ぽかぽかトリオ横須賀公演 ――その子は迷子じゃない! 五歳の九州男児と、赤い電車の筑前煮救出作戦
軍港の街、横須賀。
青い海に大きな艦船が浮かび、潮風が海辺の公園を吹き抜ける。
港を見下ろす坂道。
突然現れる古いトンネル。
異国情緒の残る商店街。
映画の一場面を思わせる路地。
そして、海のすぐそばに建つ新しい大型ショッピングモール。
少し無骨で、少しおしゃれ。
昼間でも、どこか夜の匂いがする。
今も昔も若者たちを引きつけてきた、少し危険で、とびきり格好いい街だった。
その横須賀市の海辺にある大型ショッピングモールで、戦隊ヒロインプロジェクトの未就学児向けユニット「ぽかぽかトリオ」による親子イベントが開催される。
体操のおねえさん・白浜麻衣。
工作とバルーンアートのおねえさん・宮沢萌音。
うたのおねえさん・藤原詩織。
イベント名は、
「ぽかぽかトリオの海風わくわくキッズステージ」。
赤い電車。
青い海。
白い灯台。
大きな船。
カモメ。
歌と体操と風船で、横須賀の魅力を子どもたちへ届ける明るい公演である。
ただし、この日の麻衣は、公演のためだけに横須賀へ来たわけではなかった。
前日まで、神戸港でNSTの極秘任務に就いていたのである。
◇
深夜の神戸港。
人気のない港湾倉庫。
麻衣は西川彩香の右腕として、違法取引に使われた端末の回収任務へ参加していた。
暗い倉庫内を監視し、逃走経路を確認し、彩香の合図を待つ。
棚の下に残った靴跡。
本来とは違う向きに置かれた工具箱。
わずかに開いた点検口。
麻衣は小さな違和感を見逃さなかった。
「彩香さん。右奥の点検口、誰かが使ってます」
『根拠は?』
「床のほこりが、そこだけ途切れてます。それと、工具箱の取っ手が出口側を向いてます。急いで戻す時に向きを間違えたんやと思います」
点検口の先には、倉庫裏へ続く隠し通路があった。
犯人側が逃走に使おうとしていた経路である。
彩香たちは先回りし、取引に関わった者を確保。
端末も無事回収された。
任務を終えた頃には、日付が変わっていた。
彩香は疲労の残る麻衣を見る。
「麻衣。今から横須賀へ向かうつもりか?」
「はい」
「少し休め」
「リハーサル前に、会場の床と親子の動線を確認したいんです」
「ついさっきまで犯罪組織を追っていた人間が、明日は園児と電車ごっこか」
「どっちも大事な仕事です」
彩香は呆れたように見た後、わずかに笑った。
「分かった。ただし車内では寝ろ」
「努力します」
「寝ろ」
「はい」
麻衣は神戸から新幹線へ乗り、東へ向かった。
在来線へ乗り換え、横浜方面へ。
そして最後に乗ったのは、鮮やかな赤い車体の私鉄電車だった。
赤い電車は住宅地を駆け抜け、トンネルへ飛び込み、坂の多い三浦半島を海へ向かって突っ走る。
麻衣は心の中で、その電車をこう呼んだ。
横須賀へ斬り込む、湘南爆走電車。
昨夜まで使っていた極秘任務用の通信端末を、鞄の奥へしまう。
代わりに取り出したのは、親子体操の進行表と、黄色い安全笛だった。
「昨日は彩香さんの右腕。今日は体操のおねえさんやね」
車窓の向こうに海が見えた。
麻衣は少しだけ背筋を伸ばした。
◇
一方、宮沢萌音は途中駅で藤原詩織と合流していた。
詩織は北欧系クォーターの長身美女。
端正な顔立ち。
華やかな雰囲気。
三人の中では最年長。
しかも父親は、世界的指揮者として知られるマエストロ藤原である。
事情を知らない人が見れば、詩織が萌音を引率しているように見える。
実際には、萌音が詩織を横須賀まで運ばなければならなかった。
