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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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1112/1169

天使の歌姫、ひとりで立つ夜 ――歌以外は全部だめ!? 藤原詩織、六本木ディナーショーに挑む

戦隊ヒロインプロジェクトには、歌の得意な者が何人もいる。


イベントのテーマ曲を元気よく歌える者。


ダンスをしながら息を切らさず歌える者。


地域の祭り歌や応援歌を器用に覚えられる者。


だが、藤原詩織は、その誰とも少し違っていた。


いや、かなり違っていた。


透明感のあるポップス。


激しいギターとドラムへ真っ向から立ち向かうロック。


人生の哀歓を、まるで何十年も生きてきたかのように歌う演歌。


土地ごとに異なる節回しを正確に再現する民謡。


軽やかなジャズ。


幼い子どもの心を優しく包む童謡。


どのジャンルを歌わせても、詩織は声の色を自在に変え、最後には自分の歌にしてしまう。


未就学児向けユニット「ぽかぽかトリオ」では、うたのおねえさんとして絶大な人気を誇っている。


だが、詩織の天使のような歌声に魅了されるのは、子どもたちだけではなかった。


子どもを連れて公演を見に来た母親が、詩織のバラードを聴いて涙を流す。


付き添いで来た父親が、ロック曲の高音に驚く。


祖父母世代の観客が、演歌や民謡をもっと聴きたいと要望を寄せる。


ヒロ室には以前から、


「藤原詩織の歌を、大人がじっくり聴ける公演を開いてほしい」


という声が数多く届いていた。


そこで持ち上がったのが、詩織にとって初めてのワンマンディナーショーである。


会場は六本木にある、二百五十人規模のライブハウス。


深い青と金色を基調とした、少し豪華な内装。


客席には小さなテーブルが並び、軽食や飲み物を楽しみながら、生バンドの演奏を間近で聴くことができる。


本格的なホテルのディナーショーほど格式張らず、普通のライブよりは落ち着いている。


藤原詩織の多彩な歌声を楽しむには、理想的な会場だった。


ただし、ヒロ室フロントが企画書を読んだ時、誰一人として手放しでは喜ばなかった。


問題は歌ではない。


問題は、歌以外のすべてだった。



ヒロ室の会議室。


遥室長は企画書を机へ置き、眉を寄せた。


「二時間、詩織さん一人で進行するのら?」


安岡真帆が頷く。


「はい。歌唱だけでなく、曲紹介や観客への挨拶も本人が担当します」


「歌ってる間は何も心配ないのら。でも、曲と曲の間はどうするだよ?」


隼人補佐官も資料をめくりながら、冷静に指摘する。


「藤原さんの場合、会場へ単独で到着できるかという段階から検討が必要です」


白浜麻衣が遠慮がちに手を挙げる。


「詩織おねえさん、舞台袖を間違えずに退場できますか?」


宮沢萌音も心配そうに続ける。


「マイクを持ったまま楽屋へ帰って、それからマイクを探しそうだよね」


会議室が静かになった。


誰も否定できなかった。


曲順を覚えられるのか。


衣装替えを間違えないか。


水を飲もうとしてマイクを口へ運ばないか。


照明が暗くなった瞬間、違う控室へ入らないか。


軽食について話しているうちに、自分も食べ始めないか。


そもそもワンマンライブの意味を、


「一人で会場まで行かなければならないライブ」


と誤解していないか。


遥が真帆を見る。


「本当に大丈夫なのら?」


「大丈夫とは言い切れません」


「言い切ってほしかったのら」


「ですが、必要な挑戦だと思っています」


真帆は企画書を閉じた。


「詩織さんは歌唱面では、すでに一流です。しかし、歌以外のことになると、すぐ誰かへ頼ってしまいます」


「それ自体が悪いわけではありません。ただ、本人も少しずつ、自分の責任で物事を進める経験を積まなければなりません」


隼人が尋ねる。


「事故防止のため、舞台袖へ誘導員を配置しますか?」


「最低限の安全管理は行います。ただし、進行上の失敗を先回りして全て修正することはしません」


