困ったときのまゆちゃん、北へ!――石巻工場から来たムードメーカー・菅野真結
津軽海峡に、濃い霧が流れ込んでいた。
下北半島沖で確認された、ジェネラス・リンクの密漁船。
ノースフロントは青森県側と北海道側から追跡し、一度は密漁船を包囲しかけた。
しかし敵は霧と複雑な海岸線を利用し、逃走。
追撃は危険と判断されて、撤退。
人的被害はなく、密漁用の機材も一部押収したものの、主犯格を取り逃がしてしまった。
それだけの話だった。
少なくとも、外部から見れば。
ところがノースフロントにとっては、そう簡単に片づけられる話ではなかった。
◇
ノースフロント仙台分室。
壁一面に並ぶ大型モニター。
東北六県と北海道南部の気象、交通、災害情報を一括表示する電子地図。
複数地点との同時通信が可能な最新鋭の会議設備。
高性能な映像解析室。
防音収録ブース。
仮眠室。
シャワールーム。
さらには、用途がよく分からないが新橋のヒロ室には存在しない、全自動の高級コーヒーマシンまで設置されている。
設備だけなら、新橋本部を軽く凌駕していた。
しかし、どれほど最新鋭の換気設備を動かしても、会議室に漂う重苦しい空気だけは排出できなかった。
佐々木玲香は椅子へ深く腰かけ、腕を組んでいる。
「うちが言ったとおり、東側を先に塞いでれば逃げられなかったっちゃ」
仙台市を代表する佐々木玲香。
容姿、運動能力、判断力、発信力。
すべてが高い水準にあり、ノースフロントのダブルエースと呼ばれる一人だった。
ただし、玲香は自分が主役である時に最も輝く。
自分の判断で勝利し、自分が注目され、自分が称賛される。
その状態では圧倒的に強い。
反対に、仲間を立てたり、全体のために一歩下がったりするのは苦手だった。
リーダーというより、絶対的な主演女優である。
向かい側に座る中野柚希が、静かに資料を閉じた。
「東側さ寄せすぎたら、南から抜けられたかもしれねえべ。あの時は、あれが一番危険の少ない配置だったと思う」
盛岡市の中野柚希。
玲香と並ぶダブルエースであり、チーム内の人望では玲香を上回っている。
穏やかで面倒見がよく、後輩やスタッフからも頼られる。
ただし、大声で仲間を引っ張るタイプではない。
意見の違う相手を強引に押し切ることもできない。
誰からも好かれるが、先頭で旗を振るには少し優しすぎる。
玲香は柚希を見る。
「結果として逃げられたっちゃ」
柚希の表情も硬くなる。
「玲香の案なら絶対捕まえられたって、今から言っても分がんねえべ」
「何それ。うちが結果論で偉そうにしてるみたいじゃん」
「そういう意味で言ったんでねえよ」
「じゃあ、どういう意味?」
「だから……」
柚希は言葉を止めた。
玲香も視線を外す。
二人の間に、見えない氷の壁が出来上がる。
下北半島での任務以来、この状態が続いていた。
挨拶はする。
業務連絡にも返事はする。
同じ任務にも出る。
だが、必要なこと以外は話さない。
完全な冷戦だった。
◇
ほかのメンバーも、誰もがその冷戦へ気づいている。
そして表立って口にはしないものの、チーム内には柚希を支持する者の方が多かった。
鶴岡市の山間部にある限界集落出身、今津乙実。
八戸市のおっとりした姉御役、蛯沢紗耶。
函館市の観光ガイド、菊池瑠璃。
三人とも、玲香の能力は認めている。
しかし一緒に行動するなら、話をきちんと聞いてくれる柚希の方が安心できると感じていた。
乙実が、小さな声で口を開く。
「あの……玲香さんも柚希さんも、どっちも間違ってたわけでねえさげ……」
声が小さすぎて、誰にも届かない。
乙実はもう少し大きな声を出そうとする。
「皆で、次のことを考えた方が……」
玲香と柚希は、まだ互いを見ない。
乙実は諦めた。
配られた資料の角を、黙ってきれいにそろえ始める。
良くも悪くも控えめ。