ホームへ赤い電車が入ってくる。
詩織は迷いなく、その電車へ乗ろうとした。
萌音が袖をつかむ。
「詩織ちゃん、そっちじゃないよ」
「赤い電車だよ?」
「赤いけど、反対方向」
「同じ赤なのに?」
「色が同じでも、行き先は違うの」
詩織は真剣に電車を見た。
「電車って、見た目だけでは判断できないんだね」
「人も電車も、行き先表示を確認した方がいいね」
正しい電車へ乗る。
赤い車体が力強く走り始めた。
詩織は窓の外を眺める。
「トンネルが多いね!」
「横須賀へ近づいてる感じがするね」
トンネルへ入る。
詩織が言う。
「暗くなると現在地が分からない」
トンネルを出る。
萌音が答える。
「明るい時も分かってなかったと思うよ」
「萌音ちゃん、優しいのに時々厳しい」
「正確に言っただけだよ」
◇
横須賀では、ヒロ室スタッフの黒崎茉莉花と、五歳の息子・大翔が待っていた。
茉莉花は小倉出身。
明るく、面倒見がよく、人が困っていれば頼まれていなくても助けに入る。
親切というより、親切が前方から走ってくるタイプである。
大翔は麻衣の姿を見つけると、勢いよく駆け寄った。
「麻衣センセー!」
麻衣はしゃがみ、大翔を受け止める。
「大翔くん、今日も元気やね」
大翔は胸を張った。
「大翔、麻衣センセーを守るけん!」
「先生は大丈夫やよ。今日はイベントを楽しんでね」
「でも、九州の男は大事な人を守るけん!」
五歳児とは思えないほど堂々としていた。
詩織が、自分を指さす。
「大翔くん、私は?」
大翔は詩織を見上げる。
長い間、真剣に考える。
「詩織おねえさんは、大翔が見とかんと迷子になるけん」
「私は大事な人じゃなくて、保護対象なの?」
「九州の男は、迷子になりそうな人も見捨てんけん!」
詩織は少し感動した。
「扱いはともかく、格好いい」
萌音が言う。
「大翔くんの判断は正しいと思うよ」
大翔はさらに胸を張る。
「大翔、九州男児やけん!」
そこへ茉莉花が声をかけた。
「大翔、走る前に荷物置きっぱなしにしとるよ」
大翔は振り返る。
リュックサックが通路の真ん中に残されていた。
「……取ってくる」
九州男児は、無言でリュックサックを回収した。
◇
リハーサルを終えた三人が控室へ入ると、茉莉花が大きな保存容器をテーブルへ置いた。
「ほら。腹が減っとったら、元気に踊れんやろ」
ふたを開ける。
甘辛いだしの香りが、控室いっぱいに広がった。
鶏肉。
れんこん。
ごぼう。
にんじん。
しいたけ。
こんにゃく。
里芋。
具だくさんの筑前煮である。
麻衣が一口食べた。
「おいしい……」
その一言に、疲れがにじんでいた。
「昨日からずっと動きっぱなしやったから、体に染みるわ」
茉莉花が麻衣の皿へ鶏肉を追加する。
「ほんなら、もっと食べり」
「十分です」
「足りん」
「十分ですって」
「若い子は食べんと」
頼んでいないのに増えていく。
茉莉花の親切は、基本的に大盛りだった。
萌音もれんこんを食べる。
「おいしい。歯応えがちゃんと残ってる」
「れんこんは煮すぎたらいかんっちゃ」
詩織は里芋を口へ入れ、目を丸くした。
「おいしい!」
もう一口。
「すごくおいしい!」
保存容器を見つめる。
「このお鍋、全部食べていい?」
茉莉花が笑う。
「お鍋は食べられんっちゃ。中身だけにしとき」
大翔が胸を張る。
「ママの筑前煮は世界一やけん!」
詩織は真剣に頷いた。
「世界的指揮者の娘として、認定します」
萌音が尋ねる。
「その肩書きに料理を認定する権限はあるの?」