麻衣は不安そうな顔をした。


「詩織おねえさん、泣きませんか?」


真帆は少し考えた。


「泣く可能性はあります」


萌音が付け加える。


「迷う可能性もあるね」


「それは高いです」


結局、開催の是非は、詩織本人へ委ねられることになった。



真帆は詩織を会議室へ呼んだ。


詩織は資料を読み、珍しく静かになった。


二時間のワンマンライブ。


約二十曲。


三回の衣装替え。


曲間のMC。


アンコール。


最後の挨拶。


公演後には観客のお見送りもある。


詩織は膝の上で手を組み、小さな声で言った。


「一人では不安です」


いつもの、


「私、歌以外は全部だめだから!」


という明るい開き直りはない。


歌うことは怖くない。


何百人、何千人が見ていても、最初の一音を出せば迷いは消える。


しかし、歌い終わった後は違う。


自分の言葉で観客へ話しかける。


次の曲へ自分でつなぐ。


失敗しても、麻衣や萌音の後ろへ隠れない。


二時間の舞台を、自分の責任で支える。


詩織にとっては、外国語の歌を覚えるより難しい挑戦だった。


「麻衣ちゃんと萌音ちゃんに、一緒に出てもらうのはだめですか?」


「今回はワンマンライブです」


「曲と曲の間だけ、麻衣ちゃんに来てもらうとか」


「詩織さん自身が話してください」


「萌音ちゃんが、後ろで風船を作ってくれるだけでも安心します」


「歌以外のことを、何でも人に頼ってばかりではだめです」


真帆の声が、少し厳しくなる。


詩織の表情が固まった。


「詩織さんの歌を聴きたいという方は、本当に大勢います」


「そして、この公演は詩織さんの成長のためにも必要です。私が、ぜひ開催しましょうと強く推しました」


「もちろん、スタッフは準備を支えます。誰の助けも借りるなとは言いません」


「ですが、いつまでも誰かに連れていってもらい、誰かに進行してもらい、失敗すれば誰かに直してもらうだけでは、詩織さん自身が前へ進めません」


詩織は俯いた。


厳しい。


だが、反論できなかった。


真帆は続ける。


「舞台中央へ立つのは、詩織さんです」


「お客様へ感謝を伝え、曲を紹介し、自分の責任で最後まで公演を成立させてください」


しばらく沈黙が続いた。


詩織は、膝の上で握った手に力を入れる。


やがて顔を上げた。


「やります」


「怖いです。でも、私の歌を聴きたいと言ってくれる人がいるなら、逃げたくありません」


真帆は静かに頷いた。


こうして、


『藤原詩織 First Dinner Show――Angelic Voice, One Night』


の開催が正式に決定した。



リハーサル初日。


歌については、何の問題もなかった。


詩織がポップスの一曲目を歌うと、生バンドのメンバーが一斉に顔を上げた。


澄み切った高音。


温かさを失わない低音。


繊細な息遣い。


曲の物語を自然に伝える表現力。


ロック曲では、激しいギターとドラムの音を突き抜ける。


演歌では、架空の港町で恋人を見送った女性の悲しみを、実体験のように歌い上げる。


民謡では、土地ごとに異なる節回しを正確に再現。


童謡へ入れば、幼い子どもの隣で歌っているような柔らかい声になる。


音楽監督は、腕を組んで感心した。


「本当に同じ人が全部歌っているのか」


ギタリストも頷く。


「ジャンルが変わるたびに、声の表情まで変わる」


歌唱リハーサルは、ほぼ一発で合格した。


問題は、その直後に起きた。


一曲目を歌い終えた詩織が、マイクを持つ。


「皆さん、こんばんは。藤原詩織です」


ここまでは完璧だった。


「今日は、私のために来てくださって……」


真帆が止める。


「お客様は詩織さんの歌を聴くために来ますが、ご本人から“私のために来た”と言うのは少し違います」


「じゃあ、皆さんのために私が来ました」


「それも少し違います」


「お互いのために集まりました」


「会合ではありません」


四回目。


「今日は来てくださって、ありがとうございます」


真帆が頷いた。


「それで十分です」


次の曲紹介。


詩織は曲順カードを見る。


「次の曲は……」