乙実は適切な意見を持っている。
だが、口に出すまでが長い。
勇気を出して発言した頃には、会議が次の議題へ移っていることも珍しくなかった。
◇
窓際の椅子には、阿部柚葉が座っていた。
秋田県にかほ市出身。
現在は首都圏在住。
都会での生活が長く、服装も言葉遣いも洗練されている。
無駄のないジャケット。
細身のパンツ。
携帯端末を片手で操作しながら、会議の内容もすべて聞いている。
ノースフロントの中でも、ひときわ都会的な雰囲気を持つヒロインだった。
そして、考え方も鋭い。
というより、尖っている。
玲香と柚希の議論を聞いていた柚葉は、平然と言った。
「次は港全体を封鎖すればいいんじゃない?」
紗耶が、ゆっくりと顔を向ける。
「柚葉ちゃん、一般の船もいるんだすけ」
「先に全部出して、残った船を調べればいいでしょ」
瑠璃が困ったように微笑む。
「そんな簡単にはいかないっしょ。漁師さんにも仕事があるんだからさ」
柚葉は携帯端末から目を上げる。
「簡単じゃないから、やる価値があるんじゃない?」
乙実が小声で呟いた。
「やっぱり、ちょっと尖りすぎだの……」
柚葉は大胆で、決断が速い。
誰も思いつかない案を出す。
ただし、その案は時々、法律、予算、地元住民の都合をすべて飛び越えて着地する。
札幌市の高城彩芽が、柚葉を見ながら目を輝かせた。
「柚葉さんって、都会のナイフみたいで、なまらかっこいいっしょ!」
柚葉が眉を上げる。
「何、それ」
「細くって、きれいで、持ち歩いたら捕まりそうな感じだべさ!」
会議室が静まり返る。
柚葉は数秒考えた。
「後半はいらないかな」
「ちゃんと褒めたっしょ?」
「逮捕されそうって言われて喜ぶ人はいないでしょ」
彩芽は首をかしげる。
「でも札幌なら、冬に滑らないよう靴につけるかもしれないべさ」
「それはスパイク」
「ナイフじゃないのかい?」
「違う」
彩芽の頓珍漢な会話に、紗耶が少し笑う。
瑠璃も口元を押さえた。
柚葉でさえ、呆れながら肩の力を抜く。
ほんの一瞬、会議室の空気が軽くなった。
◇
蛯沢紗耶が、落ち着いた声で全員へ語りかける。
「まあまあ。密漁船さ逃げられたのは悔しいども、誰もけがしねがったんだすけ。押収したもんもあるし、何も出来なかったわけでねえべ」
八戸市の紗耶は、おっとりした大人の女性である。
急に怒らず、誰かを追い詰めず、全体が暴走しそうな時には静かな重しとなる。
菊池瑠璃も上品に続ける。
「紗耶さんの言うとおりだと思うっしょ。今回分かったことを整理すれば、次に役立てられるさ」
函館市で観光ガイドを務める瑠璃。
明るく聞き取りやすい案内。
穏やかな笑顔。
相手を安心させる話し方。
場を荒らすことはない。
だが紗耶も瑠璃も、沈んだ空気を底から一気に持ち上げる人物ではなかった。
玲香が低い声で言う。
「次へつなげるって言っても、逃げた船は戻ってこないっちゃ」
再び空気が沈む。
紗耶と瑠璃の言葉で、底が抜けることだけは防いだ。
しかし、浮上はしなかった。
◇
そこで彩芽が、勢いよく立ち上がった。
「皆さん、大丈夫だべさ!」
全員が彩芽を見る。
彩芽は胸を張る。
「逃げた船、きっと今ごろ罪悪感でいっぱいだべさ!」
柚希が尋ねる。
「何でそう思うんだべ?」
「だって、あたしたち置いてったっしょ!」
玲香が言う。
「逃げたんだから、置いていくに決まってるっちゃ」
「でも、きっと後ろ髪引かれてるべさ!」
柚葉が冷静に指摘する。
「船に後ろ髪はない」
彩芽は一瞬考える。
「船尾があるっしょ!」
「そういう問題じゃない」
彩芽はさらに続ける。
「今度会ったときは、こっちから謝りやすい雰囲気を作るべさ!」
紗耶が困惑する。
「何でこっちが謝るんだすけ?」
「逃がしちゃって、追いかけてごめんねって言うんだわ」
「密漁船に気を遣う必要はねえべ」