「パパは世界中でご飯を食べてるから、たぶんある」
「お父さんが食べていても、詩織ちゃんにはないと思うよ」
麻衣が立ち上がる。
「筑前煮パワー、充填完了!」
萌音も続く。
「バルーンアート、準備完了!」
詩織も立ち上がった。
「おかわり準備、完了!」
茉莉花は詩織の肩をつかんだ。
「詩織ちゃんはステージへ行き」
「おかわりは?」
「終わってから」
大翔も立ち上がる。
「大翔も筑前煮パワー、満タン!」
茉莉花が大翔の口元を拭く。
「満タンの前に、こんにゃく付いとるよ」
九州男児の頬に、こんにゃくの切れ端が付いていた。
◇
イベント会場は、未就学児と保護者でいっぱいだった。
大きな窓の向こうには、横須賀の港。
海面に光が揺れ、大きな船が見える。
麻衣が元気よく舞台へ登場した。
「みんな、こんにちは!」
「こんにちはー!」
「今日は、海と船と赤い電車がよう似合う、めっちゃ格好ええ横須賀へ来ました!」
子どもたちが窓の外を見る。
「横須賀には、大きな船、坂道、トンネル、それから海へ向かって走る赤い電車があります!」
「ちょっと冒険したくなるような、わくわくする港町なんやよ!」
最初の演目は、
「赤い電車しゅっぱつ体操」。
腕を回して車輪。
トンネルへ入ったらしゃがむ。
駅へ着いたら両足をそろえて止まる。
ホームでは走らない。
親子で手をつなぐ。
最後は両腕を広げ、海風を受ける。
麻衣は小柄な体を大きく動かし、子どもたちを導く。
昨夜まで暗い倉庫で極秘任務をしていたとは、誰にも想像できない明るい笑顔だった。
続いて、萌音のバルーンアート。
赤い電車。
白い灯台。
青い海。
カモメ。
そして、大きな船。
子どもから声が上がる。
「船、もっと大きくして!」
萌音は断れなかった。
「じゃあ、少しだけ大きくしようか」
少しが二倍になる。
二倍が三倍になる。
麻衣は巨大化していく船を見た。
「萌音おねえさん」
「何?」
「その船、控室の扉を通れますか?」
萌音は制作途中の船と、控室の扉を交互に見た。
「斜めにしたら……」
「先に測ってください」
「海に浮かべれば扉を通らなくても――」
「ショッピングモールの中です」
次は詩織の歌。
曲名は、
『海風にのせて』。
港から旅立つ船。
遠い場所へ向かう人。
そして、待っている人がいる帰る場所。
詩織が歌い始めると、会場の雰囲気が変わった。
長身で端正な顔立ち。
優しく温かな歌声。
子どもにも聞き取りやすい発音。
歌唱に関してだけは、何一つ心配する必要がない。
曲を歌い終え、詩織は深く一礼する。
大きな拍手が起こる。
詩織は笑顔で舞台袖とは反対方向へ歩き出した。
大翔が叫ぶ。
「詩織おねえさん、そっちやない!」
詩織は方向転換する。
「大翔くん、ありがとう!」
大翔は腕を組む。
「九州の男は、迷子を出さんけん!」
客席から笑いと拍手が起こった。
五歳児が、最年長出演者の進行管理をしていた。
◇
公演は大盛況だった。
だが、麻衣は体操を続けながら、客席のある一角を気にしていた。
派手な色の髪。
華やかな服装。
麻衣とほとんど変わらない年頃に見える若い女性。
その隣には、二歳ほどの女の子が座っている。
麻衣が気にしたのは、服装ではなかった。
女性はステージを見ていない。
何度もスマートフォンの時刻を確認する。
出口を見る。
女児の手を握らない。
一度立ち上がり、また座る。
ショルダーバッグを何度も持ち直す。
そして、女児の方を見ないまま、深く息を吐く。
普通の迷子や、一時的に席を外す母親とは違う。