スタッフ全員が見守る。


「次に歌う曲です」


会場が静まり返った。


音楽監督が小声で言う。


「間違ってはいない」


真帆が答える。


「情報量がありません」


詩織は進行台本へ目を落とした。


「ここで自然な雑談」


真帆が止める。


「そこは読まないでください」


「書いてあるよ?」


「詩織さんへ向けた指示です。お客様へ読み上げる文章ではありません」


「自然な雑談って、何を話せばいいの?」


「最近あった出来事や、曲にまつわる思い出です」


詩織は考えた。


「今朝、家を出る時に靴が片方なくなりました」


「それは自然ですが、ディナーショーの最初に話す内容として適切かは別です」


衣装替えの練習では、さらに混乱が起きた。


二着目の青いドレスへ着替えた詩織が、衣装室を探し回る。


「二着目のドレスがない」


衣装スタッフが、詩織の体を指さした。


「今、着ています」


詩織は自分の胸元を見る。


「本当だ」


次は、水を飲もうとしてマイクを口へ運んだ。


「それは飲めません!」


スタッフが止める。


詩織は手元を見る。


「マイクだった」


さらに、退場方向を間違える。


一回目は反対側へ。


二回目も反対側へ。


三回目はどちらか分からなくなり、舞台中央へ戻ってきた。


舞台袖には、詩織専用の巨大な矢印が貼られた。


「退場はこちら」


その下には、麻衣の手書きで、


「反対へ行かないでください」


と加えられた。


詩織は矢印を見て、少し頬を膨らませる。


「私だって、毎回間違えるわけじゃないよ」


その直後、矢印とは反対方向へ歩き出した。


麻衣が笛を鳴らす。


「詩織おねえさん、そちらは壁です」


矢印の必要性が証明された。



リハーサルが進むにつれ、スタッフの不安は増していった。


歌は完璧。


それ以外は毎回何かが起きる。


進行台本を楽屋へ置き忘れる。


曲順カードを持ったまま衣装スタッフへ渡してしまう。


マイクの電源を入れ忘れ、無音のまま三十秒話す。


客席へ背を向けて挨拶する。


楽屋を出た後、同じ楽屋へ戻ってきて、


「舞台はどこ?」


と尋ねる。


だが、詩織は一度も練習から逃げなかった。


物覚えは早くない。


同じ失敗を何度も繰り返す。


注意された内容を忘れ、また注意される。


それでも、詩織は毎日ノートへ書いた。


一、最初にお礼を言う。


二、次の曲の題名を言う。


三、曲順カードを客席へ見せない。


四、マイクは飲まない。


四番目は、普通なら書く必要のない注意だった。


詩織は鏡の前で繰り返す。


「皆さん、こんばんは」


「今日は来てくださって、ありがとうございます」


「次の曲は、私にとって大切な一曲です」


一度、MC練習で同じ箇所を七回間違えた。


八回目でも言葉に詰まり、詩織の目から涙がこぼれた。


「歌なら一回で覚えられるのに」


「どうして話すことは、こんなに難しいんだろう」


麻衣は詩織の隣へ座る。


「苦手なことは、できるようになるまで時間がかかります」


萌音も温かい飲み物を差し出した。


「詩織さんは、失敗しても毎日来てるよ。それだけでもすごいことだよ」


詩織は涙を拭った。


「もう一回やる」


九回目。


また少し間違えた。


「もう一回」


十回目。


最後まで言えた。


スタッフが拍手する。


詩織は安心して笑った。


この頃には、当初、


「本当に本番を迎えられるのか」


と不安がっていたスタッフたちも、詩織を心から応援するようになっていた。


できない。


覚えられない。


何度も失敗する。


それでも逃げない。


藤原詩織の努力は、歌声とは別の形で人の心を動かし始めていた。



その頃。


世界的指揮者であり、詩織の父でもあるマエストロ藤原は、娘の初ワンマンライブについて聞き、海外公演の予定を調整していた。


音楽に関して、父は厳しい。


詩織が幼い頃から、


「今の音程はわずかに低い」


「呼吸が浅い」


「感情を込めることと、テンポを乱すことは違う」


と、一切の妥協なく指導してきた。


だが、音楽以外では娘に異常なほど甘かった。


詩織から、


