ぽかぽかトリオ徳島公演 ――踊る阿呆に、迷う詩織!? 阿波おどりと藍色バルーンで、川の町の笑顔を守れ
戦隊ヒロインプロジェクトには、様々な派生ユニットがあるが、その中で、遥室長が最も大切にしているのが、未就学児向けユニット――
「ぽかぽかトリオ」
派手な爆発はない。
怪人を投げ飛ばすこともない。
大音量の必殺技も、子どもが怖がるような暗転も使わない。
それでも全国の幼稚園、保育園、認定こども園、自治体、子育て支援団体から、公演依頼が絶えることはなかった。
三人が大切にしているのは、舞台上の完成度だけではない。
体操ができない子も置いていかない。
歌えない子を急かさない。
途中で泣いても、退席しても、それを失敗とは呼ばない。
最初から最後まで参加できなくても、帰り道に一度だけ笑ってくれれば、それで公演は成功。
その考え方が、子どもだけでなく、保護者や教育関係者からも高く評価されているのである。
リーダーは白浜麻衣。
紀州の舞姫と呼ばれる体操のおねえさん。
三人の中で最年少、最も小柄。
童顔のため、私服で歩いていると中学生に間違えられることも珍しくない。
しかし幼稚園教諭を本気で目指し、子どもの発達、安全管理、応急手当、保護者対応を学んでいるため、三人の中では一番しっかりしている。
二人目は宮沢萌音。
工作のおねえさんで、バルーンアートの名手。
穏やかで優しく、麻衣ほど厳密ではないが、藤原詩織ほど危なっかしくもない。
つまり三人の中では、中間である。
ただし子どもから、
「もっと大きく!」
「もっといっぱい!」
と頼まれると断れず、作品を予定の三倍ほど作ってしまう癖があった。
そして三人目が、うたのおねえさんの藤原詩織。
北欧系の血を引くクォーター。
すらりとした長身。
端正で華やかな顔立ち。
三人の中では最年長で、舞台衣装を着て立っているだけなら、一番頼れる大人に見える。
父は世界的指揮者の藤原聡、通称マエストロ藤原。
本人の歌唱力も、戦隊ヒロインプロジェクト内で屈指だった。
ところが歌以外は、ほとんど全部だめだった。
方向感覚がない。
切符をなくす。
荷物を置いた場所を忘れる。
説明の途中で動き出す。
目の前の物を探す。
そして本人にも、その自覚がある。
詩織は日頃から、明るく言い切っていた。
「私、歌以外は全部だめだから!」
本来、胸を張るところではない。
だが、あまりに清々しく認めるため、誰も強く叱れなかった。
外見は長身の美人。
中身は三人で一番の妹キャラ。
最年少で最も小柄な麻衣が、詩織の世話をする。
その逆転した関係も、ぽかぽかトリオの大きな魅力だった。
今回、三人が向かうのは徳島県徳島市。
徳島市は、眉山を背に、新町川や助任川などの水辺が町の中心を巡る、明るく開放的な川の町である。
街中には阿波おどりのリズムが息づき、深く美しい阿波藍の文化、爽やかなすだち、川から眺める町並みなど、多彩な魅力を持つ。
四百年以上受け継がれてきた阿波おどりは、夏の祭りだけにとどまらない。
町の人々にとって、踊りは歴史であり、誇りであり、人と人をつなぐ共通の言葉でもある。
ぽかぽかトリオが開催するのは、親子参加型公演、
「ヤットサー! にこにこ阿波っ子まつり」
阿波おどり風の体操。
藍色を基調としたバルーンアート。
詩織の歌。
三人の持ち味を組み合わせ、徳島の楽しさを未就学児へ伝える公演だった。
◇
公演前日。
麻衣は和歌山から私鉄へ乗り、港へ向かっていた。
体は小さいが、荷物は多い。
公演衣装。
体操用の小道具。
応急手当用品。
子ども用の予備名札。
消毒用品。
滑り止めテープ。
簡易裁縫道具。
そして、会場と川辺イベントの動線を印刷した資料。
