ヒロ九クエスト第71話 のどか先生、浦添で打撃コーチになる ――黒煙バス、沖縄の球場でまさかの野球教室
那覇の朝は、どこか湿った風を連れていた。
前夜、公設市場裏通りの沖縄料理屋で決起集会を終えたヒロ九一行は、ホテルで一晩休み、いよいよ沖縄遠征の本格初日を迎えていた。
山根梨乃も、なぜか無事に合流している。
宇佐美千鶴も、前日に加わった補強選手とは思えないほど、もう自然に輪の中へ入っている。
そして有村ひなた副支配人と金城伊織は、昨日あれだけ泡盛を水代わりに飲んだにもかかわらず、朝から普通に動いていた。
ただし、ひなたは少し理屈っぽさが増しており、伊織は本当にまったく変わっていなかった。
南部沙羅が呆れた顔で言う。
「伊織、本当に酔わないのね」
水無瀬澪が眠そうに呟く。
「ヒロ九七不思議、継続中」
伊織は笑って答える。
「沖縄の朝は元気になるさー」
千鶴は看護学生らしく真面目に観察していたが、やはり結論は出ない。
「体質……なんでしょうか」
ヒロ九ラッピングバスは、那覇市内を出て浦添市へ向かう。
熊本ナンバー。
派手な車体。
昭和の観光バスを思わせる存在感。
そして、エンジンをかけるたびに少しだけ上がる黒煙。
西里香澄は、車内マイクを握ると、いつもの明るい声で案内を始めた。
「皆さーん、本日は浦添市へ向かいますばい! 浦添市は那覇市のすぐ北側にある、沖縄本島中南部の元気な街ですたい!」
香澄は、まるで観光バスのガイドそのものだった。
「那覇のベッドタウンとして発展しとって、人口もどんどん増えとる勢いのある街ですばい! しかもモノレールが延伸されて、交通の便利さもぐっと上がりましたたい。住宅地、商業施設、歴史、スポーツ、いろんな魅力が詰まっとる街です!」
伊織が窓の外を見ながら補足する。
「浦添は那覇に近いけど、ちゃんと浦添らしさがあるさー。暮らす街としても、スポーツの街としても強いわけ」
ひなたも資料を見ながら頷いた。
「那覇都市圏の広がりを理解する上で、非常に重要な地域です」
梨乃が窓に顔を近づける。
「モノレールって、空飛ぶ電車だで?」
沙羅が即座に突っ込む。
「飛んではいないわ。高いところを走っているだけよ」
梨乃は真剣に頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ飛んどるだな」
澪が眠そうに言う。
「梨乃理論」
古賀菜々子支配人は、今日の資料を確認しながら言った。
「今日は浦添市内の野球場で、少年少女向けの野球教室のお手伝いたい。地元の社会人野球チームさんが主催するイベントやけん、うちたちは運営補助でしっかり支えるよ」
やがてバスは、浦添市内の野球場へ到着した。
球場には、すでに少年少女と保護者、地元の社会人野球チームの選手たちが集まっていた。
その社会人野球チームは、沖縄の暮らしを支える大手インフラ企業を母体とする、地域に根ざしたチームである。
そこへ、熊本ナンバーの派手なヒロ九ラッピングバスが、低いエンジン音とともに入ってくる。
子どもたちが一斉に振り向いた。
「すごいバス来た!」
「ヒロ九って書いてある!」
「煙出てる!」
香澄は窓から胸を張る。
「国の排ガス基準は一応クリアしとります!」
ひなたがすぐに言う。
「浦添でも説明継続ですね」
伊織は笑った。
「このバス、沖縄でも印象に残るさー」
菜々子は野球部のキャプテンへ丁寧に挨拶した。
「本日はよろしくお願いしますたい。私たちは受付、誘導、球拾い、場内整理、水分補給の声かけ、救護補助などを中心にお手伝いします」
キャプテンは礼儀正しく頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。子どもたちに野球の楽しさを伝えられる一日にしたいと思っています」
打ち合わせが始まる。
