ヒロ九クエスト第73話 北谷サンセット落とし物クエスト ――言葉は通じない、でも心は通じた
北谷チャンプルー・サンセットフェスタは、無事に終わった。
香澄の熊本弁MCは北谷の海風に乗り、沙羅のTOEIC650点英語は微妙な沈黙を生み、梨乃の因幡弁はなぜか米国人の三歳児に通じた。
イベントとしては、成功である。
少なくとも、ひなた副支配人の進行表には「大きな事故なし」「来場者満足度高め」「梨乃さんの言語運用は分類不能」と記されていた。
北谷の海辺には、夕暮れが降り始めていた。
サンセットビーチの空は、青から橙へ、橙から薄紫へと少しずつ色を変えていく。海面には夕日の光が長く伸び、波が寄せるたびに金色の帯が揺れた。遠くの雲の縁は燃えるように赤く、浜辺を歩く人たちの影はゆっくり長くなっていく。
観光客はスマホを掲げ、地元の若者は笑いながら海を背に写真を撮り、子どもたちは砂浜の端で名残惜しそうに走っている。
その景色は、ヒロ九の面々でさえ、少し言葉を失うほど美しかった。
香澄がぽつりと言う。
「たいぎゃ綺麗ですばい……」
伊織は少し誇らしげに笑った。
「北谷の夕日は強いさー。何回見ても、ちゃんと足を止める力があるわけ」
沙羅も珍しく素直に頷く。
「確かに、絵になるわね。悔しいけど、横浜とは違う美しさがあるわ」
澪は眠そうに海を見つめた。
「夕日、寝る前の色」
のどかが笑う。
「感想まで眠そうじゃね」
イベントの片付けが進む中、菜々子支配人はスタッフと挨拶を交わし、ひなたは備品リストを確認し、凪は海沿いの柵付近でまだ写真を撮っている人たちの安全を見ていた。
その時だった。
梨乃が、ふと動きを止めた。
「ん?」
梨乃の視線の先に、高齢の外国人観光客が立っていた。
白髪混じりの穏やかそうな男性で、昼間のイベント中、梨乃に何度も手を振っていた人物である。
梨乃が「こんにちはだで〜」と因幡弁全開で近づくと、なぜか嬉しそうに笑い、言葉が通じていないのに、梨乃と同じテンポで頷いていた。
その男性が今は、明らかに困った顔をしている。
ポケットを探り、バッグを開け、周囲を見回し、またポケットを探る。
梨乃は何も考えずに駆け寄った。
「どうしただか? お腹すいただか? それとも眠いだか?」
沙羅が慌てて追いかける。
「最初の選択肢が雑すぎるわよ」
高齢の男性は梨乃の顔を見ると、少し安心したように早口で何かを話し始めた。
だが、それは英語ではなかった。
沙羅が耳を澄ます。
「……英語じゃないわね」
ひなたが真顔で言う。
「英語ではありません」
伊織も聞いて、少し考える。
「たぶんスペイン語さー」
香澄が目を丸くする。
「スペイン語ですか。うちたち、英語でもぎりぎりですばい」
沙羅が少しだけ胸を張る。
「英語なら一応、私が……」
澪が眠そうに言う。
「さっき微妙だった」
「黙ってなさい」
高齢の男性は、胸元を指し、バッグを指し、両手を広げ、困った顔で何かを訴えている。
つばさが一歩前へ出た。
元コールセンター勤務の彼女は、言葉そのものよりも、相手の困り方を読むのがうまい。
「何か、小さい物をなくしたみたいとです」
男性は、スマホを取り出して写真を見せた。
そこには、小さなキーホルダーが写っていた。
色鮮やかな飾りがついた、少し古びたキーホルダー。
次の写真には、幼い孫らしい子どもが、そのキーホルダーを男性へ手渡している姿が写っている。
男性は写真を指し、自分の胸に手を当て、今にも泣きそうな顔をした。
千鶴が静かに言う。
「お孫さんからもらった、大事な物なんですね」
菜々子の表情が変わった。
「それは一大事たい」
梨乃も目を丸くする。
「孫さんからもらっただか? それは絶対探すだで!」
男性は梨乃の勢いに押されて、何を言われたか分かっていないのに、なぜか大きく頷いた。
のどかが腕をまくる。
「探すしかないじゃろ」
ひなたはすぐに資料を広げる。
「捜索範囲を設定します。ステージ前、風船配布場所、写真スポット、ビーチクリーン周辺、飲食ブース、サンセットビーチの入口付近。この六カ所を優先します」
沙羅が言う。
「言葉が通じないのに、どうやって移動ルートを確認するの?」
ひなたは真顔で答えた。
「地図、写真、ジェスチャー、そして梨乃さんです」
全員が梨乃を見る。
梨乃はにこにこしていた。
「うちだか?」
澪が眠そうに言う。
「通訳犬」
沙羅が即座に突っ込む。
「通訳できないでしょ」
だが、梨乃は高齢の男性の隣に立ち、会場マップを指さしながら聞いた。