「じゃあ、『久しぶり』から入ればいいっしょ?」
瑠璃が笑いをこらえながら尋ねる。
「お友達との再会じゃないっしょ」
彩芽は真剣だった。
誰かを笑わせようとしているわけではない。
本気で、密漁船との再会の挨拶を考えている。
だからこそ、少しだけ面白い。
柚希が小さく笑う。
紗耶も笑う。
乙実も俯いたまま、肩を揺らす。
玲香の口元さえ、わずかに緩む。
彩芽は嬉しそうに言う。
「ほら、みんな元気になったっしょ!」
その瞬間、会議室のモニターに、任務失敗を示す赤い表示が映る。
全員が再び黙る。
彩芽の力では、まだ空気を変え切れない。
しかし彩芽がいなければ、誰も一度すら笑わなかった。
最年少の元気印は、未熟ながらも、確実にノースフロントを救っていた。
◇
その日の夜。
ヒロインたちが退出した後、仙台分室の会議室には三人の女性が残っていた。
芹沢遥室長。
木戸瑠美、通称るみねぇ。
高沢雪乃。
ノースフロント仙台分室は、この三人によるトロイカ体制を敷いている。
遥は高級な会議用椅子へ沈み込んだ。
「また全員、暗くなったのら」
るみねぇは、全自動コーヒーマシンで入れたコーヒーを飲む。
「機械は新橋より立派なのに、人間関係は手動なのよねえ」
雪乃は冷静に任務記録を確認する。
「大きな被害はありません。密漁用機材も一部押収しています。客観的には、次につながる結果です」
「でも、みんな完全敗北みたいな顔してたのら」
るみねぇが、メンバーの特徴を整理する。
「玲香は優秀だけど、自分が主役じゃないと機嫌を崩す」
「柚希は人望があるけど、強く引っ張るタイプではない」
「しかも今は、二人が冷戦状態」
遥が頷く。
「みんな、柚希ちゃんの方を応援してる感じなのら」
「そうね。玲香も、それへ気づいてるから余計に意地になる」
雪乃が付け加える。
「玲香さんを孤立させるのも危険です。本人の自尊心を傷つければ、さらに対立が深まります」
るみねぇは指を折る。
「乙実は控えめすぎる」
「柚葉は都会的で格好いいけど、案が尖りすぎ」
遥が言う。
「港を全部封鎖しようとしてたのら」
「そのうち海ごと封鎖すると言い出すわよ」
「紗耶と瑠璃は大人で穏やかだけど、空気を壊さない代わりに、動かす力も弱い」
「彩芽ちゃんは?」
「頑張ってるわよ」
るみねぇは笑う。
「さっきも密漁船に“久しぶり”って言う相談をしてたし」
「頑張る方向が少し違うのら」
雪乃は真顔で言う。
「ですが、彩芽さんがいなければ、会議はさらに深刻になっています」
三人とも、それは認めていた。
彩芽は空気を完全に変えることはできない。
それでも沈み切る直前、必ず何か頓珍漢なことを言う。
それがなければ、ノースフロントは反省会のまま海底へ沈んでいた。
◇
遥が腕を組む。
「誰か、空気を整える人が必要なのら」
「ただ明るいだけでは駄目ね」
るみねぇが言う。
「失敗を笑い飛ばしすぎたら、真面目な子たちは反発する」
雪乃も続ける。
「玲香さんと柚希さんの間へ入れる人物が必要です」
「柚希さん側へ偏れば、玲香さんが孤立する」
「玲香さんを立てすぎれば、ほかのメンバーが離れる」
「乙実さんの小さな意見を拾い、柚葉さんの大胆な発想を現実的な形へ整え、紗耶さんと瑠璃さんに適切な役割を渡す」
「そして、彩芽さんの底抜けの明るさを押さえ込まず、チームの力へ変えられる人物です」
るみねぇが眉を上げる。
「そんな都合のいい人、いる?」
雪乃は少し考えた。
やがて、確信を持った顔になる。
「一人、心当たりがあります」
遥が身を乗り出す。
「どこにいるのら?」
「石巻です」
◇
数日後。
雪乃が訪れたのは、宮城県石巻市にある北洋製紙石巻工場だった。
広大な敷地。
巨大な製紙設備。
高くそびえる煙突。
原料と製品を運ぶ大型車両。
