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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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1113/1170

天使の歌姫、次はひとりで乗り換えます!? ――藤原詩織、ディナーショーの拍手を胸に“小さな自立”へ

六本木で開催された藤原詩織初のワンマンディナーショー、


『藤原詩織 First Dinner Show――Angelic Voice, One Night』


は、笑いと涙と大合唱の中で幕を閉じた。


細かい失敗は、かなりあった。


マイクスタンドへ額をぶつけた。


ハンガーを持ったままステージへ出た。


曲紹介では、


「次の曲は、次に歌う曲です」


という、情報量がほぼゼロの説明をした。


最後の挨拶では、


「この後、皆さんをお出迎えします」


と言い間違え、美月から、


「しおりん、もうワンステージ始めるんかい!」


と突っ込まれた。


それでも詩織は、約二時間のワンマンライブを一人で走り切った。


得意な歌だけではない。


苦手なMCも、衣装替えも、観客への挨拶も、自分の責任で最後までやり遂げた。


失敗しても逃げなかった。


言葉に詰まっても、誰かへマイクを渡さなかった。


そして公演の最後。


人気戦隊ヒロインの仲間たちと、父であるマエストロ藤原が加わった大合唱の後、会場を埋め尽くす観客が一斉に立ち上がった。


割れんばかりの拍手。


歓声。


笑顔。


涙。


詩織は花束を抱えながら、その光景を何度も目へ焼きつけた。


その余韻は、公演が終わって数日たっても、まったく冷めなかった。



ディナーショーの翌朝。


藤原家の食卓。


詩織は紅茶のカップを両手で持ちながら、もう一度あの夜の話をしていた。


「最後の曲が終わったらね、みんな立ってくれたの」


詩織の母親が、穏やかに紅茶を注ぐ。


北欧系の血を引くハーフで、知的で落ち着いた雰囲気を持つ美しい女性だった。


「ええ。昨夜も聞いたわ」


「でもね、今日は昨日より、もっとよく思い出せるの」


「昨日より記憶が鮮明になることはあるのかしら」


「拍手が、わあって押し寄せてきたの。大きな波みたいに」


父のマエストロ藤原が、新聞を畳んで力強く頷く。


「当然だ。詩織の歌を二時間聴いた後、座ったままでいられる人間などいない」


母親が父を見る。


「あなたは、詩織が最初のMCで黙った時にも立ちかけていたでしょう」


「困っている娘を助けようとした」


「それではワンマンライブにならないわ」


「詩織が五秒も黙っていたのだぞ」


詩織が首をかしげる。


「七秒くらいだったと思う」


「なおさら助けるべきだった」


「でも、自分で話せたでしょう?」


母親に言われ、父は少し黙る。


詩織はうれしそうに笑った。


「何を話すか忘れたから、忘れましたって言ったの」


父は深く頷いた。


「正直で素晴らしい」


「普通は褒めるところなのかしら」


「詩織の誠実さが観客の心を動かした」


父は、音楽については世界でも有数の厳しさを持っている。


音程がわずかに低ければ指摘する。


呼吸が浅ければやり直させる。


感情に流されてテンポを崩せば、容赦なく止める。


しかし、音楽以外となると、娘に対する評価基準が突然崩壊する。


マイクスタンドへぶつかれば、


「額を下げなかった詩織の気品が素晴らしい」


ハンガーを持って出れば、


「ハンガーさえ舞台装置に変える存在感がある」


退場方向を間違えれば、


「会場の設計が分かりにくかった」


と、すべて娘以外の責任にした。


母親は紅茶を飲みながら言う。


「あなたがそうやって甘やかすから、詩織が何でも人に頼るようになったのではなくて?」


父は厳粛な顔で答える。


「音楽に関しては、一度も甘やかしていない」


「音楽以外の話をしているの」


「音楽以外の詩織は、存在しているだけで十分に素晴らしい」


母親は静かに目を閉じた。


話が通じていなかった。



詩織は、大切に大切に育てられた箱入り娘だった。


父は世界的な指揮者。


母は理知的で細やか。


幼い頃から音楽教育には厳しかったが、日常生活では両親が何でも先回りしてきた。


大学へ行く日の朝には、母が天気を確認して傘を用意する。