そこで、ヒロ九側に小さな不安が生まれた。
野球教室である。
だが、ヒロ九の面々で野球に詳しい者は、ほとんどいない。
菜々子が小声で言う。
「野球教室のお手伝いって、うちたち大丈夫たい?」
ひなたが資料を見ながら答える。
「技術指導は野球部員の皆さんが中心です。私たちは受付、誘導、球拾い、場内整理、水分補給、救護補助が主業務です」
沙羅が少し安心したように言う。
「つまり、野球を知らなくても何とかなるわけね」
その時、江波のどかが静かに腕を組んだ。
「いや、うち、ちょっとなら指導できるよ」
全員がのどかを見る。
のどかはさらりと言った。
「元カープ女子じゃけぇ。あと、ソフトボールやっとったし」
沙羅が驚く。
「柔道だけじゃなかったの?」
のどかは笑う。
「広島の女をなめんさんな。赤ヘルとソフトボールと受け身で育っとるんよ」
澪が眠そうに言う。
「情報量が多い」
迫田澪香が首をかしげる。
「でも、のどかさん、今“元”って強調したよね? どうして元を強調するの?」
のどかは一瞬も迷わず答えた。
「強いカープが好きなんじゃ。弱いカープは好かん」
空気が一瞬止まる。
澪が眠そうに、しかし正論を言った。
「弱い時こそ応援しないと……」
のどかは笑いながら返す。
「じゃかましいわい」
沙羅がため息をつく。
「清々しいほど正直ね」
のどかは胸を張った。
「今はサンフレ命じゃ。けど、野球のことを忘れたわけじゃないけぇね」
そして、その言葉通り、野球教室が始まると、のどかは大活躍した。
最初はキャッチボール。
少年が肩だけで力任せに投げようとしているのを見て、のどかはすぐに声をかけた。
「肩だけで投げんさんな。足を使うんよ。投げる方向へ体を向けて、腰から腕がついてくる感じじゃ」
少年は言われた通りに体を向けて投げる。
ボールは先ほどより真っすぐ相手の胸元へ届いた。
「おお、投げやすい!」
近くで見ていた野球部員が目を丸くする。
「今の説明、かなり理にかなっていますね」
のどかは少し得意げに言った。
「柔道も野球も、体の使い方はつながっとるけぇね。足元が崩れたら、投げも送球も弱くなるんよ」
次は打撃練習。
のどかはバットを持つ少女に声をかけた。
「腕だけで振ったら力が逃げるんよ。足、腰、肩、最後にバット。順番に力を伝えるんじゃ」
少女は少し不安そうに聞く。
「空振りしたら恥ずかしい?」
のどかは即答した。
「空振りしてもええ。見逃して後悔するより、思い切って振った方がええんよ。バット振らんと、何も始まらんけぇ」
少女が頷き、バットを振る。
乾いた音がして、ボールが前へ飛んだ。
「飛んだ!」
子どもたちから歓声が上がる。
野球部員たちも驚く。
「すごいですね。子どもに伝わる言葉で、身体の使い方を説明できている」
キャプテンも頷いた。
「野球経験者でも、ここまで分かりやすく説明するのは難しいです」
のどかは照れ隠しに笑った。
「まあ、元カープ女子じゃけぇ」
沙羅が小声で言う。
「それで全部説明する気ね」
守備練習でも、のどかの指導は的確だった。
「ボールを怖がって固まるな。正面に入るのは大事じゃけど、体を柔らかく使うんよ。捕る前から逃げ腰になると、余計に怖いけぇね」
柔道家としての身体感覚と、ソフトボール経験が混ざった説明は、少年少女にも伝わりやすかった。
野球部員の一人が感心して言う。
「柔道の人がここまで野球の動きを説明できるとは思いませんでした」
のどかは笑う。
「身体は一つじゃけぇ。競技が違っても、使い方はつながっとるんよ」
その一方で、他のヒロ九メンバーもそれぞれ持ち味を発揮した。
菜々子は受付と保護者対応。
「お子さんのお名前はこちらですね。水分補給の場所は三塁側です。無理せんように見守ってくださいね」
支配人らしく、丁寧で温かい。
ひなたは進行管理。