工場全体が、一つの町のように動いている。
地域経済を支える大規模製紙工場であり、硬式野球部も地元から親しまれていた。
雪乃は以前、大手スポーツ用品メーカーで営業を担当していた。
その頃、この野球部へ頻繁に出入りしている。
ユニフォーム。
スパイク。
バット。
練習用品。
遠征用の備品。
野球部関係者だけでなく、工場の上層部とも旧知の仲だった。
応接室へ通された雪乃は、挨拶を済ませると単刀直入に切り出した。
「菅野真結さんを、戦隊ヒロインプロジェクトへお借りしたいと思っています」
会社幹部が少し驚く。
「真結をですか?」
「はい。ノースフロントのメンバーとして出向していただきたいです」
難しい交渉になると思われた。
ところが、工場側の返事は早かった。
「本人が納得するなら、いいですよ」
雪乃は、珍しく聞き返す。
「よろしいのですか?」
「少しの間でしょう?」
「数年程度を想定しています」
幹部は頷いた。
「真結は、定年退職までここで働きたいと言っています」
別の幹部も笑う。
「会社としては、ありがたい話です。ただ、あの子は石巻とこの工場が好きすぎる」
「このままだと、一度も外へ出ないまま定年まで働きかねない」
「数年、外の空気を吸って、いろいろな人と仕事をして、勉強してきてほしい」
「ひと回り大きくなって戻ってきたら、また定年まで働いてもらいます」
手放すのではない。
将来も必要としているから、送り出す。
会社側の親心だった。
◇
数日後。
北洋製紙石巻工場の総務部では、菅野真結が朝から忙しく働いていた。
二十七歳。
小柄な体格。
親しみやすい笑顔。
巨大工場の業務を陰で動かしている人物には、一見すると見えない。
しかし、真結が通った後では、滞っていた仕事が次々と片づいていく。
「午後の工場見学は、青い名札の方と黄色い名札の方で二班に分かれてください」
「野球部の遠征バスは東門ではなく西門です。原料搬入のトラックと重なるので、変更を伝えてあります」
「部長、来客用のお弁当ですが、一名だけ甲殻類が苦手なので交換しておきました」
同僚が玄関の方を指さす。
「菅野さん、あの人どこの人だっけ?」
真結は一度見ただけで答える。
「去年の安全大会に来た協力会社の佐々木さんです。四月から仙台営業所から石巻担当へ変わった方ですよ」
「よく覚えてるね」
「一度お話ししたので」
人の顔と名前を覚える。
来賓の好みを把握する。
構内放送を頼まれれば、聞き取りやすい声で案内する。
防災備品の在庫確認。
工場見学の動線設計。
野球部の遠征準備。
地域イベントの調整。
体調不良者が出れば応急手当。
誰かが困っていることへ、本人が助けを求める前に気づく。
派手ではない。
だが、真結がいなければ、工場の各所で小さな混乱が起きる。
同僚や野球部員からは、
「困ったときのまゆちゃん」
と呼ばれていた。
◇
昼前。
真結の机の電話が鳴った。
「菅野さん、応接室へ来てください」
直属の上司からだった。
真結は受話器を置き、周囲を見る。
「私、何かしたかな?」
同僚が尋ねる。
「弁当の数?」
「合ってる」
「野球部の遠征費?」
「昨日確認した」
「見学者の名札?」
「全部できてる」
「じゃあ、怒られる理由ないよ」
真結は首をかしげる。
「怒られる時って、理由が分からない方が怖くない?」
不安そうに応接室へ向かう。
扉をノックする。
「失礼します」
中には会社幹部。
直属の上司。
そして、旧知の高沢雪乃が座っていた。
真結は目を丸くした。
「雪乃さん?」
雪乃とは、硬式野球部関係の仕事で何度も会っている。
大手スポーツ用品メーカーの営業担当だった頃から、仕事の速さと正確さで知られていた。
だが、なぜ会社の応接室にいるのか分からない。
上司が真結へ着席を促す。
「菅野さん。戦隊ヒロインプロジェクトへ出向してもらいたいと思っています」