楽譜が鞄に入っているか確認する。


乗り換えが複雑な日は、父か運転手が送る。


公演の日には、母が衣装や小物を点検し、父が会場までの移動を手配する。


詩織が何かを忘れる前に、両親が思い出す。


詩織が道に迷う前に、誰かが手を引く。


両親は娘を愛していた。


愛しすぎていた。


その結果、詩織はいつしか、


「私、歌以外は全部だめだから!」


と明るく言い切るようになった。


できないことを恥じてはいない。


できないなら、誰かへ頼ればよい。


周囲も、


「詩織は歌えればいい」


と支えてきた。


だが、ディナーショーを終えた詩織の中には、小さな変化が生まれていた。


二時間の舞台を、自分で最後まで進められた。


あれほど苦手だったMCも、完璧ではないが乗り越えた。


失敗しても、観客は笑って待ってくれた。


努力すれば、歌以外のことでも少しはできるのではないか。


詩織は初めて、そう考えるようになった。



ある朝。


母親が詩織の大学用バッグへ楽譜を入れようとした。


詩織が手を伸ばす。


「ママ、今日は自分で入れる」


母親の動きが止まる。


「自分で?」


「うん。今日から、できることは自分でやる」


リビングで新聞を読んでいた父が、勢いよく立ち上がった。


「何をするつもりだ」


「大学へ行く準備」


「危険ではないか」


「楽譜を鞄に入れるだけだよ」


「楽譜を忘れたら、授業を受けられない」


「だから自分で確認するの」


詩織はスマートフォンを見せた。


「今日は電車でも一人で行く」


父の顔色が変わった。


「電車で?」


「うん」


「一人で?」


「うん」


「乗り換えがある」


「分かってる」


「反対方向の電車も同じ駅へ来る」


「それも分かってる」


「詩織が間違えて乗っても、電車は気づいて止まってくれない」


母親が夫を見る。


「電車は誰が間違えても止まらないわ」


「だから危険なのだ」


父はすぐに予定表を開く。


「私が車で送ろう」


「パパ、今日は打ち合わせでしょう?」


「延期する」


「しないで」


「運転手を呼ぼう」


「自分で行くの」


父は深刻な表情で母親を見る。


「どうする」


「どうするも何も、行かせてあげましょう」


母親も心配そうだった。


これまで娘が困らないよう、何でも先回りしてきたのは母も同じである。


それでも、詩織の顔には以前にない決意があった。


「分からなかったら、駅員さんに聞く」


「迷ったら、案内板を見る」


「それでもだめなら連絡する」


母親はしばらく娘を見つめた後、楽譜を手渡した。


「分かったわ。自分で準備してみなさい」


詩織は笑顔になる。


「ありがとう」


「ただし、自立というのは、誰にも助けを求めないことではないのよ」


「うん」


「困った時は、ちゃんと聞きなさい」


「分かった」


母親は心配だった。


だが、少しうれしくもあった。


自分の手を離れようとする娘を寂しく思う一方で、ようやく前へ進もうとする姿を誇らしく感じていた。


父だけは、まだ納得していなかった。


「やはり私が少し離れて同行しよう」


詩織が言う。


「それ、一人じゃないよ」


「別の車両に乗る」


「それは監視だよ」


「見守りだ」


「パパは仕事へ行って」


世界的指揮者は、娘から仕事へ送り出された。



詩織は一人で駅へ向かった。


スマートフォンの乗換案内。


紙へ書いた駅名。


母親が念のため用意した路線図。


麻衣が以前書いてくれた注意事項。


知らない電車へ勢いで乗らない。


ホームの案内を最後まで読む。


分からない時は、近くの駅員へ聞く。


最初の電車には、問題なく乗れた。


詩織は満足そうに座席へ座る。


「ここまでは完璧」


小声で自分を褒める。


問題は乗換駅だった。


電車を降りる。


案内板を見る。


右に行けば別路線。


左にも別路線。


階段は二つ。


エスカレーターもある。


表示されている駅名は、どれも聞いたことがあるような、ないような名前だった。


詩織は右へ進む。


途中で止まる。


表示を見直す。


「大学と反対方向の地名が書いてある」


以前なら、そのまま乗ってから誰かに連絡していた。


今回は自分で違和感へ気づいた。


詩織は駅員を探す。


「すみません。この大学へ行くには、どちらのホームですか?」


教えられた方向へ戻る。


一度改札の外へ出かけた。