麻衣の中で、NSTの任務を通じて培われた洞察力が働き始めた。
人は、言葉より先に体で考えを表す。
出口を見る回数。
荷物の持ち方。
子どもとの距離。
最後に振り返る時の目。
神戸港の倉庫で、麻衣は工具の向きと床のほこりから隠し通路を見抜いた。
今、客席で起きている異変は、それよりずっと重かった。
若い母親は立ち上がった。
女児を残したまま、出口へ向かう。
一度だけ振り返る。
しかし、その顔は、
「すぐに戻る」
という表情ではなかった。
別れを決意しようとしている人の顔だった。
麻衣はステージ上の笑顔を崩さない。
子どもたちと一緒に体を動かしながら、舞台袖の茉莉花へ小さな合図を送った。
茉莉花は麻衣の視線を追う。
状況を理解すると、イベント責任者と警備担当へすぐに伝えた。
公演は中断しない。
女児が母親の不在に気づく前に、安全な保護体制を整える。
母親の髪形。
服装。
バッグ。
向かった方向。
情報がショッピングモールのスタッフへ共有された。
公演中、異変に気づいたのは麻衣だけだった。
◇
公演終了後。
女児は観覧席へ座ったまま、赤い電車のバルーンを見ていた。
母親がいないことを、まだ完全には理解していない。
イベントスタッフは優しく声をかける。
「特別なお友達コーナーへ行こうか」
女児を迷子として大勢の前へさらすことはしない。
大げさな館内放送も避ける。
安全な控室へ案内し、その間に母親の捜索を続ける。
ショッピングモールは広い。
店舗。
映画館。
飲食店。
屋上。
連絡通路。
立体駐車場。
大勢の人が行き交っている。
防犯カメラの映像が確認され、スタッフが各階へ配置された。
麻衣は、母親の動きを思い出す。
「何度も上の階を見てました。正面出入口より、駐車場へ続く通路を気にしてたと思います」
茉莉花が尋ねる。
「ほかに何か持っとった?」
「小さい封筒を握ってました。買い物へ行った感じやなかったです」
麻衣は一度目を閉じ、母親の歩き方を思い出した。
「急いで逃げたんやない。行き先を決めきれずに歩いてました。たぶん、まだモールの中です」
捜索範囲が絞られる。
間もなく、立体駐車場へ続く階段の踊り場で、若い母親が発見された。
母親は外へ逃げてはいなかった。
階段へ座り込み、膝を抱えて泣いていた。
娘を置いていく覚悟など、本当は最後まで持てなかったのである。
◇
その頃、控室では女児が泣き始めていた。
萌音が小さなカモメのバルーンを作る。
「ほら。海から遊びに来たよ」
詩織は女児を怖がらせないよう、小さな声で子守歌を歌う。
それでも、女児の涙は止まらない。
大翔が前へ出た。
自分が一番気に入っていた赤い電車のバルーンを抱えている。
大翔は女児の前へしゃがみ、その電車を差し出した。
「これ、貸してあげる」
女児は泣きながら大翔を見る。
大翔は胸を張った。
「九州の男は、泣いとる女の子を一人にせんけん」
萌音と詩織が顔を見合わせる。
五歳児とは思えないほど格好よかった。
大翔はさらに言う。
「大丈夫。大翔がここにおるけん」
詩織が感動する。
「大翔くん、格好いい!」
大翔は詩織を見る。
「詩織おねえさんも、ここから動いたらいかんよ」
「私も?」
「九州の男は、守る人を増やしても文句言わんけん」
「私まで守られてる……」
大翔は女児の隣へ座り、床の上で赤い電車を走らせる。
「しゅっぱつ進行!」
女児は泣きながら、電車の動きを見る。
萌音がバルーンで線路を作った。
詩織は駅員役になる。
「次の駅は……ええと……」
大翔が言う。
「横須賀中央!」
詩織は元気よく繰り返す。