真結は黙った。
三秒。
五秒。
そして自分を指さす。
「私ですか?」
「菅野さんです」
「総務の応援としてですか?」
「ヒロインとしてです」
真結は後ろを振り返った。
誰もいない。
「ほかの菅野さんではなく?」
上司が笑う。
「総務部に菅野さんは、あなた一人です」
◇
雪乃がノースフロントの現状を説明する。
能力の高いメンバーがそろっていること。
全員が真面目で、失敗すると沈んだままになること。
玲香と柚希が冷戦状態であること。
ほかのメンバーの多くは柚希を信頼しているが、それが玲香の孤立感を深めていること。
彩芽が明るくしようと頑張っているが、まだ最年少で力不足なこと。
「ただ明るい人を探しているわけではありません」
雪乃は真結へ伝える。
「誰が落ち込んでいるかを見て、必要な言葉を選べる人が必要です」
「玲香さんと柚希さんのどちらにも偏らず、二人が同じ方向を向ける環境を作ってほしい」
「彩芽さんの頓珍漢な明るさも、消すのではなく生かしていただきたいです」
真結が不安そうに尋ねる。
「その彩芽さん、そんなに頓珍漢なんですか?」
雪乃は少し考える。
「先ほど、密漁船と再会した時の挨拶を考えていました」
「何て言うつもりだったんですか?」
「“久しぶり”です」
真結は一瞬黙った。
「……明るい方なんですね」
「非常に」
雪乃は真顔だった。
◇
真結は自分が選ばれた理由を、まだ理解し切れない。
「でも、どうして私なんですか?」
雪乃は、北洋製紙硬式野球部の試合で見た真結の姿を語った。
都市対抗野球の大舞台。
試合で失策し、落ち込む若手選手。
点を奪われ、重くなるベンチ。
声を出せなくなった年下の選手。
マスコットガールとしてベンチ入りしていた真結は、ただ大声で盛り上げたのではなかった。
失策した選手へ水を渡す。
投手へタオルを用意する。
応援団へ次の攻撃で声を上げるタイミングを伝える。
監督が集中している時は近づかない。
声をかけるべき人物と、そっとしておくべき人物を見極める。
そして流れが変わった瞬間には、誰よりも大きく拍手する。
気づけば沈んでいたベンチは、もう一度前を向いていた。
「あなたは、ただ明るい人ではありません」
「人を見ています」
「誰が何を必要としているか、自然に判断しています」
「玲香さんと柚希さんの不仲を、一日で解決してほしいとは言いません」
「ですが、二人が同じ仕事をできる環境を作れるのは、あなたのような方だと思っています」
真結は困惑する。
「かなり難しい仕事ではありませんか?」
雪乃は自信を持って答える。
「難しいから、あなたにお願いしています」
◇
真結は小柄な自分の体を見る。
「でも、私は特別に強いわけでもありません」
「これから訓練していただきます」
「運動も、野球部の準備で走り回る程度です」
「十分な基礎体力があります」
真結はさらに言いにくそうに続ける。
「年齢も、もう二十七歳ですし……」
雪乃は即答した。
「十分すぎます」
「もっと年上のヒロインもいます」
「必要なのは、若さだけではありません」
「経験、判断力、人を見る力、場を整える力」
「年齢は関係ありません。チャレンジする気持ちがあれば大丈夫です」
雪乃は、真結の目をまっすぐ見る。
「ノースフロントに、あなたが必要です」
真結は、その言葉を黙って受け止めた。
◇
会社幹部も真結へ話す。
「会社を辞めてもらうわけではありません」
「数年間、外で勉強してきてください」
「石巻工場だけでは出来ない経験をして、多くの人と働き、成長して戻ってきてほしい」
「帰ってきたら、また定年まで働いてもらいます」
真結は驚く。
「戻ってきていいんですか?」
上司は笑った。
「戻ってきてもらわないと困ります」
「あなたの仕事を引き継ぐため、三人用意しました」