しかし、もう一度表示を確認して引き返す。


時間はかかった。


それでも正しい電車へ乗ることができた。


ところが、その少し後ろ。


帽子。


サングラス。


マスク。


ロングコート。


妙に大きな新聞。


完全に不審者の姿をしたマエストロ藤原が、柱の陰から娘を見守っていた。


仕事へ向かったふりをし、結局後を追ってきたのである。


駅員が声をかける。


「何かお困りですか?」


父は小声で答える。


「娘が初めて一人で乗り換えをしている。私は見守っているだけだ」


「娘さんは、そのことをご存じですか?」


「知らない」


「それは一般的に尾行と言うのではないでしょうか」


「父親による安全確認だ」


「先ほどから柱の後ろへ隠れていらっしゃいますが」


「娘に見つからないためだ」


「やはり尾行では?」


話している間に、詩織の電車が発車する。


父は慌てて反対側のホームへ走る。


そして、別方向へ向かう電車へ乗ってしまった。


結果。


詩織は大学へ到着。


父は見知らぬ駅へ到着。


一人で乗り換えに成功した娘より、尾行した父の方が遠くへ運ばれていた。


大学へ着いた詩織は、母親へ電話をかける。


「ママ、一人で着いたよ!」


「よくできたわね」


「一回、反対方向へ行きかけたけど、自分で戻れた」


母親は心からうれしそうに答える。


「それで十分よ」


「パパにも教えてあげて」


「パパは今、あなたとは違う駅にいるわ」


「どうして?」


「あなたを尾行して、自分が乗り換えを間違えたの」


詩織は少し考える。


「パパの方が練習した方がいいね」


夕方。


疲れ切って帰宅した父は、娘の姿を見ると真剣に言った。


「詩織は素晴らしい。私より乗り換えが上手だ」


母親が呟く。


「比較対象として、あなたが急落しただけではなくて?」



音楽大学でも、詩織の変化はすぐ話題になった。


これまでの詩織は、友人たちに多くのことを助けてもらっていた。


教室変更を教えてもらう。


練習室を予約してもらう。


提出期限を知らせてもらう。


楽譜をコピーしてもらう。


昼食を忘れれば、友人がパンを分ける。


友人たちも、


「詩織は歌に集中していればいい」


と思っていた。


その詩織が、教室へ入るなり宣言した。


「今日から、できることは自分でやります」


友人たちが静かになる。


一人が詩織の額へ手を当てる。


「熱はないね」


「熱はないよ」


「何かあった?」


「ディナーショーで、二時間一人でできたから」


詩織は胸を張る。


「歌以外も、練習したらできるかもしれないと思ったの」


友人たちは感心する。


同時に、不安そうな顔もする。


最初の挑戦は楽譜のコピーだった。


必要なのは十部。


詩織はコピー機の前へ立ち、操作画面を確認する。


部数を入力。


用紙を設定。


スタートボタンを押す。


印刷が始まった。


一枚。


二枚。


三枚。


十枚を超える。


十五枚。


二十枚。


友人が言う。


「詩織、止まらないよ!」


「三十部にしたみたい」


「止めよう!」


以前なら友人へ場所を譲り、


「お願い」


で終わっていた。


今回は操作画面を確認する。


停止ボタンを探す。


間違えて拡大ボタンを押す。


次の楽譜だけ、異様に大きく印刷される。


「大きくなった」


「見れば分かる!」


詩織は諦めない。


再び画面を見て、ようやく停止ボタンを押す。


二十二部で止まった。


詩織は拍手した。


「止められた!」


友人が紙の山を見る。


「必要なのは十部だけどね」


詩織は余った楽譜を抱える。


「同じ授業の人に配る」


結果、クラス全員へ楽譜が行き渡った。


学生たちは、


「詩織、ありがとう」


と喜ぶ。


詩織は説明しようとした。


「本当は間違えて――」


友人が肩をたたく。


「今回は気が利いたことにしておこう」


「でも、次は十部だけにする」


詩織はノートへ書く。


コピーする時は、部数を二回確認。


その姿を見て、友人たちは顔を見合わせる。


失敗は以前と変わらない。


だが、失敗の後が変わっていた。


自分で止めた。


自分で後始末を考えた。


そして次のためにメモを取った。



家庭での自立は、さらに小さなところから始まった。


翌日の服を自分で準備する。


大学の予定をスマートフォンへ入力する。


持ち物のチェック表を作る。