「リハーサルでMCを間違えた」


と連絡が来ると、


「MCを練習しようとしただけで立派だ」


と褒める。


「マイクスタンドにぶつかった」


と聞けば、


「額は大丈夫か。マイクスタンドの方こそ反省すべきだ」


と答える。


詩織が、


「退場方向を間違えた」


と報告すると、


「舞台が左右対称なのが悪い。詩織は悪くない」


と真剣に言う。


真帆はその話を聞き、頭を抱えた。


「お父様が甘やかすから、詩織さんが成長しないのではありませんか?」


マエストロ藤原は落ち着いて答えた。


「音楽に関して甘やかしたことは一度もない」


「音楽以外です」


「音楽以外の詩織は、存在しているだけで十分に素晴らしい」


話が通じなかった。



本番当日。


六本木のライブハウスは、華やかな雰囲気に包まれていた。


深い青と金色の照明。


白いクロスを敷いたテーブル。


軽食と飲み物。


小さなキャンドルを思わせる柔らかな明かり。


二百五十席のうち、九割近くが埋まっている。


若い音楽ファン。


夫婦。


戦隊ヒロインの応援客。


ぽかぽかトリオを子どもと見てきた保護者。


演歌を楽しみに来た年配客。


クラシック界のマエストロ藤原を知る音楽愛好家。


幅広い観客が、藤原詩織の歌を待っていた。


舞台裏。


詩織は白と淡い青を基調とした、上品なロングドレスを着ていた。


天使の歌声という公演テーマにふさわしい姿だった。


だが、手は小さく震えている。


「麻衣ちゃんと萌音ちゃん、本当に一緒に出ないんだよね?」


麻衣が答える。


「今日は詩織おねえさんのワンマンです」


萌音も微笑む。


「客席から、ずっと見てるよ」


「今から、ぽかぽかトリオの公演に変えられない?」


真帆が即答する。


「変えられません」


「麻衣ちゃんが最初に体操をして、私が歌う形なら――」


「変えません」


「萌音ちゃんが後ろで風船を――」


「詩織さん」


「はい」


「逃げないと決めたのでしょう」


詩織は黙った。


そして、ゆっくり頷く。


真帆は詩織の肩へ手を置いた。


「完璧なMCでなくても構いません」


「失敗しても、その場に立ち続けてください。自分の言葉で伝えてください」


開演を告げる音楽が流れる。


舞台中央へスポットライトが落ちる。


詩織は深く息を吸った。


「行ってきます」


一人でステージへ歩き出した。



一曲目。


夜空と新しい旅立ちを歌う、透明感のあるポップス。


詩織が最初の一音を発した瞬間、緊張で硬くなっていた表情が変わった。


澄み切った歌声が、静かに会場へ広がる。


高音は天井へ吸い込まれるように伸び、低音は客席を優しく包む。


二百人を超える観客が、一斉に息を止める。


舞台裏で、


「麻衣ちゃんに一曲出てもらえないか」


と相談していた人物とは思えない。


歌の中で、詩織は迷わなかった。


一曲目が終わる。


大きな拍手。


問題は、ここからである。


詩織はマイクを持った。


「皆さん、こんばんは。藤原詩織です」


温かな拍手が起こる。


「本日は、私のために……」


詩織が止まった。


舞台袖で、真帆の眉が少し動く。


「ええと……私の歌を聴くために、来てくださってありがとうございます」


少し不自然だが、意味は通じた。


次の言葉が出ない。


五秒。


七秒。


会場は静かに待つ。


詩織は困った顔で、正直に言った。


「ここで何を話すか、忘れました」


会場から笑いが起こる。


詩織も恥ずかしそうに笑った。


「でも、皆さんが来てくださって、すごくうれしいです。それは忘れていません」


今度は、大きな拍手が起こった。


台本どおりではない。


だが、詩織自身の言葉だった。


舞台袖の真帆は、小さく頷いた。



公演前半は、ポップスとジャズ。


詩織は軽やかにリズムへ乗り、客席の大人たちを魅了する。


ロックパートでは、黒を基調とした衣装に替わる。


激しいギターとドラムを背に、普段の穏やかな詩織からは想像できないほど力強く歌い上げる。


観客が手拍子を送り、会場の熱気が一気に高まる。


その後は青紫のドレスに着替え、演歌を披露する。