「次は横須賀中央でーす!」
大翔が首をかしげる。
「もう横須賀中央におるよ」
詩織は固まった。
「じゃあ、終点?」
女児が、初めて小さく笑った。
大翔は立ち上がる。
「笑った!」
胸を張る。
「九州の男は、女の子を笑顔にするけん!」
萌音が拍手する。
「大翔くん、すごいね」
大翔はさらに得意になる。
「大翔、九州男児やけん!」
茉莉花が控室へ顔を出す。
「大翔。床に出したおもちゃ、あとで全部片づけるんよ」
「はい……」
九州男児の声が急に小さくなった。
◇
スタッフルームでは、若い母親から事情を聴いていた。
麻衣とほぼ同世代。
シングルマザー。
安定しない仕事。
家賃。
食費。
保育料。
娘が熱を出せば、仕事を休まなければならない。
休めば収入が減る。
頼れる家族もいない。
眠れない日が続き、自分には子育てを続ける資格も力もないと思い始めていた。
娘を嫌っているわけではない。
むしろ、大切だった。
自分と一緒にいるより、誰か別の人に育ててもらった方が幸せなのではないか。
そう思い詰め、ショッピングモールへ置いていこうとしてしまった。
麻衣は母親と向き合った。
しかし母親は、麻衣のステージ衣装を見る。
苦しそうに言った。
「あなたたちみたいに、華やかなステージに立ってる人に、私の何が分かるの?」
麻衣はすぐには答えなかった。
極秘任務のことは話せない。
自分が華やかな舞台だけで生きているわけではないと説明することもできない。
それ以上に、目の前の母親の苦しみを、
「分かります」
と簡単に言うべきではないと思った。
「全部分かるなんて、うちには言えません」
麻衣は静かに答えた。
「うちは子どもが大好きです。本気で幼稚園の先生を目指してます」
「でも、子どもだけ見とったらあかんと思ってます」
声が少しずつ強くなる。
「子どもを育ててるお母さんやお父さんが、どれだけしんどいかも考えやなあかん。親御さんが苦しんどるのを放っておいて、子どもだけ笑顔にしようとしても、本当の笑顔にはならんと思うんです」
母親が麻衣を見る。
麻衣の目には涙が浮かんでいた。
「うちは戦隊ヒロインとして活動しながら、子どもたちだけやなく、親御さんたちのことも応援したいって、本気で考えてます」
「不幸な子どもを見過ごすことはできません。でも、追い詰められて不幸になろうとしてるお母さんやお父さんも、見過ごしたくないんです」
「華やかなステージにいる人間に見えるかもしれません。でも、うちは今日、この子とお母さんを助けるために、ここにいます」
麻衣は涙を拭かずに続けた。
「行政でも、相談窓口でも、支援員さんでもええんです。助けてって言うてください」
「一時的に預かってもらう方法もあります。生活を支えてもらう方法も、働き方を相談する場所もあります」
「助けを求めるのは、逃げることやないです」
そして、言葉をはっきり区切った。
「でも、子どもを置き去りにすることだけは、絶対にやめてください」
「この子も、お母さんも、取り返しのつかん傷を負います」
母親は両手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。
◇
そこへ茉莉花が入ってきた。
母親の隣へ、遠慮なく腰を下ろす。
「しんどかったんやろ」
小倉弁の柔らかい声だった。
「うちも大翔を育てよるけ、子育てが毎日きれいごとだけやないんは分かるっちゃ」
「腹が立つ日もある。逃げたくなる日もある。母親やけって、何でも我慢できるわけやないよ」
茉莉花は母親の手を握った。
