天使の歌姫、次はひとりで乗り換えます!? ――藤原詩織、ディナーショーの拍手を胸に“小さな自立”へ
六本木で開催された藤原詩織初のワンマンディナーショー、
『藤原詩織 First Dinner Show――Angelic Voice, One Night』
は、笑いと涙と大合唱の中で幕を閉じた。
細かい失敗は、かなりあった。
マイクスタンドへ額をぶつけた。
ハンガーを持ったままステージへ出た。
曲紹介では、
「次の曲は、次に歌う曲です」
という、情報量がほぼゼロの説明をした。
最後の挨拶では、
「この後、皆さんをお出迎えします」
と言い間違え、美月から、
「しおりん、もうワンステージ始めるんかい!」
と突っ込まれた。
それでも詩織は、約二時間のワンマンライブを一人で走り切った。
得意な歌だけではない。
苦手なMCも、衣装替えも、観客への挨拶も、自分の責任で最後までやり遂げた。
失敗しても逃げなかった。
言葉に詰まっても、誰かへマイクを渡さなかった。
そして公演の最後。
人気戦隊ヒロインの仲間たちと、父であるマエストロ藤原が加わった大合唱の後、会場を埋め尽くす観客が一斉に立ち上がった。
割れんばかりの拍手。
歓声。
笑顔。
涙。
詩織は花束を抱えながら、その光景を何度も目へ焼きつけた。
その余韻は、公演が終わって数日たっても、まったく冷めなかった。
◇
ディナーショーの翌朝。
藤原家の食卓。
詩織は紅茶のカップを両手で持ちながら、もう一度あの夜の話をしていた。
「最後の曲が終わったらね、みんな立ってくれたの」
詩織の母親が、穏やかに紅茶を注ぐ。
北欧系の血を引くハーフで、知的で落ち着いた雰囲気を持つ美しい女性だった。
「ええ。昨夜も聞いたわ」
「でもね、今日は昨日より、もっとよく思い出せるの」
「昨日より記憶が鮮明になることはあるのかしら」
「拍手が、わあって押し寄せてきたの。大きな波みたいに」
父のマエストロ藤原が、新聞を畳んで力強く頷く。
「当然だ。詩織の歌を二時間聴いた後、座ったままでいられる人間などいない」
母親が父を見る。
「あなたは、詩織が最初のMCで黙った時にも立ちかけていたでしょう」
「困っている娘を助けようとした」
「それではワンマンライブにならないわ」
「詩織が五秒も黙っていたのだぞ」
詩織が首をかしげる。
「七秒くらいだったと思う」
「なおさら助けるべきだった」
「でも、自分で話せたでしょう?」
母親に言われ、父は少し黙る。
詩織はうれしそうに笑った。
「何を話すか忘れたから、忘れましたって言ったの」
父は深く頷いた。
「正直で素晴らしい」
「普通は褒めるところなのかしら」
「詩織の誠実さが観客の心を動かした」
父は、音楽については世界でも有数の厳しさを持っている。
音程がわずかに低ければ指摘する。
呼吸が浅ければやり直させる。
感情に流されてテンポを崩せば、容赦なく止める。
しかし、音楽以外となると、娘に対する評価基準が突然崩壊する。
マイクスタンドへぶつかれば、
「額を下げなかった詩織の気品が素晴らしい」
ハンガーを持って出れば、
「ハンガーさえ舞台装置に変える存在感がある」
退場方向を間違えれば、
「会場の設計が分かりにくかった」
と、すべて娘以外の責任にした。
母親は紅茶を飲みながら言う。
「あなたがそうやって甘やかすから、詩織が何でも人に頼るようになったのではなくて?」
父は厳粛な顔で答える。
「音楽に関しては、一度も甘やかしていない」
「音楽以外の話をしているの」
「音楽以外の詩織は、存在しているだけで十分に素晴らしい」
母親は静かに目を閉じた。
話が通じていなかった。
◇
詩織は、大切に大切に育てられた箱入り娘だった。
父は世界的な指揮者。
母は理知的で細やか。
幼い頃から音楽教育には厳しかったが、日常生活では両親が何でも先回りしてきた。
大学へ行く日の朝には、母が天気を確認して傘を用意する。
楽譜が鞄に入っているか確認する。
乗り換えが複雑な日は、父か運転手が送る。
公演の日には、母が衣装や小物を点検し、父が会場までの移動を手配する。
詩織が何かを忘れる前に、両親が思い出す。