港町で恋人を見送る女性の切ない歌。


詩織は深い情感を込め、最後の語尾を細く長く残した。


年配の観客からも大きな拍手が起こる。


詩織はMCで言った。


「恋人と別れる曲でした」


少し考える。


「私は恋愛経験があまりないので、想像して歌いました」


会場が笑う。


舞台袖で真帆が額を押さえる。


詩織は続ける。


「想像でも悲しい気持ちは歌えます。音楽は便利です」


さらに笑いが起こる。


続く民謡では、祭りのにぎわい、故郷の山、海で働く人々の息遣いを表現する。


童謡メドレーでは、会場の空気が一気に柔らかくなった。


大人たちも幼い頃を思い出し、静かに口ずさむ。


ポップス。


ジャズ。


ロック。


演歌。


民謡。


童謡。


どのジャンルでも、詩織は完璧に歌いこなす。


だが、曲間に入ると、藤原詩織へ戻る。


次の曲を確認するため、足元のカードを見ながら一歩進んだ。


ごんっ。


額がマイクスタンドへぶつかった。


鈍い音が、会場全体へ響いた。


「大丈夫ですか?」


客席から声が飛ぶ。


詩織は額を押さえる。


「大丈夫です」


マイクが、さらに小さな声を拾う。


「少し痛いです」


会場が笑いに包まれる。


詩織はマイクスタンドを見た。


「マイクスタンドは、避けてくれないんですね」


客席から、


「頑張って!」


と声が飛んだ。


詩織は笑顔になる。


「はい。頑張ります」


次の曲を、何事もなかったように完璧に歌い始めた。


別のMCでは、会場の軽食について紹介する。


「皆さん、お料理も楽しんでください」


少し間を置く。


「私は歌っているので、食べられません」


本気で悲しそうな顔をしたため、会場がまた笑う。


衣装替えの後には、ドレスを掛けるハンガーを持ったまま登場した。


観客の視線がハンガーへ集まる。


詩織も自分の手を見る。


「これは楽器ではありません」


誰も楽器だとは思っていなかった。


ハンガーを戻そうと舞台袖へ向かう。


反対方向だった。


客席から一斉に、


「反対!」


と声が飛ぶ。


詩織は慌てて方向転換する。


「皆さん、どうして分かったんですか?」


「ずっと見てたから!」


客席の一人が答えた。


この頃には、観客は単なる見物人ではなく、詩織の公演を一緒に支える仲間のようになっていた。


完璧な歌。


危なっかしいMC。


失敗しても逃げず、笑って次へ進む詩織。


会場には、常に温かな空気が流れていた。



客席の後方では、詩織の父であるマエストロ藤原が、帽子を深くかぶって娘の公演を見ていた。


ロック曲が終わる。


父は小さく頷く。


演歌が終わる。


手元のメモへ、音楽上の改善点を記す。


だが、詩織がマイクスタンドへぶつかると、立ち上がりかけた。


隣のスタッフが止める。


「大丈夫です。公演は続いています」


「詩織の額に傷が残ったらどうする」


「軽くぶつけただけです」


「マイクスタンドを撤去できないのか」


「歌うために必要です」


「柔らかい素材で作るべきだった」


音楽については冷静で厳しい。


娘の額については、世界的指揮者の冷静さが消えていた。


詩織がハンガーを持って登場すると、父は感心したように言った。


「ハンガーを持っていても、姿勢が美しい」


スタッフは聞かなかったことにした。



公演開始から一時間半。


詩織の額には汗がにじんでいた。


それでも歌声は崩れない。


本編最後の曲は、自分を支えてくれた人々への感謝を歌ったバラードだった。


詩織は用意していた台本を閉じた。


客席を見渡す。


麻衣。


萌音。


真帆。


スタッフ。


自分の歌を聴くため、会場へ足を運んでくれた観客たち。


詩織は自分の言葉で話し始めた。


「私は、歌っている時以外は、本当にたくさんの人に助けてもらっています」


会場が静かになる。


「一人で電車に乗るのも苦手です。飛行機はもっと苦手です」


「今日も、楽屋からステージへ来る道を一回間違えました」


小さな笑いが起こる。


「本当は二回です」


舞台袖から麻衣が小声で訂正する。