「でもね、一人で全部抱えんでいいんよ」
「市役所でも、相談員さんでも、預かってくれる人でも、使えるもんは全部使ったらいいっちゃ」
「税金払っとるんやけ、遠慮せんで使い倒したらいい」
麻衣が横から言う。
「茉莉花さん、言い方が豪快です」
「使える制度は、使わんともったいないやろ」
茉莉花は母親から目を離さない。
「ただし、子どもを置いていくんだけはいかん。そこだけは絶対にいかんよ」
「今度、もう無理やと思ったら、誰かに電話する。窓口へ行く。助けてって言う」
「一回で聞いてもらえんかったら、二回言う。それでもだめなら三回言う」
母親が小さく尋ねる。
「迷惑じゃないですか……」
茉莉花は即答した。
「迷惑かどうかを決めるんは、助ける側やけ。あんたが先に決めんでいい」
麻衣が目を丸くする。
萌音がいたなら、
「お節介に逃げ道がない」
と評しただろう。
母親は、モール側が手配した子育て支援担当者と話すことを受け入れた。
生活支援。
一時預かり。
就労相談。
継続的な子育て相談。
利用できる制度を、一つずつ確認していく。
問題が一日で全て解決するわけではない。
それでも母親は初めて、
「助けてください」
と口にした。
◇
一段落すると、茉莉花が突然尋ねた。
「朝から何か食べた?」
母親は首を横へ振る。
「ほとんど、何も……」
「そりゃ、悪い方にしか考えられんようになるっちゃ」
茉莉花は控室から、残った筑前煮を持ってきた。
紙皿へ盛り、母親へ渡す。
「食べり。根菜は腹にたまるけ」
母親は遠慮しながら、一口食べた。
驚いたように顔を上げる。
「おいしい……」
その瞬間、茉莉花の顔が輝いた。
料理指導スイッチが入ったのである。
「やろ? まず鶏肉を炒めてね、れんこんとごぼうは――」
麻衣が止めた。
「茉莉花さん。今から作り方を説明するんですか?」
「おいしい言うてくれたんやけ、教えんといかんやろ」
「その義務はないと思います」
茉莉花はすでに紙とペンを取り出していた。
一枚目は材料一覧。
二枚目は切り方。
三枚目は煮る順番。
四枚目は、
『元気がある日の本格版』。
五枚目は、
『しんどい日の手抜き版』。
冷凍野菜。
市販のだし。
カット済みの鶏肉。
電子レンジで作る方法まで書かれている。
母親は困惑した。
「こんなに詳しく書いてもらわなくても……」
「次に会えんかもしれんけ、今書いとく」
「茉莉花さんのお節介、本当に逃げ道がありませんね」
麻衣が苦笑する。
茉莉花は最後に、大きな文字を付け加えた。
『料理できん日は総菜を買う。作れん自分を責めんこと』
茉莉花はその一文を指さす。
「これが一番大事っちゃ」
母親は、涙の残る顔で少し笑った。
◇
支援担当者とモール責任者が安全を確認し、母親は女児が待つ控室へ戻った。
女児は赤い電車のバルーンを抱え、大翔の隣に座っていた。
母親の姿を見る。
だが、すぐには動かなかった。
母親は女児の前へ膝をつく。
「ごめんね」
声が震える。
「本当に、ごめんね」
女児はしばらく母親を見つめていた。
やがて小さな足で駆け寄る。
母親は娘を強く抱きしめた。
女児には、起きたことの意味は分からない。
それでも、母親の背中へ小さな腕を回した。
帰る時間になった。
女児は大翔へ、赤い電車のバルーンを返そうとする。
大翔は首を横へ振った。
「あげる」
萌音が尋ねる。
「大翔くん、一番気に入ってたんじゃないの?」
大翔は胸を張る。
「九州の男は、一回あげるって決めたもんを返せとは言わんけん」
「格好いい!」