詩織が道に迷う前に、誰かが手を引く。
両親は娘を愛していた。
愛しすぎていた。
その結果、詩織はいつしか、
「私、歌以外は全部だめだから!」
と明るく言い切るようになった。
できないことを恥じてはいない。
できないなら、誰かへ頼ればよい。
周囲も、
「詩織は歌えればいい」
と支えてきた。
だが、ディナーショーを終えた詩織の中には、小さな変化が生まれていた。
二時間の舞台を、自分で最後まで進められた。
あれほど苦手だったMCも、完璧ではないが乗り越えた。
失敗しても、観客は笑って待ってくれた。
努力すれば、歌以外のことでも少しはできるのではないか。
詩織は初めて、そう考えるようになった。
◇
ある朝。
母親が詩織の大学用バッグへ楽譜を入れようとした。
詩織が手を伸ばす。
「ママ、今日は自分で入れる」
母親の動きが止まる。
「自分で?」
「うん。今日から、できることは自分でやる」
リビングで新聞を読んでいた父が、勢いよく立ち上がった。
「何をするつもりだ」
「大学へ行く準備」
「危険ではないか」
「楽譜を鞄に入れるだけだよ」
「楽譜を忘れたら、授業を受けられない」
「だから自分で確認するの」
詩織はスマートフォンを見せた。
「今日は電車でも一人で行く」
父の顔色が変わった。
「電車で?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
「乗り換えがある」
「分かってる」
「反対方向の電車も同じ駅へ来る」
「それも分かってる」
「詩織が間違えて乗っても、電車は気づいて止まってくれない」
母親が夫を見る。
「電車は誰が間違えても止まらないわ」
「だから危険なのだ」
父はすぐに予定表を開く。
「私が車で送ろう」
「パパ、今日は打ち合わせでしょう?」
「延期する」
「しないで」
「運転手を呼ぼう」
「自分で行くの」
父は深刻な表情で母親を見る。
「どうする」
「どうするも何も、行かせてあげましょう」
母親も心配そうだった。
これまで娘が困らないよう、何でも先回りしてきたのは母も同じである。
それでも、詩織の顔には以前にない決意があった。
「分からなかったら、駅員さんに聞く」
「迷ったら、案内板を見る」
「それでもだめなら連絡する」
母親はしばらく娘を見つめた後、楽譜を手渡した。
「分かったわ。自分で準備してみなさい」
詩織は笑顔になる。
「ありがとう」
「ただし、自立というのは、誰にも助けを求めないことではないのよ」
「うん」
「困った時は、ちゃんと聞きなさい」
「分かった」
母親は心配だった。
だが、少しうれしくもあった。
自分の手を離れようとする娘を寂しく思う一方で、ようやく前へ進もうとする姿を誇らしく感じていた。
父だけは、まだ納得していなかった。
「やはり私が少し離れて同行しよう」
詩織が言う。
「それ、一人じゃないよ」
「別の車両に乗る」
「それは監視だよ」
「見守りだ」
「パパは仕事へ行って」
世界的指揮者は、娘から仕事へ送り出された。
◇
詩織は一人で駅へ向かった。
スマートフォンの乗換案内。
紙へ書いた駅名。
母親が念のため用意した路線図。
麻衣が以前書いてくれた注意事項。
知らない電車へ勢いで乗らない。
ホームの案内を最後まで読む。
分からない時は、近くの駅員へ聞く。
最初の電車には、問題なく乗れた。
詩織は満足そうに座席へ座る。
「ここまでは完璧」
小声で自分を褒める。
問題は乗換駅だった。
電車を降りる。
案内板を見る。
右に行けば別路線。
左にも別路線。
階段は二つ。
エスカレーターもある。
表示されている駅名は、どれも聞いたことがあるような、ないような名前だった。
詩織は右へ進む。
途中で止まる。
表示を見直す。
「大学と反対方向の地名が書いてある」
以前なら、そのまま乗ってから誰かに連絡していた。
今回は自分で違和感へ気づいた。
詩織は駅員を探す。
「すみません。この大学へ行くには、どちらのホームですか?」
教えられた方向へ戻る。
一度改札の外へ出かけた。
しかし、もう一度表示を確認して引き返す。
時間はかかった。