小柄な麻衣が大きなキャリーケースを引いている姿は、修学旅行へ向かう中学生のように見えた。
港の係員が、思わず声をかける。
「一人で大丈夫? お母さんは?」
麻衣は慣れた様子で答えた。
「成人です。それから、明日は体操のおねえさんです」
係員は二度見した。
麻衣も二度見されることには慣れている。
フェリーが港を離れる。
麻衣は荷物を船室へ置いた後、デッキへ出た。
海風が頬をなでる。
遠ざかっていく和歌山の町。
広がる紀伊水道。
子どもの頃から、海の向こうには徳島があると知っていた。
鉄道で遠回りするのではなく、船に乗れば海を渡って四国へ行ける。
和歌山と徳島を結び続けてきた、生活と旅のための航路だった。
だが、そのフェリーも、将来なくなってしまうかもしれない。
麻衣は手すりへ両手を置き、少し寂しそうに呟いた。
「この船も、ほんまになくなってまうんやなぁ。和歌山と徳島をずっとつないできたのに……寂しいもんやねぇ」
声には、柔らかな紀州の響きが混ざっていた。
近くでは、小さな男の子が海を指さしている。
「見て! 船がいる!」
母親が笑う。
「この船も、船だよ」
「僕、今、海の上?」
「そうだよ」
男の子は嬉しそうに飛び跳ねかけた。
麻衣が優しく声をかける。
「デッキは滑ることあるから、走らんとゆっくり歩こうね」
男の子は足を止め、母親と手をつないだ。
「おねえちゃん、先生?」
麻衣は少し笑う。
「先生になるために、勉強してるとこやよ」
「小さい先生?」
麻衣の笑顔が、一瞬だけ固まった。
敦賀に続き、徳島へ着く前から「小さい先生」である。
それでも男の子が笑っているのを見ると、麻衣もつられて笑った。
「今日は小さいおねえさんでええよ」
船室へ戻ると、麻衣はすぐに公演資料を開いた。
海を渡っていても、安全確認は休まない。
川辺の柵。
ホールへの戻り口。
親子待ち合わせ場所。
救護室。
非常口。
翌日の徳島は晴れ予報。
ただし川沿いは風が出る可能性がある。
麻衣は資料の余白へ、
「大型バルーンは必ず固定」
と書き込んだ。
この注意が守られるかどうかは、萌音次第だった。
◇
一方、東京から徳島へ向かう組は、空港の出発ロビーにいた。
宮沢萌音。
藤原詩織。
そして、ヒロ室スタッフの高島里奈。
遥室長は本部から全体を統括するため、今回は同行しない。
代わりに高島里奈が、移動管理と現場の補佐を担当する。
里奈が同行する最大の理由は、詩織を一人で飛行機へ乗せるのが難しいからだった。
詩織は長身で端正な顔立ちをしている。
空港を歩くだけなら、萌音や里奈を引率する頼れるお姉さんに見える。
ところが空港へ到着して十分後、詩織は到着口へ向かっていた。
里奈が呼び止める。
「詩織さん。そちらではありません」
詩織は案内板を指さす。
「でも、“徳島からのお客様”って書いてあるよ?」
「徳島から来たお客様を迎える場所です」
「私たちは?」
「徳島へ行くお客様です」
萌音が詩織の両肩を持ち、体を反対へ向ける。
「詩織ちゃん、こっちだよ」
「空港って難しいね。行く人と帰ってきた人が同じ建物にいる」
「案内表示を最後まで読めば分かります」
里奈が淡々と答えた。
保安検査場へ着くと、詩織は鞄の中を探し始める。
「搭乗券がない」
「私が持っています」
里奈が答える。
詩織は安心した。
「じゃあ、なくしてないね」
「最初から渡していません」
「どうして?」
「詩織さんがなくす可能性があるからです」
詩織は感心した。
「里奈さん、賢い!」
萌音が苦笑する。
「褒めるところではないと思うよ」
保安検査を無事に通過。
搭乗口へ向かう途中、詩織は土産店へ引き寄せられる。
「見て、空港限定のお菓子!」
里奈が腕時計を見る。
「搭乗開始まで十五分です」