詩織が拍手する。
女児は赤い電車を抱え、大翔へ笑顔を向けた。
大翔はさらに言う。
「九州の男は、女の子を笑わせたら最後まで笑顔で見送るけん」
女児が大きく手を振る。
「ばいばーい!」
大翔も力いっぱい手を振った。
「またね!」
母親も、麻衣たちへ深く頭を下げる。
茉莉花は帰り際にもレシピの紙を確認した。
「手抜き版もちゃんと入っとる?」
「入っています」
「支援窓口の連絡先は?」
「スタッフさんからもらいました」
「ご飯食べられん日は?」
「総菜を買って、自分を責めない」
茉莉花は満足そうに頷く。
「よし」
母親と女児は、小さな手をつないで控室を出ていった。
女児は角を曲がる直前、もう一度振り返る。
赤い電車のバルーンを掲げ、大きく手を振った。
大翔も手を振り返す。
その姿は、五歳とは思えないほど誇らしげだった。
◇
詩織が大翔へ尋ねた。
「今日、一番活躍したのは誰かな?」
大翔は即答した。
「大翔」
「私じゃないの?」
「詩織おねえさんは、大翔が守ったけん」
「私も九州男児になろうかな」
麻衣が答えた。
「詩織おねえさんには無理です」
「性別の問題?」
「それ以前に、一人で帰り道が分かりません」
詩織は少し考える。
「じゃあ、大翔くんと一緒なら?」
大翔は腕を組む。
「九州の男は、迷子のおねえさんも家まで送るけん!」
萌音が笑う。
「東京まで送るのは大変だよ」
茉莉花の声が飛ぶ。
「大翔。九州男児なら、先におもちゃと皿を片づけり!」
「はい!」
大翔は急いで床へ散らばったおもちゃを集め始めた。
詩織も手伝おうとする。
赤い電車の風船を持ち上げ、巨大なバルーン船へ引っかかる。
「萌音ちゃーん! 船に捕まった!」
大翔はため息をつく。
「九州の男は、忙しいけん……」
◇
イベント終了後。
ショッピングモールの大きな窓から、夕暮れの横須賀港が見えた。
海面へ揺れる灯り。
港に並ぶ船。
遠くを駆け抜ける赤い電車。
空を横切るカモメ。
麻衣は大翔の頭をなでた。
「大翔くん。今日はあの子を笑わせてくれたね。本当に立派なヒーローやったよ」
大翔は胸を張る。
「九州の男は、困っとる人を見たら助けるけん!」
その後ろから茉莉花が言う。
「ほんなら、困っとるママの荷物も持ってくれる?」
大翔は茉莉花の大きな荷物を見る。
筑前煮の容器。
大翔の着替え。
イベント資料。
おもちゃ。
かなり重そうだった。
大翔は一瞬だけ迷う。
それでも両腕を伸ばした。
「九州の男は……持てる分だけ持つけん!」
大翔は一番小さな袋を持ち上げた。
茉莉花が笑う。
「正直でよろしい」
麻衣も笑った。
昨夜は神戸で、誰にも知られない極秘任務を遂行した。
今日は横須賀で、一人の女児と、追い詰められていた若い母親を守った。
爆発も戦闘もない。
必殺技も変身もない。
だが、決して小さな任務ではなかった。
子どもを守るということは、子どもだけを見ることではない。
その手を握る親が倒れそうなら、親にも手を差し伸べなければならない。
不幸な子どもを見過ごさない。
苦しんでいる親も見捨てない。
それが、幼稚園教諭を目指す麻衣が、戦隊ヒロインとして大切にしたい信念だった。
軍港の街、横須賀。
少し危険で、どこまでも格好いい海風の街で、離れかけていた親子の手をもう一度つないだのは――
麻衣の洞察力。
萌音と詩織の優しさ。
黒崎茉莉花の、逃げ道のない親切なお節介。
絶品の筑前煮。
そして、
「九州の男は、泣いている女の子を一人にしない」
と言い切った、五歳の九州男児の心意気だった。