それでも正しい電車へ乗ることができた。
ところが、その少し後ろ。
帽子。
サングラス。
マスク。
ロングコート。
妙に大きな新聞。
完全に不審者の姿をしたマエストロ藤原が、柱の陰から娘を見守っていた。
仕事へ向かったふりをし、結局後を追ってきたのである。
駅員が声をかける。
「何かお困りですか?」
父は小声で答える。
「娘が初めて一人で乗り換えをしている。私は見守っているだけだ」
「娘さんは、そのことをご存じですか?」
「知らない」
「それは一般的に尾行と言うのではないでしょうか」
「父親による安全確認だ」
「先ほどから柱の後ろへ隠れていらっしゃいますが」
「娘に見つからないためだ」
「やはり尾行では?」
話している間に、詩織の電車が発車する。
父は慌てて反対側のホームへ走る。
そして、別方向へ向かう電車へ乗ってしまった。
結果。
詩織は大学へ到着。
父は見知らぬ駅へ到着。
一人で乗り換えに成功した娘より、尾行した父の方が遠くへ運ばれていた。
大学へ着いた詩織は、母親へ電話をかける。
「ママ、一人で着いたよ!」
「よくできたわね」
「一回、反対方向へ行きかけたけど、自分で戻れた」
母親は心からうれしそうに答える。
「それで十分よ」
「パパにも教えてあげて」
「パパは今、あなたとは違う駅にいるわ」
「どうして?」
「あなたを尾行して、自分が乗り換えを間違えたの」
詩織は少し考える。
「パパの方が練習した方がいいね」
夕方。
疲れ切って帰宅した父は、娘の姿を見ると真剣に言った。
「詩織は素晴らしい。私より乗り換えが上手だ」
母親が呟く。
「比較対象として、あなたが急落しただけではなくて?」
◇
音楽大学でも、詩織の変化はすぐ話題になった。
これまでの詩織は、友人たちに多くのことを助けてもらっていた。
教室変更を教えてもらう。
練習室を予約してもらう。
提出期限を知らせてもらう。
楽譜をコピーしてもらう。
昼食を忘れれば、友人がパンを分ける。
友人たちも、
「詩織は歌に集中していればいい」
と思っていた。
その詩織が、教室へ入るなり宣言した。
「今日から、できることは自分でやります」
友人たちが静かになる。
一人が詩織の額へ手を当てる。
「熱はないね」
「熱はないよ」
「何かあった?」
「ディナーショーで、二時間一人でできたから」
詩織は胸を張る。
「歌以外も、練習したらできるかもしれないと思ったの」
友人たちは感心する。
同時に、不安そうな顔もする。
最初の挑戦は楽譜のコピーだった。
必要なのは十部。
詩織はコピー機の前へ立ち、操作画面を確認する。
部数を入力。
用紙を設定。
スタートボタンを押す。
印刷が始まった。
一枚。
二枚。
三枚。
十枚を超える。
十五枚。
二十枚。
友人が言う。
「詩織、止まらないよ!」
「三十部にしたみたい」
「止めよう!」
以前なら友人へ場所を譲り、
「お願い」
で終わっていた。
今回は操作画面を確認する。
停止ボタンを探す。
間違えて拡大ボタンを押す。
次の楽譜だけ、異様に大きく印刷される。
「大きくなった」
「見れば分かる!」
詩織は諦めない。
再び画面を見て、ようやく停止ボタンを押す。
二十二部で止まった。
詩織は拍手した。
「止められた!」
友人が紙の山を見る。
「必要なのは十部だけどね」
詩織は余った楽譜を抱える。
「同じ授業の人に配る」
結果、クラス全員へ楽譜が行き渡った。
学生たちは、
「詩織、ありがとう」
と喜ぶ。
詩織は説明しようとした。
「本当は間違えて――」
友人が肩をたたく。
「今回は気が利いたことにしておこう」
「でも、次は十部だけにする」
詩織はノートへ書く。
コピーする時は、部数を二回確認。
その姿を見て、友人たちは顔を見合わせる。
失敗は以前と変わらない。
だが、失敗の後が変わっていた。
自分で止めた。
自分で後始末を考えた。
そして次のためにメモを取った。
◇
家庭での自立は、さらに小さなところから始まった。
翌日の服を自分で準備する。
大学の予定をスマートフォンへ入力する。
持ち物のチェック表を作る。
携帯電話。
財布。
学生証。
家の鍵。
楽譜。
水。