「一分だけ!」
「詩織さんの一分は信用できません」
萌音も頷く。
「前に一分だけって言って、二十分いたよね」
「お菓子がたくさんあったから」
「今日は徳島へ着いてから買ってください」
詩織は名残惜しそうに棚へ手を振った。
「帰りに会おうね」
菓子へ再会を約束する必要はなかった。
飛行機へ乗る。
詩織は窓側席。
萌音は中央。
里奈は通路側。
詩織を窓際へ封じ込める、合理的な配置である。
機体が滑走路を進み、空へ浮かぶ。
詩織が窓へ顔を寄せた。
「飛んだ!」
里奈はシートベルトを確認する。
「飛行機ですから」
「雲が下にある!」
「上空ですから」
「道路がないのに、どうして徳島まで行けるの?」
里奈は少し考えた。
「飛行機には、正確な航法装置があります」
そして付け加えた。
「詩織さんと違って」
萌音が吹き出す。
詩織は頬を膨らませた。
「私にも萌音ちゃんと里奈さんがいるよ」
「人間航法装置ですね」
「二人いたら、飛行機より安全かも」
「詩織さんを運ぶ側の負担は考慮されていません」
飲み物が配られる。
詩織は窓の外を見たまま紙コップを取ろうとし、何もない空間をつかんだ。
萌音が紙コップを手元へ置く。
「詩織ちゃん、こっちだよ」
「ありがとう」
外見だけなら、最年長の美人が二人を引率しているように見える。
実際には、里奈と萌音が詩織を空輸していた。
◇
麻衣は徳島港へ到着すると、地元スタッフの車で徳島市中心部へ向かった。
眉山。
川沿いの遊歩道。
市街地を包むように流れる水路。
川面を進む小さな船。
そして街角のあちこちに感じられる阿波おどりの気配。
麻衣は窓の外を眺めながら、翌日の公演内容を頭の中で確認する。
会場へ着くと、東京組より先に舞台や通路を点検した。
舞台床。
非常口。
救護室。
川側出入口。
親子待ち合わせ場所。
風が強くなった場合の代替経路。
麻衣が確認を終えた頃、空港からの車が到着した。
ドアが開く。
最初に降りてきたのは里奈。
次が萌音。
最後に詩織。
詩織は麻衣を見つけ、両手を大きく振った。
「麻衣ちゃーん! 飛行機、飛んだよ!」
麻衣は一秒だけ黙った。
「飛行機なので、飛びます」
「雲が下にあった!」
「上空なので、そうなります」
里奈が言う。
「機内でも同じ説明をしました」
萌音が笑う。
「里奈さんと麻衣ちゃん、返事が一緒だね」
麻衣は詩織の荷物へ目を向ける。
「詩織おねえさん、忘れ物はありませんか?」
「ないよ」
里奈が、詩織の小さな鞄と帽子を差し出した。
「空港の座席へ置いていこうとしました」
詩織は胸を張る。
「でも里奈さんが持ってきてくれたから、忘れてない」
「忘れた物を回収したのです」
「結果的には全部あるよ」
麻衣は目を閉じた。
「詩織おねえさん。一人で飛行機へ乗るのは禁止です」
詩織は素直に頷く。
「私も、そう思う」
自覚だけは十分だった。
◇
翌朝。
新町川に近い大型文化ホールには、未就学児と保護者が次々と集まっていた。
会場には徳島らしい藍色の装飾。
舞台の奥には眉山を模した背景。
川を表す青い布。
すだちをイメージした緑色の丸い飾り。
そして萌音が作ったバルーンアート。
藍色の踊り子。
編み笠。
鳴り物。
すだち。
小さな船。
麻衣は舞台袖へ並ぶ踊り子を数えた。
「萌音おねえさん」
「何?」
「打ち合わせでは、踊り子は三人でしたよね」
「最初は三人だったよ」
「今、何人ですか?」
萌音は端から数える。
「一、二、三……二十七人」
「九倍です」
「子どもたちが、にぎやかな方が喜ぶかなって」
「まだ子どもたちは来ていません」
「来た時に喜ぶかなって」
さらに鳴り物役が八人。
合計三十五体。
舞台袖は、藍色のバルーン阿波おどり連によって完全に占拠されていた。