「三人もですか?」
「一人では無理です」
真結は、そこで初めて笑った。
自分は会社から追い出されるのではない。
必要とされているからこそ、外へ送り出してもらえる。
真結は姿勢を正した。
「私で役に立てるなら、挑戦してみたいです」
「外の空気を吸って、勉強して、成長して戻ってきたいです」
「よろしくお願いします」
雪乃は力強く頷いた。
「ありがとうございます」
◇
しかし真結の表情は、すぐに曇った。
「ただ……」
「何か不安がありますか?」
「総務の仕事が心配です」
戦隊ヒロインになる不安より、工場の仕事を残すことの方が気になっていた。
「来月、工場見学が三件あります」
「地域安全大会の動線も、まだ確定していません」
「野球部の遠征バスの運転手さん、新しい方なので西門を間違えるかもしれません」
「防災倉庫の乾電池が、二十本足りません」
「協力会社の担当変更も一覧に反映していません」
上司が止める。
「だから三人で引き継ぎます」
「でも三人とも、佐々木さんの顔を覚えていないと思います」
「名簿に写真を付けてください」
「構内放送のマイク、強く押すと戻らなくなります」
「引き継ぎ書へ書いてください」
「遠征バスの運転手さん、コーヒーは無糖です」
「そこまで必要ですか?」
「朝、機嫌が違います」
上司は真顔になる。
「書いてください」
雪乃は、そのやり取りを見て確信した。
真結は仕事だけを見ているのではない。
仕事に関わる人間を見ている。
誰かが困る前に、必要な準備をする。
ノースフロントへ必要なのは、まさにこの力だった。
◇
真結が総務部へ戻り、出向の話を伝えると、室内が静まり返った。
数秒後。
「ええっ!?」
大きな声が工場中へ響く。
「戦うの?」
「変身するの?」
「テレビに出るの?」
「会社辞めるの?」
真結は慌てて首を振る。
「辞めないよ。数年勉強して戻ってくるから」
同僚たちは安心する。
その直後、全員が現実的な問題に気づく。
「真結さんの仕事、誰がやるの?」
「三人で引き継ぐって」
「三人で足りる?」
真結は少し考えた。
「忙しい時期は、もう一人いた方がいいかも」
遠くの上司が叫ぶ。
「今から増やします!」
◇
出向までの間、真結は膨大な引き継ぎ書を作った。
来客対応。
協力会社担当者の顔写真。
野球部関係者名簿。
防災備品の配置。
イベント時の動線。
弁当業者ごとの特徴。
構内放送設備の癖。
雨天時に水がたまる通路。
来賓が間違えやすい入口。
野球部員が忘れ物を隠しそうな場所。
引き継ぎ担当者が尋ねる。
「最後の項目、必要ですか?」
「必要です。だいたい三塁側ベンチの奥にあります」
「毎回ですか?」
「毎回です」
雪乃から、
「訓練用の運動着を準備してください」
と連絡が届く。
真結は、
「承知しました。ところで来月の見学者名簿ですが――」
と返信する。
雪乃から再び届く。
「総務部の引き継ぎは、会社へ任せてください」
真結。
「でも心配です」
雪乃。
「その責任感を、ノースフロントで発揮してください」
真結は、その一文をしばらく見つめた。
◇
そして出向初日。
真結は石巻から仙台へ向かった。
新しい鞄。
会社から渡された出向辞令。
ノースフロント用の身分証。
石巻の菓子。
緊張しながら、最新設備の並ぶ仙台分室へ入る。
会議室の扉の向こうから声が聞こえた。
玲香。
「うちの案を最初から聞いてれば、こんなに時間かからなかったっちゃ」
柚希。
「玲香の案だけで進めるわけにはいかねえべ」
柚葉。
「面倒だから、二人の案を足して二で割れば?」
乙実。
「あの……足したら、もっと危ない案になると思うさげ……」
紗耶。
「まず落ち着いて話すべ」
瑠璃。
「一度休憩した方がいいんでないかい」
彩芽。
「あたし、仲直り用のくす玉作ったべさ!」