手に持っている物を探さない。
最後の一項を見た母親が尋ねる。
「これは何?」
「携帯電話を持ちながら、携帯電話を探さないため」
「これまで何回探したの?」
「覚えてない」
「多すぎて?」
「たぶん」
朝食も自分で作ると言い出した。
最初の挑戦はトースト。
パンをトースターへ入れる。
スイッチを押す。
そして焼いていることを忘れ、部屋へ戻ろうとする。
母親が声をかける。
「詩織。何か焼いていなかった?」
詩織が止まる。
「パン!」
慌ててトースターの前へ戻る。
少し焦げたトーストが飛び出す。
詩織は皿へ載せ、誇らしげに食卓へ運ぶ。
父が立ち上がる。
「待ちなさい。写真を撮る」
「パンを焼いただけだよ?」
「詩織が初めて自分で作った朝食だ。記録する価値がある」
父は様々な角度から撮影する。
少し焦げた部分も拡大する。
「香ばしさを計算した、芸術的な焼き加減だ」
母親が冷静に言う。
「計算せず忘れていただけよ」
「偶然を芸術へ変える才能がある」
「音楽以外では甘やかさないでください」
「努力する娘を褒めるのは、父親の義務だ」
詩織は焦げたトーストを口へ入れる。
「少し苦い」
父が即座に答える。
「大人の味だ」
母親は紅茶を飲みながら、遠い目をした。
◇
次の「ぽかぽかトリオ」公演。
楽屋では、リーダーの麻衣が進行表、安全確認表、保護者の動線を確認している。
萌音はバルーン作品の仕上げ中。
これまでの詩織なら、歌の確認が終わると椅子へ座り、二人の準備を待っていた。
時には、
「何か手伝う?」
と尋ねることもあった。
しかし、頼まれた内容が分からなくなると、すぐ萌音へ渡していた。
この日は違う。
詩織は麻衣の前へ立つ。
「私にも何かできることある?」
麻衣が顔を上げる。
萌音も風船をひねる手を止める。
二人とも驚いていた。
「詩織おねえさん、どうしたんですか?」
「私も準備する。歌以外も、自分でやるって決めたから」
麻衣は少し考え、子どもたちへ配る歌詞カードを渡す。
「では、会場の座席へ一席に一枚ずつ置いてもらえますか?」
「分かった」
詩織は歌詞カードを抱えて会場へ向かう。
五分後。
麻衣が様子を確認する。
全ての歌詞カードが、最前列中央の一席へ積み上げられていた。
「詩織おねえさん」
「何?」
「一席に一枚です」
「ここから順番に取ってもらうんじゃないの?」
「お客様へ配布作業を任せる予定はありません」
詩織は歌詞カードの山を見る。
「最初から一人ずつ置くから、配布物なんだね」
「今、理解したんですか?」
「うん」
詩織は最初から置き直す。
一枚。
一枚。
一席ずつ。
途中で枚数が足りなくなった。
以前なら、
「麻衣ちゃーん!」
と呼んで終わりだった。
今回は残っている座席を数える。
一、二、三。
途中で、同じ列を二回数える。
枚数が合わない。
もう一度最初から数える。
今度は途中の座席を飛ばす。
三回目。
ようやく正しい数になった。
「あと十五枚必要です」
詩織は自分でスタッフへ伝える。
遠くから見ていた麻衣は、小さく微笑んだ。
作業は遅い。
一度で理解もできない。
それでも投げ出さず、自分で最後まで進めていた。
◇
詩織は自分で動こうとする一方で、最年少ながらリーダーを務める麻衣を尊重していた。
ディナーショーで一人の舞台を経験したことで、麻衣が普段どれほど多くのことを考えているのか、少し理解できるようになったのである。
子どもの安全。
公演の時間。
スタッフへの指示。
保護者への対応。
詩織と萌音の状態。
麻衣は小柄な体で、それらを同時に背負っていた。
詩織は麻衣へ言う。
「麻衣ちゃん、次は何をすればいい?」
「気づいたことがあれば、自分で動いても大丈夫ですよ」
「でも、ぽかぽかトリオのリーダーは麻衣ちゃんだから」
「はい」
「私が勝手に仕切ったら、麻衣ちゃんが困るでしょう?」
麻衣は少し驚いた。
詩織がそこまで考えるようになったことが、うれしかった。
「ありがとうございます。でも、何でも許可を取らなくても大丈夫ですよ」
詩織は力強く頷く。
その三分後。
「麻衣リーダー、お水を飲んでもいいですか?」