マイクが拾った。


会場がさらに笑う。


詩織も笑った。


「麻衣ちゃんによると、二回だったそうです」


そして、表情を引き締める。


「一人でできないことが、たくさんあります」


「このライブも、最初は怖くて、一人ではできないと思いました」


「でも、真帆さんから、いつまでも何でも人に頼っていてはだめだと言われました」


舞台袖の真帆を見る。


「すごく厳しいと思いました」


会場が笑う。


真帆も苦笑した。


「でも、正しいと思いました」


詩織の声が震える。


「だから今日は、失敗しても、この舞台から逃げないと決めました」


「歌を聴きたいと言ってくださった皆さんがいるから、私はここへ立つことができました」


「本当に、ありがとうございます」


深く頭を下げる。


長く、大きな拍手が起こった。


詩織は涙をこらえながら、最後のバラードを歌い始める。


支えてくれた人。


待っていてくれた人。


自分を信じてくれた人。


全ての人へ感謝を届けるように歌う。


最後の音が静かに消えた。


一瞬の静寂。


そして、割れんばかりの拍手。


藤原詩織は、約二時間のワンマンライブを走り切った。



詩織が最後の挨拶をしようとした時、照明が落ちた。


予定にはない音楽が流れる。


詩織が慌てる。


「停電?」


舞台袖の真帆が答える。


「演出です」


照明が再び点灯する。


ステージへ現れたのは、詩織の仲間たちだった。


白浜麻衣。


宮沢萌音。


赤嶺美月。


月島小春。


館山みのり。


杉山ひかり。


人気戦隊ヒロインたちの登場に、客席から大歓声が上がる。


詩織は目を見開き、口元を押さえた。


代表して美月がマイクを持つ。


「しおりん、今日は歌を聴きに来たで~!」


「ほんまに最高やったわ。二時間、一人でよう頑張ったな!」


小春も前へ出る。


「詩織さん、一人でできるか正直かなり不安だったけど、思ってたよりずっとよかったですよ」


詩織は涙を浮かべながら聞き返す。


「小春ちゃん、どうして上からなの?」


小春は胸を張る。


「最後までできたから、細かいことはいいじゃないっすか」


会場が笑いに包まれる。


みのりが微笑む。


「素敵な時間を過ごさせてもらいました」


ひかりも続ける。


「歌の上手さだけでなく、詩織さんの努力が伝わるステージでした」


麻衣と萌音は、大きな花束を抱えて詩織の前へ進む。


「詩織おねえさん、最後まで一人でできましたね」


「何度失敗しても逃げなかった詩織さんが、一番格好よかったよ」


詩織は花束を受け取る。


こらえていた涙が、あふれ出した。


「二人が舞台にいなくて、ずっと寂しかった……」


麻衣が笑う。


「客席にはおりました」


「同じ舞台にいないと遠いよ」


萌音が詩織の背中を優しくなでた。



そして、もう一人。


舞台袖から、詩織の父であるマエストロ藤原が現れた。


世界的指揮者の登場に、会場が大きくどよめく。


詩織の背筋が一瞬で伸びる。


マエストロ藤原はマイクを受け取り、娘へ向き合った。


まず、音楽家としての顔で告げる。


「三曲目。二番へ入るタイミングが、わずかに早かった」


詩織の顔が固まる。


「演歌では、感情を込めるあまり、語尾が少し重くなった」


美月が小声で言う。


「褒めに来たんやんな?」


小春も囁く。


「公開反省会じゃないですよね?」


マエストロ藤原は続ける。


「ロック曲の最高音では、声を力で押しすぎた。響きを上へ逃がせば、さらに余裕が出る」


詩織は花束を抱えたまま、真剣に聞いていた。


音楽に関して、父はどこまでも厳しい。


数点の改善点を述べた後、父は少し表情を和らげた。


「だが、今日の舞台には、お前自身の言葉があった」


「歌唱技術だけでは、人の心は動かせない」


「不器用でも、失敗しても、自分の言葉で観客へ向き合った。その気持ちが、今日の歌には表れていた」


少し間を置く。


「よくやった、詩織」


音楽家としての最大級の賛辞だった。


詩織の目から、また涙がこぼれる。


「パパ、最初にそれを言ってよ……」


すると、マエストロ藤原の表情が突然、父親のものへ変わった。