「キャッチボール十分、打撃体験十五分、守備練習十分、水分補給五分です。気温が上がっているので休憩を二分延長します」
昨日まで泡盛を水代わりに飲んでいた人物とは思えないほど、運営判断は正確だった。
千鶴が水を差し出す。
「ひなたさんも休憩してください」
ひなたは真顔で言う。
「私は進行表上、休憩欄に入っていません」
「入れてください」
香澄は球場でもマイクを握った。
「皆さーん、今日は浦添の青空の下で野球教室ですばい! 水分補給ば忘れんごつ、楽しく頑張りましょう!」
熊本弁MCは、沖縄の球場でもなぜかよく通る。
子どもたちからは、
「ですばいのお姉ちゃん!」
と呼ばれ、香澄は嬉しそうに手を振った。
伊織は、地元沖縄の子どもたちや保護者との橋渡し役を担う。
「暑い時は無理しないさー。休むのも練習のうちだよ。沖縄の太陽は味方だけど、油断したら強いわけ」
保護者たちも、地元の言葉で声をかける伊織に安心した表情を見せた。
凪は安全管理。
「バットを振る場所と待機場所を分けます。球拾いは合図があってから。走って横切らないでください」
地味だが、事故を防ぐ重要な役割である。
つばさは保護者やスタッフとの連絡調整。
「お子さんが少し休まれる場合はこちらです。再参加される時はスタッフさんに一声かけてくださいね」
柔らかい対応で、現場を支える。
沙羅は球拾い担当。
ただし、なぜか姿勢にこだわっていた。
「拾う動作にも品格が必要よ」
のどかが笑う。
「球拾いに品格いる?」
沙羅は真顔で答える。
「子どもたちは見ているのよ」
結果、子どもたちが真似をして、妙に優雅な球拾い集団が生まれた。
澪は眠そうにしていたが、打球の行方をなぜか正確に読む。
「次、三塁側に飛ぶ」
本当に三塁側へ飛ぶ。
沙羅が驚く。
「なんで分かるのよ」
澪は答える。
「バットが呼んだ」
のどかが笑う。
「何でも呼ばれるね」
迫田ツインズの澪香と澄香は、球拾い後、まったく同じタイミングでボールを渡した。
子どもたちが大喜びする。
「双子のお姉ちゃん、動き一緒!」
二人は同時に答える。
「普通だよね?」
「ねー」
普通ではなかった。
そして、梨乃である。
梨乃は球拾い担当だった。
ただし、ルール理解はかなり怪しい。
「一塁って、どれだで?」
子どもに聞く。
「お姉ちゃん、こっちだよ!」
「そうだら? うち、覚えただで!」
数分後。
「二塁って、さっきの一塁の親戚だか?」
子どもたちは大笑いした。
沙羅が額に手を当てる。
「本当に大丈夫なの、この人」
澪が眠そうに言う。
「精神年齢が近い」
ひなたが分析する。
「子どもたちとの心理的距離が極めて近いですね」
菜々子が小声で止める。
「言い方を選んで」
しかし、梨乃は子どもたちから大人気だった。
ボールを拾うたびに、全力で喜ぶ。
「取れただで! うち、取れただで!」
子どもたちも真似する。
「取れただで!」
「打てただで!」
「走れただで!」
浦添の球場に、なぜか因幡弁が広がっていく。
香澄が笑う。
「梨乃ちゃん語録、沖縄上陸ですばい」
途中、打球を追った子どもが軽く転んで、膝を擦りむいた。
一瞬、場がざわつく。
千鶴がすぐに駆け寄る。
「大丈夫。びっくりしたね。まず座ろうか」
声は落ち着いていた。
子どもは涙目だったが、千鶴の声で安心する。
千鶴は救護セットを借り、傷を確認し、洗浄と保護を手早く行った。
「ちゃんと見せてくれて偉いよ。痛かったら無理せんでいいけんね」
保護者が深く頭を下げる。
「ありがとうございます。すぐ対応してもらえて安心しました」
菜々子は小さく言った。
「千鶴ちゃん、補強どころか救護の柱たい」
野球部員も感心する。
「イベントにこういう方がいてくださると、本当に安心ですね」
千鶴は照れながら答えた。
「まだ学生ですけど、できることをしただけです」
休憩時間には、ヒロ九と野球部員たちの交流も深まった。