その奥から、詩織の声が聞こえる。
「麻衣ちゃーん!」
「どうしました?」
「藍色の人がいっぱいで出られない!」
麻衣は天井を見上げた。
「敦賀では列車。徳島では阿波おどり連……」
萌音は申し訳なさそうに笑う。
「地域性は出ていると思う」
麻衣とスタッフが風船を左右へ移動させ、通路を作る。
その隙間から詩織が現れた。
長身。
端正な顔立ち。
阿波藍を取り入れた衣装も完璧に似合っている。
ただし、左右で違う靴を履いていた。
麻衣が足元を指さす。
「詩織おねえさん」
「何?」
「靴が左右で違います」
詩織は自分の足を見る。
右は公演用の白い靴。
左は移動用の黒いスニーカー。
「あれ?」
「どうして気づかなかったんですか?」
「両方とも足には入ったから」
「入ればいいわけではありません」
萌音が楽屋から、もう片方の白い靴を持ってくる。
詩織は履き替えながら、近くの地元スタッフへ明るく説明した。
「私、歌以外は全部だめなんです」
麻衣が慌てる。
「初対面の方へ自己紹介みたいに言わないでください」
「でも、先に言っておいた方が親切でしょ?」
里奈が進行表を確認しながら答える。
「周囲が早めに警戒できるという点では、親切かもしれません」
詩織は嬉しそうに笑う。
「ほら」
「褒めてはいません」
◇
開演時刻。
阿波おどりを思わせる軽快な鳴り物が、子ども向けの優しい音量で流れる。
麻衣が舞台へ登場した。
「みんな、こんにちは!」
「こんにちはー!」
「今日は、みんなで大きな“ぽかぽか連”になって、徳島の町を踊ります!」
最初の演目は、
「ぽかぽか阿波っ子体操」。
手を上げて「こんにちは」。
二歩進んで「ヤットサー」。
隣の人へぶつからないように二歩戻る。
その場でくるりと回る。
最後は足をそろえて、ぴたりと止まる。
麻衣は小柄な体を大きく使いながら、子どもたちへ呼びかける。
「全部できなくても大丈夫やよ。おててだけでも、見てるだけでも、みんな同じぽかぽか連です」
保護者の後ろへ隠れていた子も、少しずつ手を上げ始める。
麻衣は気づいても、大げさに指さしたりはしない。
ただ、そっと笑顔を向ける。
一方、詩織は開始十秒で全力だった。
「二歩進みます!」
麻衣が言う。
詩織は四歩進む。
「二歩戻ります!」
詩織は五歩戻る。
萌音へぶつかりそうになる。
麻衣が笛を鳴らした。
「詩織おねえさん、踊りすぎです」
「楽しくなっちゃった」
「詩織おねえさんだけ、別の連になっています」
詩織は位置へ戻ろうとする。
だが、どこが自分の位置だったか分からない。
「私、どこにいた?」
萌音が床の印を指さす。
「青い丸のところ」
「これ?」
「それは緑」
「藍色の照明で全部青く見える」
里奈が舞台袖から指示する。
「詩織さん。麻衣さんの右です」
詩織は麻衣の右へ立った。
「ここ?」
「そこです」
客席から温かな笑いが起きた。
続いて萌音のバルーンアート。
細長い風船が編み笠へ変わる。
藍色の風船は踊り子。
緑はすだち。
青は新町川を進む船。
子どもたちは目を輝かせた。
「もっといっぱい!」
「踊る人、増やして!」
萌音は笑顔で答える。
「実は、もういっぱいいます」
三十五体のバルーン阿波おどり連が舞台へ運ばれてくる。
客席から大歓声。
麻衣が説明した。
「本当は三人の予定でした」
萌音は少し照れる。
「作っていたら、連になりました」
詩織はバルーン踊り子の列へ入り込む。
「私も一緒に踊る!」
麻衣が止める。
「絡まないようにしてください」
「大丈夫!」
詩織が一歩動く。
編み笠の風船が髪へ引っかかる。
二歩目で、鳴り物役が腕へ絡む。
三歩目で、踊り子二体を引きずる。
「麻衣ちゃーん!」