全員が彩芽を見る。
彩芽は、机の上へ小さなくす玉を置く。
「二人で引っぱったら、『なかよし』って垂れ幕が出るんだべさ!」
玲香が言う。
「引っ張らないっちゃ」
柚希も言う。
「うちも遠慮するべ」
彩芽は困った。
「したら、あたしが両方引っぱるべさ!」
一人で二本のひもを引く。
くす玉が割れる。
中から、
『なかよ死』
と書かれた垂れ幕が落ちてきた。
会議室が凍る。
彩芽が文字を見る。
「あれっ。“し”が違ったべさ!」
柚葉が呟く。
「縁起が悪すぎる」
紗耶は両手で顔を覆う。
瑠璃は笑っていいのか迷っている。
玲香と柚希だけが、同時に彩芽を見る。
「何でそうなるっちゃ!」
「確認してから出すべ!」
二人の声が、初めてきれいに重なった。
彩芽は嬉しそうに笑う。
「ほら、なまら息ぴったりだべさ!」
玲香と柚希は、再び別々の方向を向いた。
◇
雪乃が扉を開ける。
「皆さん。新しいメンバーを紹介します」
真結が一歩前へ出る。
七人の視線が集まる。
「北洋製紙石巻工場総務部から出向してきました、菅野真結です」
「戦隊ヒロインは初めてですが、イベント運営、人の顔と名前を覚えること、それから困っている人を見つけることには、少し自信があります」
玲香は真結を観察する。
柚希も静かに様子を見る。
柚葉は単刀直入に尋ねる。
「戦えるの?」
「これから覚えます」
「強い?」
「総務部では、コピー用紙を五箱運べます」
柚葉が少し考える。
「微妙」
彩芽は目を輝かせる。
「えっ、五箱も食べるのかい?」
全員が彩芽を見る。
「運ぶって言いました」
「紙をだべか?」
「はい」
「ヤギじゃないっしょ?」
「人間です」
彩芽は安心したように胸をなで下ろす。
「よかったべさ。新しい仲間がヤギだったら、名札食べられるところだったっしょ」
「そこを心配していたんですか?」
真結は初対面から、彩芽の頓珍漢さへ正面から対応することになった。
◇
真結は、テーブルへ石巻の菓子箱を置く。
「まず少し休憩しませんか?」
玲香が言う。
「まだ会議の途中だっちゃ」
真結は玲香の意見を否定しない。
「会議は続けましょう」
「ただ、お腹がすいたまま反省すると、必要以上に自分が悪いように思えてくることがあります」
柚希が、少しだけ表情を緩める。
紗耶も頷く。
「それはあるかもしれねえな」
真結は菓子を配りながら、自然に席を見る。
玲香と柚希を無理に隣へ座らせない。
二人の間には、彩芽を置く。
玲香側にも柚希側にも見えない位置へ、自分が座る。
尖った提案を続ける柚葉には、
「この箱を開けてもらえますか?」
と役割を与える。
柚葉は手際よく包装を開く。
「こういうのは得意」
「助かります」
発言できずにいた乙実へは、真結から声をかける。
「先ほど、何か言いかけていませんでしたか?」
乙実は驚いた。
小さすぎる声を、初対面の真結だけが拾っていた。
「あの……誰が悪かったかを決めるより、次に出来ることを考えた方がいいと思うさげ……」
真結は頷く。
「とてもいい意見ですね」
玲香と柚希へ目を向ける。
「次は誰が何を出来るか、順番に整理しませんか?」
「玲香さんの東側を重視する案にも理由があります」
玲香が顔を上げる。
「柚希さんの安全を優先した配置にも意味があります」
柚希も真結を見る。
どちらか一方が正しいとは言わない。
どちらか一方を悪者にもしない。
真結は二人の案を、同じ表の中へ書き込んだ。
「次は、二つの考えをどう組み合わせるかを考えましょう」
玲香も柚希も、すぐには答えない。
それでも、同じ表を見ていた。
◇
彩芽が元気よく手を挙げる。
「あたし、次に密漁船見つけたら、逃げたくなくなる雰囲気を作るべさ!」
真結が尋ねる。
「具体的には?」
「船に『おかえりなさい』って旗を出すんだわ!」
柚葉が言う。
