したら、まゆちゃんって呼ぶべさ!」
「ありがとう、彩芽ちゃん」
彩芽はさらに尋ねた。
「かんちゃんって、缶詰の“缶”だべか? 石巻だから、なまら合ってるっしょ!」
「菅野の“菅”だよ」
「あっ、名字の方だったべさ!」
「缶詰から取った愛称ではないよ」
「でも、石巻といえば缶詰だし、どっちでもいけるっしょ!」
「私の名字まで水産加工しないでね」
会議室に笑いが起きる。
つかみは完璧だった。
◇
真結が特に気にかけたのは、最年少の高城彩芽だった。
札幌の元気印。
底抜けに明るい。
一方で幼さが残り、何かと危なっかしい。
集合時刻を一時間間違える。
充電器を持ってきて、携帯電話を忘れる。
衣装を前後逆に着る。
非常食を、
「賞味期限まで置いといたら、食べ物が寂しいべさ」
と言って先に食べる。
反省会へ、
「景気づけに鳴らすべさ!」
とパーティークラッカーを持ってくる。
真結は、彩芽を頭ごなしに叱らない。
出発前に持ち物を確認。
衣装の間違いにも、本人が恥をかく前に気づく。
彩芽の頓珍漢な発想も、最初から捨てない。
「迷子にならないよう、全員へ鈴をつければいいべさ!」
という提案には、
「鈴は難しいけど、位置確認用の小型タグなら使えるね」
と答える。
彩芽は目を輝かせる。
「まゆちゃん、あたしの変な話も、ちゃんと拾ってくれるっしょ!」
「変な話だとは自覚しているんだね」
「少しは分かってるべさ!」
真結は彩芽の明るさを矯正しない。
その明るさが、ノースフロントに必要だと知っているからだった。
◇
最初の全体ミーティング。
玲香と柚希の意見が対立する。
乙実は発言の機会をつかめない。
柚葉の案は大胆すぎる。
紗耶と瑠璃は場を穏やかにするが、話が前へ進まない。
彩芽が突然立ち上がった。
「みんなの顔が見えるよう、椅子を円にするべさ!」
一人で椅子を動かし始める。
会議用の長机を無視し、椅子だけが部屋の中央へ丸く並ぶ。
玲香が眉をひそめる。
「資料を置く場所がないっちゃ」
柚葉も言う。
「会議室としての機能が消えた」
彩芽は胸を張る。
「でも、なまら仲良さそうだべさ!」
真結は円形に並んだ椅子を見る。
そして笑った。
「せっかくなので、今日はこのまま話しませんか?」
全員が真結を見る。
「机がない分、資料ではなく、相手の顔を見て話せます」
彩芽の頓珍漢な行動を、全員が互いの顔を見て話せる会議へ変えてしまう。
真結は中央へ立たない。
円の中の一席へ座った。
「私は、皆さんを引っ張るリーダーではありません」
「誰か一人を主役にするために来たわけでもありません」
「皆さんがそれぞれの力を出せるよう、困っているところを見つけて、整えるために来ました」
少し照れながら付け加える。
「総務部では、それが私の仕事でしたから」
彩芽が元気よく手を挙げる。
「したら、ノースフロントの総務だべさ!」
玲香が言う。
「ヒロインとして来たんじゃないの?」
柚希は小さく笑う。
「でも、うちらには必要かもしれねえべ」
真結も笑った。
「では、総務もできるヒロインということでお願いします」
◇
会議終了後。
彩芽が真結へ駆け寄る。
「まゆちゃん、野球部でベンチに入ってたんだべ?」
「うん」
「したら、野球なまら詳しいんでしょ?」
真結は少し考える。
「選手には詳しいよ」
「ルールは?」
「今、勉強中」
「何年くらい?」
「四年くらい」
彩芽は目を丸くする。
「四年も勉強中なのかい?」
「奥が深いから」
遠くで聞いていた柚葉が言う。
「たぶん、まだ入口にも入っていない」
真結は否定できない。
彩芽は楽しそうに笑った。
「大丈夫だべさ。あたしも野球分かんないから、一緒に応援すればいいっしょ!」
「彩芽ちゃんは、何を応援するの?」
「みんな!」
真結は一瞬、目を丸くする。
そして笑った。
「私も同じかもしれない」
野球は分からない。
だが、誰が落ち込んでいるかは分かる。
戦闘経験はない。
だが、誰が何を必要としているかは分かる。
小柄で童顔。
北洋製紙石巻工場の名物総務部員。
石巻と工場を心から愛し、いつか必ず戻って定年まで働くと決めている。
それでも今は、外の世界で新しい経験を積むため、ノースフロントへやって来た。
やがてノースフロントでも、工場と同じ言葉が使われ始める。
書類が分からない。
「それ、まゆちゃん」
イベントの動線が決まらない。
「それ、まゆちゃん」
玲香と柚希の空気が悪い。
「それも、まゆちゃん」
柚葉の案が尖りすぎている。
「一度、まゆちゃんを通して」
彩芽が衣装を前後逆に着ている。
「今すぐ、まゆちゃん」
複数の声に呼ばれた真結は、両手を上げた。
「一度に持ってこないでください。順番にお願いします!」
会議室に笑い声が響く。
困ったときのまゆちゃん。
みんなのまゆちゃん。
北の精鋭たちを動かす、小さな現場管制官。
菅野真結のノースフロントでの新しい日々が、静かに始まったのである。