麻衣が笛を鳴らす。
「詩織おねえさん連、活動停止です」
会場は大笑い。
詩織は風船に囲まれながら言った。
「私、普通に踊ろうとしただけなのに」
「普通に踊れていません」
「やっぱり歌以外はだめだね」
「自分で納得しないでください」
◇
三つ目の演目。
詩織が舞台中央へ立つ。
その瞬間、空気が変わった。
先ほどまで風船へ絡まっていた人とは思えない。
長身。
華やかな顔立ち。
柔らかな微笑み。
マイクを持ち、一度静かに息を吸う。
歌うのは、
『ヤットサー! ぽかぽか川のうた』。
新町川。
眉山。
藍色の空。
川面を進む船。
親子で踊る阿波おどり。
詩織は、未就学児でも聞き取りやすい言葉と音域を守りながら歌う。
「ヤットサー!」
詩織が呼びかける。
「ヤットサー!」
子どもたちが答える。
歌の時だけは、何一つ間違えない。
子どもの返事が小さければ、自然に声を抑えて聞きやすくする。
保護者の後ろに隠れている子にも届くよう、優しく語りかける。
萌音が風船の船を動かす。
麻衣が簡単な振り付けを添える。
会場全体が、明るく温かな阿波おどりの世界へ変わった。
歌い終わる。
大きな拍手。
詩織は深く一礼した。
完璧だった。
そして舞台中央で、麻衣へ小声で尋ねる。
「次、どっちに帰るの?」
麻衣が舞台袖を指さした。
「今、入ってきた方です」
「どっちから来た?」
里奈が舞台袖から右手を上げる。
「詩織さん。私の声の方へ来てください」
「はーい」
詩織は里奈の声を頼りに、無事に舞台袖へ戻った。
音を使えば、詩織は迷わなかった。
◇
公演前半が終了し、十五分間の休憩へ入る。
ホールの外、新町川沿いでは、親子向けの「川と阿波おどりフェスタ」が開かれていた。
親子は川辺の遊歩道や広場へ移動する。
その時、異変が起きた。
電子案内板の矢印が、突然反対方向を示し始める。
ホール入口。
親子待ち合わせ場所。
救護室。
船着き場。
表示が次々と入れ替わる。
さらに館内放送へ雑音が混じり、案内が聞き取れなくなった。
幼稚園や親子グループごとに分けていた色別の表示まで混乱し、保護者とはぐれかけた子どもが泣き始める。
人が川沿いの狭い通路へ集中すれば危険だった。
高島里奈の端末へ、運営本部から連絡が入る。
案内システムが外部からの妨害を受けている。
警備班と技術班が動き始める。
里奈はすぐに現場図を開き、スタッフへ指示を出した。
「川辺の通路を一方通行にしてください。ホール側の広場を臨時待機場所にします。救護室へ続く経路は空けてください」
東京の指令室から、遥室長の通信が入る。
「ぽかぽかトリオの任務は、子どもたちを川から離し、安全な屋内待機場所へ誘導することです」
そして、最も大切な条件が伝えられる。
「子どもたちを怖がらせないでください」
敵。
妨害。
緊急事態。
そうした言葉を使ってはいけない。
警報音を鳴らさない。
走らせない。
命令口調で急かさない。
子どもたちには、休憩時間の特別な阿波おどりが始まったと思わせる。
恐怖ではなく、楽しい思い出だけを残す。
麻衣が頷いた。
「了解しました」
萌音は風船を抱える。
「色と形で目印を作ります」
詩織は少し不安そうに里奈を見た。
「私は何をしたらいい?」
里奈は詩織の肩へ手を置いた。
「私の指示どおりに歌ってください」
「歌だけでいいの?」
「はい。移動も、次に何をするかの判断も、私が指示します」
詩織の顔が明るくなる。
「それならできる!」
「歌以外は、麻衣さん、萌音さん、私が担当します」
「全部任せる!」
あまりに迷いのない返事だった。
◇
麻衣は川から十分に離れた広場の低い台へ立った。
公演用のマイクを使い、明るく呼びかける。