携帯電話。


財布。


学生証。


家の鍵。


楽譜。


水。


手に持っている物を探さない。


最後の一項を見た母親が尋ねる。


「これは何?」


「携帯電話を持ちながら、携帯電話を探さないため」


「これまで何回探したの?」


「覚えてない」


「多すぎて?」


「たぶん」


朝食も自分で作ると言い出した。


最初の挑戦はトースト。


パンをトースターへ入れる。


スイッチを押す。


そして焼いていることを忘れ、部屋へ戻ろうとする。


母親が声をかける。


「詩織。何か焼いていなかった?」


詩織が止まる。


「パン!」


慌ててトースターの前へ戻る。


少し焦げたトーストが飛び出す。


詩織は皿へ載せ、誇らしげに食卓へ運ぶ。


父が立ち上がる。


「待ちなさい。写真を撮る」


「パンを焼いただけだよ?」


「詩織が初めて自分で作った朝食だ。記録する価値がある」


父は様々な角度から撮影する。


少し焦げた部分も拡大する。


「香ばしさを計算した、芸術的な焼き加減だ」


母親が冷静に言う。


「計算せず忘れていただけよ」


「偶然を芸術へ変える才能がある」


「音楽以外では甘やかさないでください」


「努力する娘を褒めるのは、父親の義務だ」


詩織は焦げたトーストを口へ入れる。


「少し苦い」


父が即座に答える。


「大人の味だ」


母親は紅茶を飲みながら、遠い目をした。



次の「ぽかぽかトリオ」公演。


楽屋では、リーダーの麻衣が進行表、安全確認表、保護者の動線を確認している。


萌音はバルーン作品の仕上げ中。


これまでの詩織なら、歌の確認が終わると椅子へ座り、二人の準備を待っていた。


時には、


「何か手伝う?」


と尋ねることもあった。


しかし、頼まれた内容が分からなくなると、すぐ萌音へ渡していた。


この日は違う。


詩織は麻衣の前へ立つ。


「私にも何かできることある?」


麻衣が顔を上げる。


萌音も風船をひねる手を止める。


二人とも驚いていた。


「詩織おねえさん、どうしたんですか?」


「私も準備する。歌以外も、自分でやるって決めたから」


麻衣は少し考え、子どもたちへ配る歌詞カードを渡す。


「では、会場の座席へ一席に一枚ずつ置いてもらえますか?」


「分かった」


詩織は歌詞カードを抱えて会場へ向かう。


五分後。


麻衣が様子を確認する。


全ての歌詞カードが、最前列中央の一席へ積み上げられていた。


「詩織おねえさん」


「何?」


「一席に一枚です」


「ここから順番に取ってもらうんじゃないの?」


「お客様へ配布作業を任せる予定はありません」


詩織は歌詞カードの山を見る。


「最初から一人ずつ置くから、配布物なんだね」


「今、理解したんですか?」


「うん」


詩織は最初から置き直す。


一枚。


一枚。


一席ずつ。


途中で枚数が足りなくなった。


以前なら、


「麻衣ちゃーん!」


と呼んで終わりだった。


今回は残っている座席を数える。


一、二、三。


途中で、同じ列を二回数える。


枚数が合わない。


もう一度最初から数える。


今度は途中の座席を飛ばす。


三回目。


ようやく正しい数になった。


「あと十五枚必要です」


詩織は自分でスタッフへ伝える。


遠くから見ていた麻衣は、小さく微笑んだ。


作業は遅い。


一度で理解もできない。


それでも投げ出さず、自分で最後まで進めていた。



詩織は自分で動こうとする一方で、最年少ながらリーダーを務める麻衣を尊重していた。


ディナーショーで一人の舞台を経験したことで、麻衣が普段どれほど多くのことを考えているのか、少し理解できるようになったのである。


子どもの安全。


公演の時間。


スタッフへの指示。


保護者への対応。


詩織と萌音の状態。


麻衣は小柄な体で、それらを同時に背負っていた。


詩織は麻衣へ言う。


「麻衣ちゃん、次は何をすればいい?」


「気づいたことがあれば、自分で動いても大丈夫ですよ」


「でも、ぽかぽかトリオのリーダーは麻衣ちゃんだから」


「はい」


「私が勝手に仕切ったら、麻衣ちゃんが困るでしょう?」


麻衣は少し驚いた。


詩織がそこまで考えるようになったことが、うれしかった。


「ありがとうございます。でも、何でも許可を取らなくても大丈夫ですよ」


詩織は力強く頷く。


その三分後。