「それに今日の詩織は、今までで一番美しかった」


詩織が目を瞬く。


「ドレスも完璧に似合っていた。舞台へ出てきた時の歩き方も素晴らしい。ハンガーを持っていた時でさえ気品があった」


真帆が小声で言う。


「そこは褒めなくて結構です」


父は止まらない。


「マイクスタンドへぶつかった後も、泣かずに歌い続けた。なんと健気な娘だ」


「二時間も一人で舞台に立てた。詩織は本当に立派だ。幼い頃から、やればできる子だと私は信じていた」


詩織は泣きながらも、少し照れている。


麻衣が萌音へ囁く。


「音楽以外は、ものすごく甘いですね」


萌音も頷く。


「世界一厳しい音楽監督と、世界一甘いお父さんが同じ人なんだね」


マエストロ藤原は、さらに娘の頭を優しくなでた。


「額は痛くないか?」


「もう大丈夫」


「マイクスタンドを撤去させよう」


「次のライブでも使うから、撤去しないで」


「詩織がそう言うなら残そう」


娘の一言で撤去案は即座に消えた。



ステージ中央へ指揮台が用意される。


マエストロ藤原がその上へ立つ。


詩織。


麻衣。


萌音。


美月。


小春。


みのり。


ひかり。


人気戦隊ヒロインたちが横一列に並ぶ。


締めくくりに歌うのは、出会い、支え合い、そして再会をテーマにした温かな曲。


ぽかぽかトリオの公演でも大切に歌われてきた、詩織にとって思い入れの深い一曲だった。


マエストロ藤原が両腕を上げる。


会場が静まり返る。


最初の一節は、詩織一人。


柔らかく、澄んだ歌声が会場へ広がる。


次の一節から、麻衣と萌音が加わる。


美月、小春、みのり、ひかりの声も重なる。


完璧に訓練された声だけではない。


それぞれの個性を持つ、仲間たちの声。


マエストロ藤原の指揮によって、全てが一つの大きな流れになる。


詩織は客席へ手を差し出した。


観客も静かに歌い始める。


若い人。


年配の人。


夫婦。


親子。


戦隊ヒロインを応援してきた人。


この夜、初めて詩織の歌声に触れた人。


二百人を超える声が重なる。


六本木のライブハウスが、一つの大きな合唱団へ変わる。


詩織は仲間たちの声を聞いた。


父の指揮を見た。


客席から届く歌声を、全身で受け止めた。


涙を流しながら、それでも歌声は崩れない。


マエストロ藤原の腕が大きく動く。


全員の声が、一つのクライマックスへ向かう。


最後の音。


詩織の高く澄んだ声が、その上を優しく包んだ。


父が両腕を静かに下ろす。


音が消える。


数秒の静寂。


そして、会場全体が立ち上がった。


拍手。


歓声。


涙。


仲間たちは詩織を囲む。


詩織は花束を抱え、何度も頭を下げた。


初めて一人で立った夜。


その最後に、彼女は自分を支えてくれる全ての声に包まれていた。



拍手が落ち着く。


詩織は涙を拭き、最後の挨拶を始めた。


「本日は本当にお越しくださいまして、ありがとうございました」


完璧だった。


真帆が小さく安堵する。


詩織は続ける。


「この後、私たち全員で、皆さんをお出迎えします」


会場が一瞬、静かになった。


美月がすぐに突っ込む。


「しおりん、もうワンステージやるんかい!」


会場がどっと笑いに包まれる。


詩織は目を丸くする。


「あっ」


自分の間違いに気づいた。


「お出迎えではなく、お見送りです!」


さらに大きな笑いが起こる。


小春が腕を組む。


「最後まで詩織さんらしいですね」


詩織は泣き笑いになった。


「最後だけ、もう一回やり直していい?」


美月が笑う。


「もう十分伝わったで!」


天使の歌声で感動の頂点へ達していた会場が、最後は温かな笑いに包まれた。



終演後。


会場出口には、詩織、麻衣、萌音、美月、小春、みのり、ひかり、そしてマエストロ藤原まで並んだ。


人気戦隊ヒロインと世界的指揮者がそろって観客を見送る、豪華な光景だった。


詩織は列の中央に立つ。


泣いた跡の残る顔。


抱えきれないほどの花束。


それでも、一人一人の目を見て両手で握手をする。


「本当に、ありがとうございました」