「みんな! 休憩時間だけの、特別な阿波おどりを始めるよ!」
不安そうだった子どもたちが麻衣を見る。
「まず、おててを上げて、ヤットサー!」
両手を上げる。
「そのまま足を、ぴたっ!」
子どもたちが止まる。
「次は、おうちの人や近くの先生と手をつなごう!」
そして川とは反対側へ、ゆっくり二歩戻る。
「二歩下がって、ぶつからない!」
遊びの続き。
新しい踊り。
子どもたちは避難しているとは思わず、麻衣の動きをまねる。
泣いている子には、麻衣が目線の高さまでしゃがんだ。
「びっくりしたね。でも大丈夫やよ。今からみんなで踊りながら、お部屋へ戻るだけやからね」
「ママがいない……」
「先生たちが探してくれてるよ。それまで、ここで一緒に踊ろう」
柔らかな紀州弁。
小柄な麻衣は、未就学児と自然に同じ目線へ立つことができた。
一方、萌音は大量に作ったバルーン阿波おどり連を、臨時の案内標識へ変えていく。
藍色の編み笠は親子待ち合わせ場所。
緑のすだちは救護室。
青い船はホール入口。
黄色い鳴り物はスタッフ受付。
「文字が読めない子も、形なら分かります!」
萌音がスタッフへ伝える。
「藍色の編み笠を高く持ってください。青い船はホール入口へお願いします!」
三十五体の風船が、会場の各所へ配置される。
麻衣が感心した。
「今回は、作りすぎが役に立っています」
萌音は胸を張る。
「工作に無駄はありません!」
その直後、川から吹いた風が巨大な編み笠バルーンを持ち上げる。
編み笠を抱えていた萌音の体まで、横へ引っ張られた。
「待って! 大きすぎる!」
スタッフ二人が萌音を確保する。
麻衣が訂正した。
「少し無駄がありました」
「次は重りを増やします!」
「次の話は後です!」
里奈は広場全体を見渡せる位置へ移動した。
グループごとの人数。
子どもの位置。
保護者と合流できていない人数。
川辺からの距離。
スタッフの配置。
すべてを確認しながら、詩織へ無線で指示を出す。
「詩織さん。最初は藍色の編み笠グループです。ゆっくりした四拍子。返事を促してください」
詩織は携帯型スピーカーの前へ立つ。
「分かった」
歌が始まる。
「あいいろ連のみんなー!」
「ヤットサー!」
子どもたちが返事をする。
「おうちの人と、手をつないだかなー?」
「つないだー!」
里奈は返事の位置と人数を確認する。
「次は緑のすだちグループ。先ほどより少し小さな声で。落ち着かせるように歌ってください」
詩織は言われたとおり、声の強さを変える。
「みどりのすだちのみんなー」
「ヤットサー!」
「ゆっくり歩いて、お部屋へ帰ろうねー」
「はーい!」
詩織は、里奈の指示を一度も間違えなかった。
方向は分からなくても、音の指示なら理解できる。
自分で次の行動を決めると迷うが、歌う内容を与えられれば完璧に遂行する。
里奈が次のグループを確認する。
「青い船グループ。人数が一人足りません」
詩織の表情が真剣になる。
「呼んでみるね」
「返事の位置を確認してください」
詩織は、少し声量を落として歌う。
「あおいお船のおともだちー」
広場の子どもたちが返す。
「ヤットサー!」
その声の中に、一人だけ離れた場所から聞こえる、小さな返事があった。
詩織はすぐに右手を上げた。
「里奈さん。右の奥。柱の向こうから一人だけ声がした」
里奈は麻衣へ伝える。
「麻衣さん、右奥の柱を確認してください」
麻衣が向かう。
柱の陰には、幼い男の子がしゃがんでいた。
音に敏感な詩織が、小さな声を聞き逃さなかったのである。
さらに詩織は、館内スピーカーから流れる雑音へ耳を澄ませた。
「里奈さん」
「どうしました?」
「この雑音、ずっと同じじゃないよ」
「具体的に説明できますか?」