「麻衣リーダー、お水を飲んでもいいですか?」


「それは自由に飲んでください」


「麻衣リーダー、くしゃみが出そうです」


「許可はいりません」


「麻衣リーダー、お手洗いへ行っても――」


「早く行ってきてください!」


萌音が笑う。


「麻衣ちゃんを立てることと、全部許可を取ることは違うよ」


詩織は真剣に考える。


「リーダーを尊重するのも難しいね」


麻衣は額へ手を当てる。


「前より手がかかる方向が変わっただけかもしれません」



公演直前。


麻衣は、会場で体調を崩した子どもの保護者対応へ入っていた。


萌音は、大型バルーン作品の一部が割れ、修理に追われている。


詩織は舞台袖で、自分の出番を待っていた。


その時、会場の隅で泣いている小さな女の子に気づく。


女の子は母親の後ろへ隠れ、ステージへ近づこうとしない。


詩織は一度、麻衣を見る。


麻衣は別の親子への対応中。


萌音も手を離せない。


以前なら、詩織は誰かが来るまで待っていただろう。


今回は違った。


詩織は女の子の少し離れた場所へしゃがむ。


無理に手を伸ばさない。


参加するよう急かさない。


ただ、小さな声で童謡を歌い始める。


柔らかい歌声。


女の子が母親の後ろから、少しだけ顔を出す。


詩織は目を合わせ、微笑む。


歌いながら、小さく手を動かす。


女の子も、少しずつまねをする。


やがて母親の後ろから出て、詩織の近くへ座った。


麻衣が対応を終えて戻ってきた時には、女の子は笑顔になっていた。


詩織は麻衣へ尋ねる。


「勝手に動いてごめんね。先に聞いた方がよかった?」


麻衣は首を横へ振る。


「今は、詩織おねえさんが動いてくれて助かりました」


「本当?」


「はい。あの子に無理をさせず、自分でできることを考えてくれたんですよね」


詩織は少し照れた。


使ったのは、得意な歌だった。


それでも、歌えと言われたから歌ったのではない。


自分で周囲を見て、自分で考え、自分から動いた。


それは詩織にとって、大きな一歩だった。



公演終了後。


詩織は自分で荷物を確認する。


「携帯電話、財布、楽譜、衣装袋。全部ある」


萌音が尋ねる。


「上着は?」


詩織は自分の腕を見る。


着ていない。


楽屋の椅子へ置いたままだった。


萌音が立ち上がる。


「取ってくるね」


詩織が止めた。


「私が行く」


「楽屋の場所は分かる?」


「たぶん」


「一緒に行こうか?」


詩織は少し考える。


「まず自分で行ってみる。でも分からなかったら、ちゃんと聞く」


廊下へ出る。


一度、倉庫の扉を開ける。


中に段ボールしかないことを確認する。


「ここじゃない」


案内表示を見る。


矢印をたどる。


今度は正しい楽屋へ着く。


上着を持ち、二人のところへ戻る。


「取ってきた!」


麻衣と萌音が拍手する。


詩織は少し得意そうに笑う。


以前なら、


「萌音ちゃんが気づいてくれたから完璧!」


と言っていただろう。


今回は違った。


「教えてくれてありがとう。次からは、最後に上着も確認する」


萌音は優しく笑った。


忘れ物がなくなったわけではない。


迷わなくなったわけでもない。


だが、助けてもらった後で、次はどうすればよいかを考えるようになった。



真帆は、詩織の変化を静かに見守っていた。


一度だけ自分で行動することは、誰にでもできる。


ディナーショー直後の興奮で、張り切っているだけかもしれない。


だから、すぐには褒めなかった。


数週間。


詩織は失敗を続けた。


大学の教室を一階間違えた。


コピー機で用紙サイズを巨大にした。


乗換駅で改札を出てしまった。


ぽかぽかトリオでは、歌詞カードを上下逆に置いた。


荷物を確認した直後に帽子を忘れた。


それでも、以前のように、


「私、歌以外は全部だめだから!」


とは言わなくなった。


一度、言いかけたことがある。


「私、歌以外は全部……」


麻衣と萌音が詩織を見る。


詩織は少し考え、言い直した。


「……まだ練習中だから!」


失敗した時は案内表示を見る。


分からなければ駅員へ聞く。


スタッフへ事情を説明する。


次に備えてメモを取る。


助けてもらうことはある。


だが、最初から何もかも人任せにはしない。


その変化を見て、真帆は心から思った。


ディナーショーを開催して、本当によかった。


あの公演で詩織へ求めたのは、完璧なMCではない。