「それは自由に飲んでください」
「麻衣リーダー、くしゃみが出そうです」
「許可はいりません」
「麻衣リーダー、お手洗いへ行っても――」
「早く行ってきてください!」
萌音が笑う。
「麻衣ちゃんを立てることと、全部許可を取ることは違うよ」
詩織は真剣に考える。
「リーダーを尊重するのも難しいね」
麻衣は額へ手を当てる。
「前より手がかかる方向が変わっただけかもしれません」
◇
公演直前。
麻衣は、会場で体調を崩した子どもの保護者対応へ入っていた。
萌音は、大型バルーン作品の一部が割れ、修理に追われている。
詩織は舞台袖で、自分の出番を待っていた。
その時、会場の隅で泣いている小さな女の子に気づく。
女の子は母親の後ろへ隠れ、ステージへ近づこうとしない。
詩織は一度、麻衣を見る。
麻衣は別の親子への対応中。
萌音も手を離せない。
以前なら、詩織は誰かが来るまで待っていただろう。
今回は違った。
詩織は女の子の少し離れた場所へしゃがむ。
無理に手を伸ばさない。
参加するよう急かさない。
ただ、小さな声で童謡を歌い始める。
柔らかい歌声。
女の子が母親の後ろから、少しだけ顔を出す。
詩織は目を合わせ、微笑む。
歌いながら、小さく手を動かす。
女の子も、少しずつまねをする。
やがて母親の後ろから出て、詩織の近くへ座った。
麻衣が対応を終えて戻ってきた時には、女の子は笑顔になっていた。
詩織は麻衣へ尋ねる。
「勝手に動いてごめんね。先に聞いた方がよかった?」
麻衣は首を横へ振る。
「今は、詩織おねえさんが動いてくれて助かりました」
「本当?」
「はい。あの子に無理をさせず、自分でできることを考えてくれたんですよね」
詩織は少し照れた。
使ったのは、得意な歌だった。
それでも、歌えと言われたから歌ったのではない。
自分で周囲を見て、自分で考え、自分から動いた。
それは詩織にとって、大きな一歩だった。
◇
公演終了後。
詩織は自分で荷物を確認する。
「携帯電話、財布、楽譜、衣装袋。全部ある」
萌音が尋ねる。
「上着は?」
詩織は自分の腕を見る。
着ていない。
楽屋の椅子へ置いたままだった。
萌音が立ち上がる。
「取ってくるね」
詩織が止めた。
「私が行く」
「楽屋の場所は分かる?」
「たぶん」
「一緒に行こうか?」
詩織は少し考える。
「まず自分で行ってみる。でも分からなかったら、ちゃんと聞く」
廊下へ出る。
一度、倉庫の扉を開ける。
中に段ボールしかないことを確認する。
「ここじゃない」
案内表示を見る。
矢印をたどる。
今度は正しい楽屋へ着く。
上着を持ち、二人のところへ戻る。
「取ってきた!」
麻衣と萌音が拍手する。
詩織は少し得意そうに笑う。
以前なら、
「萌音ちゃんが気づいてくれたから完璧!」
と言っていただろう。
今回は違った。
「教えてくれてありがとう。次からは、最後に上着も確認する」
萌音は優しく笑った。
忘れ物がなくなったわけではない。
迷わなくなったわけでもない。
だが、助けてもらった後で、次はどうすればよいかを考えるようになった。
◇
真帆は、詩織の変化を静かに見守っていた。
一度だけ自分で行動することは、誰にでもできる。
ディナーショー直後の興奮で、張り切っているだけかもしれない。
だから、すぐには褒めなかった。
数週間。
詩織は失敗を続けた。
大学の教室を一階間違えた。
コピー機で用紙サイズを巨大にした。
乗換駅で改札を出てしまった。
ぽかぽかトリオでは、歌詞カードを上下逆に置いた。
荷物を確認した直後に帽子を忘れた。
それでも、以前のように、
「私、歌以外は全部だめだから!」
とは言わなくなった。
一度、言いかけたことがある。
「私、歌以外は全部……」
麻衣と萌音が詩織を見る。
詩織は少し考え、言い直した。
「……まだ練習中だから!」
失敗した時は案内表示を見る。
分からなければ駅員へ聞く。
スタッフへ事情を説明する。
次に備えてメモを取る。
助けてもらうことはある。
だが、最初から何もかも人任せにはしない。
その変化を見て、真帆は心から思った。
ディナーショーを開催して、本当によかった。