「来てくださって、うれしかったです」


「最後まで聴いてくださって、ありがとうございました」


年配の女性が言った。


「童謡を聴いて、子どもの頃を思い出しました」


詩織は女性の手を両手で包む。


「一緒に歌ってくださって、ありがとうございます」


若い男性が言う。


「ロック、すごく格好よかったです」


「私もロックを歌うのが大好きです」


親子連れの子どもが尋ねる。


「詩織おねえさん、マイクにごっつんしてたね」


詩織は少し恥ずかしそうに笑う。


「そこも見てたの?」


「見てた!」


「次はぶつからないようにするね」


後ろにいたマエストロ藤原が、真剣に付け加える。


「次回は、父がマイクスタンドの位置を確認します」


詩織は困ったように笑う。


「パパは指揮だけしてていいよ」


「詩織がそう言うなら、そうしよう」


娘にはどこまでも素直だった。


別の観客から、


「MCも楽しかったです」


と言われる。


詩織は不安そうに尋ねた。


「本当に?」


「歌との違いが、とてもすてきでした」


褒められているのか、危なっかしさを評価されているのかは微妙だった。


それでも詩織は笑顔で頭を下げる。


最後の観客まで、決して流れ作業にはしなかった。


一人一人へ感謝を伝え、握手をする。


そのたびに、新しい涙が詩織の目へ浮かぶ。


マエストロ藤原も観客へ丁寧に礼を述べる。


ただし、娘を褒められるたびに、


「そうでしょう。詩織は本当に素晴らしい娘です」


「幼い頃から天使のようでした」


「歌だけでなく、心も優しいのです」


と、聞かれていない情報まで付け加えた。


美月が小声で言う。


「音楽の話が終わったら、完全にただの親バカやな」


小春も頷く。


「世界的親バカっすね」


最後の観客が会場を出る。


扉が静かに閉まった。


詩織は深く息を吐く。


「終わった……」


真帆が歩み寄る。


「お疲れさまでした」


詩織は尋ねる。


「私、一人でできましたか?」


真帆は少し考えてから答えた。


「はい」


詩織の顔が明るくなる。


「多くの方に支えてもらいました。しかし、今日の舞台を最後まで成立させたのは、詩織さんです」


「一人で立つというのは、誰の助けも借りないことではありません」


「自分の責任で舞台へ立ち、失敗しても逃げず、最後までやり遂げることです」


詩織はゆっくりと頷く。


「また、やってもいいですか?」


真帆は微笑んだ。


「次回までに、MCと退場方向をもう少し練習しましょう」


「頑張ります」


詩織は力強く答えた。


その直後。


会場出口とは反対方向へ歩き始める。


麻衣が呼び止めた。


「詩織おねえさん、帰る方向はこちらです」


詩織は振り返る。


「成長には時間がかかるね」


父が詩織をかばう。


「出口が分かりにくい会場が悪い」


真帆が即座に訂正する。


「大きく“出口”と書いてあります」


「詩織には、より大きな表示が必要だったのだろう」


「甘やかさないでください」


詩織は父の腕へつかまり、正しい出口へ向かった。


歌は完璧。


MCは微妙。


マイクスタンドへ額をぶつけた。


ハンガーを持ったまま登場した。


最後の挨拶では、お見送りをお出迎えと言い間違えた。


それでも、藤原詩織は二時間の舞台から一度も逃げなかった。


仲間たち。


厳しくも、音楽以外では甘すぎる父。


支え続けたスタッフ。


そして、天使の歌声を聴くために集まった観客。


多くの人に支えられながら、詩織は初めて舞台中央へ一人で立った。


六本木に響いた大合唱は、完璧な歌姫の成功を祝うだけのものではない。


できないことがあってもいい。


何度失敗してもいい。


助けてもらいながらでも、自分の足で一歩を踏み出せばいい。


それでも逃げずに立ち続けた、一人の不器用な女性へ贈られた、温かなエールだった。


『藤原詩織 First Dinner Show――Angelic Voice, One Night』

天使の歌声、ひとりで立つ夜――笑いと涙の中、大成功。

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