ヒロ九クエスト第75話 ヒロ九ブルーオーシャン教室 ――黒煙バス、沖縄の海を学びに行く 梨乃、マンタに懐かれる
北中城村のリゾートホテルの朝は、昨日までの騒がしさが嘘のように穏やかだった。
ナイトプールのLEDフロート失踪事件も無事解決し、迫田ツインズの離脱という少し寂しい出来事もあり、代わりに氷見ゆりえと阿部柚葉という華やかな二人が加わった。
ヒロ九の沖縄遠征は、少しずつ形を変えながら続いている。
朝食後、ホテルの車寄せにヒロ九ラッピングバスが入ってきた。
熊本ナンバー。
昭和風ハイデッカー仕様。
派手なラッピング。
そして、出発前にほんの少しだけ上がる黒煙。
西里香澄は、もはや儀式のように言った。
「国の排ガス基準は一応クリアしとります!」
南部沙羅が荷物を持ちながらため息をつく。
「リゾートホテルの朝に、一番似合わない説明ね」
金城伊織は笑う。
「でも、沖縄本島北上の名物になってきたさー」
この日の目的地は、国営沖縄記念公園。
ヒロ九ラッピングバスは、北中城村のリゾートホテルを出発し、沖縄本島をさらに北へ向かう。
車内では、香澄がマイクを握った。
「皆さーん、本日は国営沖縄記念公園へ向かいますばい! ここは沖縄国際海洋博覧会の跡地につくられた、とても大きな公園ですたい!」
いつもの熊本弁だが、今日は少しだけ声が真面目だった。
「沖縄は戦後、長い間アメリカの統治下にありました。そして一九七二年、沖縄は日本へ復帰したとです。その後、復帰を記念する大きな事業のひとつとして、一九七五年に沖縄国際海洋博覧会が開かれましたたい」
有村ひなたが補足する。
「海をテーマにした国際的な博覧会です。現在の公園は、その跡地を活用した施設です」
伊織も窓の外を見ながら言った。
「沖縄にとって、本土復帰も海洋博も大事な歴史さー。観光地として楽しむだけじゃなくて、その背景も少し知ってほしいわけ」
車内が少し落ち着いた空気になる。
しかし、山根梨乃だけは、完全に置いていかれていた。
梨乃はしばらく真剣な顔で聞いていたが、やがて首をかしげた。
「えっと……沖縄が帰ってきて、海が博覧会しただか?」
沙羅が即座に突っ込む。
「海は博覧会しないわ」
梨乃はさらに混乱する。
「じゃあ、海洋博って魚の名前だか? ジンベエさんの親戚だか?」
水無瀬澪が眠そうに呟く。
「梨乃、歴史と魚が混ざった」
親友の江波のどかが腕を組んで助け舟を出す。
「梨乃、ええか。まず沖縄には大事な歴史があるんよ。いろいろあって、沖縄が日本に戻ってきた。その後、海をテーマにした大きなイベントをやった。それが海洋博じゃ」
梨乃は真剣に頷く。
「沖縄が戻ってきて、海のすごい会をしただな?」
伊織も優しく噛み砕く。
「そうそう。海のすごさ、未来、沖縄の魅力を世界に見てもらう大きな会だったさー」
梨乃は考え込んだ。
「つまり……海洋博は魚じゃないだな?」
ひなたが頷く。
「そこは正解です」
のどかが笑う。
「三分の一くらいは分かったじゃろ」
澪が眠そうに言う。
「梨乃、奇跡の三割理解」
梨乃はなぜか誇らしげに胸を張った。
「三割だで!」
沙羅がため息をつく。
「威張る数字ではないわ」
やがてバスは国営沖縄記念公園へ到着した。
青い空。
広がる緑。
遠くに見える海。
公園内には、沖縄の海をまるごと体感できる大型の海の展示施設がある。サンゴ礁の世界、黒潮の海、深い海の不思議を順に学べる、沖縄を代表する人気施設である。
その中でも、圧巻なのは巨大なアクリル水槽だった。
分厚いアクリル越しに広がる大水槽は、まるで海そのものを切り取ったようだった。青く澄んだ水の中を、大きな魚たちが悠々と泳ぎ、光が揺れ、魚影が重なり、来場者の視線を吸い込んでいく。正面に立つと、人間の方が水槽の中へ招かれているような感覚になる。
梨乃は口を開けたまま固まった。
「でっかいだで……」
香澄も目を輝かせる。
「たいぎゃ迫力ありますばい!」
ゆりえは自然にスマホを構えかけて、すぐに周囲の導線を見て下ろした。
「ここは立ち止まりすぎると迷惑になりますね」
沙羅が感心する。
「さすが、撮影慣れしてるわね」
柚葉は水槽を見上げ、少し笑った。
「これは強いですね。人間がどうポーズしても、水槽に負ける可能性があります」
のどかが言う。
「勝とうとすんなや」
この日、ヒロ九が参加するのは、公園内の大型水族館とのタイアップ企画。