誰の助けも借りずに生きることでもない。


失敗しても、自分の責任で立ち続ける経験だった。


観客から送られた大きな拍手は、


「歌以外でも、逃げずに頑張れば前へ進める」


という自信を、詩織へ与えた。



ある日。


真帆は詩織を呼び止めた。


「最近、自分で考えて動くことが増えましたね」


詩織はうれしそうに笑う。


「ディナーショーで、失敗しても最後までできたから」


「私、歌以外も練習したら、少しはできるみたいです」


真帆は微笑んだ。


「詩織さんは、最初から何もできない人だったわけではありません」


「できないと決めて、周囲へ任せていただけです」


少し厳しい言葉だった。


詩織は素直に頷く。


「うん。パパとママも、何でも先にやってくれたから」


「ご両親だけの責任にしてはいけませんよ」


「はい」


すぐに認めた。


それも成長だった。


詩織は真帆へ尋ねる。


「またディナーショーをしてもいいですか?」


「次回は、会場まで自分で来られるようになってから考えましょう」


詩織の表情が固まる。


「歌の練習より難しい条件だね」


「だからこそ、次の目標です」


詩織はスマートフォンを取り出し、六本木までの経路を調べ始める。


「分かりました。次は一人で六本木へ行きます」


真帆が念を押す。


「前日に六本木へ到着しておく、という意味ではありません」


詩織の指が止まる。


「それも考えてた」


まだ、かなり危なっかしかった。



次のぽかぽかトリオ公演の日。


麻衣と萌音は駅の改札前で、詩織を待っていた。


以前なら、スタッフや家族に連れられて現れる。


しかし、その日は違った。


しばらくすると、詩織が一人で改札を通ってくる。


少し息を切らしていた。


髪も、わずかに乱れている。


それでも、顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。


「一回、違うホームへ行った」


麻衣が心配する。


「大丈夫でしたか?」


「案内板を見たら、行き先が違ってた」


「それで?」


「自分で戻った。駅員さんにも一回聞いた」


萌音が微笑む。


「すごいね、詩織さん」


「まだ完璧じゃないけどね」


詩織は二人へ、自分の乗車券を見せる。


なくさず持っていた。


麻衣が確認する。


「今日は、ちゃんと正しい電車へ乗れたんですね」


「うん」


「携帯電話は?」


詩織は鞄を探す。


右のポケット。


左のポケット。


内ポケット。


少し焦る。


萌音が詩織の手を指さす。


「持ってるよ」


詩織は自分の右手を見る。


携帯電話を握っていた。


「これは、まだ練習中」


三人は笑いながらホームへ向かう。


先頭を歩くのは、リーダーの麻衣。


その隣を萌音。


詩織は二人へ任せきりにせず、自分でも案内表示を見上げる。


電車がホームへ入ってくる。


詩織が行き先表示を指さした。


「これで合ってるよね?」


麻衣が確認する。


「はい。合っています」


詩織は満面の笑みを浮かべた。


「私、歌以外は全部だめ――じゃなくて、歌以外はまだ練習中だから!」


扉が開く。


三人は正しい電車へ乗り込む。


六本木で浴びた、割れんばかりの拍手。


その音は、今も詩織の胸の中で鳴り続けている。


失敗しても逃げなかった自分。


一人で二時間の舞台へ立てた自分。


支えてもらいながらでも、自分の足で前へ進めると知った自分。


藤原詩織にとって、本当のアンコールは、華やかなステージの上ではなかった。


駅の案内板を読むこと。


自分で楽譜をコピーすること。


忘れた上着を自分で取りに戻ること。


困っている子どもへ、自分から声をかけること。


何気ない毎日の中にこそ、次のステージは待っていた。


完璧に自立したわけではない。


相変わらず忘れ物はする。


道にも迷う。


携帯電話を持ったまま探す。


周囲は今も、毎日のようにヒヤヒヤしている。


それでも詩織は、もう最初から諦めない。


失敗を笑いながら受け止め、自分でやり直そうとする。


大切に育てられた箱入り娘は、自分の手で箱のふたを少しだけ開けた。


外の世界は広く、複雑で、乗り換え案内も難しい。


だが、その先には、あの夜のような温かな拍手がきっと待っている。

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