「四拍ごとに、低い音が一回入る。機械の音みたい」
里奈は即座に技術班へ連絡した。
雑音の周期を解析すると、妨害装置の発信間隔と一致する。
複数の受信地点で音の強さを比較すれば、装置の位置を絞り込める可能性があった。
「詩織さん。低い音が強く聞こえる方向を探せますか?」
「やってみる」
詩織はマイクを下ろし、目を閉じた。
普段の頼りない表情が消える。
詩織にとって、音は地図よりも正確だった。
数秒後、目を開く。
「川側じゃない。ホールの裏。少し左」
里奈が警備班へ情報を送る。
間もなく、ホール裏の資材置き場に隠された妨害装置が発見された。
里奈の指示。
詩織の歌声。
そして、音を聞き分ける力。
二人の連携が、事件解決への決定打となった。
◇
技術班が妨害装置を停止させる。
電子案内板が正常へ戻る。
館内放送の雑音も消えた。
警備班は、混乱に乗じて川辺の管理施設へ侵入しようとしていた工作員を確保した。
だが、子どもたちは何も知らない。
休憩時間に始まった、特別な阿波おどり。
藍色の風船。
大きなすだち。
詩織おねえさんとの「ヤットサー」の掛け合い。
子どもたちの記憶には、それだけが残った。
里奈が最終人数を確認する。
「全員、保護者または担当スタッフと合流しました」
麻衣も周囲を見回した。
泣いたままの子はいない。
「子どもたちの安全を確認しました」
萌音が風船をまとめる。
「案内標識も、順番に回収します」
詩織は、笑顔でホールへ戻っていく子どもたちを見つめた。
「私、ちゃんと役に立った?」
里奈は少しだけ表情を柔らかくした。
「はい。詩織さんの声と耳がなければ、見つけるまでに時間がかかっていました」
「歌以外は全部だめだけど、歌で役に立てた!」
「今日は、音を聞く力も役に立ちました」
詩織の目が輝く。
「じゃあ、歌と耳はできる!」
麻衣が笑った。
「できることが一個増えましたね」
萌音も頷く。
「二個になったね」
詩織は嬉しそうに両手を上げた。
「やった!」
里奈が静かに付け加える。
「ただし帰りの飛行機は、引き続き私が管理します」
「そこは変わらないんだ」
遥室長の声が通信機から届く。
「子どもたちを守り、恐怖ではなく、踊りと歌と風船の思い出だけを残しました。任務完了です」
麻衣は子どもたちの後ろ姿を見る。
「何か怖いことがあったって、知らんままでええんです」
詩織も静かに笑う。
「今日を思い出した時、“楽しかった”だけなら最高だね」
それが、ぽかぽかトリオの勝利だった。
◇
公演後半。
地元の阿波おどり指導者も参加し、会場全体で「ぽかぽか連」の総おどりが始まった。
麻衣が安全な振り付けを教える。
萌音の藍色バルーンが舞台を彩る。
里奈が舞台袖から合図する。
詩織は合図を確認してから歌い始めた。
「ヤットサー!」
「ヤットサー!」
子どもたちと保護者の声が重なる。
詩織は完璧に歌い上げた。
歌が終わる。
客席から大きな拍手。
詩織は手を振りながら、舞台袖とは反対方向へ歩き始めた。
里奈がマイクを使わず、少し大きな声で呼ぶ。
「詩織さん。こちらです」
詩織は即座に方向転換した。
「はーい!」
子どもたちは、その姿にも大笑いした。
終演後、保護者からは、
「休憩中にも特別な阿波おどりがあって、子どもがとても喜びました」
「風船の目印が分かりやすかったです」
「詩織おねえさんとヤットサーって言えたのが一番楽しかったみたいです」
と、温かな感想が寄せられた。
任務があったことには、誰も気づいていない。
公演は最初から最後まで、明るく、にぎやかで、子どもたちの笑顔に包まれていた。
◇
翌日。
萌音、詩織、里奈は、徳島の空港から東京へ戻る。
詩織の搭乗券、財布、携帯電話は、里奈が確認する。