企画名は、「沖縄の海まるごと体感!ヒロ九ブルーオーシャン教室」。
子どもたちと保護者を対象に、沖縄の海の生き物、黒潮、サンゴ礁、観察マナー、写真の撮り方まで、楽しく学んでもらうイベントである。
香澄は開幕MCを担当した。
「皆さーん、今日は沖縄の海のすごさば、見て、聞いて、楽しんで学ぶイベントですばい!」
ただし館内なので、いつもより声は抑えめである。
「ここでは大きな声ば出さんごつお願いしますたい。魚たちも、お客さんも、気持ちよく見られるようにしましょう」
沙羅が小声で言う。
「ちゃんと場所に合わせられるのね」
香澄は胸を張る。
「プロのバスガイドですばい!」
伊織は、沖縄出身者として子どもたちに話す。
「沖縄の海は、ただ綺麗なだけじゃないさー。そこで暮らす生き物がいて、その環境を守る人たちがいるわけ。見るだけじゃなくて、大事にする気持ちも持ってほしいさー」
梨乃は水槽に向かってぺこりと頭を下げた。
「海さん、こんにちはだで」
沙羅が呟く。
「理解は三割、敬意は十割ね」
ひなたは巨大水槽前の導線をすぐに読み取る。
「水槽前で立ち止まる人、写真を撮る人、移動する人が重なります。右側通行と一時停止位置の案内を強化しましょう」
施設スタッフが感心する。
「そこまで見てくださるんですか?」
ひなたは真顔で返す。
「混雑は事故の前兆です」
のどかが小声で言う。
「言い方がちょっと怖いんよ」
菜々子は保護者対応を担当する。
「迷子にならんように、班ごとに動くたい。写真撮影は通路をふさがんごつお願いしますね」
柔らかいが、要点は外さない。
凪は暗い展示室、階段、ガラス前の混雑、濡れた床を確認する。
「暗い展示室では走らないでください。水槽に近づきすぎない。足元を見てください」
梨乃が水槽に近づきすぎると、すぐに声が飛ぶ。
「梨乃さん、そこまでです」
梨乃は素直に戻る。
「魚さんに近づきすぎただか?」
「そうです」
「魚さん、照れるだな」
沙羅が呆れる。
「そういう問題ではないわ」
つばさは子どもたちの質問を拾う係だ。
「どうして魚はぶつからないの?」
「深い海って真っ暗なの?」
「大きい魚は寝るの?」
つばさは一つ一つ丁寧に聞き取り、施設スタッフへつなぐ。
「今の質問、スタッフさんに聞いてみるとよかですね」
元コールセンター経験者らしい聞き上手ぶりに、子どもたちも次々に質問を始める。
のどかは「黒潮ぐるぐるゲーム」を担当した。
床に置いた青いラインを黒潮に見立て、子どもたちが流れに沿って進む遊びである。
のどかが見本を見せる。
「流れに逆らうより、流れを読んで動くんよ。柔道も一緒じゃ」
沙羅がすぐ突っ込む。
「また柔道に持っていったわ」
のどかは笑う。
「身体の使い方は全部つながっとるんよ」
沙羅は大型水槽前の観察マナーを担当した。
「美しく見るには、周りの人の視界も守ること。水槽前で長く立ち止まりすぎない。写真を撮ったら一歩譲る。これも鑑賞の品格よ」
のどかが言う。
「水槽見るのにも品格いるんか」
沙羅は真顔で答える。
「いるわ」
意外にも、子どもたちが真似し始めた。
「写真撮ったら一歩譲る!」
「品格!」
澪が眠そうに言う。
「品格、増殖」
ゆりえは、記念撮影の立ち位置を優しく教える。
「水槽を背景にするときは、少し斜めに並んだ方が全員の顔が見えますよ。後ろの水槽も綺麗に入ります」
保護者からは好評だった。
「写真がきれいに撮れた!」
「家族写真、いつもより良い!」
ゆりえは自然に人を笑顔にする。
千鶴はそれを見て感心する。
「写真って、立ち位置だけでこんなに変わるんですね」
一方、柚葉の写真指導は尖っていた。
「せっかく巨大水槽の前なんですから、ただ並ぶだけじゃ弱いです。少し斜め、少し低く、そして一人だけ大胆に前へ」
沙羅が眉を上げる。
「一人だけ前へ?」
柚葉は梨乃を指さした。
「梨乃ちゃん、前」
梨乃は嬉しそうに出る。
「うちだか?」
柚葉は真顔で言う。
「あなたは前に出た方が画面が明るくなります。意味は分かってなくても大丈夫」
梨乃は胸を張る。
「分かってないだで!」
沙羅が呆れる。
「そこは否定しなさい」
子どもたちは大笑い。
結果、梨乃を中心にした写真は、なぜかとても楽しそうに撮れた。
ゆりえが感心する。
「柚葉ちゃん、やっぱり大胆だけど上手いね」
柚葉は笑う。
「写真は安全に攻めるのが大事です」
ひなたが真顔でメモする。
「安全に攻める。矛盾しているようで運用上は有効です」