「ここ行っただか? 海、見ただか? 風船、もらっただか? お腹すいた場所はどこだか?」
沙羅が頭を抱える。
「最後の質問、必要?」
男性はスペイン語で一生懸命説明する。
梨乃は一切理解していない。
しかし、男性の指の動き、表情、視線を見て、なぜか頷く。
「あ、こっちだで」
つばさが感心する。
「梨乃さん、言葉じゃなくて表情の流れを見とるとですね」
ひなたが分析する。
「推論過程は不明ですが、行動選択は一定の妥当性を持っています」
澪が眠そうに言う。
「本能」
梨乃は嬉しそうに笑った。
「本能だで!」
「褒め言葉として受け取ったわね」
沙羅は諦めたように呟いた。
捜索が始まった。
菜々子は全体指揮を取る。
「みんな、暗くなってきとるけん、無理せんこと。見つけたい気持ちは大事やけど、安全第一たい」
凪はすぐに補足する。
「海沿いは二人一組で確認してください。柵の外へ身を乗り出さない。砂浜側は足元に注意です」
のどかがすでに柵の向こうを覗き込もうとしていた。
「ちょっと見るだけじゃけぇ」
凪が即座に止める。
「その“ちょっと”が事故になります」
「はいはい、分かったわい」
香澄はイベント用のマイクを借りた。
「皆さーん、落とし物のお知らせですばい! 小さなキーホルダーを探しとります。お孫さんからもらった大切な物とのことですたい。見かけた方は、近くのスタッフかヒロ九までお願いします!」
熊本弁のアナウンスだが、気持ちはよく届いた。
観光客も地元の人も、足元を見ながら協力し始める。
「キーホルダーだって」
「小さいやつかな?」
「夕日で暗くなる前に探そう」
北谷のサンセットビーチに、少し温かい空気が広がった。
伊織は地元スタッフや近くの店の人へ声をかける。
「このあたりで、小さいキーホルダー見てないですか? おじいちゃんがすごく困ってるさー」
伊織の自然な沖縄言葉で、協力の輪が広がる。
つばさは証言を集める。
「写真スポットで、バッグからスマホを出していたんですね」
「飲食ブースの横で一度立ち止まられた、と」
「風船配布の近くにも来られたとですね。ありがとうございます」
曖昧な証言を丁寧に整理していく。
ひなたは会場マップへ印をつけた。
「バッグを開けた場所は写真スポットと飲食ブース。落とした可能性が高いのはこの二地点です。ただし、海風で転がった可能性があります」
沙羅は、高齢の男性へ英語で確認しようとした。
「Did you……drop……keyholder? Key ring? Maybe……around photo spot?」
男性は困った顔でスペイン語を返す。
沙羅は固まった。
「英語が通じない相手だと、TOEIC650点が完全に無効化されるわね」
澪が眠そうに言う。
「試験範囲外」
「言い方が腹立つわ」
その横で梨乃は、男性の隣にぴったり寄り添っていた。
「大丈夫だで。みんな探しとるだで。見つかるだで」
男性は言葉を理解していない。
それでも、梨乃が自分のそばを離れず、にこにこと頷いてくれるだけで、少し落ち着いたようだった。
千鶴はその様子を見て、男性に水を差し出す。
「少し休みましょう。大丈夫です」
もちろん、日本語も通じていない。
だが、千鶴はベンチを指し、ゆっくり座るよう促した。
男性は感謝するように手を合わせる。
千鶴は梨乃に言う。
「梨乃さん、この方のそばにいてあげてください」
梨乃は大きく頷いた。
「わかっただで! うち、そばにおるだで!」
沙羅が小声で言う。
「本当にラブラドールみたいね」
澪が答える。
「番犬ではなく癒やし犬」
一方、のどかはベンチの下や看板の裏を確認していた。
「こういう小さいもんは、風で転がるけぇね。上ばっかり見とったら見逃すんよ」
重い案内板を少し動かし、隙間を確認する。
沙羅が言う。
「元カープ女子で、今はサンフレ命で、今日は落とし物係ね」
のどかが笑う。
「肩書きが忙しいんよ」
迫田ツインズの澪香と澄香は、完全同期で植え込みの周辺を確認していた。
しゃがむ角度も同じ。
立ち上がるタイミングも同じ。
首をかしげる角度も同じ。
子どもたちがまた集まってくる。
「双子のお姉ちゃん、探し方も同じ!」
二人は同時に言った。
「普通だよね?」
「ねー」
普通ではない。
澪は、少し離れたサンセットビーチの入口付近で、眠そうに海を見ていた。
夕日は水平線へ近づき、海の表面を金色に染めている。波打ち際の白い泡が、光を受けて一瞬だけきらきらと輝く。砂浜には、夕日を背にした人々の影がゆらりと伸びていた。
その景色の中で、澪がぽつりと言った。