「搭乗券は私が持っています。財布はあります。携帯電話は?」
詩織が鞄を探す。
「ない」
麻衣が詩織の右手を指さした。
「持っています」
詩織は自分の手を見る。
携帯電話をしっかり握っていた。
「あった!」
里奈は静かに言う。
「帰りも単独行動は禁止です」
「私も、その方が安心」
萌音が詩織の左腕を持つ。
里奈が右側へ立つ。
長身の詩織が、二人に挟まれて搭乗口へ運ばれていく。
見た目だけなら、詩織が二人を率いている。
実際には完全な護送だった。
麻衣は三人へ手を振った後、徳島港へ向かった。
復路もフェリーで和歌山へ帰る。
船が岸壁を離れる。
麻衣はデッキへ出た。
遠ざかっていく徳島の町。
昨日聞いた「ヤットサー」の声が、まだ耳に残っている。
笑っていた子どもたち。
藍色の風船。
川面へ揺れる光。
公演は大成功だった。
任務も成功した。
誰も怖い思い出を持ち帰らなかった。
そのことが、麻衣には何より嬉しかった。
しかし、往路と同じ海を眺めているうちに、胸の奥へ静かな寂しさが広がってきた。
この航路も、いつかなくなってしまう。
和歌山と徳島を、当たり前のように結んできた船。
仕事へ向かう人。
家族へ会いに行く人。
旅行を楽しむ人。
初めて海を渡る子ども。
数え切れない人の時間を運んできた航路だった。
麻衣は手すりへ両手を置いた。
「こんなふうに船で徳島へ来られるんも、いつか終わってまうんやねぇ……」
海風が、麻衣の髪を揺らす。
「寂しいもんやね。和歌山と徳島は、ずっと海でつながってるのになぁ」
萌音が公演後に作ってくれた、小さなバルーンフェリーを両手で抱える。
風船の船は、本物の海を渡ることはできない。
それでも、麻衣には大切な記念だった。
「船がなくなっても、この船に乗ったことや、徳島へ会いに行ったことまで、なくなるわけやないもんね」
近くでは、親子が海を眺めていた。
小さな女の子が、母親へ尋ねる。
「またこの船に乗れる?」
母親が答える。
「また乗ろうね」
その会話を聞き、麻衣は少しだけ目を伏せた。
いつまで「また」が言えるのだろう。
けれど、だからこそ、乗れる今を大切にしたい。
子どもたちにも、船に乗ったこと、海を渡ったこと、徳島で踊ったことを覚えていてほしい。
麻衣は遠ざかる徳島へ、小さく手を振った。
「また来るからね」
しんみりした気分のまま船室へ戻ろうとすると、先ほどの女の子が廊下を走りかけた。
麻衣はすぐに声をかける。
「船の中は揺れることあるから、ゆっくり歩こうね」
女の子は速度を落とし、母親と手をつなぐ。
「小さい先生、ばいばい!」
麻衣のセンチメンタルな表情が、一瞬でいつもの困り顔へ戻った。
「また小さい先生……」
それでも麻衣は笑って、手を振り返した。
「ばいばい。気ぃつけてね」
紀伊水道を渡る船は、静かに和歌山へ向かって進んでいく。
阿波おどり。
藍色の風船。
迷いながらも、歌えば誰よりも頼りになる詩織。
作品を増やしすぎるが、その風船で子どもを導いた萌音。
小柄な体で全体をまとめ、誰も怖がらせずに守り抜いた麻衣。
そして、詩織の力を正しい方向へ導いた高島里奈。
今回の徳島公演で、子どもたちに残ったのは、怖い記憶ではなかった。
元気な「ヤットサー」。
楽しい体操。
藍色の風船。
優しい歌。
それだけだった。
それこそが、遥室長が最も大切にしている「ぽかぽかトリオ」の仕事である。
笑顔を守る。
そして、楽しかった記憶だけを持って帰ってもらう。
徳島の川の町で生まれた、温かな思い出。
海を渡る航路がいつか姿を消したとしても、その日の笑顔まで消えることはない。
ぽかぽかトリオの旅は、次の町へ続いていく。
『ぽかぽかトリオ徳島公演』――大成功。