野球部員たちは、仕事をしながら野球を続けていること、地域の子どもたちに野球の楽しさを伝えたいこと、地元から応援されるチームを目指していることを話した。
キャプテンは言う。
「自分たちは普段、仕事をしながら野球を続けています。だからこそ、地域の人たちに応援してもらえることが本当に力になるんです」
菜々子は頷く。
「地域に支えられて活動するところは、うちたちとも近いたい」
伊織も言う。
「沖縄の子どもたちに、地元にもこういうかっこいい大人がいるって伝わるのは大事さー」
のどかは、すっかり野球部員たちと打撃や守備の話で盛り上がっていた。
「社会人野球って、地元や会社を背負っとる感じが熱いんよね。プロとはまた違う良さがあるんよ」
野球部員が嬉しそうに言う。
「そこまで分かってもらえると、本当にありがたいです」
のどかは笑った。
「うちは元カープ女子じゃけぇね。野球を見る目は残っとるんよ」
澪香がまた尋ねる。
「でも、今はサンフレ命なんだよね?」
のどかは即答した。
「そうじゃ。今はサンフレ命じゃ」
澪が眠そうに呟く。
「移籍したファン」
のどかが笑う。
「人聞き悪いわ」
最後は、子どもたちによるミニ紅白戦になった。
ヒロ九はベンチサポートに回る。
のどかは打席に立つ子どもへ声をかけた。
「空振りしてもええ。思い切って振りんさい。ボールを見る、足を使う、あとは気持ちじゃ!」
その子がバットを振る。
打球はきれいに外野へ抜けた。
「打った!」
子どもたちが歓声を上げる。
梨乃は自分のことのように飛び跳ねた。
「打っただで! すごいだで!」
千鶴はベンチで水分補給を促し、ひなたは時間を見ながら進行を調整し、香澄はMCで盛り上げる。
野球部員たちは子どもたちのプレーを褒め、ヒロ九は場を支える。
短い時間ながら、浦添の野球場は笑顔に包まれた。
イベント終了後、社会人野球チームのキャプテンがヒロ九へ丁寧に頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。楽しい野球教室になりました。ヒロ九の皆さんに感謝しています」
さらに続ける。
「自分たちも、地元の人たちに応援されるチームを目指しています。地域を盛り上げるという意味では、皆さんと同じ方向を向いていると思います。共に頑張りましょう。都市対抗野球、ぜひ応援に来てください」
のどかが即座に反応した。
「もちろん応援行くけぇ! 社会人野球、ええよね。地元を背負っとる感じがたまらんのよ!」
キャプテンは笑う。
「本当に詳しいですね」
のどかは胸を張った。
「元カープ女子じゃけぇ」
沙羅が小声で言う。
「今日それ、何回目?」
澪が答える。
「決め台詞」
野球部員と少年少女たちが、ヒロ九ラッピングバスを見送る。
子どもたちは大きく手を振った。
「のどか先生、また来てね!」
「梨乃お姉ちゃん、また遊ぼう!」
「ですばいのお姉ちゃん、また司会して!」
梨乃は窓から全力で手を振る。
「また来るだで〜!」
香澄も笑顔で叫ぶ。
「浦添、たいぎゃ楽しかったですばい!」
ヒロ九ラッピングバスがエンジンをかける。
低い音とともに、少し黒煙が上がった。
ひなたが言う。
「沖縄でも相変わらずですね」
香澄が胸を張る。
「一応、国の排ガス基準はクリアしとります!」
伊織が窓の外を見る。
「次はさらに北へ向かうさー」
菜々子は満足げに頷いた。
「沖縄遠征、上々の滑り出したい」
浦添の青空の下、ヒロ九は少年少女と白球を追い、社会人野球チームとの交流を深めた。
のどかは元カープ女子として、そして今はサンフレ命の広島女として、なぜか沖縄の球場で打撃コーチになった。
何はともあれ、沖縄遠征は上々の滑り出し。
熊本ナンバーの黒煙バスは、野球部員と子どもたちの声援を背に、沖縄本島をさらに北へ走り出した。