「帰ってきたくなるというより、怖いと思う」
彩芽は別案を出す。
「したら、『逃げても無駄だよ』って笑顔で書けばいいっしょ!」
「余計に怖い」
「ウェルカムドリンクも用意するべさ!」
「海の上でどう渡すの?」
彩芽は口を開いたまま、しばらく考える。
「……長いストロー?」
「無理」
彩芽はしょんぼりする。
真結は笑わず、真面目にメモを取った。
「彩芽さんは、相手へ視覚的に伝える方法を考えているんですね」
彩芽の顔が明るくなる。
「そうだべさ!」
「では旗ではなく、遠くからも識別できる追跡用の目印や、味方同士の合図として考えてみましょう」
「おおっ。あたしの旗、生き残ったっしょ!」
雪乃が後ろから見守る。
彩芽の頓珍漢な発想を否定せず、使える部分だけを取り出している。
柚葉の尖った案にも、真結は同じように向き合う。
「港全体の封鎖は難しいですが、出入口を限定した監視強化なら検討できます」
柚葉が少し笑う。
「かなり丸くされた」
「先だけです」
「私の尖り、残ってる?」
「十分残っています」
彩芽が横から、満面の笑みで付け加える。
「大丈夫だべさ。柚葉さん、まだ触ったら刺さりそうだもん!」
「褒めなくていい」
会議室に、小さな笑いが起こった。
◇
真結は、まだ戦闘訓練を受けていない。
任務にも出ていない。
ノースフロントの制服すら、まだ仮のものだった。
それでも、沈んでいた会議室の空気は動き始めていた。
乙実の意見が全員へ届いた。
柚葉の尖った発想が、現実的な案へ変わった。
彩芽の頓珍漢な明るさが、初めて作戦の一部として生かされた。
紗耶と瑠璃も、それぞれの経験から意見を出し始める。
玲香と柚希の冷戦は、まだ終わっていない。
二人が仲直りしたわけでもない。
玲香は柚希を見ない。
柚希も必要以上には話さない。
それでも二人は、真結が作った同じ表へ、自分の考えを書き込んでいた。
一歩だけ。
ほんの一歩だけ、同じ方向へ進み始めている。
雪乃は確信した。
探していたのは、やはりこの人だった。
◇
休憩の合間。
真結の携帯電話が震える。
石巻工場の総務部から届いたメッセージ。
「来客用の名札プリンターが動きません」
真結の表情が変わる。
「すみません。少し石巻へ電話してもいいですか?」
雪乃が言う。
「引き継ぎは終わったはずです」
「でも、名札プリンターが……」
「菅野さん」
「はい」
「今日から、あなたの職場はこちらです」
真結は会議室を見る。
玲香。
柚希。
乙実。
柚葉。
紗耶。
瑠璃。
彩芽。
七人全員が真結を見ている。
彩芽が元気よく手を挙げた。
「まゆさん、こっちもなまら困ってるべさ!」
真結は少し迷う。
彩芽はさらに続ける。
「玲香さんと柚希さんは凍ってるし、柚葉さんは刺さるし、乙実さんは声ちっちゃいし、あたしのくす玉は字ぃ間違ってるっしょ!」
柚葉が言う。
「私を危険物みたいにまとめないで」
彩芽は真顔で答える。
「でも、だいたい合ってるべさ?」
「合ってない」
真結は思わず笑った。
そして携帯電話を伏せる。
「そうですね」
小さく息を吸う。
「では、まずこちらから片づけます」
石巻工場の総務部員、菅野真結。
小柄な二十七歳。
戦闘経験はない。
だが、人を見て、場を整え、全員の力を引き出すことができる。
玲香と柚希の冷戦へ、どちらにも偏らず入る。
柚希を支持するメンバーの気持ちを理解しながら、玲香を孤立させない。
柚葉の尖った大胆さを、使える武器へ変える。
乙実の小さな声を拾う。
紗耶と瑠璃の穏やかさへ、具体的な役割を与える。
そして彩芽の底抜けに明るく、時々底が見えないほど頓珍漢な発想を、チームの力へ変えていく。
困ったときのまゆちゃん。
みんなのまゆちゃん。
北の前線に足りなかった最後の一人が、ようやく仙台へ到着したのである。