巨大水槽では、澪がぼーっと立っていた。
眠そうなのに、魚の動きを妙に読んでいる。
「次、あの大きいの、左から来る」
本当に大きな魚影が左から現れる。
沙羅が驚く。
「なんで分かるのよ」
澪は短く答える。
「水が呼んだ」
ひなたが冷静に言う。
「水流と魚の回遊方向を無意識に観察している可能性があります」
澪は目を閉じかける。
「たぶん違う」
そして、梨乃である。
梨乃は相変わらず頓珍漢だった。
「大きい魚さん、こんにちはだで。ゆっくり泳いどるだなあ」
子どもたちが真似する。
「こんにちはだで!」
沙羅が頭を抱える。
「沖縄の水族館で因幡弁が増殖しているわ」
しかし、ここで妙なことが起きた。
巨大水槽の中をゆったり泳いでいたマンタが、梨乃の近くを通るたびに、まるでこちらを見ているようにゆっくり旋回するのである。
梨乃が手を振る。
「マンタさん、こんにちはだで〜」
マンタが大きな翼のような胸びれを広げ、ふわりと水槽前を横切る。
子どもたちが歓声を上げた。
「梨乃お姉ちゃん、マンタに懐かれてる!」
梨乃は目を輝かせる。
「友だちだで!」
沙羅が小声で言う。
「マンタにまで通じるの?」
澪が眠そうに言う。
「精神年齢が近い」
沙羅が即座に返す。
「マンタに失礼よ」
施設スタッフも少し驚いていた。
「今日はずいぶん近くを通りますね」
梨乃は完全にその気になっている。
「マンタさん、うちのこと好きだで」
柚葉が真顔で言う。
「画としては強いです。梨乃ちゃん、もう少し横。マンタの通過に合わせて手を振って」
「こうだか?」
「そう。意味は分かってなくても大丈夫」
「また分かってないだで!」
沙羅が頭を抱えた。
「水族館でも成立してるのが腹立つわね」
千鶴は館内を歩き回る子どもたちの体調を見ていた。
「少し座ろうか。水分取れてる?」
興奮して走りそうな子には、優しく声をかける。
「急がなくても、大きい魚さんは逃げないから大丈夫だよ」
看護学生らしい安心感で、保護者からも頼られる。
「ヒロ九ブルーオーシャン教室」は大盛況となった。
子どもたちは沖縄の海、生き物、サンゴ、黒潮、深海について楽しく学び、保護者も満足そうだった。
施設スタッフも笑顔で感謝する。
「ヒロ九の皆さんのおかげで、ただ見るだけではなく、学びながら楽しめるイベントになりました」
香澄は明るく頭を下げる。
「こちらこそ、たいぎゃ楽しかったですばい!」
伊織も嬉しそうに言う。
「沖縄の海を好きになってもらえたら、それが一番さー」
梨乃は巨大水槽に向かって手を振る。
「マンタさん、また会おうだで〜!」
すると、偶然なのか、マンタがまた水槽前をふわりと横切った。
子どもたちが歓声を上げる。
「マンタもお礼言ってる!」
沙羅が小声で言う。
「本当に何なの、この人」
澪が眠そうに答える。
「水族館適性」
千鶴は、その光景を見て笑った。
この人たちは、いつも騒がしい。
説明は脱線するし、梨乃はだいたい理解していない。
でも、最後にはなぜか現場を明るくする。
ゆりえと柚葉も自然に溶け込み、迫田ツインズが抜けた寂しさを、新しい賑やかさへ変えていた。
イベントが終わり、子どもたちとの記念撮影も終わる。
巨大なアクリル水槽の前で、ヒロ九メンバーは一息ついた。
梨乃は満足そうに言う。
「海洋博は魚じゃなかっただで!」
沙羅が即答する。
「そこからだったのね」
のどかが笑う。
「三割理解から、四割くらいには上がったんじゃない?」
ひなたは真顔で言う。
「学習効果は認められます」
伊織は水槽を見ながら、少し嬉しそうに呟く。
「沖縄の海、ちゃんと届いたさー」
参加者だけでなく、施設スタッフからも、そしてなぜかマンタからも感謝されているような気がする。
ヒロ九ブルーオーシャン教室は、大盛況のうちに終了した。
だが、ヒロ九の一日はまだ終わらない。
巨大水槽の余韻に浸っていたその時、隣のイルカ館の方から、少し慌てたスタッフがこちらへ近づいてきた。
菜々子がすぐに気づく。
「どうしたと?」
ひなたが資料を閉じる。
「何か確認事項でしょうか」
澪がぼーっと通路の先を見たまま呟く。
「次は、跳ねる方」
梨乃が首をかしげる。
「魚さんがジャンプするだか?」
沙羅がため息をつく。
「今度はイルカでしょうね」
沖縄の海を学ぶイベントは、無事に終わった。
だが、隣のイルカ館で、また新たなクエストの気配がしていた。