「光ってるもの、低いところ」
沙羅が振り向く。
「また何か呼んだの?」
「キーホルダー、たぶん夕日に反射した」
ひなたがすぐに反応する。
「夕日の角度から考えると、西側から光が差して、低い位置の金属部分が反射する可能性があります」
のどかが言う。
「難しいことは分からんけど、低いところ探せばええんじゃね」
凪が安全確認をした上で、海沿いの写真スポット付近へ向かう。
そこは、多くの観光客が夕日を背景に写真を撮っていた場所だった。
ベンチ。
低い柵。
小さな植え込み。
サンセットビーチへ続く舗装の隙間。
のどかがしゃがみ込む。
「ん?」
彼女の指先が、ベンチの脚と舗装の間に挟まった小さな物へ伸びた。
夕日の光を受けて、ほんの一瞬だけ光った。
「これか?」
拾い上げたのは、写真で見たキーホルダーだった。
色鮮やかな飾り。
少し古びた金具。
孫からもらった、大事なキーホルダー。
香澄が叫ぶ。
「見つかったですばい!」
梨乃が高齢の男性の手を取る。
「見つかっただで! ほら、あっただで!」
男性は最初、信じられないように目を見開いた。
そしてキーホルダーを受け取った瞬間、顔をくしゃりと崩した。
「Gracias……gracias……!」
涙を流さんばかりの表情で、何度も何度も感謝の言葉を口にする。
梨乃は意味を完全には分かっていないが、満面の笑顔で頷いた。
「ぐらしあすだで!」
沙羅が小声で言う。
「そこだけ覚えたのね」
高齢の男性は、ヒロ九のメンバー一人一人に握手をした。
菜々子には深々と頭を下げ、ひなたには両手で感謝を示し、香澄にはマイクを指して笑い、のどかには力強く肩を叩こうとして凪に軽く制止され、沙羅にはなぜか英語ではなくスペイン語で熱く語り、沙羅は「たぶん褒められている」と判断して優雅に微笑んだ。
最後に男性は、梨乃の手を両手で包み込んだ。
言葉は通じない。
けれど、心から感謝していることだけは、誰にでも分かった。
梨乃は少し照れくさそうに笑う。
「よかっただで。お孫さんも喜ぶだで」
男性はスマホの孫の写真をもう一度見せた。
梨乃は写真に向かって手を振る。
「こんにちはだで〜」
沙羅が呟く。
「写真に挨拶してるわ」
澪が眠そうに返す。
「梨乃なら普通」
千鶴は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
見ず知らずの外国人観光客。
英語もほとんど通じない。
スペイン語は誰も話せない。
それでも、菜々子は迷わず全員を動かした。
ひなたは状況を整理した。
香澄は声を届けた。
伊織は地域とつないだ。
つばさは証言を集めた。
凪は安全を守った。
のどかは身体を使って探した。
澪は直感で導いた。
そして梨乃は、言葉を超えて寄り添った。
千鶴は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
自分は期間限定の補強選手だ。
沖縄遠征の間だけの参加かもしれない。
けれど、今この人たちと一緒に行動できていることを、少し誇りに思った。
「ヒロ九って、すごいですね」
千鶴が小さく呟くと、菜々子が振り向いた。
「どうしたと?」
千鶴は笑った。
「いえ。私、この遠征に来てよかったです」
菜々子は少し照れたように笑う。
「まだ始まったばかりたい」
北谷のサンセットビーチには、もう夜の気配が近づいていた。
夕日は海の向こうへ沈み、空の端には紫が広がる。砂浜を歩く人々の影は薄くなり、海面の金色は少しずつ濃い藍色へ変わっていく。潮風は昼間よりもやわらかく、イベントの喧騒が少しずつ遠ざかっていた。
高齢の男性は、キーホルダーを胸に当て、何度も頭を下げて去っていく。
梨乃は全力で手を振った。
「また会おうだで〜!」
男性も振り返って、大きく手を振る。
沙羅がぽつりと言う。
「結局、今日いちばん国際交流してるの、梨乃じゃない」
澪が眠そうに言う。
「TOEICでは測れない」
沙羅はため息をついた。
「もう何も言えないわ」
香澄が明るく締める。
「北谷の夕暮れに、また一つよか思い出ができましたばい!」
ひなたは資料を閉じた。
「想定外の落とし物クエストでしたが、無事完了です」
伊織が海風を受けながら言う。
「沖縄遠征、いい流れさー」
やがて、ヒロ九ラッピングバスが出発の準備に入る。
熊本ナンバーの黒煙バスは、北谷の美しい夕暮れの中で、また一つ小さな困りごとを解決した。
言葉は通じなくても、困っている人がいれば放っておけない。
それが、ヒロ九だった。