あの公演で詩織へ求めたのは、完璧なMCではない。
誰の助けも借りずに生きることでもない。
失敗しても、自分の責任で立ち続ける経験だった。
観客から送られた大きな拍手は、
「歌以外でも、逃げずに頑張れば前へ進める」
という自信を、詩織へ与えた。
◇
ある日。
真帆は詩織を呼び止めた。
「最近、自分で考えて動くことが増えましたね」
詩織はうれしそうに笑う。
「ディナーショーで、失敗しても最後までできたから」
「私、歌以外も練習したら、少しはできるみたいです」
真帆は微笑んだ。
「詩織さんは、最初から何もできない人だったわけではありません」
「できないと決めて、周囲へ任せていただけです」
少し厳しい言葉だった。
詩織は素直に頷く。
「うん。パパとママも、何でも先にやってくれたから」
「ご両親だけの責任にしてはいけませんよ」
「はい」
すぐに認めた。
それも成長だった。
詩織は真帆へ尋ねる。
「またディナーショーをしてもいいですか?」
「次回は、会場まで自分で来られるようになってから考えましょう」
詩織の表情が固まる。
「歌の練習より難しい条件だね」
「だからこそ、次の目標です」
詩織はスマートフォンを取り出し、六本木までの経路を調べ始める。
「分かりました。次は一人で六本木へ行きます」
真帆が念を押す。
「前日に六本木へ到着しておく、という意味ではありません」
詩織の指が止まる。
「それも考えてた」
まだ、かなり危なっかしかった。
◇
次のぽかぽかトリオ公演の日。
麻衣と萌音は駅の改札前で、詩織を待っていた。
以前なら、スタッフや家族に連れられて現れる。
しかし、その日は違った。
しばらくすると、詩織が一人で改札を通ってくる。
少し息を切らしていた。
髪も、わずかに乱れている。
それでも、顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「一回、違うホームへ行った」
麻衣が心配する。
「大丈夫でしたか?」
「案内板を見たら、行き先が違ってた」
「それで?」
「自分で戻った。駅員さんにも一回聞いた」
萌音が微笑む。
「すごいね、詩織さん」
「まだ完璧じゃないけどね」
詩織は二人へ、自分の乗車券を見せる。
なくさず持っていた。
麻衣が確認する。
「今日は、ちゃんと正しい電車へ乗れたんですね」
「うん」
「携帯電話は?」
詩織は鞄を探す。
右のポケット。
左のポケット。
内ポケット。
少し焦る。
萌音が詩織の手を指さす。
「持ってるよ」
詩織は自分の右手を見る。
携帯電話を握っていた。
「これは、まだ練習中」
三人は笑いながらホームへ向かう。
先頭を歩くのは、リーダーの麻衣。
その隣を萌音。
詩織は二人へ任せきりにせず、自分でも案内表示を見上げる。
電車がホームへ入ってくる。
詩織が行き先表示を指さした。
「これで合ってるよね?」
麻衣が確認する。
「はい。合っています」
詩織は満面の笑みを浮かべた。
「私、歌以外は全部だめ――じゃなくて、歌以外はまだ練習中だから!」
扉が開く。
三人は正しい電車へ乗り込む。
六本木で浴びた、割れんばかりの拍手。
その音は、今も詩織の胸の中で鳴り続けている。
失敗しても逃げなかった自分。
一人で二時間の舞台へ立てた自分。
支えてもらいながらでも、自分の足で前へ進めると知った自分。
藤原詩織にとって、本当のアンコールは、華やかなステージの上ではなかった。
駅の案内板を読むこと。
自分で楽譜をコピーすること。
忘れた上着を自分で取りに戻ること。
困っている子どもへ、自分から声をかけること。
何気ない毎日の中にこそ、次のステージは待っていた。
完璧に自立したわけではない。
相変わらず忘れ物はする。
道にも迷う。
携帯電話を持ったまま探す。
周囲は今も、毎日のようにヒヤヒヤしている。
それでも詩織は、もう最初から諦めない。
失敗を笑いながら受け止め、自分でやり直そうとする。
大切に育てられた箱入り娘は、自分の手で箱のふたを少しだけ開けた。
外の世界は広く、複雑で、乗り換え案内も難しい。
だが、その先には、あの夜のような温かな拍手がきっと待っている。




